第4話 黒蜜さんの仕事ぶり

4-1 弟との生活

 もうすぐ前期の成績を元に、学校での三者面談がある。この前連絡をとったら母親はあまり興味がないような反応で、三者面談に来るつもりはないみたいだった。別宅に住む父親もあちらの家庭を気遣ってか僕の学校行事に顔を出したことはないし、そうすると誰に来てもらえばいいのか、もしかしたら今回はまたあの人が来てくれるかもしれないと考えながら、僕はアルバイトに行くための道をとぼとぼ歩いていた。


 その時、僕のスマートフォンが電話の着信を告げる。表示されたのは弟のキッズ携帯の番号で、普通はほとんど使われないものだから僕は慌てて電話に出た。


「もしもし、龍児くん? どうしたの? 何かあった?」

「あ、あなた、小野寺龍児っていう子の保護者の方ですか?」


 電話から聞こえてきたのは、知らない大人の男性の声だった。


「えっと……まあ……そうですけど、龍児くんは……? あの、あなたは一体……?」

「あのね、この子、うちのスーパーで万引きしたんですよ。でも、だんまりで。障害のある子なの? 色々聞いても何も答えられないみたいだから、この携帯に登録してある番号に電話してみたんですけど。とりあえず、うちのバックヤードに今いるから、すぐに来てほしいんですよね」


 僕は驚きで電話を取り落としそうになる。相手の店の場所を聞き出して、尻に火がついたみたいな勢いで駆け出した。



 銭亀さんに事情を連絡して、今日は休みにしてもらい、僕は弟のいるという店へ急いだ。


 その店は僕のうちから三番か四番目に近いスーパーで、僕も何回かは利用したことのある店だった。僕は道を走りながら母親に電話する。何度かかけてやっと出てくれた母親に事情を説明すると、溜め息混じりに言われた。


「え~……ごめ~ん、ママ、ちょっと今忙しいから行くのは無理かもぉ。誠児くんが適当に対応しといてくれない? っていうか、龍児くんてば、面倒くさいことしてくれて……あ、ちょっとー!」

「お母さん? どうしたの……?」


 電話口で僕の問いかけに答えたのは、乱暴な口調の男の人だった。


「誰だよ、オメエ! 泉は俺の女なんだからよぉ、ちょっかい掛けてんじゃねえぞ、テメエ!」

「ちょっとー。ハルキくん、やめてよぉ」

「泉、このヒョロそうな声の男、誰だよ!」

「うちの子~」


 電話口で母親と男の人が言い争う声が聞こえてくる。母親の声は少し面白がっている風だった。


「前に言ったでしょ、子供いるってー」

「そりゃ聞いたけど、こんなデカイ子なのかよ!」

「もう一人はもっと小さいよ」

「養育費もらえるから育ててるってやつ?」

「そ。うちの子は金づるだから。下の子は障害あって面倒だけど、その分、上乗せあるし」

「お前、ヒデーな!」

「だってぇ、そーじゃなかったら、ハルキくんとこうやってずっと一緒にいれないでしょ? ずっと一緒にいたんいんだもん!」

「泉……」


 それから、映画の吹き替えで声優さんがやるリップ音みたいな音と、くすくす笑う声がした。母親と男の人は電話からこれらの会話や音が聞こえていないと思っているみたいだ。


「坊主、待たせて悪かったな。母ちゃんに代わるわ」


 電話口で僕にそう言った男性は、一・二ヶ月前に母親と電話した時にいた「男友達」とは違う人みたいで、僕は一瞬、この人に「お母さんの移り気には気を付けてください」と言いたい気持ちに駆られた。言ってもどうにもならないだろうし、言う間もなく電話を変わられてしまったけれど。


「ごめんねぇ、誠児くん。とにかく、ママ、今、忙しいから。いつもどおり、龍児くんのことは誠児くんが面倒見てあげてー。お願~い!」


 甘えるような母親の声に、僕は「うん」と低い声で短く答え、電話を切った。



 店員さんに話しかけてバックヤードに連れていってもらうと、小さな事務所みたいな場所に弟がぼんやりした顔で立っていた。


「龍児くん!」


 名前を呼んでも腕を揺すっても、弟はいつもどおりにぼんやりと僕を見つめ返すだけで、やっとしゃべった言葉も意味を成さなかった。


「誠児くん、龍児くん、誠児くん、龍児くん、誠児くん、龍児くん、誠児くん……」


 僕のことと、僕の呼びかけた声を吟味するみたいに「誠児くん」と「龍児くん」を繰り返すだけ。こういうのはいつものこととはいえ、今日ばかりは焦ってしまう。

 そうこうしているうちに、店長さんがやってきた。店長さんはスーパーのロゴが入ったエプロンを付けた中年男性で、高校の制服姿の僕を見て不審そうな顔をした。


「君が保護者なの?」

「えっと……その……母親は長期出張で不在で――母子家庭なんです、うち。それで、あの……すみません、弟はいったい何を?」

「ああ……うちの被害はこれだね」


 店長さんの指し示した机の上には、ガム、食玩、アニメキャラを象ったチョコレートの他、開封されたスナック菓子が置いてあった。


「袋を破いたお菓子を手に持っていて、ズボンのポケットにも小さいお菓子がいくつか入ってたんだよ」


 僕は青くなりながら証拠品と弟と店長さんを見比べる。


「正確には店を出る前に捕まえたから、未遂ってことになるのかな。うちの店に来ていた子供達がこの子のやってることを見つけて知らせてくれたんだ」

「ご迷惑おかけして、本当に申し訳ありませんでした」


 深く頭を下げる僕に、店長さんは少し表情を緩めて言う。


「君のおうちも弟さんも事情があるみたいだし、お菓子の分の代金を払ってもらって、弟さんが二度とこういうことをしないように気を付けると約束してくれるなら、こちらも話を大きくするつもりはないよ」

「すみません! ありがとうございます……!」


 僕は代金を支払い、改めて頭を下げてから弟を連れて店を出た。



「ねえ、龍児くん、約束したよね。学校から帰ったらおうちでおとなしくしてるって」


 家に帰る道でも、家に帰ってからも、弟は一言も口をきかなかった。自分が何をしたのか、何が悪いことなのかわかっていないのだろうか。龍児くんはいつもみたいに一人掛けのソファに座り、スケッチブックを開いて絵を描いている。


「龍児くん、ちゃんと聞いて。やっちゃいけないことがあるの、知ってるよね?」


 僕は弟について完全に油断していた。

 龍児くんは予定外の行動を嫌う。養護学校の送迎バスを降りたらまっすぐに家へ帰るのは彼の完璧なルーチンワークであり、普通だったらそれを外れることはしないはずだった。


「ねえ、龍児くん、聞いてる? どうしてスーパーなんかに行ったの? しかも、勝手に商品を盗ったり、食べたりなんて……そういうことダメだってわかってるよね。龍児くん、ちゃんと僕の方を見て聞きなさい!」


 僕は弟の顔を掴んで無理矢理に僕の方を向かせた。


「お店のものを勝手に取ってはだめ。学校が終わったらまっすぐに家へ帰る。わかるね!」

「うぁ、うう……う!」


 龍児くんは抗うように叫び、予想以上の力強さで僕の手を剥ぎ取った。びっくりする僕の前でスケッチブックの作業に戻ろうとするから、僕の頭の中にカチンと怒りが湧いてくる。


「いい加減にして! 今日はお絵かきは禁止だよ!」

「うやああああああ!」


 スケッチブックを取り上げると、顔を引き攣らせた龍児くんは絶望したみたいな悲鳴をあげ、感情を抑えられないみたいにその場でジャンプを始める。僕は押さえつけようとしたけど無駄で、弟はどんなに姿勢を崩されても飛び跳ねる行為を止めなかった。


「やめなさい! おとなしく話を聞いて!」

「……ダメ、……カエル、……ダメ、……カエル、……ダメ、……カエル」


 何かをブツブツと呟きながら、弟はその場で繰り返しジャンプし続けた。もうこうなったら、この子はしばらく止まらない。


 気が付くと、僕は奥歯を強い力でギリギリと噛み合わせながら、弟を睨むように見つめていた。


 なんでこの子は僕の弟なんだろう。

 どうして僕の弟はこんななんだろう。

 こんな弟、いらない。こんな弟、生まれてこなければよかったのに!


 これまで何回も思ったことのある言葉が頭の中を駆け巡った。僕は八つ当たりみたいに、テーブルの上の、今日のスーパーで龍児くんが万引きしようとしたお菓子を床に投げ捨てる。


 わかってるよ。

 お母さんからお金に関わること以外では興味を持たれなかった僕は、お母さんがほとんど帰ってこないこの家で、もし龍児くんがいなかったら、きっと一人ぼっちでとっくにおかしくなっていた。龍児くんは僕にとっては大切な弟で、可愛く思う場面もたくさんある。


 でも、その気持ちと、このムシャクシャした気持ちは常に平行して僕の中にあった。さすがに万引きみたいなことは初めてだけど、よその人に謝ったり、いろいろなことを説明しなければならなかったりする場面は今までもたくさんあって、その度に「どうして僕が」という理不尽な気持ちを持った。龍児くんを可愛く思う気持ちと嫌悪する気持ちは、その時々で比率を変えながら僕の中にあり続けている。


 頭とお腹の中に熱くグツグツ煮えているみたいに不快な感覚が溢れそうだった。僕は乱暴に扉を開けてリビングを出る。


 今日はもう寝よう。夕飯もいいや。寝て起きて、朝になればいつもと同じ気持ちに切り替わって龍児くんに「おはよう」を言えるはずだから。


 僕はリビングでぶつぶつ呟きながらジャンプを続ける龍児くんを置いて、自分の部屋に下がった。

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