5-4 僕に出来ること

 明日から月影町で僕なりに銭亀さんのために出来ることを始める。いつも裏からお膳立てしてくれた銭亀さんも、助けてくれる菜摘さんや黒蜜さんもいない。

 あの異形達で溢れた危険な街で、僕はやりきれるだろうか……。


 そんなことを考えながらベッドに転がった僕は、その夜、なかなか寝付くことができなかった。


 銭亀さんはすべて一人で抱え込んだまま、今は誰かの夢の中に潜伏している。しかも、そんな状態で僕の面倒事までフォローしようとしているのだ。


 自分のことを情けなく思うと同時に、銭亀さんはずるいとも思った。あの人は一見、自分勝手みたいに見えるのに、本当はすごく優しくて、実は傷つきやすいところもある。そんなのずるいと僕は思う。


 銭亀さんに僕はひどいことを何度かされたけど、それでも僕は彼女を嫌いになんかなれなかった。むしろ、僕は銭亀さんのことを……。


 もし今、銭亀さんが誰かの夢の中にいるというのなら、僕の夢の中に来てくれればいいのに……。


 そんなことを思っているうちに、ようやく睡魔が僕を襲い始めて、瞼が重くなってきた。でも、微睡む僕が引きずり込まれた夢には銭亀さんの姿なかった。それどころか、その夢は僕の心の中の傷を引っ掻く記憶と結びついたものだった。



「痛い……! 痛ぁい……!」


 顔を苦痛に歪める母親を、僕は焦りながら見上げていた。母親は大きなお腹を抱えながら呻いていて、当時まだ六歳だった僕はどうしていいのかわからず、泣きそうな気持でオロオロしていた。この時の僕は、母親が苦しんでいる痛みが陣痛というものだということを、まだ理解していなかった。


 俯瞰的な位置からこの夢を見下ろしている現在の僕の意識は、これが龍児くんが生まれた日の記憶だということを知っているが、夢への介入はできないようだった。


「ママ、大丈夫……? ママ! ママ!」

「心配なら、なんとかしてよ! 役立たず!」

「ご、ごめんなさい、ママ……ぐすん……」

「泣いてんじゃねえよ! なんで子供ってこんなに面倒くさいの!」


 子供の頃の僕は泣き虫だった。そんな僕に対して舌打ちしながら、母親は癇癪を起こしたように回りのものをめちゃくちゃになぎ倒し、物をでたらめに投げ飛ばす。それはいつものことではあったけど、小さい僕はどう反応していいかわからず、泣くことしかできなかった。


 俯瞰から見ている現在の僕は、ここから先を思い出したくなくて、覚醒しようと必死にもがく。でも、一度動き始めた映写機は止めることができないようで、悪夢は強引に続いていく。


「あ~、もう! 子供ってどうしてこんなにムカつくの! やっぱ産まなきゃよかったかな~。今回の妊娠もマジ後悔かも」

「ママ……?」

「何人産んでも慣れないよね、この痛さはー! 三人目……じゃないか、まだ二人目だけどさ」


 やっとタクシーが到着したらしく、母親はふらふらした足取りで玄関に向かう。


「でも、産んだらこっちのものだよね。さすがに二人目できたら、パパもあのクソ女と別れるでしょ」

「ママ……?」

「アンタ一人産んだだけじゃ、パパ、あの女と別れてくれなかったからさー。安全日だって嘘つきまくって、何年もかかったけど、二人目できたのはやっぱりラッキーだったのかな? あの人、『妻とやり直すから、もう君とは……』とか言ってたけど、ちょっと泣いて甘えるとすーぐ反応するんだもん。マジウケたし!」

「ママ……」

「これでやっと、あの人もあの家も、ぜーんぶ、手に入るよね? じゃなかったら、子供なんて不要物、産むわけないっつーの!」


 僕はその時、母親の言ったことの半分の意味もわからなかった。でも、自分が母親にとって本来はいらない人間であるらしいことはなんとなく理解できた。


 母親のいなくなった家で僕はずっと泣いていた。でも、その夜、泣きつかれて眠った僕の夢に、いつもみたいに子供の姿の銭亀さんが来てくれた。


「ま~たママに泣かされたの、誠児くん?」

「うえ……うえええええええええん!」


 いつも以上に激しく泣く僕を、小さな銭亀さんは黙って抱きしめてくれた。普通の子供よりも華奢な銭亀さんの体にすがりついて号泣する僕の背中を、彼女は優しくさすってくれた。


「誠児くん、泣いてもいいよ。でも、わかってる? 今日から君はお兄ちゃんになるんだぞ?」


 やっと泣き止んで落ち着いた僕から、銭亀さんは体を離した。そして、泣きすぎて頭がクラクラしている僕の肩を掴み、真っ赤な瞳で僕の顔をじっと覗き込む。


「しっかりしなさい! この家で弟くんを守れるのは、誠児くんだけなんだから!」


 怒っているのかと思うくらい真剣な表情だった。見たことのない彼女の表情に、小さな僕は凍りつく。


「わたし、たぶん、もう誠児くんの夢の中には来れないの。だから、誠児くんは今日から一人でがんばらないとだめなんだよ?」

「え……?」

「じゃあね。もしかしたら、もう二度と会えないかもだけど」

「え、え、そんな……! 急に、な、なんで!」

「わたし、もう眠らないといけないみたいなの。だから、もうここには来れないんだ」


 銭亀さんは寂しそうに笑って僕に背を向けた。


「ま、待ってよ、ねえ! ぼ、僕、一人になるなんて無理だよ!」

「大丈夫。誠児くんのそばには弟くんがいるから。ガンバだよ」

「待って! 待ってよぉ!」


 僕の言葉は届かず、女の子は僕に背を向けたまま歩き出した。その小さな背中が、僕の知らない街の光景の中に消えていく。僕は必死でその後を追って走ったけれど、彼女との間は埋まらなかった。それどころか、歩いているだけの女の子との距離が、なぜだかどんどん広がっていくのだ。


 いつも夢の中で僕に優しくしてくれた子がいなくなってしまう!


 僕の心を、真っ黒な絶望が深く濃く覆いつくしていった。


「ねえ、待って、待ってよぉ! ねえ……えっと……!」


 この時になって、小さな僕は呼びかけるための女の子の名前すら知らないことに気付いて、もう一度絶望する。


「誠児くん、ごめんね。バイバイ」


 手を振った小さな女の子は、見知らぬ街角に消えていった。



 あの日と同じ絶望を抱えて、僕はベッドから飛び起きた。体中が汗びっしょりで、心臓は嫌なペースで鼓動を刻んでいる。


 あの後、母親が退院するまでの数日間、僕は家で一人で暮らしていた。学校の給食と、どうしても空腹が我慢できない時は、ほとんどうちに残されていなかった現金を探し出してコンビニへ弁当を買いに行く。


 母親の退院前日にやっと、千鶴さんに連行されるようにして父親が様子を見に来てくれた。千鶴さんは「あなた、どうして誠児さんが一人で家に残されているかもしれないという心配すら、しなかったのです? あなたは大学教授だというのに、本当に頭の出来がお悪いのね」と父親のことを怒っていた。でも、その時の僕は事態がよくわかっていなかったし、怒る千鶴さんがあの日の母親の姿と重なって怖くなり、泣いてしまったことを覚えている。


 その日だけは父親が美味しいハンバーグを食べに連れて行ってくれて、帰ると翌朝のためのお握りが冷蔵庫の中に残されていた。


 そんな数日間、やはり銭亀さんは僕の夢に来てくれなかった。僕は寂しくて、毎朝泣きながら起きていた。


 龍児くんを抱えて帰って来た母親は、不安な気持ちでいっぱいの僕にニッコリと笑って言った。


「え~? 誠児くん、もしかして、あの日にママが言ったこと気にしてるの? あんなの嘘だってー! ママ、お腹が痛くて誠児くんに八つ当たりしちゃったみたい。だって、ママ、誠児くんのことだ~い好きだもん!」


 龍児くんをベビーベッドに寝かせた母親は、僕をギュッと抱きしめてくれた。それだけで、心の中の不安がするすると解けていって、僕はまた泣いてしまった。


 でも、龍児くんが生まれても父親と結婚できなかった母親は、少しずつ家を離れるようになった。広い家には龍児くんと僕だけが残された。


 それ以降もやはり、銭亀さんは僕の夢に現れなかった。


 僕は龍児くんを保育園に迎えに行ったり、家で面倒を見たり、担当する家事が増えたり、どんどん忙しくなっていって、銭亀さんのことを考えて泣く暇もなくなっていった。


 でも、あの日の記憶を夢で見て、改めて心が痛くなった。いまだに心臓がドキドキ言っている。


「もう……もう、こんな気持ちになるのはたくさんだ……。絶対、僕は銭亀さんを助けるんだ!」


 汗に滲んだ手でシーツを掴みながら、僕は心に誓った。

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