第5話 にこにこ銭亀ファイナンスの危機一髪
5-1 保護者の意味
「誠児さん、準備はよろしくて?」
夏物の着物姿の美しい千鶴さんが、僕に問い掛けた。僕はもごもごと口籠りながら、なんとか「はい」と答える。
「先生のお話、楽しみですわね」
おっとりと上品に微笑むこの女性は、僕の実父の妻にあたる人だ。つまり、僕にとっては義理の母――という表現は合わないだろう。僕はあくまで父の愛人の子供だから。
千鶴さんは父と同年代の四十代後半の歳になるはずだが、すらりとした体型の美しい人で、いつも清廉な空気を纏っている。僕の母親は小柄ながらメリハリの付いた体型で、笑顔が人懐っこく、人にくっつくことにも抵抗のない人だから、そんな母とは正反対のタイプではないだろうか。
今日は僕の学校で高等部一年前期を振り返る三者面談がある。僕の母親はやはり「男友達」と遊ぶのに忙しいようで最初から来るつもりはなく、父親も仕事が多忙なため来られない。そこで代わりに来てくれたのが千鶴さんで、しかも僕の三者面談に保護者として来てくれるのは実は初めてではなかった。
「誠児さんは成績優秀ですから、心配はしておりませんわ」
美しい顔で千鶴さんは上品に笑う。僕は気後れしながらも、なんとか笑い返し、僕のうちの家計――母と弟と僕の生活費や教育費に関する財布の紐を最終的に握っているこの女性に頭を下げた。
※
千鶴さんについて、担任の教師には特に何も説明しなかった。三者面談の教室に僕と一緒に入ってきた彼女のことを、先生は僕の母親だと認識したようだ。千鶴さんも僕もその認識をわざわざ訂正することはしなかった。
三者面談が終わった帰り道、千鶴さんはおっとりとした笑顔は変わらなかったが、口調は少し不満げだった。
「あの先生、可もなく不可もなく……といった印象の教師でしたわね。あの方、あなたの学校生活の頼りになっていて?」
「い、いやあ……」
「今時の教師に『人生の師』『子供を導く力』のようなものを求めても、酷なのかもしれませんわね。ただ、あの先生、誠児さんの成績評価についてはきちんと把握なさっていましたわ。先生のご忠告どおり、得意を伸ばして参りましょうね」
「はい」
「一年生前期の成績としては優秀でしょう。わたくしも鼻が高かったですわ」
「ありがとうございます」
千鶴さんは僕に向き直り、僕をじっと見つめながら言葉を続ける。
「何度も言って参りましたが、勉強を疎かにしないように。あなたが真面目に勉学に取り組む限り、援助を打ち切るつもりはないのですから。大学やそれ以上の教育も、あなたが望むのなら支援しますわ」
「はい。ありがとうございます」
「わたくしが先代から受け継いだ財産や家名は、わたくしと血縁のある者に継がせます。だから、誠児さん、あなたはしっかりとご自分の力で生きるすべを身に付けなければなりませんのよ。夫自身の財産など、ほとんどないも同然なのですから」
千鶴さんはこう言うが、父はメディア露出や出版経験のある大学教授なので、財産がないわけではないはずだ。ただし、千鶴さんという後ろ盾があったからこそ、父は大学教授としての地位や名声を獲得した面が大きいようだし、そんな父個人の財産など、千鶴さんから見れば子供のお小遣い程度の認識なのかもしれない。そして、千鶴さんの家名や財産は血のつながりを基盤に受け継いで来たものゆえに、仮に千鶴さんが先に亡くなったとしても父には相続させず、彼女の親戚筋の方が受け継げるように対処してあると聞いている。
「このことの意味、誠児さんはおわかりね?」
「はい」
そんな風に話しながら歩いていると、千鶴さんと僕はある公園の前に着いた。そのベンチに、僕は見たことのある後ろ姿を見つける。
「あれ、龍児くんと……キミカちゃん?」
時間的に養護学校の送迎バスから降りたばかりだろう龍児くんと、こちらも学校帰りなのか、デイバッグを背負ったキミカちゃんが、龍児くんのスケッチブックの中を覗き込んでいた。こちらに気付いたキミカちゃんが顔を上げる。
「あ、龍児くんのお兄さん、こんにちは! そちらはお母さんですか?」
「え、えっと、いや……」
僕が口ごもっていると、千鶴さんはたおやかに微笑みながら首を横に振った。
「親戚のおばちゃんよ。よろしくね。あなたは龍児さんのお友達?」
「あ、はい。わたし、この近所に住んでる、キミカっていいます。龍児くんとは、帰り道でたまに会うことが多かったんです。それで、絵を見せてもらって、きれいだねって話してて……」
「あらあら、そうなのね」
「龍児くんの絵は物語みたいで、見ていて楽しくて。勝手に龍児くんに話しかけて、ごめんなさい」
「いいのよ。龍児さんと仲良くしてくださって、ありがとう。ね、誠児さん?」
「はい。キミカちゃん、この前のスーパーの件もありがとう。君が助けてくれたんだよね?」
僕が言うと、キミカちゃんは恐縮したように首を横に振った。
「そんな……わたしは……。あの日には何も言えなかったし……」
「ううん。龍児くんの味方をしてくれて本当にありがとう」
僕の言葉に、キミカちゃんは照れくさそうに笑ってから、首から下げたキッズ携帯を覗き込み、慌てたように立ち上がった。
「あ、もうこんな時間! 習い事があるから、もう行かないと! それじゃあ、さようなら、またね、龍児くん! お兄さんもおば様も!」
僕達は手を振ってキミカちゃんを見送った。いつもはあまり表情が顔に出てこない龍児くんだが、少し残念そうな雰囲気を纏いながらキミカちゃんの後ろ姿を見つめているのが、僕には少し驚きだった。
その時、ポツリと水滴が僕の頬に触れる。
「雨……?」
水滴が地面にいくつも染みを作っていった。僕はカバンから出した折り畳み傘を開く。
「龍児くん、僕の……」
僕の傘に入りなよ、と続ける前に、僕と同じように折り畳み傘を取り出した千鶴さんが龍児くんに言った。
「龍児さん、おばちゃんの傘にお入りなさい」
ぼんやりと空を眺め始めた龍児くんの手を取って、千鶴さんは自分の傘の中に入らせる。空からは梅雨の頃を思い出したようにシトシトと雨が次々と零れ落ちていた。
「千鶴さん、せっかくの着物が……。龍児くんは僕の傘に……」
「いいのよ」
千鶴さんは傘の大部分が龍児くんに掛かるように差していたから、繊細な花柄の着物の片袖がどんどん雨に濡れていく。僕は千鶴さんの隣に行って千鶴さんに自分の傘がかかるように差そうとして――でも、思いとどまって二人の後ろに戻った。
いわゆる「正妻」である千鶴さんは、僕達兄弟をどんな風に思っているのだろう。
僕の母は、父と千鶴さんの間に子供が出来なかったことについて、かなり酷い言葉で悪口を言うことがある。千鶴さん本人に面と向かって罵っているのを見たこともある。それでも千鶴さんはおっとりとした笑顔を崩さなかった。上流階級の人らしいおおらかさと体面を重んじる心がそうさせるのか、本心を顔に出したことはない。
本当は千鶴さんの肩が濡れるのを僕の傘で防いであげられればと思う。
でも、本当の本当は僕達のことなんか見たくもないのではないかと考えると、僕はなかなか千鶴さんに対して普通みたいに接することはできなかった。
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