2-5 疑惑の蕾
僕にできることはなんだろう。
昨日は僕が不甲斐ないばかりに銭亀さんに迷惑をかけてしまった。「気にしなくていい」と彼女は言ったけれど、カッコ悪いところを見せてしまった自分の姿を思い出すたび、恥ずかしさが込み上げてくる。何か挽回できるようなことはないだろうか。
今日の僕はずっとそんなことに考えを巡らせていた。
とはいえ、できることも時間も限られている。僕には銭亀さん達みたいな特殊な能力はないし、家事・学校・宿題などなど、やらなければならないこともたくさんある。そして、僕には弟の面倒を見ることが何よりも大切なんだ。だって、ずっとあの家でほとんど二人だけで暮らしてきたのだから。僕の傍には龍児くんしかいなかったし、龍児くんの傍にも僕しかいないのだから。
そんな僕が銭亀さんのためにできることはなんだろう。
今日の僕はそればかり考えて、授業中もぼんやりしていた。
「おい、小野寺、ちょっと来いよ」
放課後、帰る準備をしていると、いつもの彼らが僕の肩に腕を回しながら言ってきた。その時も、僕は半分うわの空でそれを聞いていた。
彼らに連れてこられた校舎裏は暗く、ひなびた花壇に雑草が繁り、使われなくなった竹箒や運搬用一輪車が打ち捨てられていた。人通りは当然のことながら皆無だ。
「で、どうすんの? あの金、そろそろ払ってくれよ」
「あの金って……?」
「お前の恥ずかしい画像だよ! 買ってくれるんだろ!」
「あ、ああ……うん……えっと、うん……」
「払えないからってバックレる気じゃねーよな」
「いや、そんな……」
「じゃあ、早く出せよ。出せなかったら今日もあーいう写真撮ってやるよ」
「つーか、どうせ払えないんだろ」
「今日はどんな写真撮ろうか?」
彼らはニヤニヤと意地悪げに笑った。僕は半分ぼうっとしたまま、鞄から封筒を取り出す。
「とりあえず、今月分……」
不審そうな表情で僕から封筒を受け取った彼らは、中身を覗いてポカンと口を開けた。
「なんだよ……これ?」
「え……? 十万円だよ。一ヶ月十万の十回払い……だったよね? あれ、もしかして足りなかった?」
「い、いや、そう言ったけどさ……まさか……ほんとに……」
「まさかって……?」
不安になって彼らの顔を覗き込むと、一様に引き攣ったような表情をしている。
「こんな金、どうしたんだよ!」
「オヤジに出させたのか?」
「お、親になんて言えないよ! 父親にいきなり十万円欲しいなんて言ったら、何に使うか訊かれてバレちゃうから。僕、バイトしたんだ」
「バイトって……高校生のバイトでこんなに稼げんのかよ? おかしくね?」
「何? なんかヤバイことでもやってんの……?」
彼らの言葉に、牙のような八重歯を覗かせながら真っ赤な唇の端を吊り上げ悪魔のごとく嗤う銭亀さんの姿を思い出したが、まさか、そんな事情や仕事内容を話せるわけもない。
「い、いや、まさか。割のいい事務職バイトが見つかっただけだよ。あ、そうだ!」
僕は学校の鞄を漁って、一枚の紙を取り出した。
「一応、これにサインをもらってもいいかな……?」
それは領収書だった。僕が彼らにお金を払ったことを証明する書類。僕は「にこにこ銭亀ファイナンス」で働くうちに、金銭の授受に書類が発行されないと気持ち悪い体質になってしまったのだった。
不審げに書類を見つめる彼らに、僕は慌ててフォローを入れる。
「と、特に意味はないよ! 何回払ったかを忘れないようにしたいだけから。僕達の間で交わす書類なんてお遊びみたいなものなんだしさ!」
彼らは少し不安げに顔を見合わせたが、すぐに取り繕うように強気な笑みを浮かべた。
「ふん。まーそれもそうか。こんなんで小野寺相手にビビるとかダセーし」
「そうだな」
彼らは所定の位置にサインをし、僕はそれを受け取った。
「そ、それじゃ、また来月ね!」
何かされる前に、僕は鞄と領収書を抱えて校舎裏から走って逃げた。
※
今日も僕は月影町の「にこにこ銭亀ファイナンス」でタイムスタンプを押した。
「誠児っち、おーはー!」
「おはよう……というか、こんにちは、菜摘さん」
カラフルでファンシーな服を着た菜摘さんは、黒と水色のツートンヘアーにブラシをかけながら緩んだ笑顔を浮かべていた。彼女は今日も来客用の革張りのソファの上に胡坐をかいて座っていて、短いスカートの隙間から覗く見えてはいけない衣類から、僕は努めて視線を逸らした。
「あ、黒蜜さん、こんにちは」
「こんにちは」
一方、今日も黒のゴシックロリータ風の衣装を着た黒蜜さんは、繊細なデザインのティーカップを片手に事務机で優雅に紅茶を楽しんでいるところだった。プラチナブロンドに染められた短い髪が縁取る人形のように整った顔は、今日もほとんど表情を表していなかったが、きちんと僕の方を向いて挨拶してくれた。
事務所でくつろぐ二人は、債権回収の合間の休憩タイムのようだった。
そして、奥の社長机では、ブレザーの制服を着こんだ銭亀さんが書類に目を通していた。艶やかな長い黒髪を掻き上げながら顔を上げた銭亀さんの赤い瞳と僕の目が合う。
「誠児くん、学校、お疲れ様。今日もよろしくね」
「う、うん。よろしく。あ、銭亀さん、顔が……」
朗らかに微笑んだ銭亀さんの顔には、まだうっすらと黒のストライプ柄の名残が残っていた。クジビキダケ解毒剤の副作用はまだ完全には消えていないらしい。僕は申し訳ない気持ちでいたたまれなくなって、唇を噛んだ。
「ピンクは消えたけど、黒はまだ消えないんだよ。糞、薬屋め、『寝て起きたら消えてるでしょう』なんて調子のいいこと言いやがって」
憤る銭亀さんに、菜摘さんは頬を膨らませ、黒蜜さんは冷たい視線を向けた。
「そもそも、真桜子ちゃんが無理するからでしょー!」
「しかも、最初は誠児さんを生け贄にしようとしていたようですし」
「だ、だって、だって、尨毛さんが……!」
「言い訳もいいですが、なんにしろ、無理をしないという昨日の約束、忘れないでくださいね、真桜子さん」
「そーそー。約束、や・く・そ・くー!」
女子二人に言い募られ、銭亀さんは困ったような表情で、上目遣いに彼女達の顔を覗く。
「わ、わかってるよ、『出来る限り』無理はしないから……。あ、ねえ、それよりちょっと聞いてよ!」
さらに言い募ろうとする女子二人を抑えて、銭亀さんは無理矢理話題を変えた。
「バックレた津守屋積利くん。フリマの日に消えたとは限らないけど、念のため、奴が消えたあの場所で出店していた人を調べようと思ってさ。さっき、フリマの主催者に出店者リストをメールしてもらったんだけどさ……」
僕と菜摘さんと黒蜜さんで、区画ごとにナンバーが振られた出店エリアの地図と、対応した出店者名簿を覗く。
「えっと~、津守屋くんの消えた場所でお店を出してたのはぁ……宗像象子……」
名簿を見た菜摘さんがハッと目を瞠はる。
「……ってそれ、パン屋の象のおばちゃんじゃん! いやいや、あの優しいおばちゃんが変なことするわけないよー!」
水色と黒のツートンヘアーを振り乱しながら、菜摘さんがブンブンと頭を横に振ると、銭亀さんもそれに頷いた。
「わたしも芽衣に同感。わたしが困ってる時、タダでパンをくれたんだよ、おばちゃん。いい人なんだ。でも、一応確認してみたら、おばちゃん、フリマの日は入院してたんだって」
「えー!」
「持病の腰痛が急に悪化して、縊死先生の診療所に緊急入院してたんだって。このことは縊死先生にもさっき電話で裏をとった」
「そうだったんだー。知らなかったぁ……。教えてくれてたらお見舞いに行ったのにー……」
「うん。なんか、お客さんには心配かけたくなかったみたい。今はもう復活して元気一杯に仕事してるって、電話で言ってたよ。芽衣、次の仕事に行くついでに、おばちゃんとこで何か買ってきてよ」
そう言うと、銭亀さんは懐から取り出した財布からお札を出して菜摘さんに渡した。
「うん! おばちゃん特製アップルパイ、みんなの分、買ってくるねー!」
菜摘さんは嬉しそうにニコニコしている。そういえば、その「象のおばちゃん」のパン屋さんはおいしいと時々三人の話題に出ていた気がする。
「象のおばちゃんに疑いがなくなったのは嬉しいけど、津守屋の件はゼロ出発になるなあ。奴と連絡とれなくなったのはフリマ翌日からだから、あのフリマが怪しい気はするけど」
「フリーマーケット参加者の名簿を一通り見ても、怪しい名前はありませんね。この日はごく普通の、平和的なフリーマーケットだったのでしょう」
冷静な表情で名簿を見つめる黒蜜さんの言葉に、銭亀さんは深い溜め息をつく。
「仕方ない。また別の方向から探るかなあ……。それに、しばらくはこっちにも注力しないと!」
そう言って銭亀さんは、社長机に置かれた大量の分厚いファイルを指差した。
「商工会上級会員資格審査のために、クロイさんとこの会計資料を借りてきたんだ。これを全部チェックしないと! でも。うぅぅ……。やる気はあるけど、それを挫くこの量……」
ファイルの山に突っ伏す銭亀さんの姿を見て、僕はおずおずと手を挙げる。
「あの……もしよかったら、僕でよければ、手伝うよ」
「本当!?」
バッと顔を上げた銭亀さんの赤い瞳がキラキラと輝く。その笑顔は無邪気な子供みたいで、見ているとなんだかドキドキしてしまう。
「ありがとう、助かるよ! じゃ、これよろしくね」
銭亀さんからファイルの半分を差し出され、それを抱えた僕はふらつきながら事務机に向かう。
「わたし達も手伝いますか?」
「いや、瑠奈と芽衣は通常業務を優先して。おまんま食べれないと死んじゃうもん」
「わかりました。では、そろそろ回収業務に行って参りますね」
「真桜子ちゃん社長、いってきま~す!」
「いってらっしゃい!」
手を振って二人を送り出した銭亀さんは、僕の方を向くと、赤い唇を歪めてニヤリと笑う。
「じゃ、誠児くん、重箱の隅をつつくように、ねっちりぎっちり、書類を攻めようか」
「うん!」
なんとかこれで挽回しないと!
僕は心の中で気合いを入れ直した。
※
数日後、チェック済みのファイルの量は大分増えていた。うちの事務所と様式や書き方のルールが違っていて初めは戸惑ったものの、慣れてしまえばチェックのスピードは上がった。書類自体はほとんど間違いもなく、しっかりしたものだった。
「クロイさんって、意外ときっちり帳簿を作ってるんだね」
僕がそう言うと、銭亀さんは顔を顰めた。その顔からは「クジビキダケ」の副作用は消え、元の色白の肌に戻っていた。
「いや、あのクロイさんがこんなちゃんとした書類を作れるとは思えないなあ。尨毛さんが会計士を派遣したんじゃない?」
「わざわざ?」
「うーん……クロイさんに何か利用価値を見いだして補助してるのかな。やな感じ。なんとしても、阻止してやる!」
銭亀さんは仏頂面で資料をめくる。
「っていうか、誠児くん、書類見るの早いよね」
「え? そう?」
チェック済みの量は、僕は担当分の三分の二ほど、銭亀さんは半分ほどだった。僕が事務所にいない間、銭亀さんは通信教育や営業活動をしているから、作業時間はだいたい同じだ。
「僕としては細かく見てるつもりだったけど……もっとしっかり見ないといけないかな……?」
「いやいや、そういう意味じゃなくて。今までうちで誠児くんの作ってくれた書類には間違いがなかったもん、信頼してる。単純に褒め言葉だよ」
「えぇ……? い、いや……、そんな……」
僕はくすぐったくなって鼻の頭を掻いた。慣れない感覚に戸惑う。
ニコニコ微笑みながら僕を見つめる銭亀さんの視線から逃げるように、僕は資料の山に再度頭を突っ込むと、気になる記載が目に入った。
(あれ……? これって……)
僕は棚にしまってあった別の資料を慌てて取り出し、見比べてみる。
「誠児くん、どうしたの?」
「もしかしたら、大穴を当てたかも……」
「マジか!」
社長席から勢いよく立ち上がった銭亀さんは僕の席へと駆けつける。
「津守屋積利さんが……」
「え?」
「うちに借金を残してバックレた津守屋さんが最後に接触したの、クロイさんかもしれない……」
「……!!」
僕はクロイさんの帳簿とフリーマーケットの出店者リストを指差す。
「ここ見て、銭亀さん。津守屋さんが消える直前の、月影町中央公園のフリーマーケットにクロイさんは参加していて、その時の売り上げが記載されてるんだ。でも、フリーマーケット出店者リストにクロイさんの名前はない……ということは、クロイさんは主催者に申請せず勝手に参加したってことだよね」
「なるほど。でも、この日はすべてのスペースが他の出店者で埋まってしまっている。ということは……」
「クロイさんは、入院したパン屋さんのスペースを勝手に使って商売をしていた可能性が高いんじゃ……?」
僕と銭亀さんは顔を見合わせた。銭亀さんは真っ赤な唇から牙のような白い八重歯を覗かせ不敵に嗤う。
「誠児くん、でかした! 今日は特別ボーナス出すよ! にしても、クロイさん。ふーん……なるほどねえ……あの野郎……この件、裏をとったらどう料理してやろうか……!」
銭亀さんの赤い瞳が鋭くギラリと輝いた。それはまるで滴り落ちる鮮血のように真っ赤な色をして、僕を芯から震えさせた。
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