5-2 唐突な解散
三者面談の翌日が前期の終業式で、その次の日からついに夏休みが始まった。
とはいえ、僕は家事やら宿題やら千鶴さんに紹介してもらった塾の夏期講習やら、さらにその合間を縫って「にこにこ銭亀ファイナンス」でのアルバイトも継続していて、忙しさは学校に通っている時とそれほど変わらなかった。
今日も「月影町通行許可証」を首から下げて、僕は不思議な街に足を踏み入れる。見慣れぬ形状の人々とすれ違いながら、僕は深く考え込んでいた。
銭亀さん――本当に彼女は「半分死んでいる」「人間ではない」存在なのだろうか。確かに、あの事務所の人達はみんな不思議な力を持っている。そういえば、この前、騒ぎになった菜摘さんのお友達の皆さんも、昔、手首を切った彼女を道に置き去りにして以降しばらく会っていなかった、というようなことを言っていた。もしかして本当に……?
そうであれば、銭亀さんは……。
このことについて、銭亀さんとちゃんと話してみたい気持ちと、話すのが怖い気持ちが僕の中にあった。
最近の僕はいつもビクビクしながら事務所の扉を開いて、まずは社長机に銭亀さんがいるかどうかを確認することが日課になっている。でも、幸運にと言っていいのか、最近の銭亀さんはやたらと挨拶回りの外出が多く、事務所を開けてばかりなため、黒蜜さんにあの話を聞いて以来、僕はまだ彼女と顔を合わさずに済んでいた。
今日も銭亀さんは月影町商工会の定例会に出席するため外出中で、菜摘さんと黒蜜さんが外回りに行くを見送った僕は、事務所に一人で帳簿の整理を始めた。しばらく経つと、事務所の扉が乱暴に開かれる。
「ここ、銭亀真桜子って女の事務所かい?」
入って来たのは全身を茶色と白の毛皮に覆われた男性だった。頬袋に何かを溜め込んでいる様子と、丸々と太い尻尾から、リスの容姿の月影町住人のようだ。ただ、可愛らしいリスのイメージとは違い、レザー素材の服装やシルバーアクセサリーをジャラジャラ付けた姿、斜めに傾いた立ち方から、ガラの悪い印象の人だった。
だからと言って、ぞんざいな扱いはできない。
「はい。銭亀社長の事務所です。融資のご相談でしょうか? お席にどうぞ」
僕が営業スマイルでパンフレットと申込用紙を持っていこうとすると、そのリス男はいきなり応接テーブルを蹴り上げた。大きな音を立ててひっくり返るテーブルを前に、僕は顔が引き攣り、身を竦ませる。
「半死人の女のくせに、粋がって随分生意気な仕事してるそうじゃねえか? ああん? でも、それもここまでだぜ。今度はそのアマが『取り立てられる』番だ」
「は……? えっと……?」
何を言っているのかは理解できないが、あまりいい雰囲気でないことは確実だ。僕は後ずさりを始めた。内勤なのにこんな目に合うなんて……。
「アンタは月影町の外の人間かい? こりゃいいや、攫って売っぱらやぁ、金になる!」
「や、や、やめてください……!」
「抵抗するなら、殺すぜ? どうせ、月影町の偉い人のご馳走にされるんだ。生きてようが死んでようが、どっちでもいいからなあ。手っ取り早く、殺っちまうかねえ?」
「な、ななな……!」
後ずさっている場合でなくなり、走って逃げようとする僕の腕をリス男が掴む。思った以上に握力が強く、尖った爪が手首に食い込んだ。
「いやあああ!」
僕が叫んだ時、再び事務所の扉が開いた。
「その辺でやめておいた方がいいのでは? 食肉組合員以外の者が外の街の人間を手に掛けて売買したら、商工会の内規により、かなり面倒くさいことになりますよ」
扉から入って来たのは、黒のゴシック・ロリータのドレスを纏った黒蜜さんだった。その後ろに続く菜摘さんは今日もパステルカラーのファンシーな格好だが、既に携帯ノコギリの刃を開いて構えている。
「それ以上やるならぁ、うちら二人が相手するけど~?」
リス男は「ふん」と鼻で笑うと、僕から手を放して二人の方に向き直り、嘲るように言う。
「臭えなあ、おい? アンタら、ここの半死人の社員さんかい? 半死人ってのはこんなに臭いなんて知らなかったぜ。あー。くっせー!」
「失礼な~! うちら、ちゃ~んと毎日、お風呂入ってるよぉ! 特に、シャンプー・コンディショナーは、月影町人気ナンバーワン・サロンのカリスマ美容師カミキリちゃんプロデュースのやつでぇ、すっごくいい匂いだし~、ボディソープはねぇ……」
しゃべり続ける菜摘さんを制して、黒蜜さんが氷のように凍えた声で言う。
「先ほどおっしゃっていたうちへの『取り立て』というのは、どういう意味です?」
「ギャハハハ! アンタ、まだ今日の定例会で商工会の規約が変更されたの、知らねえのか?」
「知るわけないでしょう。それに出席している真桜子さんがまだ帰ってきていないのですから」
それを聞いたリス男がうれしそうに笑う。
「無事に帰ってこれるかねえ?」
「は?」
菜摘さんと黒蜜さんの顔が一瞬で冷たいものになった。リス男に向ける視線は今まで以上に厳しく、瞳が真っ赤にギラギラと光って見えた。僕も顔が強張る。
「あのアマも、こっちに帰ってくる道中、取り立てに合ってるはずだぜ? 払えないって泣いて、どっか怖い場所に連れてかれなきゃいいけどなあ?」
「何それ~! どういう意味だよ~、ふざけるなぁ!」
「だから、その取り立てというのはどういう意味なのかと訊いているんですよ」
苛ついたように言う黒蜜さんに、リス男はニヤニヤしながら言う。
「アンタら半死人が働いてると、会社が商工会に納める会費が跳ね上がるのは知ってるだろ?」
「一人頭、ひと月で五十万円ですね。正居住者の二十五倍です」
「ま、その額なら、ここみたいに稼ぎがある会社なら、なんとかなるんだろうな。今回、その会費が見直されたってわけだ」
「見直された……?」
「一人頭の金が百倍になったって話だぜ?」
その言葉に菜摘さんは目を丸くし、水色と黒のツートンカラーの髪を振り乱しながら叫ぶ。
「それって、三人で一億五千万円じゃん~!」
「そんなバカな話があるわけないでしょう。定例会で通るわけがないです」
抗議する二人に、リス男がニヤリと笑う。
「確かに、定例会には『銭亀さんに借金があって逆らえねえ』って奴らが何人も出席してるな。でもそれが、商工会費値上げでこの会社が潰れるかもしれねえってなったら、話は別だろ? 借金がチャラになるチャンスだ!」
「なるほど。尨毛さんあたりの仕掛けですか? それに食いついた恩知らずがいたと……。会費見直し決定直後にあなたみたいな人が動いているなんて、ずいぶん周到に準備なさっていたんですね、尨毛さんは」
リス男はニヤニヤ笑うだけだったが、否定はしなかった。
「つーことで、黙って金よこしな! とりあえず、今事務所にある金だけでもいいや。お互い無駄な喧嘩は嫌だろ?」
「そんなん、従うわけないでしょ~!」
菜摘さんが攻撃のために自分の腕を斬り落とそうと、ノコギリを構えた。その時、リス男が口を萎め、ブッとすごい勢いで弾丸のようなものを吐き出した。
それは目では負いきれない速さで菜摘さんの頬を掠め、メキっと嫌な音を立てて事務所の壁にめり込んだ。完全に貫通しているようだ。衝撃で壁にヒビも走っている。
まるでピストル。もしかしたら、それ以上の威力だろうか。
事務所に沈黙が降りた。誰も動かなかった。僕は遅れて足が震えだす。リス男が面倒くさそうに口を開いた。
「だからよ、無駄な喧嘩は嫌なんだよ、俺はさ。尨毛さんはアンタらに負ける奴をここに送るほど馬鹿じゃねえってこと。まあ、ホントにガチでやるってんなら、俺自身も怪我すんのは覚悟でやるぜ? けど、お互い痛いのは嫌だろ」
リス男の栗色の目が氷のように冷たく二人を見据える。
「黙って金出しな。それがウィンウィンってやつだろ?」
「いいえ! 金は出しません!」
高らかに宣言したのは菜摘さんでも黒蜜さんでもなかった。ましてや僕であるはずもなく、声の主は、突如、事務所の入り口に現れた銭亀さんだった。今日も長い黒髪に長袖のブレザーとチェックのスカートという制服姿だが、手には何かの書類を握りしめている。
「真桜子ちゃん!」
「真桜子さん……」
「遅くなってごめんね。ちょっと『回り道』してたのと、取りに行く紙があったから」
心配そうな菜摘さんと黒蜜さんに、銭亀さんは真っ赤な唇から牙みたいな八重歯を覗かせながら、女神のように、あるいは悪魔のように美しく笑ってみせた。
「これ、廃業届ね。我が社『にこにこ銭亀ファイナンス』は今日、解散します。とりあえず、これで今後、商工会費は取り立てようがないでしょう?」
「は?」と問う声が四人分ハモった。楽しげに笑う銭亀さんを、僕も黒蜜さんも菜摘さんもリス男もポカンとした顔で見つめる。
「退職金として、それなりの額を二人の口座には振り込んだから、当面の生活はそれでなんとかしてて。誠児くんにもお礼代わりのもの、後で送るから」
銭亀さんの言葉に頭が追い付かない。あまりのことに何も言えない僕達より先に、リス男が覚醒した。
「ギャハハハハ! アンタ、すげーな! 最高だ。半死人の女にしちゃあ、すげー決断力と行動だ!」
ひとしきり笑った後、リス男はニヤニヤしながら銭亀さんに向かって言う。
「まあ、『これからの商工会費』はよくてもよ、『今までの商工会費』は請求するぜ? 今回の規約変更は過去二年に遡及して改訂された。だがら、この会社の未払い分は何十億単位になるってわけだ。だが、会社は廃業――ってえことはだ、経営責任者であるアンタ個人に請求するしかねえよなぁ? ま、だからこそ、部下を放流して、あの子らに責めが行かねえようにしたんだろうがな。そこんとこの、男気だけは買ってやるぜ」
「真桜子ちゃん!」
「真桜子さん……!」
何か言いたげな菜摘さんと黒蜜さんを制して、銭亀さんはリス男に向かって一歩前に出る。
「あなた、ごちゃごちゃうるさいですよ。それに、全部思い通りになると思ったら大間違いだし」
「ふん。なんにしろ、アンタはもう詰んでんだ。黙って金出しな!」
「払うわけないでしょ。払ったら、その制度でいいって認めたようなものじゃない。絶っ対っ! 天地がひっくり返っても! わたしは! 一円たりとも! 理由の通らない金は、払わない!」
そう宣言した銭亀さんは、人差し指で空中に大きなハートマークを書いた。驚いたことに、そのハートマークの枠内に、事務所とは別の風景が広がっていた。どこかの古びた遊園地みたいだ。
「わたしが【
そう言った銭亀さんは、空中のハートマークの枠の中にまずは片足を突っ込んだ。
「それじゃあ、みんな、ちょっとの間だけ、さようなら!」
彼女は手を振りながら、枠の中の遊園地の光景へと飛び込んでいった。
「銭亀さん……!」
ハート形の枠は、銭亀さんを飲み込んだ瞬間に煙のように消え去った。
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