第1話 銭亀さんのお仕事

1-1 日常からの離脱

 梅雨の時期だった。


 地下鉄の階段を登って外に出た僕は、紺色の傘を差し、溜め息を吐きながら学校へ向かって歩いていた。溜め息の理由は靴と制服のズボンの裾を濡らす雨のせいだけじゃない。学校に行くのが憂鬱で、このまま時間が止まるかループし続ければいいのにとさえ思える。けれども残酷に時は過ぎ、間もなく城壁みたいな塀と門に囲まれた学校が見え始めた。


 私立ブバルディア中等教育学校は中等部と高等部からなるありふれた私立の共学校だが、都心の高立地にあること、それなりの伝統と進学率を誇っていることからまあまあ人気の学校だった。公式ホームページの教育方針には「人間力の涵養」やら「道徳的生き方への指標」やら「心身の健全性」やらが吟われている。それが実際に通っている生徒達に反映されているのかはわからないけれど。


 学校へと続く道は生徒達で溢れていた。一人で登校している人もいるが、親しい者同士くっついてしゃべっているのが大半だ。シトシトと地べたを打つ雨音と朝からハイテンションな話し声とが奇妙に調和したハーモニーを奏でていた。皆もう夏服で、ブレザーは脱いで男子は深緑のズボン、女子はチェックのスカート。白のシャツにタイは男女同じだが、中等部か高等部かでタイの色は違う。


 そういえば、夢で彼女が来ていたのはブバルディアの冬服だったのではないだろうか。まさか、この学校の生徒とか……?


「よお、小野寺」

「また一人かよ」

「ウケる」


 急に肩に回された手と掛けられた声に僕の思考が中断された。声の主は顔を見なくてもわかる。僕が学校へ行きたくない要因のほぼ百パーセントが彼らだったから。


「ねえ、小野寺、喉乾かねえ?」


 そう言って僕の応えも聞かずに、自動販売機の前へ連れて行かれる。彼らが顎でしゃくって現金の投入口を指示したので、僕は学校指定カバンから財布を取り出して千円札を入れた。彼らが思い思いのボタンを押すと、自動販売機はガシャンガシャンといくつかのペットボトルを吐き出す。それを取り出して談笑しながら離れていく彼らを、僕は黙って見送るだけ。


 僕の学校での立場は、つまりはそういう感じなのだった。



 放課後の男子トイレは壁も床もじっとりと湿っているようで不快だった。


「や、やめてよ……」


 女みたいなか細い声しか出せない僕は、それがまた情けなくて、泣き出しそうな体の震えを止められなくなっていた。


「なんだよ、小野寺。なんか、俺らがお前のこといじめてるみてぇに見えるじゃん」

「ざけんなよ、俺らはお前をいじってキャラ立ちさせてやってるんだろ」

「笑えよ、そんで、『いじってくれてありがとうございましす』って言えよ」


 ニヤニヤ笑いながら彼らは言った。僕は体をガタガタさせながらニタニタ笑いを必死に作り出し、壊れたオモチャみたいに外れたイントネーションで「いじってくれてありがとうございます」と音を出してみた。それがおかしかったのか、彼らは体を折り曲げて笑い出した。


「財布は?」


 僕の返事も聞かずに、取り上げた僕のカバンから財布を取り出して中身をひっくり返す。


「これだけかよ」

「あのテレビにもでてるナントカって偉い人の息子なんだろ、お前」

「つっても妾の子だろ、コイツ」

「メカケって何よ?」

「なんだよ、お前、ホント言葉知らねえよな」

「もう少し本とか読めば? 推薦狙ってんだろ、お前」


 彼らがドッと吹き出して笑う。


「まあいいや。じゃ、今月中に十万ね、小野寺。よろしく!」


 爽やかに言い放たれた言葉の意味が分からなくて、僕は呆けた顔を晒す。


「だってさー、お前がチマチマくれるお金なんてすぐに使いきっちゃうんだもん!」


 随分可愛らい声で言われたが、言われた内容は可愛くもなんともない。


「む、むむ、無理だよ!」


 震えながら、僕はなんとか言葉を絞り出した。


 確かに父親は金持ちみたいで、毎月生活費としてそれなりの額を振り込んでくれる。けれども、それは家賃とか、僕と弟が学校に行くための費用とかも含んだものだし、僕の母親も結構な金額を毎月使う。だから、僕はいつもギリギリの金額をやりくりして家計を回しているのだ。


「お父様に頼めばー?」

「む、無理だよ……」


 僕は下を向いた。僕と父親にそんなことを話し合える関係性はない。だが、そんなことは知らない彼らは、親しい友人同士みたいに僕の肩をバシバシと叩いた。


「そんなの言ってみなきゃわからないじゃん!」

「諦めたらそこで試合終了だよ!」

「お父様一生のお願いって、ね?」


 冗談めかして言われても、どうしようもないものはどうしようもないのだ。嫌な汗が脇から首から背中から、どんどん吹き出してはシャツを不快に湿らせていった。


「あーもう、ウザいなあ。ほらコレ」


 とうとう痺れをきらしたらしい彼らのうちの一人が、スマートフォンを僕に翳して見せた。そこには制服のズボンと下着を脱がされた僕が映っていた。画面の中の僕は彼らに後ろから腕と動体を押さえつけられ、顔は涙と鼻水で汚れていた。


 これを撮られた日、僕は放課後の誰もいない教室に連れ込まれて下半身の写真を撮られた。その状態で「ここに女子呼んで来ちゃおっかー」「早くやらねえとホントに女子呼んでくるよ」などと脅され、僕は恥ずかしい行為まで強要されたのだった。


「な!」


 僕は反射的にスマートフォンを奪い取ろうとして手を伸ばした。だが、彼が腕を高く上げたので、背の低い僕にはとても届かない。


「キャハハハ! 動画もあるよ。で、これ、おいくらなのかしら?」

「月々十万円の十回払い、今ならなんと手数料無料!」

「きゃー、お買い得ぅ!」


 僕はしばらく彼らと追いかけっこをしたが、全く相手にならない。飼い主に遊ばれる小型犬みたいにあしらわれただけで、しばらくすると誰かに背中を蹴られて、僕はつんのめりながらトイレの床へと無様に突っ伏した。


「ダッセー」


 突っ伏したまま顔だけ上げた僕は言葉を出そうと口を開けた。でも、僕を見ながら楽しそうに笑う彼らを前に、喉が固まったみたいに声を出すことができなくなっていた。


「文句があるなら言えよ」

「何も言わないってことは文句がないんだよな?」

「文句がないってことは、俺らは間違ったことしてないってことだもんな?」

「だって、俺ら、弄られキャラのお前を弄ってやってるだけだもんな」


 そう言ってもう一度笑うと、彼らはトイレから出て行った。僕はなんとか起き上がって床にぺたんと座り、打ち付けてしまった鼻に触れて鼻血が出ていないことを確認する。


「む、無理だよ……」


 呟いた声は誰にも届かない。


 梅雨の時期の湿った空気は不快なくらい生ぬるいのに、トイレの床は信じられないくらいひんやりと冷たかった。


 

 薄暗い教室で電気も点けず、僕は一人で自分の席に座っていた。机の上にはクリアファイルが置いてあって、その中には今朝、僕の手に握られていた紙片が挟み込まれている。そして、僕が左手に握ったスマートフォンでは既にその番号が押してあって、あとは通話アイコンにさえ触れば電話がかかる状態だった。


 彼女は「困ったことがあったら連絡して」と言っていた。そして今、僕は困っている。


 とはいえ、こんなことを彼女に相談してもいいのだろうか。そもそも、この電話番号は本当に彼女につながるのか。だいたい、夢の中の会話を信じるなんてどうかしている。もしかしたらこの紙切れのメモは僕が寝ぼけて書いたものだという可能性もある。


「バカみたいだ……」


 僕は自嘲気味に笑って、スマートフォンの画面を暗転させるボタンを押すために指を動かした。しかし、ディスプレイの感度が良過ぎたのか、僕の指がディスプレイすれすれを滑り過ぎたのか、通話アイコンの上を指が通過した瞬間に電話がかかってしまったのだ。


 ディスプレイに表示される呼び出し中の表示。


 静かな教室の中、スピーカーから微かに漏れる呼び出し音が聞こえた。僕はびっくりしてしまって、咄嗟に切断アイコンに触るのを忘れてしまう。しかも、わずかツーコール目で相手が電話に出てしまったのだ。反射的にスマートフォンを耳にあてた瞬間に、電話口から慣れた口調で話す女性の声が聞こえた。


「もしもし、こちら銭亀ファイナンスです」

「え……?」


 瞬間に、僕の頭に様々な考えが閃いては消えていった。


 どこかの会社っぽい!

 番号を間違えた?

 大人の女性の声?

 彼女に騙された?

 そもそも、彼女は実在なんかしない!


 僕は咄嗟に電話口に叫ぶ。


「す、すみません! 間違えました!」

「あ、ちょっと待って! 切らないで!」


 慌てて電話を切ろうとした僕を電話の向こうの女性が制した。


「もしかして、君、誠児くん?」

「え……? なんで僕の名前……」

「あ、やっぱり誠児くんだ!」

「え、えっと、も、もしかして……?」

「そう、わたし。昨晩、夢で会ったよね」


 一気に砕けた調子になったその声は、少しノイズが混ざってはいたが、紛れもなく夢で出会ったあの女の子と同じものだった。


「さっそく電話くれたんだ。嬉しいな。どうしたの? 何か困ったことがあった?」

「あ、あの、えーと……」


 いざそう言われると、僕はなんと答えればいいのかがわからなくなる。


「お金関係で悩んでたりする?」


 優しい声で問われ、僕の心臓がドキリと言った。


「え? え? なんでわかるの?」

「あ、やっぱりそうなんだ。いや、実は適当に言ってみただけなんだけどね」


 電話口から彼女の苦笑する声が漏れた。鈴が転がるみたいな甘い声だった。


「いくらか必要なの?」

「えーと……ひと月……十万……を、十回」

「そっか、そっか」


 彼女の声は驚いた様子もなく優しいままだったが、僕は電話を握ったまま下を向く。


「これから会う?」

「え?」


 急に言われた言葉に戸惑って、僕の心臓が大きく跳ねた。期待や歓喜のような気持ちが膨らむ一方で、何か恐ろしいような気持ちも同時に湧いた。


「あの……僕、夕方からは弟の面倒見ないといけないから……」


 言い訳するみたいに呟くと、電話の向こうで少し思案するような間が開いた。


「そうか。そうだよね。わかった。じゃあ、週末はどうかな? 会える?」

「え?」

「ダメかな」

「い、いや。ダメなんて、そんな……」

「じゃあ大丈夫?」

「う、うん。大丈夫だと思う」


 気付くと僕はスマートフォンを持ったまま頷く動作をしていた。


「よかった、じゃあ集合場所はねえ……」


 駅名と目印と時間を聞いてからさよならをし、何か信じられないことが起こったことに恐れおののきながら僕は通話を切った。僕は暗い教室でしばらく呆然とすることしかできなかった。



 ふわふわした気持ちで僕は学校から帰途に就く。靴下の中に隠していた千円札で夕飯の材料を買ってから家に帰ると、既に九歳の弟が学校から帰ってきていた。


「ただいま」


 弟は広いリビングの窓際、お気に入りの一人掛けソファに腰掛けて膝に乗せたスケッチブックに絵を描いていた。絵に夢中で僕の帰宅には気付かなかったらしく、体を屈めたまま絵を描き続けている。いつものことなので放っておいて、僕は夕飯の材料を冷蔵庫にしまった。部屋で着替えてから、弟の様子を伺えるダイニングテーブルで宿題を始める。


 しばらくすると、弟が絵を描き終った気配を感じたので、僕はソファまで移動して弟の顔を覗き込みながら声を掛けた。


「龍児くん、どんな絵を描いたの? 見せてよ」


 ポカンとした表情で僕の言葉を聞いた弟は、すぐに僕から目を逸らし、口を尖らせるようにしてブツブツと呟き始めた。


「龍児くん、どんな絵を描いたの? 見せてよ。龍児くん、どんな絵を描いたの? 見せてよ。龍児くん、どんな絵を描いたの? 見せてよ」


 吟味するように弟は僕の言葉をオウム返しに繰り返す。だが、その手は閉じたスケッチブックを開く動作ができなかった。


 やっぱりだめか……。


 僕が溜め息をこぼすと、弟は急に立ち上がってその場で飛び跳ね始めた。何度も何度も、繰り返し繰り返し。


 龍児くんはこうなると止めてもやめないことは経験上わかっている。止めれば、酷く興奮して暴れ出してしまうのだ。幸い、この部屋はマンションの一階だから他の人からクレームが来ることはないだろう。


「龍児くん……あんまり跳ねると足の裏がボロボロになっちゃうよ」


 声を掛けてはみたものの、弟は僕の方を向きもしない。届かない僕の言葉が広い部屋へ所在無く溶けていくだけ。僕は再び溜め息をついた。


 おそらく、今日も母親は帰ってこないだろう。父親には正式な妻が別にいるので、ここにはほとんどやってこない。


 僕は飛び跳ね続ける弟を見ながら、夕飯のスキヤキ二人前を作るべく準備を始めた。



 土曜日、弟を家に残して僕はあの女の子と約束した場所に行くべく、山手線に乗りこんだ。龍児くんは電話やインターホンには出ないし、キッチンのガスコンロをいじったり、散らかしたりもしない。お昼に食べられるようにお弁当も作っておいたし、僕が出ていくときにはおとなしく絵を描いていたから大丈夫だと思う。


 若者の街として有名な駅で電車を降りて、僕は集合の十分前に有名な犬の像の前へと辿り着く。空は暗い色をして道路も湿っていたが、雨が降っていないのは救いだった。ただ、じめじめした暑さだけはどうしようもなくて、僕は手で首筋の辺りを扇いだ。


 カラフルな色を纏った大量の人間がたむろし行き交う街を見つめ、僕は少し気後れした気持ちになる。東京都民でありながら、僕は家からそれほど離れていないこの街にほとんど来たことがなかった。一応、一番マシな服を着てきたつもりだけど、カラー写真のみんなに対して僕だけが白黒写真みたいに感じられて、僕は下を向いた。


「あ、誠児くん! ごめんね、待った?」


 しばらくして時間ピッタリに彼女はやって来た。人ごみの中にあっても特に目立つ、悪魔のように整った美貌。しかし、なぜか服装は夢と同じく、僕の学校の冬服だった。


「それじゃあ、行こうか」


 僕に駆け寄ってきた彼女はすぐにくるりと踵を返して足を踏み出そうとする。どうやらついて来いということらしい。


「え? ちょ、ちょっと待ってよ、ねえ――」


 咄嗟にどういうことか問いかけようとして、僕は口を噤んだ。呼び掛けようにも彼女の名前すら知らないことを今さらながらに思い出したのだ。


「あ、わたしの名前?」


 振り返った彼女の瞳が赤く光ったように見えた。彼女は真っ赤な唇を美しく歪めて笑う。


「わたしの名前は銭亀ぜにがめ真桜子まおこ。金銭の銭に、爬虫類の亀、真に桜の子って書いて真桜子。改めましてよろしくね、小野寺誠児くん」


 とびきりキュートな笑顔だった。でも、その顔は彼女が「じゃあ、行こうか」と再び前を向いて歩き出したことで見えなくなってしまう。なんだか、とても残念な気持ちになってしまった僕は、歩き出した彼女――銭亀真桜子さんを追いかけて足を踏み出したのだった。

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