5-8 君の正体

 黒蜜さんと菜摘さんと僕は、尨毛さんの家の裏手側から、脚立を使って柵を乗り越えて邸内に侵入した。僕達は身を屈め、きれいに切り揃えられた英国式庭園の木々の中に身を潜めながら屋敷に近づく。

 目指すのは裏口だ。黒蜜さんの買収したメイドが鍵を開けて待っていてくれる。


――ブシュッ!


 突然、嫌な音とともに、近くの木の枝が吹き飛んだ。どうやら銃弾のようなものが襲ってきたらしい。

 僕は嫌な汗を流しながら身を縮めて静止し、後ろの女子達を振り返るが、幸いみんな怪我はなかった。ただの威嚇射撃だったのか、それとも僕達の正確な場所が特定できなかったのか。


「監視カメラの死角を狙って移動していたらしいが、こっち的には侵入ルートはそこしかないわけで、目視確認は簡単だな」


 庭の見通しの良い場所からそう発言したのは、以前、事務所を襲ってきたリス男だった。丸々と太い尻尾を持ち、全身を茶色と白の毛皮に覆われた彼は、口をすぼめたまま、いつでも次弾を撃てるようにしているようだ。


 僕は菜摘さんと黒蜜さんに頷いて見せてから、作戦通りに手を挙げて潜伏場所からゆっくり這い出す。


「お、なんだ、いきなり白旗か?」


 リス男の視線が僕に集中した。

 その瞬間を狙って、少し離れた位置にいた黒蜜さんの黒豹が、リス男の横脇を狙って木の間から躍り出る。


「うお!」


 リス男は叫びつつ、口から弾丸を吹く。

 だが、黒豹は空中で体を捻り、器用にそれを避けた。それと同時に、尻尾を力の限り振り回す。黒豹の尻尾には細長い何かがしがみついていて、それは尻尾に振り回された遠心力と共にリス男の肩に飛びついた。


「なに……!」


 リス男に飛びついたのはパステルカラーのネイルが特徴的な、菜摘さんの腕だった。肩のすぐ下から切り離されているため、かなりの長さがある。


 リス男は腕を振り払おうとしたが、振り払った瞬間に腕の断面から新たな腕が這い出して、さらにその二本の腕からまた新しい腕が這い出し、計四本の腕からまた……と鼠算式に増えていく菜摘さんの腕にすぐ全身を取り囲まれてしまった。


 菜摘さんの腕達はかなり強い力でリス男の体にしがみついているらしく、振り払うことができない。菜摘さんの腕達はリス男の自由を奪うだけでなく、関節を逆方向に捻じり、肉を引きちぎるように掴み、じわじわとダメージを与えていく。


「な、なんだこれは!」

「うちの【八つ裂き希望リスカ・マニア】は、腕が長ければ長いほど、うちの体を傷つければ傷つけるほど、威力も繁殖力も強くなるんだよぉ!」


 携帯ノコギリを持って木の陰から出てきた菜摘さんが、自らの首や腹に何度目かの傷を付けながらそう叫んだ。

 さらに、黒蜜さんの黒豹がリス男のふくらはぎに思い切り噛みつき、地面に転ばせる。


 侵入前に立てた作戦通りにうまくいった!


 僕がホッと息をついた時だった。


「な……!」


 僕の全身が一瞬で何かに取り巻かれていた。


 瞬きの間に、緑色のゴムみたいな物体が荷物を梱包するみたいに僕の体をきつく何重にも縛り上げ、腕も足も全身の自由を奪われてしまった。まさに簀巻き状態であり、僕は自分の体を支えることすらできずに無様に地面に倒れ込む。


「誠児っち!」

「誠児さん!」


 なんとか必死に首をめぐらすと、緑色の顔が見えた。この人は確か、尨毛さんのホストクラブに内勤スタッフとして勤めていたカエルみたいな外見の人だ。


 どうやらカエル男の体はゴムのように伸縮自在のようで、彼は僕に抱き着いて、自分の腕と足を何重にも僕に巻き付けているらしい。カエル男の手足はギチギチに引き締まって僕の体の自由を奪い、さらに僕の首まで絞め始めた。


(息ができない……!)


「誠児っち!」


 菜摘さんの腕が何本かこっちに這って来て、カエル男の手足を引き剥がそうとするが、あまりにギチギチに締まっていて指の入り込む隙間さえ作れない。黒蜜さんの黒豹がカエル男の頭に噛みついたが、ブヨブヨしていて噛み切ることができず、ダメージを受けているようには見えなかった。


 菜摘さんは唇を噛んでリス男に向き直る。彼女さんは増殖させた腕の一本に、リス男の片目へ指を突っ込ませた。


「誠児っちを離せ~! あのカエル野郎にそう命令しないとぉ、このまま両目とも潰すぞ~! 次は、えっと、えっとぉ……口の中にうちの手を突っ込んで内臓かき混ぜてやる~!」

「尨毛さんからの報酬と、ご自分の健康と命と……! どちらが大切か、考えてください!」


 真っ赤な瞳で菜摘さんと黒蜜さんがリス男を睨みつけた。だが、その声からは二人がかなり焦っているのが伝わってくる。

 それがわかっているのだろう、リス男は音を上げなかった。僕が死にそうになれば最終的に菜摘さんは腕達を剥がさざるを得ない、きっとそう思っているんだ。


 これは僕とリス男のチキンレースだ。それならば、僕は僕の決意を告げて、相手の戦意を挫かなければならない。


 菜摘さんの腕と黒蜜さんの豹が、少しでも気道を確保しようと、僕の首に巻き付くカエル男の腕に掴みかかり、引きちぎろうとしていた。そのおかげで一瞬だけ、声を出すための余裕が出来た。


「ぼ、僕はし、死んでも、お……弟さえ、ぶ、無事なら……いい!」


 それだけ言うのが精一杯だった。カエル男の手がさらに強い力で、再びギリギリと僕の首を締めあげる。僕の呼吸を止めるだけでなく、骨を折る気なのではないかというくらい強い力だった。


 息ができない。苦しい。苦しい。

 目がチカチカして、視界が歪んで、景色がぼやけてくる。それとも頭に霞が掛かってきているのだろうか。後頭部が冷えて思考回路が滞ってきた……。


 菜摘さんは僕とカエル男の様子を見比べながら顔を引き攣らせ、腕の一本をリス男の口の中に突っ込ませた。


「い~加減、諦めろぉ!」

「あああえ!」


 ついに男が叫んだ。菜摘さんがリス男の口から腕をどけると、男はゲロと一緒に言葉を吐き出した。


「ばなぜ! ぞのじょーねんを!」


 どうやらリス男は声帯も痛めつけられたらしく聞き取りにくかったが、「離せ! その少年を!」と言ったらしい。それに応じて、カエル男はあっさり僕を離した。


 僕が咳き込みながら呼吸を整えている間に、黒豹を手に戻した黒蜜さんは、無抵抗になったカエル男の長い手足を近くの数本の木に渡って縛り付け、ちょっとやそっとでは逃げ出せないようにした。一方、菜摘さんはリス男の手足の骨を折って地面に捨てる。


「行きましょう」


 黒蜜さんの言葉に頷き、僕達は裏口から屋敷内に侵入した。



 音からして、応接室には数人の人達が集まっているようだ。僕達はもはや隠れている意味もないと、思い切ってその扉を開けた。


「あら、あなた達……。まったく、庭の警備兵は使えないわね」


 家具からカーペット、照明、装飾品に至るまで、西洋貴族の屋敷のようなインテリアで統一された部屋の中心に、この屋敷の主である尨毛さんが立っていた。白から銀灰色のグラデーションを描く毛皮の上に高級そうな着物を纏った尨毛さんは、銀色の目で不機嫌そうにチラリとこちらを見た。


 だが、僕には尨毛さんの様子を気にしている暇はない。


「龍児くん!」

「誠児くん、誠児くん、誠児くん、誠児くん、誠児くん、誠児くん」


 龍児くんは山猫シェフを中心とした白スーツの集団――食肉組合の職員達に取り囲まれ、尨毛さんのそばに立っていた。

 どうやら山猫シェフ達は龍児くんのことを丁重に扱ってくれていたようで、怪我もないし拘束もされていない。でも、僕を見つけてこっちに来ようとした弟は、どの方向に体を捻っても組合員が邪魔をして抜け出せない。それが精神的な負荷になったのか、龍児くんは「う~」と唸ってその場に蹲ってしまった。


「山猫シェフ、お願いです! その子は僕の弟なんです! 龍児くんを返して下さい!」

「君は銭亀さんのところにいた……。そうか、この子は君の弟だったのですか」


 猫の獣人である山猫シェフは、淡褐色の斑模様の毛皮に覆われた顔に渋面を浮かべたように見えた。


「すみませんが、これが私の仕事なんですよ。本件は私も気の進まない仕事ではあるのですが、組織の上の人間がこちらのお宅と少し関りがあるもので、断れない案件なのです」

「そんな!」


 さらに取り縋ろうとした僕を制して、黒蜜さんと菜摘さんが一歩前へ出た。


「わたし達がその子を買い取ることはできませんか?」

「うちら、退職金っていうやつぅ? ヒツヨ~もないのにもらっちゃったからぁ、お金は余ってるんだよね~」

「申し訳ありませんが、その提案を受けることはできません。弊組合は『受付順最優先』で『順番も素材も金で譲らない』が理念なのです」


 いつもはピンと伸びている髭をだらりと垂らした山猫シェフは、苦し気に口を開く。


「唯一、私の口から言えることは、今回の顧客はすぐに食事をするつもりはないようだ、ということです」


 山猫シェフは気遣うように優しく龍児くんの背中を撫でた。僕は唇を噛み、痛いくらい拳を握り込む。


 菜摘さんと黒蜜さんは目くばせし合ってから、それぞれ自分の背後に控える増殖した腕達と黒豹に視線を向けた。その意図を察したらしい山猫シェフは、縦長の瞳孔の黄色い瞳を光らせながら、忠告するように言う。


「私にこれ以上、気の進まない仕事をさせないでください。案件を請けた以上、我々から食材を奪おうとする者は全力をもって排除しますよ」


 山猫シェフが自らの鋭い爪と牙を示し、他の組合員達もそれぞれの武器に手を伸ばす。その圧倒的な空気は尋常ではなく、訓練が行き届いた軍隊のようだった。さすがの菜摘さんと黒蜜さんも、額に汗を浮かべて手を出せずにいる。


「何やってるのよ、山猫さん。そんな奴ら、とっとと始末すればいいじゃない」


 尨毛さんが緊迫した場面に水を差すように言った。山猫シェフは溜息を吐きながら山猫さんを振り返る。


「私と私の部下が自らの爪を立てるのは、実際に私どもの食材調達や調理を邪魔してくる者に対してのみです。手を出してこられるまでは何もしませんよ。私は月影町の住民同士の諍いには立ち入らない主義ですから」

「雇われコックの分際で、生意気なこと! まったく、急ぎの案件だからと、手の空いているあなたに依頼したのが間違いだったわ。組合の長老達にもっと気遣いのできる料理人を紹介してもらえばよかった」


 苛立ちに満ちた尨毛さんの銀眼に睨まれても、山猫シェフは余裕の雰囲気を崩さなかった。


「申し訳ございません。なにぶん私は、料理にしか頭が回らないもので。ところで尨毛さん、調理素材をお宅で保管したいとの連絡を受けて、我々は少年をこちらにお持ちしましたが、考え直して頂けませんか?」

「あら、どうして? まさか、あの子らに見方する気じゃないでしょうねえ?」

「いいえ。私が言いたいのは、顧客の依頼で食材を事前確保した場合、本来であれば本部で丁寧に育成し、一番いい栄養状態の最も適切なタイミングでご提供するのがベストだということです」

「何よ。客が自分の手元に食材を置きたいって言ってるのよ。何か文句あるっていうの?」


 きっと尨毛の本音は、僕への牽制のために弟を手元に置きたいだけだ。山猫さんは残念そうに首を横に振る。


「ストレスの多い育成環境は結果的に食材の味に悪い方向へ影響するのですよ」

「あら、あたしはこの子には優しく接するわよ」


 そう言うと、尨毛さんは龍児くんの首根っこを掴み、荷物でも運ぶように乱暴に連れて行こうとした。ただでさえ知らない人達に囲まれてストレス過多な状態であろう弟は、その扱いに耐えられず、「ああああああ!」と叫びながら手足を大きく揺らしている。かなりのパニックを起こしているようで、弟の辛さを思うと僕は心臓を握りつぶされたような気持ちだった。


「やめてください、尨毛さん! お願いです! 弟を離して!」


 別の部屋に移動しようとする尨毛さんに取り縋ると、尨毛さんに後ろ蹴りされて、僕は無様に床に転がる。


「誠児っち!」


 僕は打ち付けた肘の痛さも感じずに顔を上げた。もう一度尨毛さんにアタックしようとして――僕は何か奇妙なものが目に入って思わず動きを止めた。


 僕の視線の先、何もない空間に突然、大きなハートマークが浮かび上がったのだ。いつか見たことのあるものだ。西欧貴族趣味なこの応接室から額縁で切り取られたように、ハートマークの中にはどこかのありきたりな教室の風景が広がっている。


「ま、まさか……これって!」


 ハートマークの額縁の中から突然、女の子の脚が応接室に向かって突き出してきた。黒のローファーと黒のハイソックス、チェックのスカートを履いた細くて白い脚。


 それに続いて、女の子の体も這い出て来る。ブレザーに白シャツにタイ、黒く輝く長い髪、そして、きっと女神がいたら、あるいは悪魔がいたらこんな顔をしているのだろうというくらい美しい造作の面立ち。その瞳は血の色を湛え、ニヤリと笑みの形を作る真っ赤な唇からは、牙みたいな八重歯が覗いている。いやに大人びた表情をする少女――。


「ちょっと失礼しますよ!」


 あまりにも聞き慣れた女の子の声に、僕と菜摘さんと黒蜜さんの声がハモる。


「銭亀さん!」

「真桜子ちゃん!」

「真桜子さん!」


 勝手に会社を閉めて、勝手に自分で負債を抱えて消えていった銭亀さん。再会したら何度も文句を言おうと思っていたのに、僕達は三人とも目を見開いて社長の姿に見入るだけだった。


「やっほー! 三人とも元気だった?」


 のん気な銭亀さんの挨拶に呆れるやらホッとするやら。


「とりあえず、この場を納めちゃおうっか」

「よくもまあ、ぬけぬけと……!」


 火花の散りそうな銀眼で憎々し気に睨みつけてくる尨毛さんに対して、銭亀さんは真っ赤な唇の片端を吊り上げてニヤリと笑う。


「どうも、尨毛さん。今回はたいへんお世話になっていますね」

「ふん! 何しに来たのよ。さっさと商工会費を……」

「まあまあ、それはまたおいおい話しましょう」


 話を切って、銭亀さんは真っ赤な唇から牙みたいな八重歯を覗かせて微笑む。


「ご承知のとおり、にこにこ銭亀ファイナンスが持っていた債権は『莫大な月影町商工会費未払いへの補填』という名目で差し押さえられしまいました。尨毛さん、貴女はそれをすぐに別の業者に売り払って現金化したみたいですね。うちを倒産させて、わたしから財産を引き剥がすのが目的だから、かなりの安値で叩き売ったみたいですが」

「あたしは知らないわ。あれは商工会に入る金で、あたしの懐に入るものでもないし。たぶん、商工会スタッフには慣れない仕事で、査定が甘かったんじゃないの?」

「貴女がとにかく急げってスタッフに発破かけたんでしょ? ま、過ぎたことですし、そんなことはどうでもいいんですけど」


 余裕の笑みを浮かべる銭亀さんに、尨毛さんは探るような視線を向ける。


「何が言いたいのよ! もったいぶってないで、言いなさい!」

「実はわたし、あの後も時々、夢の世界からこの街に戻ってきてはいたんです」

「は?」

「うちから奪われた『とある債権』の買い手を探していたんです。やっとその買い手を見つけたら、だいぶ足元見られて値段を吊り上げられてムカつきましたけど。まあ、なんとか手持ち資金の中で買い戻せてラッキーでした」


 そう言って、銭亀さんはブレザーの内側から取り出した書類を掲げた。それを覗き込んだ菜摘さんが目を丸くする。


「それ、うちの元友達がした借金のやつ~!」

「そのとおり!」


 銭亀さんは嬉しそうにパチンと指を弾く。


「とりあえず、あいつ等に返済の追い込みを掛けました。毎日毎晩会いに行って『金返せ』、人間の世界でお世話になってるちょっとコワモテの人達にも手伝ってもらって『舐めてんのか、テメエ!』、睡眠中の夢の中までお邪魔して『とっとと返済しろ、アホ共が!』。寝ても覚めても常にわたしに監視されているっていう状態。そうしたら全員ぶっ壊れちゃった」


 あっけらかんと楽しそうに笑う銭亀さんの顔は、悪魔のように美しく、天使のように無垢に見えた。


「ということで、あいつ等はもう自力返済は無理。だから、取り決めどおり、後の処理はお願いしますね、山猫さん」


 そう言って、銭亀さんはポンと山猫さんの肩を叩いた。はじめはキョトンとしていた山猫シェフだったが、突然堰が切れたように笑い始める。


「ハハハハ! さすが、銭亀さん。素晴らしい! さすがの手腕ですね! ということで、尨毛さん。今回の小野寺龍児についての食材確保契約はなかったことになりましたので、我々は失礼させて頂きますね」

「は? はあ? アナタ、何を言っているの?」


 混乱と狼狽の表情を顔に張り付けた尨毛さんに、山猫チェフはニコニコ笑いながら慇懃な調子で言葉を続ける。


「弊組合は尨毛さんより先に銭亀さんのご依頼を受注しておりましたので、銭亀さんの案件を先に処理させて頂きます。これにより、人肉の取扱量が年度の供給上限に達しましたので、たいへん遺憾ではありますが、以降の受注は無効とさせて頂きました」

「は……はあ? そんなバカな!」

「では、我々はこれで」


 山猫シェフはヒョイと軽い一動作で、尨毛さんの手からマジックのように龍児くんを取り戻すと、僕に引き渡してくれた。そのまま部下の人達を連れて出口に向かって歩いていく。


「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! そこの糞コック! アンタの態度については、後でアンタんとこの長老連中に相談させてもらうわよ!」

「お好きにどうぞ。私は組合の理念と規約にのっとり行動しただけですから。クレームについては私の行動に瑕疵がある場合に限り、真摯に対応させて頂きます。それでは皆さん、ご機嫌よう」


 山猫シェフは猫の顔にニヤリとふてぶてしい笑みを浮かべながら頭を下げ、扉を閉めた。廊下をカツカツと複数のブーツが音を立てて去っていく音に続き、ギギィバタンと正面玄関の開閉する音もした。


 尨毛さんは激しく舌打ちする。


「役立たずの糞コック風情が! 二度とお前の所になど頼むものか!」


 毒づいた尨毛さんは「ヒュイ!」と指笛を吹いた。


「お前達、出ておいで!」


 尨毛さんの号令により、用心棒と思しき連中が十人ほど応接室に入ってきた。銭亀さんは真っ赤な唇を吊り上げて笑う。


「尨毛さん、わたし達はともかく、誠児くんや龍児くんに手を出したら後で食肉組合からどんな懲罰を与えられるかわかりませんよ?」

「ふん。この屋敷はわたしの王国。証拠が残らないように、どうとでも処理してやるわ」


 言葉とは裏腹に尨毛さんは計画が狂って随分と慌てているように見えた。

 たぶん、僕達の持っている尨毛さんの違反行為の証拠を食肉組合に提出される方が怖いのだろう。


 勢いよく襲い掛かってくる尨毛さんの私兵達に、菜摘さんの腕達と黒蜜さんの黒豹が応戦する。私兵達は殺到する腕達に覆われ、荒れ狂う黒豹に噛まれ、暴れまわる腕達に体を損壊させられ、踊りくる黒豹に薙ぎ倒される。


「無駄ですよ、皆さん」

「うちら、今、サイコ~にうれしーから、サイコ~に力がみなぎってるもんね~!」


 菜摘さんに至っては、楽しそうににこにこ笑いながら携帯ノコギリで体中に傷をつけ、腕をどんどん増殖し続けていた。


 これなら勝負はすぐにつくだろう。僕はホッとしながら、極度の緊張に頭を抱えながら震えている龍児くんの背中を撫でた。それからもう一度応接室の戦闘状況に目線を戻して、違和感を覚える。


(あれ……? 尨毛さんがいない……?)


「誠児くん! 後ろ!」


 銭亀さんの叫び声に驚いて振り向くと、僕より頭一つ以上大きい尨毛さんが爪を構えて僕の背後に立っていた。


「知ってるだろ、人間の少年! あたしがあんたの弟に致命傷を付けたら、あたしにしか直すことができない! そうしたら、お前はあたしの言うことを聞かざるをえないのさ!」

「龍児くん!」


 尨毛さんの鋭い爪から庇うように、僕は弟を抱きかかえた。爪は僕の背中を引き裂くかと思えたが、掠めて少し血が滲む程度で済んだようだった。それほど痛みも感じない。どうやら銭亀さんが僕の腕を掴んで引き寄せてくれたらしい。


「銭亀さん、傷が!」


 攻撃が空振りした尨毛さんが勢い余ってたたらを踏み、その時に尨毛さんの爪が銭亀さんの手の甲に傷を作っていた。


 倒れた尨毛さんには、すぐに黒蜜さんの黒豹が襲い掛かる。腕に噛みついてくる黒い獣を、自分の腕の皮膚が裂けるもの構わず強引に引き剥がした尨毛さんは、大きく笑いながら立ち上がった。


「アハハハハ! わかったよ、銭亀真桜子! アンタがその誠児って子に執着する理由が!」

「はあ?」


 手の甲の血をハンカチで拭いながら顔を顰める銭亀さんに対し、尨毛さんは狗と狐の中間の顔を愉快そうに歪める。


「あの子、アンタの血縁者なんだろう!」

「……は?」

「アンタの血とその子の血の匂いはそっくりだ! ちょっとだけ違う匂いが混じってるとこを見ると、父親違いか母親違いの姉弟ってとこかねぇ?」

「どうでもいいでしょ、そんなこと。ちょっと黙ってくれません?」


 明らかに「どうでもいい」とは思っていない、ひどい苛立ちを顔に浮かべた銭亀さんが尨毛さんを睨む。


 僕は混乱していた。


(え? え……? 尨毛さん、今、なんて言ったの? 銭亀さんと僕が……姉弟?)


 でも、僕が疑問を口にする前に、銭亀さんが長い黒髪を両手で搔き乱しながら叫ぶ。


「あ~、もう! ムカつく! なんで尨毛さんってイチイチわたしの目論見を破ろうとしてくるんだろう!」


 苛ついたように言葉を吐き捨てた後、顔を上げた銭亀さんの赤い瞳は凶暴な光を湛えていた。嫌な予感がする。


「決めた! 今、決めた! ある程度のところで手打ちにしてやろうかとも思ってたけど、もう知らない! どうなったっていいや。尨毛さん、わたし、あなたの穴の毛まで毟り取ってやりますよ!」


 不機嫌の極みに達したような声でそう言った銭亀さんは、人差し指で空中に星の形を描いた。その星形に切り取られた空間には、ゴミ捨て場の光景が広がっている。銭亀さんの能力でまた誰かの夢の世界につなげたのだろうか。


 しかし、それはさっきのハート形とは少し様子が違った。その星形はどんどん大きくなっていくのだ。A4サイズが倍になり、大型テレビのサイズに、ドアのサイズに。


 それだけではない。大きくなった星形は、応接室にいる者達を吸い込み始めたのだ。星形の中に広がるゴミ捨て場の世界へ、尨毛さんの私兵達が、菜摘さんの腕他達が、尨毛さんが、菜摘さんと黒蜜さんが、龍児くんと僕が、掃除機に吸い込まれるゴミのように引きずり込まれていく。


 星形はさらに大きくなって、ついには部屋に収まらなくなった。ゴミ捨て場の世界に来た僕は、星形が尨毛さんの屋敷より大きくなって、屋敷までもをこちらに吸い込むところを見た。


(そういば、このゴミ捨て場は……)


 僕の中でこの風景がいつかの記憶とつながった瞬間、僕達を巨大な影が覆った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る