2-9 救いの「手」

 人を大きくしたり小さくしたりできるという不思議なスタンガンを構えたクロイさんは、半兎の美少年顔に「えへへ!」と無邪気な笑顔を浮かべながら迫ってくる。


 脚に縄が絡まった僕は仰向けに倒れたまま、腕の力だけで後ずさるものの、それで距離を稼げるわけもない。同じく床に横たわる津守屋さんは老化して怪我をしているうえに、あの牢獄みたいな回し車から解放されたばかりの放心状態で、僕を助ける余裕などなさそうだった。


(も、もう駄目かもしれない……)


 僕が半分覚悟を決めた時、それまでニコニコしていたクロイさんの顔が急に恐怖の表情を浮かべて凍りついた。


「ひ、ひゃああああ!」


 ボーイソプラノの声で悲鳴を上げると、クロイさんはペタンと尻もちをついてしまう。赤と青の瞳を見開き、顔の横に垂れた長い兎耳がプルプルと震えている。


「え、な、なに……?」


 一体どうしたのかと僕が目を丸くしていると、右肩を誰かにトントンと叩かれた。


「ん?」


 自分の右肩に目をやれば、誰かの「右手」が置かれていた。


「は……?」


 正確に言うと、「右手」だけが僕の肩に置かれていた。つまり、手首から先の腕はもちろん、体もない。切断された「右手」が僕の肩に乗っかっていたのだ。切断面からはピンク色の肉や白い骨が覗き、ダラダラと流れ出る血や分泌物が僕のパーカーを汚していく。「右手」の爪はカラフルなパステルカラーに彩られていて、それだけは場違いに可愛らしかった。


「ひ、ひいい!」


 僕は悲鳴を上げつつ、意識がぶっ飛びそうになる。ただ、気が遠のく頭の奥の一部が冷静に記憶を掘り返していた。


(なんかこの感じ、既視感が……?)


 そうだ。そういえば、以前、菜摘さんは切断された自分の腕を、再度接続させたような素振りを見せたことがある。ということは、これは菜摘さんの何らかの能力なのかもしれない。見張りを頼んだ菜摘さんが助けを寄越してくれたのかも。


 でも、そんな冷静な判断ができたのもここまでだった。


「ひ、ひゃあ!」

「うわああ!」

「ひええええ!」


 僕とクロイさんと津守屋さんの悲鳴が重なる。


 のそり、と、その「右手」の指が動き始めたのだ。


 五本の指がもぞもぞと甲殻類の手足のように蠢き、ずりずりと引きずるように「右手」が這いずり始める。「右手」は僕の肩を降り、胸を下って床に降りると、五本の指を器用に動かしながら這うようにして床の上を進んでいく。どうやら「右手」はクロイさんに向かっているようだった。


「うひゃあああ!」


 クロイさんはのけ反り、さっきの僕のように床に尻を付けたまま後ずさろうとする。でも、慌てているのか、手が滑ってなかなか動けない様子だ。


 一方の「右手」は尚もクロイさんに近づきつつ、奇妙な震えを見せ始めていた。


「ひ、ひぃ……!」


 僕の喉から甲高い音が漏れた。


「右手」の切断面から、何かが這い出そうとしていた。よく観察してみれば、きれいなパステルカラーの爪だった。さらに、その爪の嵌った指、手の甲までもが姿を見せる。


 つまり、「右手」の切断面から、全く同じ姿かたちの「右手」が這い出てきたのだ。その新たな「右手」もクロイさんに向かって進路を取り始め、さらに、その切断面からもまた新しい「右手」が這い出てくる。それらの「右手」からは、さらに新しい「右手」達が生まれ、以下、それが何度も何度も繰り返された。


「う、噓でしょ……」


「右手」は鼠算式にどんどん増えていった。血と分泌物を床に擦り付けながら、パステルカラーの爪を持つ夥しい数の「右手」がクロイさんに向かっていく。


「きゃあああああ!」


 クロイさんの女の子のような悲鳴を顧みることなく、「右手」達はクロイさんの体を襲い始める。クロイさんのブーツを遡り、手足を掴み、ポンチョを覆い、首から下げた巨大懐中時計に爪を立て、首筋に触れる。


「やめてええええ!」


(グ、グロい……)


 僕は絶句しながら、「右手」に覆われてしまったクロイさんの姿を見つめた。


 ただ、「右手」はクロイさんを傷つけるつもりはないらしく、クロイさんにくっついて蠢いているだけのようだった。それだけでも、精神的ダメージはものすごいかもしれないけれど。津守屋さんも吐きそうな顔でクロイさんの様子を窺っている。


 その時、部屋の扉がギイギイと嫌な音を立てながら開いた。


「やっほ~。誠児っち、ダイジョ~ブ~?」


 軽い口調で部屋に入って来たのは菜摘さんだった。水色と黒のツートンヘアの菜摘さんは、場違いなほどにゆるい笑顔を浮かべている。


 そして、思ったとおりその身に右手はなく、ファンシーでカラフルなワンピースの右袖口が真っ赤に染まっていた。しかも左手には折り畳み式のノコギリが、刃を開いた状態で握られていて、その刀身には赤色のぬらぬらしたものが付着している。


「な、菜摘さんこそ……大丈夫……なの……?」

「うん! 全然ダイジョブ~!」


 菜摘さんはノコギリを握った左腕をぶんぶんと振り回しながら、元気に言った。


「ヤバイことになるかもだったからぁ、途中でうちの右手切って、誠児っちのフードに入れといたんだ~」


 菜摘さんがあまりにもあっけらかんと言うものだから、僕は「な、なるほど……」というリアクションしか返せなかった。実際、途中からなんだかフードが妙に重いとは思っていたのだ。


「あの……菜摘さん、あの右手って……一体……?」

「うん? 右手って、うちの【八つ裂き希望(リスカ・マニア)】のことぉ? なんか変~?」


 にへらとゆるい微笑みを浮かべながら小首を傾げる菜摘さんに、僕は戸惑う。


「いや、別にその、変……ってわけではないけど……」

「じゃあ、おっけ~でしょー?」

「う、うん……」


 無邪気な菜摘さんの様子に、頷く以外の選択肢を僕は思いつかなかった。


「えっと、その……助けてくれてくれてありがとう、菜摘さん」

「どーいたしまして~!」


 菜摘さんは誇らしげに胸を張った。


「とりあえず、真桜子ちゃんと瑠奈ちーには連絡しといたからぁ。もうちょっとで来るってさ~」


 ゆるゆるした雰囲気でそう言った菜摘さん。その足に、「右手」達に覆われたままのクロイさんが抱き着いて懇願する。


「芽衣ちゃん、助けてよおお! ねえ!」

「だ~めぇ! 真桜子ちゃん社長から着くまでそのままって言われたんだも~ん」

「うわあああああん! ケチぃ! え~ん!」


 夥しい数の「右手」に覆われて泣き喚く半兎の美少年に、ノコギリを片手にした右手のない水色髪の女の子と、隅で呆然とする異様に老けてしまった男子大学生、そして、単なる一般男子高校生の僕。


 そんなカオスな状態な僕達は、そのまま十五分ほど待機することになった。

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