1-4 初めてのアルバイト
獅子ヶ原さんのお店に向かうべく、僕は月影町の大通りを銭亀さんと並んで歩いていた。すれ違う人たちはやはりどう見ても人間ではありえないのだけれど、だんだんとその景色に慣れつつある自分に驚いてしまう。
「あの、獅子ヶ原さんのお店っていうのはいったい何の……?」
「大丈夫、大丈夫。獅子ヶ原さん、少しチャラいけど、基本的にはいい人だから」
銭亀さんは仮面のようなつるりとした笑顔を浮かべ、手をひらひらと振った。
「ほら、うちの事務所に来る前、さっきこの通りで会った人、あの人が獅子ヶ原さんだよ」
(その人は初対面の僕を「餌」と言っていたような気もするけど……)
僕は契約書にサインしてしまったことを七割くらい後悔しながら、にこにこと機嫌よく微笑む銭亀さんの隣を歩いた。
と――。
「あー、真桜子ちゃん!」
僕達二人の前方から歩いてくる奇妙な人達の中に混じっていた小柄な人が銭亀さんの顔を見てパッと笑顔になった。こちらに向かって嬉しそうに手を振っている。知り合いだろうかと銭亀さんの顔を覗くと、彼女は一瞬、苦虫を噛み潰したような表情を見せて――しかし、すぐに柔和な笑顔を浮かべた。
「どうもこんにちは、クロイさん」
「も~、真桜子ちゃんってば、僕のことはクロちゃんって呼んでっていつも言ってるのにぃ」
小柄な人はそう言って、ぷうと頬を膨らませた。そんな仕草が似合う、可愛らしい少年のような外見の人だった。とはいえ、当然、普通の人間の形はしていないのだけれど。
年の頃は僕の九歳の弟よりも少し大きいくらいだろうか。女の子かと見紛うくらいキュートな顔形をしていて、人間と兎のハーフといった雰囲気の外見をしていた。……だんだん僕の日本語も崩壊してきたけれど、そのとおりの見た目なのだから仕方がない。顔の四割ほどがもこもこした黒の毛皮に覆われ、ポンチョと半ズボンとブーツから覗く肢体のうち、右腕と右足も同色の毛皮を纏っている。何より特長的なのは、顔の両側から垂れているふさふさした黒くて長い耳だろう。
「ねえ、真桜子ちゃん、クロちゃんって呼んで?」
兎っぽい少年はクリクリした大きな瞳で銭亀さんを見上げる。人間らしい顔の方はサファイアのような青、黒の毛皮に覆われた方がルビーのような赤色の瞳だった。人間らしい顔つきの方はまさに紅顔の美少年といった容姿であり、上気したリンゴ色の頬とクリクリした目による上目遣いは、ノーマルなはずの僕までドキドキしてしまうくらいの美貌だった。
しかし、それに応える銭亀さんの声はいつもどおり――というより、むしろかなりの冷たい空気を孕んでいた。
「いえ、クロイさん。わたしは仕事のケジメはきちんとつけたい方なので」
「え~、クロちゃんって呼んでほしいのにな~」
兎少年は舌足らずなしゃべり方で残念そうに言い、再び頬を膨らます。そして、チェーンをつけて首から下げている大きな懐中時計――懐に収まらない時点で懐中とは言わないのかもしれないが――その縁を可愛らしい動作でコツンと叩いた。だが、すぐにニコリと微笑むと、再びクリクリした瞳で銭亀さんの顔を覗き込む。
「じゃあさ、じゃあさ、お仕事のお話ししようよー。何かいいお話あったりするぅ? 今、僕の商品が大人気なんだよ! みーんな僕の商品の予約待ちなんだけどー、真桜子ちゃんになら、特別大特価で今すぐ売ってあげてもいいんだよー」
えへんと胸を張ってみせたクロイという名前の兎少年だったが、銭亀さんは貼り付けたような笑顔を変えなかった。
「いいえ。特には必要ありませんから」
「え~」
「ああ、でも、クロイさん、一つ聞きたいことがあったんです」
「なになにー?」
意気消沈していた顔からすぐに嬉しそうに相好を崩した兎少年に対して、銭亀さんはそれまでの柔和な笑顔を煙のように消した。
「人間の大学生の――
ギラリと銭亀さんの赤い瞳が鋭く光ったように見えた。その瞳に、ナイフを突きつけられたような圧力を感じて、僕は思わず震える。だが、その鋭い視線を向けられたはずのクロイさんは、無邪気な笑顔のままだった。
「ツモリヤ? だあれ、それー?」
「うちの債務者なんですけど、飛んじゃったんですよ。居所が知れなくて。もし、クロイさんが知っていればと思ったんですけど」
「さー? 僕は知らなあい」
ニコリと、天使のようにクロイさんは微笑んだ。話の流れからすると、その津守屋という人は僕の人材派遣先から逃げ出した人のことだろうか。
「そうですか。残念です」
「ごめんねー」
「いいんです。ダメもとでしたから。でも、一つ覚えておいてくださいね」
銭亀さんは一瞬だけ間を置き、真紅の唇を艶然と歪めて悪魔のように微笑みながら言った。
「月影町住人の中で、津守屋くんに一番初めに接触して契約したのは弊社ですから。月影町商工会の内規に照らせば、債権回収についての優先権は弊社にあります。だから、弊社より先に他の事業者が彼に対して取立て行為を行うことは、重大な違反行為となりますので、お忘れなきよう」
「えー。なにそれぇ。僕、そんな難しいことよくわかんないよー」
可愛らしい顔に僅かに涙を滲ませながら、クロイさんはぶんぶんと腕を振り回す。
「簡単に言えば、彼に対して余計なちょっかいを出さないでくださいっていうことです。それでは、わたし達、急いでいるので失礼します」
銭亀さんは「えー、もう行っちゃうのー」と指を咥えるクロイさんに背を向けてスタスタと歩き出した。僕は慌ててその背中を追う。
なんというか、いやに刺々しいというか、緊張感のあったやりとりだった。クロイさんに対する銭亀さんの態度は、事務所で菜摘さんや黒蜜さんを相手にしていた時の印象と全く違うように見えた。
僕が違和感に首を傾げていると、銭亀さんが、ふと僕の方を振り返った。
「そうだ、誠児くんにも注意しておかないと」
「え、なに……?」
「クロイさんには気を許さないようにね。くれぐれも」
銭亀さんは小さく呟くように言うと、再び前を向いて歩き出した。
※
時刻は昼の十二時を少し過ぎたあたり。
獅子ヶ原さんのお店は大通りに並ぶビル群の中でもモダンでお洒落な雰囲気のビルの三階にある、おしゃれな洋服屋さんだった。クールなデザインの看板とスタイリッシュな内装がかっこいい。陳列されているのはレディースの服が多めだった。
「あー、やっぱり君が来てくれたんだ。うん、かわいいし、合格! いい子を紹介してくれてありがとねー、真桜子ちゃん」
僕らを出迎えてくれた獅子ヶ原さんは、おそらくはニコニコと笑いながらそう言った。顔を含めた全身を黄金色の毛皮に覆われた獅子ヶ原さんの表情は読み取りにくい。
「獅子ヶ原さん、先ほどサインして頂いた派遣契約書に応じてよろしくお願いしますね」
「うんうん。任せてー」
「それじゃ、誠児くん、がんばってね!」
銭亀さんは僕を獅子ヶ原さんに引き渡すと、すぐに帰ってしまった。これからお得意様に挨拶回りをするとかで忙しいらしい。一人残された僕は心細さに震えながら、がっしりした体格で背の高い獅子ヶ原さんを恐る恐る見上げた。
「ははは。そんなに緊張しなくていいって。何も取って食うわけじゃないしー。小野寺くんには売り子をしてもらうだけだからさ」
そう言って、獅子ヶ原さんは毛皮に覆われた顔を歪めて微笑んだ(おそらく)。
「うちはセレクトショップで、基本は俺が買い付けたアイテムを売ってるんだけど、俺自身がデザインしたやつも売ってるんだ。バックヤードに工房があってね、そこで自主制作してるんだよ。でも、もう一つ目玉のサービスがあるんだー」
獅子ヶ原さんは手慣れた手つきで陳列されたシャツを整えながら、口を動かす。
「人間の子が丁寧に接客してくれるってのが、もう一つの売りなんだよねー。女の子達がね、『わあ、人間だ。可愛い!』って珍しがってくれるの」
女の子というのは一般的な人間ではなくて、この月影町に住む少し奇妙な人達のことだろう。喜んでくれるというのは、着ぐるみが接客してくるような感覚なのか。それとも、やがてビーフになるとわかっていながら、牧場で見る子牛を可愛く思うような気持ちなのだろうか。
不穏な疑問でいっぱいの僕に、獅子ヶ原さんは鋭利な牙の並ぶ口を大きく開けて(おそらくは)満面の笑みを見せる。
「というわけで、週末の午後は店長の俺と人間の子のコンビで接客するスペシャルデーなわけ。だから、よろしくね、小野寺くん!」
※
「あ、店長さんだ。ねえ、私に似合う服、見立ててよ」
「あー、新しいニンゲンもいる! 前にいたのより可愛いかもー!」
そう言いながら店の入り口から現れたのは、肩から首が二つ生えた女の子と、トカゲのような外観をした女の子だった。丁度僕が獅子ヶ原さんの店のメンズラインの服を貸してもらって着用し終えたところだった。
「あ、このワンピめっちゃ好きかも」
「ねえ、これ似合うかなあ?」
二つ首の女の子がハンガーに掛けられた黒いワンピースを体に合わせながら二つの口で同時に僕に問う。
「あ、え、えっと。に、似合うと思いますよ!」
僕は必死に笑顔を作りながら応えた。仕事の前に「僕はおしゃれなんかわからないです……」と獅子ヶ原さんへ正直に不安を訴えたところ、「小野寺くんが似合うと思ったらそう言えばいいし、似合わないと思ったら似合いそうなのを勧めてあげればいいんだよ。君の感覚に任せてさ、流行とか値段とかはとりあえず無視でいいから」と言われていた。
だから、二つ首の女の子には素直な言葉を伝えたつもりだ。緊張して笑顔も声も震えていたけれど。でも、そんな僕のぎこちない姿に、二つ首の子とトカゲの子は憮然とした表情を見せた。
「本当にそう思ってる?」
「なんか笑顔がぎこちないよ?」
「ね?」
僕は半泣きで必死に訴える。
「え、えっと……お、お、お客様はスタイルがいいから。その、あの、に、似合いそうだなって……お、思ったんです」
涙目でそう言うと、二つ首の女の子はぱっと表情を明るくした。
「マジで!」
「やば。ちょっと嬉しいかも」
ここですかさず獅子ヶ原さんが接客トークに絡んできた。
「そのワンピはね、俺がデザインしたんだよー。半鳥人の方から羽毛を提供してもらってね。だから、すごく手触りがいいでしょ?」
「ホントだー。すごくいい感触」
「ふわふわ~!」
(半鳥人……? そういえば、ここに来る途中、この店は人材派遣のお得意様だって銭亀さんは言ってた。まさか債務者の人をここに寄越して原材料の提供をさせたりとか……まさかね……)
背を汗が伝うが、どうしようもないからそれ以上考えるのはやめた。
「どう? 試着してみる?」
「うん!」
「着てみたーい」
最終的に、二つ首の女の子は黒のワンピースを購入してくれた。
「またおいでくださいねー」
獅子ヶ原さんはひらひらと手を振りながら二人を見送ると、僕に(おそらくは)ニンマリと笑って見せた。
「やるじゃん、小野寺くん。あのワンピース、実は結構いい額なんだよ」
僕は安堵の溜め息を洩らす。すると、伝染したように獅子ヶ原さんも溜め息をついた。
「前まで来てもらってた人間の子は休みがちではあったんだけど、とうとう来なくなっちゃったんだよねえ……。接客でストレスがーとか言ってたけど、それなりに元気そうに見えたから大丈夫かなって思ってたのになあ」
銭亀さんがクロイさんと話していた時に名前が出た、津守屋という大学生のことだろうか。
でも、逃げたくなるのも仕方がない気はする。普通の人間にはここは刺激が強すぎる。時給が異常に高いのは事実だけど、精神的な疲労感が半端ではないのだから。確かに一時間一万円というのは破格中の破格だろう。銭亀さんの会社経由で僕にお金が支払われるわけだから、獅子ヶ原さんは「にこにこ銭亀ファイナンス」に対してはさらに高いお金を支払っているはずだ。この街は普通の社会とは金銭感覚も違うのだろうか。
思考の波に落ちそうなところで、再び入口が開いてお客様が入ってきた。
「いらっしゃいませ……!」
僕は考えていたことを脇に追いやって、声を出す。お客様はやはり普通の人ではなかったが、僕はがんばって笑顔を浮かべてお出迎えした。
※
獅子ヶ原さんのお店は盛況で、午後一時から働き始めた僕は四時半を過ぎた頃にはもうクタクタだった。
「少し早いけど、小野寺くん今日はもう上がってもいいよ」
「え? い、いいんですか?」
「いいよ、いいよ。今日はよく頑張ってくれたからさー。丁度お客さんも途切れたし……」
だが、獅子ヶ原さんがそう言ってくれた瞬間に、店の扉が勢いよく押し開けられて女性客が入ってきた。紫と緑の縞模様の肌をした人だった。
「ごめん」というように片手を上げた獅子ヶ原さんに、僕は「大丈夫です」と小さく答える。これが最後のお客様だろうと、僕は気力を振り絞って「いらっしゃませ」を唱えた。だが、大きなサングラス、高級そうなスーツ、高いハイヒールという格好のお客様は、僕など眼中にないようにツカツカと獅子ヶ原さんに向かって直進した。
「このお店にはアレがあるって聞いたんだけど、出してくださる?」
「アレ……ですかー……?」
高圧的な女性の態度に、さすがの獅子ヶ原さんも戸惑っている様子だった。
「アレと言えばアレでしょ。評判なんだから」
「あの――アレというのは……?」
女性はふふんと鼻を鳴らした。
「人間の皮を使ったショールよ!」
「ひえっ!」
僕の口から思わず変な声が出ると、縞模様の肌の女性客から冷たい視線が僕に向けられた。蛇に睨まれた蛙のように僕は固まる。
女性につられたように獅子ヶ原さんも僕に視線を寄越したけれど、金色の毛皮に覆われたその表情を僕はうまく読み取ることができなかった。気のせいかもしれないが、冷たい目をしているように見えて僕は急に怖くなった。さっきまではお客様も含めて店の中は和やかな雰囲気だったのに――部屋の温度が急に下がったような気がして僕は震えた。
再び女性客に視線を戻した獅子ヶ原さんは静かに話し始める。
「……お客様、すみませんね。そういうのは扱ってないんですよ。昔、古着をやってた時には売買したこともあるんですけどね」
それを聞いた瞬間、お客様の真っ黒な眉がピンと跳ね上がった。
「ここは工房があるのでしょう! そこで作っているって噂もあるのよ!」
「ま、待ってくださいよー。確かに工房はありますから物理的には可能ですけど、肝心の材料がそう簡単には……」
「あら、丁度良さそうなのがそこにあるじゃないの」
なんだか、とてつもなく嫌な予感がした。案の定、紫と緑の縞模様の女性客は僕を指差していた。再び固まる僕。
「いやいや。彼は売り子ですから」
(そ、そうですよ、獅子ヶ原さん! 言ってやってください!)
「あら。あの子は加工できないって言うの? どうして?」
「勘弁してくださいよー。なかなか雇えない人間の子がやっと来てくれたんですから」
「客より従業員が大切ってことかしら?」
「いやいや、そんなことは……」
堂々たる体格の獅子ヶ原さんの背が丸まり、小さくなっている。
(や、やばい気がする! もう帰りたい……!)
銭亀さんの話に乗らなければよかったと改めて僕は思った。今さらだけど。甘い話には裏があるというのは本当なのだ。家で待っている弟のためにも、僕は帰らないといけないのに……!
一方の縞模様の女性客は残念気味に溜め息をついていた。
「残念ね。購入できると思って、せっかくキャッシュを用意してきたのに」
そう言って、女性は手に持ったハンドバッグを開いてみせた。その中には福沢諭吉の描かれた札の束が何個も入っている。獅子ヶ原さんの喉がゴクリと唾を飲み込むのを僕は見た。
「人間の皮のショールが手に入るなら、これを全部支払っても惜しくはないと思っていたのに。無駄足になったわね」
女性客の言葉を聞いた獅子ヶ原さんが、僕の方をちらりと見やる。
(ちょ、ちょっと――まさか……?)
「お客様、わかりました……」
神妙な雰囲気で言葉を洩らした獅子ヶ原さんは、けれども、すぐににこやかな笑顔とおぼしき表情をそのライオンの顔に浮かべた。
「きっと『雇っていた人間がまた消えた』って噂がたって、しばらく人間の子を雇うのが難しくなっちゃうかもしれないけど、まあ、高額日給を出せば誰かしら雇えるだろうし、広告費みたいなもんだし、しょうがないかなー」
世間話でもするような、軽い調子の言い方だった。
(『しょうがないかなー』って! 『また』ってどういうことですか、獅子ヶ原さん!)
僕の前の人がいなくなっちゃったというのは事前にそういう噂を知って逃げ出したのか、それとも、まさか、実はそんな末路を辿ってしまったとか……。頭の中で嫌な想像が展開していくと共に、心拍数は急激に跳ね上がっていった。
無意識に身を固くしていた僕に向かい、獅子ヶ原さんが一歩足を踏み出してきた。僕は一歩下がる。獅子ヶ原さんがさらに二歩進んできたので、僕も二歩後ずさった。
「じょ、冗談ですよね、獅子ヶ原さん……」
「大丈夫だよ、小野寺くん。君の皮膚を二分の一ほどもらうだけだから」
「い、いやいやいや! 死んでしまいますよ、多分!」
「そっかなー?」
獅子ヶ原さんがおちゃめに頭を傾げる。だめだ、話にならない。僕は店の出口に向かって駆け出した。扉に手を掛けて押すがびくともしない。全力で引いてみても同じ。
「う、嘘……どうして!」
「悪いねえ。ドアをロックしちゃった」
獅子ヶ原さんは入り口脇のレジに入り、手元にある何かのボタンを操作した様子だった。レジから出た獅子ヶ原さんは、退路の無くなった僕にゆっくりと近づいてくる。
「ひ、ひぃ……!」
僕は扉から離れ、レジと入口から一番遠いハンガーラックの背後に走り込む。でも、細い棒に洋服が掛けられただけの砦はいかにも頼りなかった。
「もう諦めなよ、小野寺くん」
出口近くからゆったりと歩いてきた獅子ヶ原さんは、その脚を急激に加速させた。魔法みたいに距離が詰められ、ハンガーラックの手前でトンと跳躍した獅子ヶ原さんは、気が付いたら僕の隣に立っていた。
頭二つ分くらい僕より背の高い獅子ヶ原さんを呆然と見上げる。足が笑って腰が抜けそうだった。獅子ヶ原さんが僕に向かって腕を伸ばして来ても、すぐ後ろが洋服棚で、もう退避する場所がない僕は動くことすらできなかった。
「うぐっ……!」
黄金色の毛皮に覆われた獅子ヶ原さんの太い右腕が僕の肩を掴む。鋭い爪が皮膚に食い込んで僕の肩が悲鳴を上げる。僕は思わず目を閉じて歯を食いしばった。次に目を開けた時には目の前に獅子ヶ原さんの顔があって、僕の靴の裏は地面から離れていた。獅子ヶ原さんが片手で軽々と僕を持ち上げていたのだった。
「大丈夫だよ、小野寺くん。苦しまないように、先に止めを刺してあげるからさ。一瞬で終わるからねー」
軽い調子で獅子ヶ原さんは言い、次の瞬間にはその顔が僕の視界から消えた。獅子ヶ原さんのライオンと同じように大きく裂けた口がパカリと開いたからだった。
僕の視界が獅子ヶ原さんの口内でいっぱいになる。真っ赤な舌、同じく赤い上顎、そして、規則正しく並ぶ、素晴らしく尖った牙。
(頭から食べられる……!)
そう思って僕は目を閉じた。
「ぎゃあああああ!」
けれども、そうやって叫んだのは、なぜか僕ではなくて獅子ヶ原さんの方だった。
僕はというと、乱暴に床に投げ捨てられ、背中と腰をしたたかに打ち付ける。痛む部分をさすりつつ目線を上げると、獅子ヶ原さんの首筋に黒っぽい何かが飛びついているのが見えた。
「え? え? なに、これ……?」
強靭な四肢を持つ黒い動物が、背後から獅子ヶ原さんの首筋に噛みついていた。
黒猫だろうか。いや、それよりもだいぶ大きく、脚を広げた全長は僕の背丈よりも大きそうだ。闇色の毛皮に映える金色の瞳が、獲物である獅子ヶ原さんを捉えてギラギラと輝いている。その動物はどうやら黒豹のようだった。
僕は事態がわからず呆然としながら、必死に黒豹を振り落とそうと体を動かす獅子ヶ原さんの様子を見つめる。
(一体何が……どう……?)
その時、女の子の声が店内に響き渡った。
「獅子ヶ原さん、困りますねえ」
凛としつつも、可愛らしい響きを含んだ声。その声のした方を向いて、僕はまた驚く。
「ぜ、銭亀さん……!」
店の入り口がいつの間にか破壊され、そこから制服姿の銭亀さんが現れたのだった。その後ろには水色髪の菜摘さん、ロリータファッションを纏った黒蜜さんの姿もある。
「やっほー。誠児っち、元気ぃ?」
緩んだ声の菜摘さんが、僕に向かって両手を振っている。
(あれ。菜摘さんの千切れてた腕が戻ってる……? 治ったんだ、よかったなあ……)
僕はもう頭が真っ白で、物事を深く考えることも難しくなっているみたいで、声も碌に出てこない。その代わりに獅子ヶ原さんが叫んだ。
「あ、こ、この豹は真桜子ちゃんたちの? 外して、外してよー! い、痛い!」
獅子ヶ原さんは首の後ろを黒豹に咥えられたまま、体を振ったり、腕を背中へ伸ばしてみたり、黒豹を振り落とそうと必死だった。目には涙が滲んでいる。けれども、黒豹は獲物の首筋に牙を突き立てて放さなかった。
銭亀さんは意地悪気に、真紅の唇の片側だけを吊り上げて笑った。
「獅子ヶ原さん、困るんですよね。弊社の派遣スタッフに酷い扱いをされたら」
「ご、ご、ごめん、ごめんってば! ほら、そこにいるお客様にさ、どうしても人間の皮のショールがほしいって言われて……あれ?」
紫と緑の縞模様の肌をした女性客は、騒ぎに驚いたのか、いつの間にか店からいなくなっていた。
「事情はわかりませんが、人材派遣契約書の取り決めには従ってもらわないと。ほら、原材料としてではなく、あくまで店員として弊社から派遣したわけですから」
「そ、それはごめんってば。だからさ、早くコイツを……」
「話はそう簡単ではないんですよ」
銭亀さんはわざとらしく溜息をつき、押印がなされた契約書原本を掲げて見せた。
「取り決めた内容を破った場合は弊社に違約金一千万円を払うと、この契約書に書いてあるじゃないですか」
「そ、そうだっけ?」
「書いてありますよ、ほら」
「本当だ……。あ、痛ててててて! ぎゃああああ!」
黒豹が突然噛む力を増したようだ。たまらず獅子ヶ原さんが悲鳴をあげた。
「とって、とって! コイツを放して!」
「じゃあ、違約金を支払ってくれますか?」
「え、えっと、痛てて……それは……えっと……痛い!」
痛がりながらもなかなか首を縦に振らない獅子ヶ原さん。銭亀さんは少し考え込むような表情で口元に手をやり、やがて、その赤く輝く目をスッと細めて獅子ヶ原さんを見据えた。
「そういえば、獅子ヶ原さんの工房はきちんとした資格者がいるんでしたっけ?」
「え? し、資格者……?」
「ええ。月影町商工会の内規では、人間の組成物を原材料として取り出すには、乙種の人体取扱者資格が必要なはずですけど」
「うぅ……」
「まさか無資格でそんな作業してないですよね。商工会にバレたら大変ですから」
「う……」
黙り込んでしまった獅子ヶ原さんを見て、銭亀さんは赤い唇を歪めてニコリと悪魔のように微笑む。
「瑠奈、獅子ヶ原さんはもう少し考えたいようだから、頭がすっきりするように、もっと強い刺激を与えてあげて!」
「承知しました」
冷たく澄んだ声で黒蜜さんが応えた瞬間、黒豹が獅子ヶ原さんの首筋を噛む顎にさらに力を込めたようだった。
「ぎゃああああああ! マジで、マジでやめてえええええ!」
「頭スッキリしましたか、獅子ヶ原さん?」
「そんなわけないでしょ! 痛い痛い痛い痛い!」
「そうですか。それじゃ、瑠奈、もう一段レベルを上げた刺激を……」
「もうやめてえええ!」
「じゃあ、どうするんです?」
「わかった! 払う! 払うから!」
「ありがとうございます。ところで、逃げちゃった津守屋積利くんのことなんですけど、まさか、彼の皮を剥いだなんてことは……?」
「まさか! 僕は知らないよ、彼は勝手に逃げちゃったんだから! そりゃ、いつかはそうしようかなと、チラッとは……いやいや、なんでもない!」
慌てて口元を押さえた獅子ヶ原さんを、銭亀さんは赤い瞳の冷ややかな目線で見遣る。
「そうですか。まあ、ともかく、これで交渉は成立です。瑠奈、もういいよ」
銭亀さんがニッコリ微笑みかけると、黒蜜さんは無表情のまま左腕を上げた。それに合わせてゴシックロリータなドレスの、フリルのついた大きな袖がゆらゆらと揺れる。でも、その揺れ方はどこか不自然で、肘より先が何もないような揺れ方だった。
「あ!」
黒蜜さんの袖に目を奪われているうちに、獅子ヶ原さんの方では、噛みついていた黒豹が変化していた。僕よりも大きかったはずの黒豹が、猫のサイズに縮んでいたのだ。その黒猫は獅子ヶ原さんの首から離れると、地面を蹴って黒蜜さんの左袖内に飛び込んだ。
「な……!」
するとどうだろう。ちらりと見えた袖の中では、やはり黒蜜さんの左肘から先が欠損しており、そこにその黒猫がドッキングしたのだ。つまり、黒蜜さんの左腕が黒猫になっている。
(えーと……)
僕は目を擦ってもう一度見てみたけれど、やはり黒蜜さんの左肘から先、本来前腕と左手であるべき場所が黒猫なのだった。まるでパペットをはめているみたいな感じ。しかも、その黒猫は欠伸をしたり、黒蜜さんの袖のリボンを引っ掻いたりと、本物の猫に違わない様子を見せているのだった。
一方、ようやく解放された獅子ヶ原さんは、床に手をついて肩でゼエゼエと息をしていた。その背中に銭亀さんが声を掛ける。
「それでは獅子ヶ原さん、誠児くんの今日のお給金と違約金、うちの口座に振り込みお願いしますね。振り込まれなければ、『また』来ますから」
銭亀さんの真っ赤な唇から覗く、牙のように尖った八重歯がキラリと光った。
「こんなことがあったんじゃ、誠児くんはもうこのお店には派遣できないのであしからず。じゃあ、みんな、そろそろ帰ろうか。獅子ヶ原さん、お仕事中にお邪魔しました」
銭亀さんはとびきりの笑顔でそう挨拶すると、涙目でうずくまる獅子ヶ原さんを残し、僕らを連れて店を離れた。
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