1-5 裏側のさらに裏
「いやあ、うまくいったねえ。獅子ヶ原さんが手に負えなかったとき用に芽衣も連れていったけど、大事なく終わって、よかったよかった」
獅子ヶ原さんのお店から離れた路上で、銭亀さんは赤い唇の隙間から白の八重歯を覗かせながら、上機嫌の笑顔を浮かべていた。
「相変わらず悪どいですね、真桜子さんは」
無表情でさらりと言った黒蜜さんの言葉にも、銭亀さんは笑顔を崩さない。僕は銭亀さんの上機嫌の理由も黒蜜さんの言葉の意味もわからずに首を捻った――と、その時、ビルの谷間から人が飛び出してくる。
「あ!」
誰あろう、人間皮のショールがほしいと言った、あの紫と緑の縞模様の肌をした女性客だった。僕は思わず身構えるが、銭亀さんはその人に向かってフレンドリーに片手を上げる。
「あ、縞影さん、お疲れ様です」
「これで今月の返済はなしでいいのよね?」
サングラスの位置をずらしながら、縞模様の女性は銭亀さんの顔を注意深く窺う。
「はい、もちろん。ご協力感謝します。さ、カバンを返してください」
(あ、あれ? 銭亀さんと知り合いなの? え、ど、どういうこと……?)
ハテナマークが頭をぐるぐる廻る僕をよそに、銭亀さんは札束がぎっしり詰まっているはずのハンドバッグを縞模様の女性から受け取った。だが、その中身を確認して首を捻る。
「縞影さん、もしかして一本盗みました?」
縞影さんというらしいその女性はびくりと肩を震わせる。それを見て銭亀さんは一瞬だけ唇の片端を吊り上げて嗤ったが、すぐに元の朗らかな表情に戻った。
「ははは、縞影さんが盗みなんかするわけないですよね? 失礼しました。もー、借りたいならそう言ってくださいよー。はい、これにサインしてくださいね!」
銭亀さんはにこやかな笑顔を崩すことなく、ブレザーの内ポケットから書類とペンを取り出し、借用書と書かれたその書類に金額を追記して縞影さんに渡した。縞影さんは涙目になりながらも、観念したようにそれに署名する。
「またホストさんへの貢ぎですか? ほどほどにしとかないとダメですよ。あ、また来月、芽衣か瑠奈が金利の回収に伺うのでよろしくお願いします! 分かってると思いますけど、逃げても隠れても無駄ですからね」
銭亀さんはあくまで朗らかににこやかに話し続ける。僕はそんな彼女を恐々と見つめた。
背を丸めてとぼとぼと帰っていく縞影さんを見送った後、銭亀さんはご機嫌な笑顔で再び僕達に向き直った。
「さて。それじゃ、にこにこ銭亀ファイナンスの今日の業務はこれでおしまい! みんなお疲れ様。また明日もよろしくね」
「お疲れ様ぁ! じゃーねー、真桜子ちゃん社長、瑠奈ちー、バイバーイ!」
「お疲れ様でした。真桜子さん、芽衣さん。ではまた明日」
菜摘さんはにっこり笑顔で両手をブンブン振り回し、黒蜜さんは無表情だけれど丁寧にお辞儀をしてその場から去っていった。
銭亀さんと二人きりで残されてしまった僕は、体から汗が噴き出すのを感じた。僕の目の前にいるこの人は思っていた以上に危険な人なのではないだろうかと、恐る恐る銭亀さんの顔を覗いてみると、彼女は微笑みながら僕のことを見つめていた。なんだかわからないけど、心臓がドキリと鳴った。
「誠児くんはまだ月影町に慣れてないから帰り道が不安だよね? わたしが駅まで送るよ」
銭亀さんは優しくそう言ってくれた。しかもドキドキするくらいとびきり可愛いらしい笑顔付きだった。
でも、駄目だ! 騙されてはいけない!
「あ、い、いや、わざわざ、そんな……」
僕が呻くように言うと、銭亀さんは少し口を尖らせる。
「遠慮しなくていいのになあ……。あ、それよりこれ。獅子ヶ原さんからの入金は少し後だけど、先に今日のバイト代は渡しておくね」
「にこにこ銭亀ファイナンス」と印字された封筒を手渡された。きっと諭吉の描かれたお札が四枚入っているのだろう。
でも、駄目だ! 騙されてはいけない!
僕はできるだけ無表情にそれを受け取って、銭亀さんから距離を取ろうとした。そうしたら、ぎゅっと手を握られた。手のひらに感じる、本日二度目の暖かくて柔らかい感触。心臓が止まるかと思った。
「行こ?」
わずかに首を傾げた銭亀さんにそう言われた瞬間、僕は反抗する気力を根こそぎ奪われてしまう。真っ赤になった僕は、銭亀さんと歩調を合わせて歩き出すことしかできなかった。
※
「あ、あのさ、銭亀さん……」
「なあに?」
手を繋いでしばらく無言で歩いたところで、いたたまれなくなった僕は、思い切って銭亀さんに今日のことを聞いてみることにした。
「あの縞影さんって人……もしかして、銭亀さんが仕込んだ人なの……?」
「うん。うちの会社からお金を借りてる人で、一部返済を免除するのを条件に手伝ってもらったの」
「へえ……」
「獅子ヶ原さん、まあまあいい人だし、金払いも悪くはないんだけど、派遣労働者への待遇がたまに酷くてさ。他の業者の間でも悪評がちょこちょこ出てくるんだよね。だから、ちょっとこの辺でお灸じゃないけど、舐めちゃダメだよって主張しておこうって皆で協議してたところなんだよ」
「ふ、ふうん……」
僕はその道具にされたのかな……。少しショックだけど、でも、時給一万なんて、普通の高校生が得られる額ではないからなあ。仕方ないのかなあ……。
そのまま黙って、二人で手を繋いで歩く。僅かに霞んで見えていた月影町の景色は、いつの間にか都会の明瞭な風景になっていて、すれ違う人達も普通の人間の姿になっていた。
その時、銭亀さんがふと僕の肩の辺りを見て頭を傾げた。
「あれ? 誠児くん、肩のところ赤いよ……もしかして血……?」
慰謝料としてもらっておけと銭亀さんに指導され、着たままになっていた獅子ヶ原さんのお店で借りた服の肩口が、確かに少しだけ赤く滲んでいた。獅子ヶ原さんに掴まれた時、爪が食い込んで切り傷ができたみたいだった。
すると、銭亀さんはさっきまでの笑顔が嘘のように、しゅんとして下を向いた。
「ごめん。怪我をさせるつもりはなかったんだけど……。甘かったね。ごめんなさい……」
赤い瞳が揺れて、色白の肌が少し青ざめているように見えた。僕はちょっと慌ててしまう。
「え、あ、え、えーと。だ、大丈夫だよ。このくらい。別に痛くないし!」
本当はまだ少しヒリヒリしたが、元気に肩や腕を振り回してみせた。
僕はどうしてこんなに気を使っているのだろう。僕を半分道具として使ったような相手に……。でも、銭亀さんが少しほっとしたように表情を緩めるのを見たら、まあいいかと思えてしまった。なんだか自分がバカみたいで、少し笑える。
それから間もなく、僕達は駅の改札口に到着した。いくつかの巨大ディスプレイが見下ろす駅前は、夕暮れを少し過ぎたこの時間もたくさんの人で溢れていた。
「今日はありがとう、誠児くん。なんか、迷惑かけちゃったよね、ごめん」
「い、いや、そんな。おかげでお金も手に入ったし、僕の方こそありがとう……」
自分のセリフに、改めてお金が必要だった理由を思い出した僕は、情けなくなって気持ちが萎んだ。銭亀さんの目をまっすぐに見られなくなってしまう。
「どうしたの、誠児くん?」
「う、ううん。な、なんでもない。じゃあね!」
まだ繋がれたままだった手を放して改札に向かおうした僕だったが、なぜか銭亀さんは僕の手を放してくれなかった。
「待って、誠児くん。まだ必要な額を稼いでないよね?」
「え……う。うん。そうだけど……」
学校の彼らには一月に十万円といわれているから、あと六万円。確かに、目標金額にはまだまだ全然足りていない。まさか彼女は「にこにこ銭亀ファイナンス」で借りろ、なんて言う気では……。
「ねえ、誠児くん、うちで働いてみる気はない?」
「え……?」
思ったのと違う提案に、僕は目を瞬かせた。
「今ね、事務職パートをしてくれる人を探してるんだよ」
「事務職?」
「うん。うちの会社は社長のわたしと債権回収班の芽衣と瑠奈だけだから、どうしても帳簿付けとかの事務処理が後回しになっちゃってるの。昔はわたしがやっていたんだけど、最近は挨拶回りと営業で忙しいし、芽衣は机に向かう作業は苦手だし、瑠奈は片手が猫ちゃんだからパソコンを扱うのは大変だし」
銭亀さんの赤みがかった瞳が、僕の顔を窺うように覗き込む。
「ね、だから、パソコンを使って、収支を表計算ソフトに打ち込んだり、請求書やら催促状やらをプリントアウトしたりを手伝ってほしいんだ。学校帰りに一、二時間とか、土曜の午後とか、いい時間に来てくれればいいからさ。毎日じゃなくていいし。時給は三千円出すよ!」
僕の頭の中で、何時間くらい働けばいいのかがスパッと計算された。でも、同時に、あの危険な会社で働くことのリスクや危険性も頭を掠める。
「内勤がメインだから特に怖いことはないと思うよ。もし他の業務をお願いするときは特別危険手当を付けるし、嫌な仕事は断ってくれても全然いいし」
僕の思考回路を読んだように銭亀さんが言った。
特別危険手当……もらってもやりたくはないなあ。でも、断れるなら問題ないような気もするけど……。
「僕なんかでいいの?」
「もちろん!」
銭亀さんが両手で僕の手を掴んだので、僕は心臓が飛び出そうになった。下を向きながらやっとのことで言葉を絞り出す。
「じゃ、じゃあ、よろしくお願いします……」
「こちらこそよろしく!」
銭亀さんと僕は、契約が成立したプロ野球選手と球団関係者みたいにしっかりとした握手を交わした。その後でようやく僕から手を放すと、銭亀さんはブレザーのポケットから何かを取り出して僕に差し出した。
「次からはこれを首から掛けていれば月影町に入れるよ」
見ると、それは首から下げられるようにストラップの付いた透明なカードケースで、ケースの中には「月影町通行許可証」と書かれたカードが入れられていた。それをためすがめつする僕の横で、銭亀さんはフンッと気合の入った息を吐く。
「よーし、新しいスタッフもゲットできたし、バリバリ仕事するぞー! 津守屋の奴もとっ捕まえなきゃだし、新規案件も掘り起こさなきゃ! 帰ってすぐ企画書作ろうっと。今度は誰を嵌めようかなー」
銭亀さんは両手を腰にやり、赤い瞳を爛々と輝かせながら、八重歯の覗く赤い唇を不敵に歪めて悪魔のように笑っていた。僕はさっそく嫌な予感がして、顔の表情が引きつるのを感じた。
「ハハハ! 誠児くん、君のことは決して悪いようにはしないからさ。大船に乗ったつもりでこの社長についてきたまえ。でも、今日は疲れたでしょ。とりあえず、早く帰って早く寝なね」
銭亀さんは僕の怪我していない方の肩をバシバシと叩いた。
「それじゃあ、今夜もいい夢を!」
そう言うと銭亀さんは踵を返し、他の誰よりも軽い足取りで元来た道を戻っていった。長い黒髪、紺のブレザーにチェックのスカートの後ろ姿はあっという間に人ごみの中に消えていく。
「いったい……」
彼女は何者なのだろう。
一人残された僕は呆然とする。でも、口元には困ったような、にやけたような笑顔が浮かんでくるのはなぜだろう。
僕は気を取り直して駅の改札に向かう。自動改札機は大量の人間を吐き出し、吸い込んでいく。当然、周りには普通の人間しかいない。なんだか、今日起こったことが信じられない気持ちになった。今もまだどこか夢見心地だ。
僕は自分の頬を抓ってみる。
やはりピリッと痛かった。
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