5ー6 幸せと不幸せ

「いただきます」


 僕がそう言っても、九歳の僕の弟からはいつもと同じく何の反応も返ってこない。龍児くんはいつものぼんやりした顔で食卓を眺め、いつもどおり黙々と納豆単体を食べ、それが終わると自分の分の漬け物を一気に食し、それからワカメと豆腐のお味噌汁をすすって飲み干し、最後にお茶碗一杯分の白飯を淡々と口に運び続ける。その食べ方は龍児くんが自分に課したルーチンであり、毎朝・毎晩と繰り返される光景だった。


 僕は僕で、毎朝・毎晩二人分の食事を作り、今日みたいに学校のない時期には昼食作りや、僕が出掛けるときには龍児くんのためのお弁当作りがそれに加わる。だいたい二日に一回のペースで洗濯機を回して干して取り込んで畳んで、週に二回は掃除機をかけ、週に一回水回りを掃除する。そして、日々、龍児くんの様子に気を配って、きちんと歯磨きしているか、寝ているか、他の人に迷惑を掛けていないかに気を付ける。


 そんな日々が淡々と繰り返される。


 僕の一生はこんな毎日がずっと続くんだろうか。それは幸せなことなのか、それとも、不幸なことなのか。


 食事が終わり、片付け終わったダイニングテーブルの上で僕は夏休みの宿題をしながら、龍児くんの様子を伺う。僕の弟はいつもと同じく、お気に入りの一人がけソファの上で熱心にスケッチブックの上に鉛筆を滑らせていた。


「龍児くん、あんまり根を詰めると、前みたいに手を痛めるよ」


 返事はない。

 弟は他人との意思疎通に不自由があるけれど、絵を描いている時は特にそれが顕著だ。自分とスケッチブック以外のものが目に入らなくなって、誰の声も耳に入らなくなってしまうんだ。

 僕はため息をつきながら宿題に目線を戻した。


 昼過ぎになって、僕はバイト先に向かうための準備を始める。


 銭亀さんのために、なんとしても尨毛さんの秘密とか弱みとかを見つけなければと僕は考えていた。あれから何日かあのホストクラブで働いてみたけど、具体的なことは不明だが、あのお店は何かが変なことだけは確実だった。それを掴んでみせる。僕にだって何かができることを証明するんだ。


 あの職場の労働時間は夜がメインで、普通だったら高校生が働くなんて許されないだろう。でも、母親がほとんど帰ってこないこの家は、僕の行動についてとやかく言われない点だけが唯一のメリットだった。


「じゃあ、龍児くん、僕行ってくるからね。昨日と同じく、お昼と夕飯はお弁当作っておいたから、それを食べてね」


 どうせ聞こえていないのだろうし、返事もないだろうと思いながら龍児くんに声を掛け、僕はリビングの扉に向かう。だが、どうしたことか、龍児くんはハッとしたように顔を上げた。


「誠児くん、誠児くん、誠児くん、誠児くん、誠児くん、誠児くん、誠児くん」

「え? ど、どうしたの……?」


 今までにない反応に戸惑いながら見ていると、龍児くんはスケッチブックを抱えて立ち上がり、僕の方に走りよるとガチッと強く僕の腕を掴んだ。


 僕はさらに混乱する。弟は他人はもちろん家族にさえ、あまり自分から触れることがないからだ。


「誠児くん、誠児くん、誠児くん、誠児くん、だめだめだめだめ、誠児くん、誠児くん、誠児くん、誠児くん、だめだめだめだめ」

「なに……? もしかして、僕が外に出るのが嫌なの?」

「誠児くん、誠児くん、誠児くん、誠児くん、だめだめだめだめ、誠児くん、誠児くん、誠児くん、誠児くん、だめだめだめだめ」


 龍児くんの言葉は僕の名前と「だめ」を繰り返すばかりで要領を得ないし、ぼんやりした顔からは真意を読み取れない。でも、とにかく僕が外に行くのが嫌らしいことはわかった。


 さっきまで気ままに絵を描いていたのに、何なんだ?


 疑問と一緒に、僕の中にふつふつと湧いてくる感情があった。それは苛立ちだった。


「龍児くん……それはズルくない? 龍児くんはいつも自分勝手に自由にしててさ、僕は龍児くんの面倒をずっと見てきたのに。お母さんが帰ってこないからさ、ずっと龍児くんの世話を押し付けられてきて。それなのに、僕がちょっと自由に出歩くのもダメって言いたいの?」

「誠児くん、誠児くん、誠児くん、誠児くん、だめだめだめだめ、きけん……」


 龍児くんは僕の声が耳に入らないように、言葉を続ける。僕は弟の手を振りほどいた。


「もうヤダ。どうして僕がこんな弟の世話をしなきゃいけないの? いつも、何言ってるのか、わけわかんないし!」


 こんなこと言っちゃいけない。

 何を言ったって、どうせ弟にはわからないんだろうから、言ってやれ。


 僕の中に、ヒリヒリする罪悪感とムシャクシャする憤りとが同時に湧いていた。僕はそれを絶ち切るように、再び伸ばされた弟の手を振り払う。


「とにかく、僕、仕事に行かなきゃいけないから!」


 僕は玄関に向かって走り、乱暴に扉を閉めて施錠して、駅に向かって駆け出した。



 異形たちの街・月影町に足を踏み入れた僕は、今の職場の扉をくぐる。ここは異形の女性達向けに普通の人間のホストをそろえたお店だ。僕は混乱と苛立ちを押し込みながら、スーツに着替え、髪をセットしていた。


(きっと、家に帰る頃には龍児くんは寝ているか、夜更かしして絵を描いているかで、いつもと同じ感じになっているはず。さっきのことだって忘れているよ、きっと)


 そんな風に自分に言い聞かせながら、僕はフロアに向かった。


「おはよう、真琴くん」

「おはようございます、楓さん」


 ナンバーワンの売れっ子ホストである楓さんは、金髪をオールバック風に固めて今日も爽やかに笑っている。フロアの端に目をやると、尨毛さんがこの店の内勤である緑色の肌をしたカエルっぽい外見の人と話し込んでいた。


 僕はロッカールームに戻るていで、二人に近寄りながら耳を澄ます。


「だからね、今日は営業時間終了後にお客様が事務室にいらっしゃるから。楓を用意しておいて頂戴」

「承知しました」


 営業時間後に……? 何かあるのだろうか。


 とりあえず、営業が終わる頃に事務室に潜入してみれば何か掴めるかもしれない。危険かもしれないし怖いし不安だけど、そうでもしないと多分秘密は探れないだろう。


 僕は挫けそうになる心を叱咤して、「やってやる」と決意を固めた。



 営業が終わってすぐ、僕は終礼を抜け出し、事務室に入り込んだ。この事務室の半分はガランとした空間であり、大きな壁かけ時計だけが据えられている。残りの半分には事務机や書棚が並ぶ普通のオフィス風のレイアウトだ。まだ出来て日が浅い店だから、レイアウトが完成していないのだろうか。


 この部屋は、主に尨毛さんや内勤の人達の事務作業に使われ、ホストを呼び出してのダメ出しやお給料のネゴなんかも行われているようだった。


 扉付きの書棚を片っ端から開けてみると、少しスペースの空いている場所があった。僕はいくつか邪魔なしきりやファイルボックスを近くの机の足元に押し込み、広げた空きスペースに入り込んで中から扉を閉めた。完全には閉めず、少しだけ室内を覗けるように隙間を開けておく。


 僕は緊張でドキドキしながら、うっすらと光が差し込む暗い棚の中で息を潜めた。記録用にスマートフォンのビデオカメラも起動させる。


「お待たせして申し訳ありませんねえ、久地酒さん」

「うふふ! 大丈夫よ、尨毛さん。それより今日も楽しみだわ!」


 しばらくすると、尨毛さんが久地酒さんを伴って事務室に入ってきた。狗から狐の間くらいの獣人的な外見である尨毛さんは、白から銀灰色へとグラデーションを描く毛皮に全身を覆われ、その上に今日も高級そうな着物を纏っている。常連客である久地酒さんに椅子をすすめると、にこやかに当たり障りのない日常会話を始めた。


 一方の久地酒さんは、耳の下まで裂けた口から乱杭歯と歯茎と頬肉を露出させつつ、イボだらけの太くて長い舌で唇の周りを舐め回しながらにこにこ笑っている。彼女は今日も来店していて、楓さんを隣に座らせながら豪快な遊びぶりを見せていた。閉店前に帰られたように見えたけど、まだ残っていたのか。何のために……?


「どうも遅くなりました、尨毛さん……ってあれ、久地酒さん? どうしたんですか?」


 遅れて部屋に入ってきた楓さんも、面食らったように久地酒さんのことを見つめる。


「どうしたって、あなたと遊ぶためよ、楓くん」

「え……っと、アフターの約束とかしてましたっけ……? 尨毛さん、これは?」


 戸惑う楓さんに尨毛さんは近づき、いきなり彼の腕を掴んで捻り上げた。


「ちょ、何なんすか! やめてください、マジで! 痛ってえ! なんだよ、やめろよ、ババア!」

「ごめんなさいね、ちょっと我慢して頂戴ね」


 楓さんより頭一つ長身で体格もいい尨毛さんは、そのまま楓さんの腕を捻り上げ続け、人間の可動域を超える位置にまで捻り込んだ。


「ぎゃあああああ!」


 ボキッ……と、嫌な音が書棚の中にいる僕にまで聞こえた。「ひぃ」と声が出てしまいそうになるのを、僕は必死に堪える。尨毛さんは痛みに震える楓さんを、壁掛け時計だけのガランとした空間に放り投げた。


「な、なん……何を……!」


 その時、カエルのような外見の内勤さんが静かに室内に入ってきて、楓さんの足に重そうな足枷を手早く嵌めてしまった。


「な、何をする気だよ、お前ら! 俺はこの店のナンバーワンだろ! 店に貢献してる男に何をしようってんだよ!」


 叫ぶ楓さんのことは無視して、カエルの内勤さんは備品庫から大きなノコギリのような刃物を取り出して久地酒さんに差し出した。


「オ、オイ、まさか……やめろよ! むぐっ……!」


 尨毛さんによりタオルか何かで猿轡を噛まされ喋れなくなった楓さんに、ノコギリを手にした久地酒さんが近づく。


「うふふふ! 怖がっちゃって、本当に『いつも』可愛いわね、楓くん! おいしそうだこと」

「ふぐ……ふが……ふがああああああ!」


 久地酒さんはそのまま楓さんを押し倒して上半身を片足で踏みつけると、彼の自由の利かなくなった方の腕の肘辺りにノコギリをあてがい、そのままギコギコと引き始めた。楓さんは暴れるが、足枷が嵌められているうえに久地酒さんの力が強いらしく、押し返すことができない。


 しばらく揉み合っているうちに二人の体勢が変わり、僕の位置からは久地酒さんの後ろ姿と楓さんの足しか見えなくなった。しばらくは懸命に動いていた楓さんの足の動きが、だんだんと緩慢になっていく。その間も、久地酒さんのノコギリはギコギコと嫌な音をたてながら動き続けた。


「ああ美味しい!」


 返り血に塗れた久地酒さんは、切り取った楓さんの肘から先の椀部を戦利品のように掲げ、その断面から溢れ出る真っ赤な血をおいしそうに啜った。それから裂けた口をワニのようにガバリと開き、フライドチキンでも食べるみたいに楓さんの腕を頬張り始める。あっという間に、楓さんの腕は骨だけになってしまった。


 僕は助けに行くどころか、恐怖に竦んで書棚の中でへたり込んでいた。身動き一つ取れず、心臓の動悸もひどく、汗が体中からあふれて、足が震えた。悲鳴よりも胃の中のものが出てきそうで、必死に我慢した。


「じゃあ次ね!」


 久地酒さんは再びノコギリを握りしめて楓さんに向かう。彼女があらたな部位に取り掛かる度、楓さんの足がビクリと震え、また弛緩する光景が続いた。僕はもう見ていることができなくて、後半は目を瞑っていた。


「ああ、美味しかった。ご馳走様でした。まさに人間の活け造りね。こんな贅沢な遊びができるのはこの店だけよ!」


 真っ赤な楓さんの傍らに立つ久地酒さんも返り血で真っ赤になっていて、興奮気味に言葉が続く。


「食肉組合傘下のレストランでも、そりゃあグルメな人間料理を提供してくれるけど、何か物足りなかったのよね。ああいうお店は食材への感謝だとか食事のマナーだとか、いちいち煩いし」

「ご満足頂けたみたいで嬉しいですわ、久地酒さん」

「また来させてもらうわね、尨毛さん」

「お待ちしております」


 カエルの内勤さんに渡されたタオルで血を拭った久地酒さんは、「車を用意しております」という案内に従って部屋を出て行った。


 冷汗と体の震えが止まらない僕が見つめる中、いくつものパーツの欠けた楓さんを一瞥した尨毛さんは、大きな壁掛け時計に近づいていく。時計のカバーを外してぐるぐると針を回し、再び時計と楓さんから離れた。


 すると、驚くべきことが起きた。

 部屋に飛び散っていた血が消え始めたのだ。それだけじゃない。楓さんの体の欠損がどんどん回復していく。生えてくるというよりは、瞬きの瞬間に、段階的に元の状態を取り戻していく感じだった。


 それを見て満足そうに頷いた尨毛さんは、楓さんの足枷を外す。


(こ、これって……。あの時計は……もしかして……)


 息を飲む僕の目の前で、楓さんが伸びとあくびをしながら起き上がる。尨毛さんに捻られた腕も元に戻っているようだった。


「大丈夫、楓くん?」

「あれ……オレ……?」

「お話してたら、あなた途中で眠っちゃったのよ」

「マジっすか……酔っぱらってたのかな、オレ……? すみませんでした。前のお店にいた頃は、このくらい飲んでも全然だったのに」

「あらそう。気をつけなさいね」

「やばいっすかね、歳なのかなあ、オレ。アハハ! なんか最近、時々腕とか内臓とかも微妙に痛い時あったりするし、ジジイ化してますかね? アハハハハ!」


 楓さんは冗談めかして笑いながら、事務室を出ていく。僕は笑えない思いでそれを見送りつつ、「すごい現場を見てしまった」と、念のため、今撮影した内容のバックアップをとるため、スマートフォンを操作し始めた。後で隙を見て部屋を出ればいいと考えていたから、この時の僕は完全に油断していた。


「さて。そろそろ出てきてもらおうかしらね」


 突然、ガラッと勢いよく、僕の潜伏していた書棚の扉が突然開かれた。僕は心臓が飛び出そうになる。


 白の毛皮に覆われた尨毛さんの銀色の瞳に射竦められた僕は、腕を掴まれ、さっきまで楓さんが倒れていた場所に放り投げられた。


「どうしてあなたを放っておいたか、わかる? いくらでもあなたの記憶を消すことができるからよ」

「待って! それ以上何かしたら、この映像データを今すぐ銭亀さん達に送信しますよ!」


 スマートフォンを掲げる僕を見て、壁掛け時計を操作しようとしていた尨毛さんの手が止まった。どうやらネットに出した情報までは「なかったこと」にできないようで、僕は内心でほっとする。


 だが、尨毛さんは鋭い犬歯を覗かせながら、ニヤリと笑った。


「ふん。人間のくせに面白いこと言うのねえ。でもね、あたしもそろそろ危ないかと思って保険をかけておいたのよ」

「保険……?」

「あなたの一番大切な人間の生殺与奪をあたしは今握っているの。さて、それは誰のことでしょう?」


 僕の脳裏に、長い黒髪にブレザー姿、赤い瞳、牙みたいな八重歯を覗かせながら女神みたいに、あるいは悪魔みたいに笑う女の子の姿が浮かんだ。


「ま、まさか、銭亀さんを……! でも、あの人は今、誰かの夢の中に潜伏しているから、誰も行方を追えないはず……」

「オホホホ! 残念、不正解よ。それにあの女は正確には『人間』じゃないしねえ。それにしても、あなたに一番に思い出してもらえないなんて、あの子ったら可哀そうだこと!」


 おかしそうに笑う尨毛さんを見て、僕の中に嫌な予感が過った。


「あたしはねえ、事前の情報収集については抜かりないつもりよ? あたしが命の手綱を握っているのは、ずっとあなたのそばにいて、あなたにとってはきっと捨てようと思っても捨てられない存在。あたしは今さっきその子を確保させたところなの」


 僕は頭に過った人物の名前を口に出すのが怖くて、声を出すことが出来なかった。思い違いだと思いたかった。


「スペシャルヒント。あなたのお母様じゃない方の家族。もちろん、別居しているあなたの実父でもないわよ。まあ、父親だけじゃなく、あなたのお母様も、ほとんどあなたのそばにはいなかったようだけれど……ねえ?」


 僕は慌てて龍児くんのキッズ携帯に電話を掛けた。でも、いくら待っても、何度掛け直しても出てくれない。心臓の動悸が酷くなる。

 集中力が異様に高い反面、神経質なところもあるあの子は、たとえ寝ていたって携帯の着信音を無視できないはずなのに!


「りゅ、龍児くんを……僕の弟をどうしたんだ!」

「さあて……ねえ? まあ、あなたがこの件について、誰にもどこにも何も言わない限り、その子の『命』は大丈夫だけど、ね……?」

「な、なんで……そんな!」

「オホホホホ! 銭亀真桜子が執着してるらしいアナタを手元に置いて、好きに出来たら快感だと思わない? あの女には計画を潰されて、むしゃくしゃしてるからねえ」


 僕は嗤う尨毛さんを睨みつけながら退室し、急いで家に向かった。その間も何回も龍児くんに電話をしたが、無駄に終わった。


 僕がマンションに着くと、なぜか部屋の鍵が開いていて、嫌な予感にへたり込みそうになる。僕はもどかしく靴を脱いで慌てて龍児くんの部屋を覗いたけれど、もぬけの殻だった。リビングの一人がけソファにも、ほかの部屋にも、いくら探しても龍児くんの姿はない。僕が前に月影町で龍児くんのために買ってきてあげた、小さなクマの編みぐるみが玄関に転がっているだけだった。


「ねえ、龍児くんどこ! いるなら出てきて! かくれんぼじゃないんだよ? ねえ! さっきはごめん。あんなの嘘だから、龍児くん! お願いだよ!」


 どんなに叫んでも龍児くんは家にはいなかった。


 僕は尨毛さんを問い質そうと思い、電車はすでに終電で動いていないのでタクシーを使ってもう一度月影町に戻った。でも、店の既に扉は施錠され、誰もいないようだった。


「そんな……どうすれば……」


 僕を嘲笑うように、月影町の真っ暗な空から雨が降り始め、それはすぐに土砂降りになった。僕は家から握りしめ続けていたクマの編みぐるみと共に、ふらふらと月影町の通りを歩き始める。ほぼすべての店が閉まっていて、街は真っ暗だった。


 どれくだい歩いただろうか。あるお店に明かりが灯ったのが見えて、僕は導かれるようにその店に引き寄せられた。「CLOSE」という札が掲げられたままのドアの中を覗く。


「あら、あなたは真桜子ちゃん達の会社の……誠児くんだったかしら?」


 出迎えてくれたのは、象子さんだった。長い鼻に灰色の皮膚、黒目がちの瞳が優しい光を湛える、象のような外見をした女性で、パン屋を経営している人だ。彼女のお店は美味しいと評判で、にこにこ銭亀ファイナンスの女性陣みんなが大好きだった。


「あ、象子さん……! ここ、象子さんのお店……? あ、あの、僕の弟を見なかったですか? 僕の……僕の弟が、い、いなくなっちゃって!」


 いきなりそんなことを言われても何がなんだかわからないだろう。僕自身も今の僕がどういう状況なのかよくわかっていなくて、泣き喚きたいくらい混乱していた。それなのに、象子さんは優しく笑って僕を店の中に入れてくれた。


「とにかくお入りなさい。そんなびしょ濡れで……風邪をひいていまうわ」


 象子さんは白くて清潔なタオルをくれたうえ、暖かいココアと「まだ今日の分は仕込み前だから前の日の残り物で悪いけど」と甘いメロンパンも出してくれた。それでやっと落ち着いた僕は、「弟がいなくなってしまって、どうすれば……」と呟いた。

 それを聞いた象子さんがふわりと優しく微笑む。


「大丈夫よ」

「え……?」

「その子が導いてくれるわ」


 象子さんは僕の手にあるクマの編みぐるみを指しながら言う。


「その編みぐるみ、フリーマーケットのわたしのお店で、あなたが弟さんのために買ってあげたものでしょう?」

「は、はい。そうですけど……?」

「糸と糸は運命や縁をつなぐもの。私の作ったぬいぐるみや人形達はそういうものを象っているの。あなたと弟さんの間に強い結びつきがあるのなら、きっとその子はその縁の糸を辿って、あなたを弟さんのところへ連れて行ってくれるはずよ」


 象子さんは僕の手からクマの編みぐるみを受け取り、床に立たせて「この子を弟さんのいる場所まで連れて行ってあげて。お願いね」と囁いた。すると、編みぐるみはふるふると震えながらゆっくりと動き出したのだ。足を動かし、店の出口に向かって歩いていく。


「さ、その子についていきなさい」

「あ、ありがとうございます、象子さん!」


 傘まで貸してくれた象子さんに頭を下げながら、僕はクマの編みぐるみに従って月影町の街へ向かって足を踏み出した。


 雨に煙る街中を、クマの編みぐるみがゆっくりと歩き続ける。小さなぬいぐるみだから、当然その歩みは本当に遅々としたもので、僕は歯痒さに唇を噛みながらその後を追った。


(大丈夫。大丈夫だよ。きっとこの子が龍児くんのところに連れて行ってくれる!)


 自分で自分に言い聞かせながら歩き続けたが、クマの編みぐるみが到着した場所に書かれた看板を見て、僕は愕然とする。


「食肉組合本部ビル……人肉保管倉庫併設……?」


 僕は「血の気が引く」では到底表しきれない気持ちで、その場にへたり込んだ。

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