1-2 非日常との遭遇

 ビルに掲げられたいくつもの巨大ディスプレイが見下ろす広大なスクランブル交差点を、銭亀さんは大量の若者たちとすれ違いながらどんどん進んでいった。彼女が一歩踏み出す度に長い黒髪が艶々と輝きながら揺れる。僕は押し戻そうとする人の圧力に逆らいながら、その後ろ姿を必死に追いかけた。


 銭亀さんは若い女の子達が出入りするファッションビルを横目に、なだらかな坂道の大通りを迷いない足取りで進んでいく。駅前ほどの人ごみは途切れ、代わりに街路樹のせいだろうか、緩やかな坂道は微妙な薄暗さを湛えていた。道路の両脇には低層の雑居ビルが並び、一階はどこにでもあるようなコンビニやファストフード、居酒屋のチェーン店が多く並んでいる。僕はそのありきたりな雰囲気に少しだけほっとした。


 どこまで行くんだろう? 僕がそう思い始めた時、銭亀さんは長い黒髪を靡かせながら、脇の小道へと急カーブした。僕は慌ててそれを追う。


 そこは細い道が複雑に入り組んだエリアであり、ビルの陰により大通りよりもさらに暗い場所だった。雑居ビルの他にコンビニやライブハウスなども見えたが、なんとなくダークな雰囲気の区画のように思えた。


(なんだか……怪しげなホテルとかも……あるし……)


 その手のものに全く縁のない僕は、耳と頬が少し赤らむのを感じて俯いた。のだが。


「あ、そうだ!」


 そう言って僕の方を振り返った銭亀さんが、突然、パッと僕の手を掴んだ。


「ひえっ……!」


 唐突に手の平と手の甲に生じた生じた柔らかくて生暖かい感触に、僕の脳みそは一挙にオーバーフロー状態に陥る。


「え……? な……? え……!」


 空気を求めてパクパクと口を動かす金魚みたいになった僕は、反射的に手を引っ込めようとしたのだが、銭亀さんは強く握って離さなかった。彼女の意図がわからず、しかも丁度、目の前が怪しげなホテルであるのも相まって、僕の心臓はバクバクと豪快に脈打ち、脇から額からダラダラと汗が流れ落ちていく。


 しかし、当の銭亀さんはというと落ち着いたもの。


「わたし達の街に初めて入る人は、街の住人に『招かれる』必要があるからね」


 彼女はそう言って、薄暗い景色の中でやたらと赤く光って見える眼を細め、口の端を吊り上げて妖しく笑った。牙みたいな八重歯がキラリと光って見えた。


 銭亀さんがそのまま僕の手を引いて歩き出したので、ステータス異常【混乱】に陥った僕は、従順な飼い犬みたいに半歩遅れてその後をついていくことしかできない。彼女があっさりと怪しげなホテルを素通りしたのには、安堵と残念感とが入り混じった絶妙な気持ちを味わうことになったけれど。


 そのまま、銭亀さんは細い道を進み、雑居ビルの群れやライブハウスを越えてさらに細い道へと入りこんだ。



 気付くと、僕はそこにいた。


 唐突に、僕の周囲は今までの薄暗い小道ではなくて、広い通りになっていた。

 人通りも多いようではあるのだが、急に霧が立ちこんだようで周りをよく見通すことができない。呆然とする僕をチラリと見やった銭亀さんは、真っ赤な唇からきらりと光る八重歯を覗かせながら朗らかに笑った。


「ようこそ、我らが月影町へ!」


 僕の耳がつまってしまったのか、その声は少し籠って聞こえた。そういえば、周囲の人々の喧騒もうまく聞き分けることができなくて、内耳にざわざわと音が響くばかりだ。銭亀さんに繋がれていない方の手で目を擦ったり、耳の中を擦ってみたりするけれど、やはりはっきりしない。


「さ、行こうか」


 僕の戸惑いには気付かぬげに、銭亀さんは僕の手を引いてどんどん通りを進んでいく。すると、歩いているうちにだんだん目と耳が慣れてきて、少し靄は残っているもののだいぶ視界は良好になってきた。


 通りは車が二台通れるくらいの広さで、どうやら歩行者天国になっているらしく、たくさんの人達が行き来していた。通りの両側には五階建て前後の雑居ビルが立ち並び、それらの一階にはコンビニや食べ物屋や洋服屋が並んでいたが、いずれも僕の知らないロゴが掲げられている。都会の真ん中にしては少し奇妙に思えて、僕は首を傾げた。ただ、行き交う人々はやはり若者の街らしく、おしゃれな人が多くて――。


「……って、え?」


 僕は見えたものが信じられなくて、思わず目を見開いた。目がおかしくなったのかと思って、目を擦り、瞬きを繰り返してから再び目を通りに戻す。


 だが、見えたものは変わらない。


「嘘……嘘でしょ……?」


 漏れた僕の呟きは溜め息みたいに力がなかった。

 僕の目に映ったのは、全くの出鱈目な光景だった。


 こっち側の通りでは、顔から何本もの触手を生やしたイケメンのお兄さんが、スマートフォンを弄りながら歩いている。そっち側のファストフード店の前では、真っ赤な肌の女の子と蛍光イエローの肌の女の子が、メニューの立て看板を覗きながらケタケタ笑っている。あっち側のカフェのテラス席では、顔の中心に大きな一つ目しかない男性が、コーヒーカップを片手に文庫本を読んでいる。


「な、ななななな、な……!」


(というか、あの一つ目の男の人はどうやってコーヒーを飲んでいるんだ……!)


 混乱の極致に陥った僕は思わず歩みを止めた。銭亀さんはそんな僕を振り返りつつ、真っ赤な唇を歪めてニヤニヤと笑う。


「誠児くん、びっくりした? この街はねえ……」

「あれー、真桜子ちゃんじゃーん!」


 唐突に僕の背後から掛けられた男性の声に、銭亀さんの言葉が遮られた。


「あ、獅子ヶ原さん、どうもこんにちは。いつもお世話になってます」


 銭亀さんは声のした方にペコリと頭を下げた。つられて僕も男性の声の方を向いた結果、バカみたいにポカンと口を開ける羽目になる。


 そこには背の高いライオンみたいな男性がいた。ライオンみたいにイカツイ雰囲気とか、雄ライオンの鬣みたいに逆立てた髪型をしているとか、そんなレベルではない、文字通りの意味だ。ライオンが二足歩行で進化したみたいな外見をした人がそこに立っていた。顔と体を覆う黄金色の毛皮、突き出た鼻、その下にある口には鋭い牙が並び、時々長い舌がべろりと垂れる。そんな、およそ仮装では到れないレベルの獣人風なお兄さんが、お洒落なレザーとデニムの服を身に付けて僕の目の前にいるのだった。


「真桜子ちゃんってば、すげー美味しそうな人間をつれてるじゃーん」


 随分と軽いイントネーションでライオンのような人が僕を見ながら言うと、銭亀さんは苦笑いを浮かべて首を横に振った。


「違いますよ。彼はわたしの招待客なんです。食肉組合とは無関係ですから」

「へー」


(食肉……組合……?)


 ライオンみたいなお兄さんは指を咥えながら僕を見る。その口の端から少し涎が垂れていて、僕は事態がよくわからないながら、とてつもない危機感を覚えて心臓の動悸が早くなった。


 だが、そんな僕にはお構いなく、僕と手を繋いだままの銭亀さんは焦りのひとかけらせえ見せずにライオン的な男性との会話を続ける。


「あ、そうだ、獅子ヶ原さん、例の人材派遣の件は任せてください。今日からどうにかなると思うので」

「え、マジ? あ、なるほど、そういうことか。ふむふむ。じゃ、お店で待ってるから後でおいでー」

「わかりました。ではまた後で」

「うん。じゃあねー!」


 そう言って、ライオンみたいなお兄さんは手を振りながら僕達から離れていった。とりあえずの安堵を覚えて、僕の全身からどっと汗が吹き出した。そのまましばらくうなだれていた僕は、ふと視線を感じて顔を上げる。すると、銭亀さんが可笑しそうに目を細めて僕のことを見つめていた。


「銭亀さん……?」

「ふふふ。びっくりしたかな、誠児くん? つまりね、この『月影町』はそういう街ってこと」

「そういう……?」

「ふふふ! 立ち話もなんだから、早く行こう。すぐそこにうちの事務所があるから」


 銭亀さんは僕の手を引っ張って再び歩き始める。僕はそれに従って足を動かしながら、このありえない状況に混乱が増すばかりだった。僕の頭が本格的におかしくなってしまったのだろうか。それとも、これも夢なのだろうか。そもそも、銭亀さんは僕の夢に出てくる架空の人物のはずだったのだから。


 僕は恐る恐る、自由な方の方の手で自分の頬を抓ってみる。


(い、痛い……!)


 さらに混乱が増す結果に、僕は眩暈を覚えた。

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