4-7 家族の比重

 黒蜜さんと僕はクロイさんと別れた後、獅子ヶ原さんのお店に寄って鳥羽さんの羽を買い取ってもらってから、「にこにこ銭亀ファイナンス」に帰ってきた。鳥羽さんとの取引自体はうまくいったようだったのに、黒蜜さんは事務所への道中、黙りこみ、いつもの無表情よりも少し暗い顔だったのが僕は気がかりだった。


「というわけで、鳥羽さんはこれで完済です」

「お疲れ様、瑠奈。はい、これ瑠奈の取り分ね」


 銭亀さんはいつものブレザーにチェックのスカートという制服姿で社長机に腰掛け、黒蜜さんの報告を聞いた。それから黒蜜さんの回収してきた金額を確認し、一定の割合を黒蜜さんの取り分としてその場で渡して、残りは会社の金庫にしまう。


 それはいつものやり取りだったのだけれど、なぜか黒蜜さんは自分の取り分を受け取った姿のまま、固まっていた。銭亀さんはその様子に首を傾げる。


「どうしたの、瑠奈?」

「怒らないんですか?」

「へ?」


 きょとんとした銭亀さんに、黒蜜さんは珍しく少し苛ついた雰囲気を纏いながら言う。


「もっと鳥羽さんを泳がせて、もっとたくさん利息を稼げば、もっと大きく儲けられました。なのに、それをしなかったわたしを、どうして叱責しないんですか?」

「なんでって……ちゃんと利益の分岐点は超えてるし、鳥羽さんの案件は瑠奈に任せたんだから、担当者である瑠奈がそれでいいっていうならそれでいいよ、わたしは」

「最後に鳥羽さんをクロイさんに引き渡したのも、真桜子さんにとっては面白くないのではないですか?」

「それはまあ……でも、今回わたしは直接クロイさんとは関わらずに終わったし、別にいいよ。瑠奈がこの結末が一番いいって判断したんでしょ?」


 どこか喧嘩腰な黒蜜さんに、銭亀さんは柔らかいトーンで返答する。でも、黒蜜さんの感情は収まらないようだった。


「どうしてそうんな風に言うんですか。こんなに使えない社員はいらないって、はっきり言えばいいじゃないですか」


 いつも冷静な黒蜜さんがどうしたのだろう。僕はハラハラしながら成り行きを見守ることしかできない。


 黒いゴシックロリータのドレスを着た黒蜜さん。短いプラチナブロンドと黒のヘッドドレスに縁取られた人形のように整った彼女の顔は、相変わらず無表情ではあった。でも、少しだけその顔が引き攣っているようにも見えて、何より、赤みがかった彼女の瞳は、今、血の色みたいにギラギラ光って見えた。


「お前なんかいらないって言えばいいじゃないですか。役に立たない社員なんか置いておく意味がないって」

「瑠奈……?」


 銭亀さんは戸惑うような顔をしたけれど、すぐににっこりと優しく笑った。


「ねえ瑠奈、ちょっとこっちおいで」


 椅子から立ち上がった銭亀さんが自分の隣を指差す。今度は黒蜜さんの顔が少しだけ戸惑いの色を帯びた。


「いいからおいで。じゃあね、社長命令! 命令だからおいで」


 黒蜜さんは戸惑いの混じった足取りで、銭亀さんの元へと歩いていく。隣にやって来た黒蜜さんを、銭亀さんは突然ぎゅっと抱きしめた。


「真桜子さん……?」

「わたし、瑠奈が大好き。たとえ瑠奈がダメ社員だったとしても大好き。瑠奈のいない毎日なんて絶対いや! ま、実際の瑠奈はめっちゃデキル社員だけどね」


 固まったままの黒蜜さんを、銭亀さんはさらにぎゅうぎゅうと力を込めて抱きしめる。


「瑠奈の仕事がどうだろうと、わたしには瑠奈が必要。瑠奈がいなくなるなんて信じられない。瑠奈が大好き。だから、いなくならないで。お願い」


 どうしてか、銭亀さんの方が痛みを感じているような顔をしていた。その顔を窺うように覗いた黒蜜さんの体から、強張りがほどけていくのが見ていてわかった。


「……はい」


 ほんの少し、僕達だけにわかるくらいうっすらと頬を赤くしながら微笑んで頷く黒蜜さん。それを確認した銭亀さんも、安堵したように優しく微笑んだ。



「誠児さんに恥ずかしいところを見せてしまいました……」

「そんな……恥ずかしいところだなんて僕は思わないけど……」


 業務時間が終わって、黒蜜さんと僕は夕暮れの月影町のメイン通りを歩いていた。黒蜜さんは月影町内にあるという一人暮らしの借り住まいへ、僕は龍児くんの待つ月影町の外の家へ帰るところだ。ちなみに、菜摘さんは今日は出先から直帰らしい。


「でも、ちょっとびっくりしたよ。いつも冷静な黒蜜さんが、いきなり頑なな感じで強い言葉を言ったから」


 ちらりと黒蜜さんの様子を窺うと、夕暮れのせいなのか、ほんの少しだけ頬が赤いようにも見えた。僕と目線を合わせた黒蜜さんは、けれど、すぐにそれを外してぼそりと呟くように言う。


「ちょっとだけ、吐き出してもいいですか?」

「え?」

「ちょっとだけ、愚痴を聞いてほしいんです」

「僕でよければ、もちろん」

「ありがとうございます」


 そう言った黒蜜さんは橙色の空を見上げて、少し経ってからポツリと言葉をこぼした。


「わたしの母の話です。なんと言えばいいのか、わたしは母の人形のように育てられました」

「人形のように……って?」

「月影町の外で暮らしていた頃のわたしは、母の望む子供の姿を出来る限り再現するように努めていました」

「どういうこと?」


 黒蜜さんは深く息を吐き出してから言葉を続ける。


「例えば、わたしがとても小さな頃の話ですが、仕事が忙しくて普段はあまり家にいない父に遊んでもらった時、わたしはうれしくて父に『大好き』と伝えました。そうしたら近くにいた母が『瑠奈はパパとママ、どっちが好き?』と訊いてきて、わたしは『今日はパパが好き』と答えました」

「うん」

「子供らしいユーモアです。父も『瑠奈はゲンキンだな』と笑っていました。でも、母は不貞腐れてしまって、それから何日もわたし達と口をきいてくれませんでした。いつも自分が一番でないと不機嫌になる人でした」

「難しいお母さんだったんだね……」

「はい……。その時は、何日もかけて謝罪と、母が一番好きだということを伝え続けて、母の気に入るような行動を繰り返すことでやっと許してくれました。その時はとてもホッとしてうれしかったです」

「うん……」

「母がそういう風な態度をとることは何度もありました。子供のわたしにとって、それはとてつもない恐怖でした」


 黒蜜さんの赤い瞳が、橙色に染まる街に伸びるたくさんの長い影をぼんやりと見つめる。


「たぶん、父がうちを出て行ったのは、母のそういうところについて行けなくなったからだと思います。いつからかわたしは家で父と距離をとるようになっていて――はっきり言ってしまえば、父を疎む態度をとっていたので、わたしは置ていかれました」

「もしかして、お父さんとはそれきり……?」

「はい。会っていません。今となっては、という話ですが、母はわたしが父を嫌うように仕向けていた節があります。父の欠点とも言えないような欠点を大袈裟にあげつらったり、父に傷つけられたとわざとらしく愚痴ったり、といったことです」


 そう言う黒蜜さんの顔は、少し強張っているように見えた。


「わたしは真面目にそれらの話に心を痛めていました。実は途中からそういう母の言葉を疑問に思う時もありましたが、気付かないふりをしました。そのことを口にして、母がまた口をきいてくれなくなることが怖かったんです。わたしは母から嫌われたくありませんでした」

「そりゃそうだよ。子供だもん」

「わたしは母親の顔色を常に窺いながら、母親の望む行動をするように心がけました。勉強や振る舞いはもちろん、母のいやがる遊びはしない、母の好きそうな服を着る、母の気に入らなかった子とは遊ばない――たいだいの子供を母は嫌っていたので、わたしは友達ができませんでした」

「うん……」

「母は常に自分の見える位置にわたしを置きたがりましたし、登校以外でわたしが外出することを好みませんでした。わたしは万事を母のコントロール下で生きていたように思います」

「それって、なんか……」

「でも、その頃のわたしには母が世界のすべてで、母は絶対で、世界のルールでした。それ以外の世界があるなんて知りませんでした」

「なんとなくわかるよ……」


「わかる」なんてことを軽々しく口にしてもいいのかとも思ったけれど、黒蜜さんの顔から少し強張りが取れたような気がしたから、僕はホッとした。


「でも、そんな生活も終わりました。わたしは母を失望させてしまったのです」

「何かあったの?」

「中学校の時に――女子校だったのですが、憧れの人ができました」

「憧れ……?」

「生徒会長の先輩です。リーダーシップと愛嬌があって、でも少し天然で抜けている部分や人懐っこさのある人で。真桜子さんと芽衣さんに、それぞれ少しずつ似ているかもしれません」


 少しだけ、黒蜜さんの頬に赤みが差したような気がした。


「わたしは生徒会の委員になりました。普段は放課後活動など許さない母でしたが、そもそも、その女子校は母の憧れだったとかでわたしに受験をさせたので、そこの生徒会ならと許してくれました」

「よかったね」

「はい。会長と一緒に過ごすことで、新しい世界が開き始めたような感覚がありました。でも、しばらくして、母はわたしが会長と親しくなり始めていることに気付きました」


――あの子はダメよ。あんな汚い子、瑠奈には合わないわ。手っ取り早く排除してあげるから、安心なさいね。


「母がそう言った日から、学校で生徒会長の家や家族に関する不穏な噂が出始めました。保護者の間にも広まっていったようです。それまでも限られた人間はそのことを知っていましたが、会長の人柄から気にする人はいませんでした。でも、あまりにも話が広がりすぎて、尾ヒレもついて、そんな状況はまだ中学生だった彼女にはとても辛いことだったと思います」

「うん……」

「会長は生徒会どころか学校も休みがちになって、ついに転校することになりました。学校を去る日に、生徒会に顔を出してくれましたが、わたしとだけは目を合わせてくれなかった……」


 黒蜜さんの瞳の色が、血の色みたいに赤く見えた。


「たぶん会長はわたしとわたしの母のせいだとわかっていたのだと思います。母が直接彼女に何か言ったのかもしれません。それでも彼女はわたしには何も言いませんでした。でも、彼女の横顔は、もう二度とわたしと顔を合わせるのは嫌だと言っているように見えました」

「そう……」

「わたしは家に帰って母に怒鳴り散らしました。あんなに激昂したのは生まれて初めてです。母はわたしを宥めようとして……でも、どうやっても収まらないと悟った母はこう言いました」


――そんなに言うならもういいわ。実はママね、再婚の話があるの。高齢出産になっちゃうけど、がんばって子供を作って、今度こそちゃんとした子に育てるわ。あなたはもういい。いつもちっともわたしの言うこと、きいてくれないんだもの。あなたなんか、もうパパのところに行けばいいのよ。


「母はわたしの目の前で、それまで音信不通にしていた父に本当に電話を掛け始めました。父はとっくに再婚していて、あちらの家族と幸せに暮らしているらしいことは知っていました。そんな家庭へ、父を疎むような態度をとっていたわたしに、どの面下げて行けと言うんです?」


 無表情に話し続ける黒蜜さんを、僕は無言で見つめる。


「少なくとも、わたしは母から大切にされていると――愛されていると思っていました。だからこそ、母はわたしにあんなに目を配っていたのではないんですか? わたしはあんなに母の言うことをきいて生きてきたつもりだったのに、母にとっては不十分だったんでしょうか? どうすれば満足だったんでしょう。未だに母のこと、わたしはよくわかりません」

「うん……」

「新しい世界の扉だった人と、世界のすべてだった人から拒絶されて、わたしは自分の世界が終わってしまったように感じました」

「うん……」

「スーツケース一つで家を出されたわたしは、父の家に行くわけにもいかず、ふらふらと街を……ちょうど月影町のすぐ外の街を歩いていました。ある細い路地を通りかかった時にこの黒猫の子と会いました」


 黒蜜さんは綺麗な飾りのついた左袖の中、彼女の腕とドッキングしている黒猫の頭を右手で撫でた。黒猫は袖に着いたリボンを引っ掻いて遊んでいる。


「黒猫と目が合ったわたしは、これは啓示なのだと思いました。目の前の雑居ビルの非常階段を昇って、一番上から下を見下ろして――そのまま飛び降りました」

「え……!」

「地面に落ちる瞬間、地上で驚いたようににわたしを見上げるこの子と目が合って……この子には可哀そうなことをしました……。わたしの体は……特に左腕はボロボロに崩れていて、この子の下半身もぐちゃぐちゃになっていました」


 僕はその時の様子を思い描いて、思わず口を手で押さえた。


「わたしは痛くてよく状況がわからない状態でしたが、とにかくこの子を助けないといけないと思って、この子を抱き上げて歩き始めました。歩ける状態ではなかったはずなんですが、どうしてか動けて、わたしは路地を彷徨いました」

「そ、それで……?」

「気が付いたら、わたしは不思議な街――この月影町に入り込んでいました。でも、もう体力が限界で倒れ込んだところに、『大丈夫?』と声を掛けてくれたのが、真桜子さんだったんです」


 黒蜜さんは懐かしむように目を細め、異形の人達が行き交う大通りを見つめる。


「真桜子さんは縊死先生のところに連れて行ってくれたのですが、さすがの先生でも人間や猫として助けるのはもう無理だということでした。わたしも黒猫もすでに『死んで』いて、そのことに気付いていないから、この街に入り込めたのだろうと診断されました」

「え……? え? ちょ、ちょっと待って……!」

「縊死先生はわたしとこの子を縫合することで、両者を助けてくださいました」

「ま、待って、『死んで』って……?」


 僕の制止は聞かずに、黒蜜さんは言葉を続ける。


「月影町は人間ではない異形達の街です。誠児さんや津守屋さんのように、許可が与えられれば普通の人間も訪れることはできますが、それ以外でこの街に入れるのは『人間ではないもの』だけなんです」

「で、でも、黒蜜さんは……人間……」

「わたしは確かに人間でした。でも、今は違います。わたしは半分死んだ人間、いわば『半死人』の状態です」


 目を見開く僕に、黒蜜さんは静かに告げる。


「真桜子さんと芽衣さんもそうです。あの二人も半死人です」

「そ、そんな……!」


 絶句する僕を見て、黒蜜さんの表情がほんの少しだけ心配そうな形に変わる。


「真桜子さんは誠児さんにこのことをきちんと伝えないといけないけれど、うまく言えないと、かなり悩んでいました。自分の代わりに伝えてくれないかと相談されて、ちゃんと自分で伝えてくださいと突き返していたのですが……。今日の借りを返すために、真桜子さんの代わりに話してみました」

「そ、それって、え、え、えっと……」

「ショックだったらすみません。でも、もう時間がないので」

「え……?」

「半死人は、仮居住者として十三年間は月影町に住むことができます。でも、十三年を超える前に、人として輪廻の輪に戻るか、月影町の本物の住人になるのかを選択しなければならないのです」


 戸惑う僕に黒蜜さんは説明を続ける。


「一つ目の選択肢は、人として死に、再び生を受けるのを待つ輪廻転生の輪に戻ることです。こちらは死にそびれたわたし達が『ちゃんと死ぬ』という選択ですね」

「そんな……!」

「もう一つは月影町の正式な住人……正居住者となること。こちらを選べば、とりあえず死ぬことはありません」

「じゃ、じゃあ、それでいいよね!」

「ただ、その選択は『人間』だった自分を捨てる行為です。まず、今のいわゆる人間に近い容姿から、この街の人達に近い外見に変化していきます。そして、自分が人間だったことは忘れてしまいます」

「え……! ど、どういうこと……?」


 僕は驚きと疑問でいっぱいで、黒蜜さんの説明に追いつくのが大変だった。


「誠児さんのことを忘れたりはしないですが、あなたと同じ人間だったこと、人間として生きていた時の記憶はなくなります。結果として、人間に対してどのような態度をとるようになるのかはわかりません」

「それって……どういうこと? 月影町の人達って、いったい……?」

「正直なところ、この街のどのくらいの人が『元・人間』なのかは誰も知りません。誰も気にしていないのです。正居住者となった時点で、同胞意識や帰属意識のようなものが互いに芽生えてどんどん強まるようです。だからこそ、尨毛さんのように、仮居住者や人間に嫌悪感を持つ正居住者も出てくるみたいですが」


 黒蜜さんは一旦言葉を切って僕を見つめる。


「真桜子さんが月影町にやって来たのは五歳の時だそうです。そして、真桜子さんは今年で十八歳。もうすぐ選択の時を迎えます」

「え……!」

「真桜子さんがどちらを選ぶつもりなのかはわかりませんが、どちらにしろ、『今の真桜子さん』はいなくなります。だから、早めにちゃんと知っておいた方がいいと思ったので話しました」


 黒蜜さんは窺うように僕の顔を覗き込む。


「いきなりたくさんのことをしゃべってしまって、すみません。大丈夫ですか、誠児さん?」

「う、う、うう……えっと……うん……」


 大丈夫ではなかった。でも、頷くこと以外ができなかった。


「よかったです。それでは、また事務所で。今日はお疲れ様でした」


 月影町の大通りから小道に入っていく黒蜜さんを、僕は呆然とした顔で見送った。



 僕は足を引き摺るようにして、自宅マンションの扉をくぐった。体は疲れていないはずなのに、心の重さがずっしりと乗りかかっているような気がした。


「ただいま……」


 声を掛けても、いつものとおり返事はない。

 龍児くんは今日もお気に入りの一人掛けソファに腰掛けてスケッチブックに向かっていた。今は鉛筆で絵を描いているが、その前には絵の具を使っていたのか、カラフルに彩られた画用紙がいくつも床に転がっている。


「龍児くん、これ……」


 僕は絵を見ながら心がざわついた。


 弟の絵はおおまかに二つのパターンがある。一つは見たままを再現した絵。これは鉛筆でデッサン風に描くことが多い。

 もう一つは幻想的な風景画。この世にはない空想世界の街や自然が、心が安らかな時はパステル系の色合いで、感情が高ぶっている時は原色系の色で描かれることが多い。


「この絵は……?」


 普段はあまり使わない赤とグレーをメインに、ごみごみして窮屈そうな街が描かれていた。

 もしかして、この前の万引き事件に対する気持ちなのかな。反省して苦しんでいるということ……? でも、少し違うニュアンスのような気も……?


 首を捻っていると、僕のスマートフォンが鳴った。相手は、龍児くんが万引きしたスーパーの店長さんだった。


『すみません……この前の万引きの件で謝罪にあがりたいので電話しました』

「え……?」

『今から説明に伺ってもよろしいでしょうか。お母様はいらっしゃいますか?』

「え、えっと……母は当分、出張からは戻ってきません」

『そうですか……しかし、早くご説明して謝罪したいので、よろしければお伺いしたいのですが。人数が多いですが、大丈夫でしょうか』


 戸惑いつつも了承すると、しばらくして店長さんが数人の少年とその保護者らしき人達を連れてやって来た。少年達は龍児くんと同じくらいの年に見える。


 とりあえず全員をリビングに通して話を聞くことにした。龍児くんは大勢の来客にも気が付かない様子で、一人で絵を描き続けていた。


 口火を切ったのは店長さんで、僕と龍児くんの様子を窺いながら頭を下げる。


「実は、弟さんが万引きしたというのは間違いだったのです。大変失礼いたしました」

「ど、どういうことですか……?」

「弟さんが万引きしていると教えてきた子供達が本当の万引き犯だったんです」


 そう言って、店長さんは連れてきた少年達に目線をやった。


「彼らは嫌がる弟さんを無理やり店に連れてきて、弟さんが万引きしたように見せかけるため、うちの商品を彼のポケットに入れたりしたんです。自分達の万引きを誤魔化すためにやったそうです」

「そんな……!」

「たまたまあの現場にいたお客様が、今日このことを教えてくださって判明しました。とはいえ、あの場で監視カメラをきちんと確認していればこのような間違いはありませんでした。当店の落ち度です。申し訳ございませんでした」


 中年の店長さんが、小学生の弟と高校生の僕に丁寧に頭を下げている。僕は驚きでいっぱいで、それを止めることも忘れるような状態だった。店長さんに続いて、少年の母親達も頭を下げ始める。


「ご迷惑おかけしてすみませんでした。アンタ達も謝りなさい!」

「すみませんでした……。龍児くんもごめんなさい……」

「本当にごめんなさい……」


 男の子達は相当に親から絞られたのか、蒼白な顔だったり神妙な顔だったりで、反省しているように見える。ただ、一人の少年とその母親らしき人だけは不満そうな顔で、頭を下げようとはしなかった。それに気づいた他の母親達が非難の目を向ける。


「ちょっと、あなた達も早く謝って……」

「いやよ!」


 不満げな顔の母親が叫ぶように言った。


「どうしてうちの子が謝らないといけないわけ? この子は中学受験を予定しているのよ! こんなところで、こんな躓き、許されないのよ!」


 キンキン響く怒鳴り声に、僕は驚きで固まってしまったが、店長さんや少年達、その母親達も僕以上に驚いている様子で、叫ぶおばさんを呆然と見つめていた。


「あの子がやったってことにしておいたらいいじゃない! どうせあんな出来損ない、多少の犯罪歴がついたって人生そんなに変わらないでしょ!」

「ちょ、ちょっと……なんてことを!」


 ハッとした店長さんや母親達が慌てて止めようとするが、おばさんは暴言をやめなかった。この騒ぎにも注意を引かれることなく、ひたすら一人で絵を描き続ける龍児くんを指差しながら、おばさんは僕に向かって叫ぶ。


「アンタだってそう思ったんでしょ? あの出来損ないだったらやってもおかしくないって思ったから、万引きを認めたんでしょ!」


 僕は急激にカッと頭に血が上って、沸騰するみたいに弾けるのを感じた。


「か、か、か、帰ってください……!」


 僕は夢中で叫んでいた。


「もう……もう僕達に関わらないでください!」


 店長さんは狼狽したように頭を下げる。


「すみませんでした……! まさかこんなことになるとは……弁償して頂いたお代と迷惑料だけお受け取りください」

「金なんて渡さなくていいわよ! あの出来損ないが本当の犯人なんだから! 金を返したら、犯人じゃないって認めることになるでしょ!」

「ちょっと、あなた、何言っているの!」

「子供達を前に、あなた、なんて言い方……!」

「も、も、もう早く帰ってください!」

「本当に申し訳ありません!」


 店長さんは半ば無理やり封筒を僕に渡し、他の母親達と一緒に頭を下げながら、叫ぶおばさんを引き摺って帰っていった。


 バタンと閉まった扉の前で、僕は魂が抜けたようにずるずると座り込んで、しばらくは動くことができなかった。でも、そのままそこにい続けるわけにもいかず、僕は這いずるようにリビングに戻って、龍児くんの一人掛けソファのそばに座り込む。


「龍児くん、ごめん……ごめんね」


 さっきの僕は、龍児くんを貶されたからキレたんじゃない。もちろん、そういう面もあったけれど、それより大きく僕の心を塗りつぶしていた感情があった。


 恥。


 あのおばさんの言うとおりだ。僕は何の疑問も持たず、「龍児くんだったら万引きをしてもおかしくない」と思って、さっさとお店に弁償してしまった。龍児くんを守ろうともせず、それどころか、見当違いに龍児くんを叱ることまでした。


「ごめん……ごめんね、龍児くん。僕……僕はダメなお兄ちゃんだね」


 僕はなんて恥ずかしい男なんだろう。


 でも、僕の謝罪の言葉も龍児くんには届いているのか、届いていないのか、よくわからない。僕の弟は、今もただ夢中でスケッチブックの上に鉛筆を滑らせるだけ。


 僕の中には「どうせ何が起きているのかなんて龍児くんにはわからないんだろうし、別に大丈夫だよ」という根性の曲がった考えがある。でも、同時に「もしかしたら龍児くんの心の中ではすべてのことが理解できていて、傷ついたり、僕を嫌悪したりしているのかもしれない」とも思えて、すごく怖くなる。


「誠児くん、誠児くん、誠児くん、誠児くん」


 唐突に、龍児くんが言った。ハッとして固まる僕に、弟は描きあがったスケッチを差し出した。描かれていたのは、龍児くんと同じくらいの年の女の子だった。


「あれ、この女の子って……」


 この前、マンションの前で「龍児くんは悪いことをしていない」と言っていた子だ。あの子は今回のことを言っていたのだろうか。もしかしたら、彼女が龍児くんの無罪を店長さんに訴えてくれたのかもしれない。


「龍児くん、この子、知り合いなの? どこの子かな。今度会ったらお礼を言わないとね」

「誠児くん、誠児くん、誠児くん、誠児くん」

「うん?」

「誠児くん、誠児くん、誠児くん、誠児くん」

「……ごめんね。ダメなお兄ちゃんを許してね」

「誠児くん、誠児くん、誠児くん、誠児くん」

「……お腹空いたのかな? ご飯にする?」


 僕は立ち上がってキッチンに向かった。

 どうしたのか、今日の龍児くんは、料理中も僕の周りをうろうろと歩き回っていた。


 出来上がった鳥南蛮と付け合わせの野菜をお皿に盛り、ご飯とお味噌汁と一緒にダイニングテーブルに並べる。僕が席に着くと龍児くんも自分の椅子に座って、僕が箸を持つと龍児くんも料理に箸を付け始めた。


 今日も龍児くんは先にすべてのおかずを口に運んでから、お味噌汁を飲み込み、最後にお茶碗いっぱいの白飯を一心不乱に掻き込んでいく。毎朝・毎晩繰り返されるそのルーチンは、苛立ちと虚しさと一緒に、安堵も僕に抱かせてくれる。


「ごちそうさまでした」


 僕はいつもみたいに、二人の食卓で一人で食後の挨拶をした。

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