4-5 子知らずの心

 翌日、黒蜜さんと僕は再び鳥羽さんとオデットちゃんのアパートに出向いた。黒蜜さんが呼び鈴を何回か押すが、反応がない。


「鳥羽さん、いますね? 今日は返済計画についてきちんと話し合いましょう」


 部屋の照明が点いているから不在ではないはずだ。黒蜜さんは能面のような無表情のまま、扉をガンガンと乱暴に叩き始める。


「鳥羽さん、あなたの借りたお金ですよ! 借りたお金は返す。当たり前ですよね? 人の親なら少しは態度を改めたらどうですか!」


 近所に響き渡るくらいの大声だった。さすがに、観念したような顔で鳥羽さんが扉を開ける。


「黒蜜さん、困りますぜ。そんなに大袈裟に騒がなくたって……」

「だったら、さっさと出てくればいいでしょう?」


 黒蜜さんは冷たい無表情のまま、閉められないように扉に足を掛けた上で、鳥羽さんの肩から生えた黒い翼を掴んで部屋から引っ張り出した。


「え……! ちょ……! 何すんですかい! うぎゃあ!」


 鳥羽さんが呻いたのは、黒蜜さんの左腕の黒猫が鳥羽さんの翼に牙と爪を立てたからだ。鳥羽さんの悲鳴が心配になったのか、部屋の中のオデットちゃんが立ち上がった。


「ぱぱ~、どしたでしゅか~!」


 僕は鳥羽さんを部屋から完全に押し出し、オデットちゃんから黒蜜さんと鳥羽さんを隠すような位置に立って屈みながら、出来るだけ優しい声で言う。


「オデットちゃん。どうやらオデットちゃんのパパはちゃんと病院に行ってなかったみたいなんだ。これから僕達が病院に連れて行って、先生に診てもらうことにしたんだよ」

「そ、そうなんでしゅか~?」

「ちょっとだけ一人でお留守番できるかな?」

「だいじょうぶでしゅ!」


 そう言って胸を張ったオデットちゃんだったが、すぐに不安げに瞳を揺らす。


「ぱぱ、ほんとにだいじょぶでしゅー? げんきなりましゅかぁ?」


 涙を溜めて目を潤ますオデットちゃんを見て、僕は胸がチクリと痛んだ。それは僕達が今しようとしている行為のせいだけでなく、彼女の父親であるはずの鳥羽さんの無責任な行動や思惑のせいでもあるだろう。


「うん。ちゃんと見てもらうから安心して。じゃあ、僕達行くね!」


 誤魔化すみたいに早口で言って、僕はアパートの扉を閉めた。

 アパートの外では、黒蜜さんの左腕から分離した黒猫――大きな黒豹が、鳥羽さんの黒い翼を咥えたまま、ぐるぐると喉を鳴らして唸っていた。


「騒がないでください、鳥羽さん。わたし達の言うことをきいてくだされば、その娘は甘噛み以上のことはしません」

「くぅ……! あ、甘噛みってレベルじゃあ……」

「行きますよ」


 黒蜜さんが冷たく宣告すると、黒豹が鳥羽さんの翼を咥えたまま、先導するように歩き始める。


「ど、どこにオイラを連れてく気だ!」

「言ったでしょう。病院です。あなたには治療が必要みたいですから」



 僕達がやって来たのは縊死先生の診療所だった。五階建てのビルはタイル張りで、明朝体で「縊死総合診療所」と書かれた立派な看板が掲げられている。明るいエントランスはピカピカに磨き上げられた塵一つない清潔さで、たくさんの外来患者がソファに座って順番を待っている。その中を、顔が九十度回転した状態の受付職員やキリン風の看護師達が忙しそうに行き来していた。


 患者さん達は黒豹に咥えられた鳥羽さんを不審そうな目で見てヒソヒソ話していたが、僕達が「四階専用」エレベータに向かうと、なぜか皆、目を背けて黙った。


 四階は異様に暗かった。切れたままの電灯が多いし、ろくに掃除されていないのか、床にもソファにも埃が積もり、天井には蜘蛛の巣も張っているし、黴臭い。何より人の気配がないのが異様だった。


 ふと鳥羽さんの顔を覗くと、蒼白な顔をしている。だが、黒蜜さんがそんなことに頓着するわけもなく、黒豹に翼を咥えさせたまま鳥羽さんを急かして歩いた。

 そうして僕達がやって来たのは「特殊外来」という札の掛かった受付の前だった。


 黒蜜さんは、なぜか「鳥羽」と書かれた診察カードを持っていて、無人の受付の診察カード入れにそれを放り込む。カランと乾いた音を立ててカードがプラスチックの箱の中に収まると、奥のカーテンが開いて一人の男性が顔を覗かせた。


「やあ……久々の患者さんだね……。予約もないし、急患もないだろうから……診察室へどうぞ……」


 月影町に慣れてきた僕でも、その人の姿を見て一瞬、心臓が止まりそうになってしまった。男性の顔面には、数え切れないほどたくさんの目が付いていたのだ。


 僕は気付かれないように息を整えながら、その人の顔をもう一度覗いてみる。


 男性は黄ばんでヨレヨレの白衣を着ていた。夥しい数の目を除けば普通の人と変らない容姿で、人間で言えば三十代半ばくらいに見える。白衣を着ているからお医者さんなのかもしれないけれど、顔色が悪いし、足取りはフラフラしているし、すべての目が虚ろで視線が揺れて定まらない様子だった。


 僕は不安になって黒蜜さんの顔を窺うが、短いプラチナブロンドに縁取られた彼女の顔はいつもと変わらぬ無表情で、有無を言わさず、鳥羽さんを診察室の中へと押し込んだ。


「どうも……。『特殊外来』の担当医師、八九鬼目ヤクキメです……」


 いくつもの目があるのに、そのほとんどを僕達の目と合わせないまま、八九鬼目先生は言った。それから、机の上のティッシュ箱ほどの大きさの箱を開け、中に満杯に詰まった雑多な錠剤やカプセルを手で掴み、スナック菓子でも食べるみたいに口の中へと放り込んでバリバリと噛み砕く。


「あはは。久々の患者さんだなあ……あは……あははは……!」


 八九鬼目先生のすべての目で瞳孔が開き、先生は見開いた目でそれぞれ違った方をギョロギョロと凝視する。僕は恐ろしさで腰が抜けそうだったが、黒蜜さんは少しも表情を変えなかった。


「八九鬼目先生、こちらの鳥羽さんですが、ご病気をお持ちらしいのです。でも、なかなか快方へ向かわないようなので、セカンドオピニオンとして先生の診断を受けてもらいたいのです」

「や、やめてくだせえ、黒蜜さん! オイラ、どこも悪いとこなんか、ありゃしませんぜ!」


 慌てたように鳥羽さんは言ったが、黒豹は有無を言わさず、診察室の椅子に彼を座らせる。


「黙って八九鬼目先生の診断を受けてください」


 人形のような無機質な表情で言った黒蜜さんの言葉に、僕は首を傾げた。


(鳥羽さんが仮病を認めたのだから、さっさとお金を取り立てればいいのに……?)


 八九鬼目先生は、黒豹に翼を咥えられて動けない鳥羽さんの腹部に聴診器をあてて診察を始める。ただ、相変わらず視線が定まっておらず、鳥羽さんも冷や汗をかいて顔を強張らせていた。


「うーん……特に悪いところは無さそうだけど……」

「そ、そうでございやしょう!」


 鳥羽さんの表情がパッと明るくなる。だが、それを遮るように、黒蜜さんは八九鬼目先生にレポートを差し出した。


「病人の中には自分の症状を隠そうとする人もいます。こちらにわたし達の観測した鳥羽さんの行動パターンをまとめてあります。確認して頂けますか?」

「ふむ……」


 八九鬼目先生はレポートを手に取り、いくつもの目でそれを読み始める。


「あー、なるほど……うん……これは……」

「『ギャンブル依存症』ではないですか?」

「そうだね……」


 黒蜜さんの言葉に、八九鬼目先生はあっさりと頷いた。


「この患者さん、黒蜜さんが連れてきたということは、診断書が必要なんでしょ……? さっそく作るね……」


 八九鬼目先生は箱からまた数錠の薬を口に運び、ポリポリと齧りながら、机の引き出しから取り出した様式に何かを書き始める。


「治療方針は……そうだなあ、その手の付いた翼、切除しようか……?」

「は? な、何言ってやがるんだ!」


 呆然としていた鳥羽さんも、さすがに気を取り直して声を荒げた。


「馬鹿なこと言うんじゃねえぜ! オイラはギャンブル依存症なんかじゃねえ!」

「あなたは僕の診断が間違っていると言いたいの……?」


 ギロリとたくさんの目を剥いた八九鬼目先生は、いきなり白衣の胸ポケットからメスを取り出し、鳥羽さんの目元に突き付けた。瞳孔の開いたいくつもの目が、ギロギロと鳥羽さんを睨み付ける。鳥羽さんは顔色を無くして、顔を引き攣らせた。


「い、いやあ……滅相もねえです」

「じゃあ、早速そこのベッドに横になってくれる……? すぐに治療を開始したいからね……。麻酔の用意もしないといけないな……」

「せ、先生、そんな無体な!」

「だって、依存の治療には原因から遠ざけるのが一番だもの……。両手を取ってしまえばパチンコなんて打てなくなって、万事解決だろう……? 手がなくても足を使って打てるって……? なら、両足も切らないといけないかな……」


 鳥羽さんの顔が真っ青になった。

 ここで再び黒蜜さんが別のレポートを八九鬼目先生に手渡す。


「実は、鳥羽さんの症状におすすめのリハビリプランがあるのですが、見て頂いてもよろしいでしょうか」

「どれどれ……?」

「そこは専門のリハビリ施設ではないのですが、ご覧のプログラムを毎日実施することで鳥羽さんの症状の改善に効果があるのではないかと思うのです」

「ふーん……いいんじゃない……? 僕はいいと思うな……」


 八九鬼目先生の言葉に、黒蜜さんの口角が、僕だけがわかるくらいわずかに上がった。


「さらにご相談なのですが、わたし達は鳥羽さんのお子さんのことを心配しています。まだ小さな幼児で、鳥羽さんとの父子家庭なのですが」

「ふむ……幼児期は性格形成に重要な期間でもあるし……今のこの患者さんの状態で十分な養育ができるかは疑問があるね……。患者も育児から離れて依存症治療に専念した方がいいだろう……。可哀そうだけれど、父子は距離を置いた方がいいかな……」

「では、そのように診断書を作って頂いていいですか?」

「わかった……」


 八九鬼目先生はクスリを追加でボリボリと頬張りながら、黙々と診断書を作成していく。


 鳥羽さんは黒蜜さんを睨み付けた。


「ア、アンタ、いってえ何を企んでやがるんだ!」

「わたし達は常に最善の方法を選択するだけです」


 人形のように整った冷たい顔で黒蜜さんが言った。


「できたよ」


 ぼんやりした焦点の定まらない目になった八九鬼目先生は、出来上がった診断書を黒蜜さんに差し出す。


「ありがとうございます。ああ、そういえば、先生、追加融資の件はお任せください。いつもの口座に振り込んでおきますので」

「うん……。悪いね……。最近、管理が厳しくて……前みたいに僕の権限だけで自由に薬剤を入手できないんだ……。これもほとんど自腹だよ……」


 八九鬼目先生はそう言って、震える手で薬剤が満杯に入った箱を指差した。それから鳥羽さんの方に向き直って手を取って言う。


「鳥羽さん、大変だったね……。依存症は苦しかったでしょう……。これを機にしっかり治して、社会復帰できるように頑張ろうね……。僕も一生懸命にサポートするから……」


 八九鬼目先生はたくさんの目で鳥羽さんの目を覗きながら言った。とても真摯な言葉で、心を込めて言っているのがわかる声だった。


「もしどうしてもリハビリが辛くなったら……この診察室に来てね……。診断書にも書いたけど、第二の治療方針……手足の切断を処置するからね……。楽になれるよ……」


 蒼白になった鳥羽さんの肩を、後ろから黒蜜さんがポンと叩いた。


「八九鬼目先生はいつも患者さんと真摯に向き合っていらっしゃって、感動します。ご安心ください。鳥羽さんが『リハビリ』に耐えられなくなったら、わたしが責任を持ってこちらに連れてきますので」


 これは、もし黒蜜さんのいう「リハビリ」という名前の何かから鳥羽さんが逃げたら、八九鬼目先生に鳥羽さんの四肢切断させると脅しているということなのだろうか。


 僕は鳥羽さんがガタガタと体を震わせるのを見ながらそう考えた。



 再び一階に降りてきた僕達は、呆けた表情の鳥羽さんの翼を黒豹に咥えさせたまま、清潔で明るいエントランスを歩いていた。


「八九鬼目先生のご専門は安楽死です。ただ、月影町住民は基本的に寿命がとてつもなく長いので、あまりその専門が発揮される機会はないみたいですが。それで、普段は様々な外来患者の対応もなさっているのです」

「へえ……」

「当社もたまにお世話になっていますよ。取り立てで相手の体内のものを担保にしている時とか……事例、聞きますか?」

「い、いや……遠慮しておくよ……」


 僕は広がりそうになる嫌な想像を抑え込んだ。


 ふとエントランスの端を見ると、入院患者らしい寝間着姿のカエルっぽい外見の人と、ナース服を着たトカゲのような人が言い争っていた。


「なんだ、お前! 看護婦のくせに、患者様に意見する気か!」

「わたし達はあなたの奴隷ではありません。わたし達はドクターの治療方針に則りケアしているのですから、従って頂かないと。目に余る態度が続くようでしたら、病室を『四階』に移しますよ!」


 その言葉に、患者さんが慌てたように頭を下げる。


「そりゃあ勘弁してくれ! ちゃんということ聞くからよ!」


 そんなやりとりを見て僕は、もしかしたら「四階」はこの病院での必要悪でもあるのかもしれないと考えた。

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