第6話


今の進吾にとって、ある種根幹をなすと言っても良いその事件は、小学五年生の時に起こった。


当時の彼には、好きな女子が居た。

活発な女子グループの中に居る、そのグループの中では大人しめな方の女子。

好きになったきっかけとはっきり言えるようなものはなく、ただクラスメートとして交流を重ねていくうちにその可憐な容姿、仕草、笑顔に惹かれていったのだと彼は記憶している。


普段活発な方であったが恋愛に関しては奥手であった進吾は、特にこれといった行動を起こすでもなく、その少女との交流を噛み締めるように味わうだけであった。

受け身に徹していただけに、時折もたされる些細な触れ合いでも彼にとっては幸運の象徴であり、思い出しては悶える夜もあった。

当時のそうした状況に、それほど不満はなかった。

何かの間違いで結ばれれば、という願いが無かったというわけではない。けれど、行動を起こして関係が壊れるほうがよっぽど恐ろしかった。

自分から行動を起こさなければ、変わることのない日々を過ごせるものだと――進吾はそう固く信じていた。


けれど、そんな思いは無知な子供が抱いた幻想であったと思い知ることになる。


事が起きたのは、斜陽が辺り一面を覆う放課後だった。

茜色の教室に、長く伸びた影がよく映えていたのを進吾は鮮明に覚えている。


その日、進吾は教室に残って友達と話していた。

何についての会話だったかなど思い出せもしない、そんなとりとめのない雑談だった。

進吾は雑談をしつつも、教室の後ろに居て何事かをしている女子グループ――正確には好きな女子の様子をチラチラと伺ったりもしていた。

当時の彼にとっては、周囲にはバレないように見たつもりだったが、実際は分りやすすぎると言えるほどに瞭然だった。

小学生男子の恋愛に関する行動などというものは、周りから見ればあからさまなものであることが多い。

進吾もその例に漏れず、普通の小学生であったということだけだ。


さて、進吾達の他愛もない会話に一区切りついて帰る段になった頃のことだ。

進吾は帰り支度をしながら、女子グループがまだ帰らなそうな様子であるのを視界に収め、少し残念に思った。

好きな子との帰り道は正反対だが、もし帰るタイミングが同じならば校門までは共に歩ける。

そんな期待も込めて、帰るタイミングを合わせようと雑談を引き延ばしたりしていたのだが、その些細な抵抗も無駄に終わりそうだと落胆したのだ。

仕方ないと断じて、進吾は肩を落としながら帰り始めようとした。

その時だった。


「外村くん」


進吾が振り返ると、そこには恋い慕う少女が立っていた。

心臓の鼓動が高鳴った。

何故、今自分が呼ばれたのだろう。進吾は一瞬考えたが、特に呼びかけられるような理由は思いつかなかった。

彼は平静を装うつもりで、しかし実際は緊張した面持ちで言った。


「どうしたの?」


尋ねられた少女はといえば、こちらも何故か緊張した表情で何かを言いあぐねている様子だった。口を開きかけては閉じるという動作を何度か繰り返していた。


「……?」


相手のしたいことがよく分からず首を傾げる進吾だったが、ふと視界の端に違和感を覚え、その方向に目線を向けた。

すると、何故か女子グループの全員が進吾と少女の方に一斉に視線を向けている。

彼女らは固唾を呑んでと言った風に、何かこれから起きることを期待して待っているかのようだった。

更に疑念が深まる進吾だったが、女子グループの方に問いを投げかける前に、目の前の少女が口を開いた。


「あのねっ!」


勇気を振り絞って。

そんな印象を受ける彼女の上擦った声は、教室中に響いた。

他の教室に残っていた生徒達も、視線を二人に向けた。


「! ……えっと」


視線が集中したことに気付いた少女は、続きを言うことに躊躇う様に声を小さくした。

ほんのりと赤くなっていた彼女の頬が更に朱に染まり、耳まで赤くなっている。

視線を泳がせた少女は、しかし再び決意を瞳に宿し、唇をきゅっと結ぶ。

只事ではない様子を感じ取り身構える進吾に対して、彼女は再び大きな声ではっきりと言う。


「あのね、外村くんに伝えたいことがあって!」


進吾の心臓がどくん、と一際大きく跳ねる。

ここに至って、彼は予感したのだ。

少女から見て取れる緊張。そして恥じらい。

少女がなかなか紡がない言葉。


その内容はもしや、自分の期待する内容ではないかと。

憧れ、夢見た、目の前の少女から一番聞きたかった言葉ではないかと。


その予感は、正しかった。


少女の口から放たれた言葉は、予感した至高の言葉だった。


「好き、です! 付き合ってください!」


――その言葉を受けた時、進吾の胸は言いようのない幸福感に包まれた。


余りに現実感のない心地に、背後で囃し立て始める男子達の声がどこか遠くで聞こえているような気がした。


「あ、えと……!」


舌がもつれる。

言うべき言葉はもうとっくに決まっているはずなのに、思考が絡まってうまく言葉を紡ぎ出せない。

『今までそんな素振りはまるで見せなかったのに、なんで今いきなり?』。

そんな疑問は湧いてくるものの、投げかけられた至福の言葉の前では些細な問題だった。

せっかく勇気を出して告白してくれたのだから、自分も最大限の誠意で応えたい。

そう思って張り上げた進吾の声は、先程の少女の声と同等、或いはそれ以上に大きな声で。


「俺も、前から君のこと好き、で……! だから、こっちこそ、付き合ってくれると、嬉しいな!」


はっきりと思いを伝えたいと思った為か、一つ一つ区切るように話してしまったが、進吾の胸の内は満足感でいっぱいだった。

予期せぬ告白ではあったが、こうして好きな人から好意を伝えてもらい、自分の思いも継げられたのだ。これに勝る喜びはそうそうない。

進吾が少女を見ると、彼女は目を見開き、これ以上無い程顔を紅潮させていた。

告白はダメ元で、進吾が少女に好意抱いていることは予想していなかったのだろうか。


「……え、あっ、嘘。ど、どうしよ……えと、その」


少女は何度も瞬きを繰り返し、視線を彷徨わせる。

その視線の行く先は、後ろの女子達に助けを求めているかの様であった。

予期せず両思いとなり、困惑してしまっているのだろうと進吾は予想する。

かくいう自分の方も、照れくさくてなんて声をかければいいのか困っているのだから、と。


だが、照れ隠しついでに進吾も視線を彷徨わせ、少女の後ろの女子達と目が合ったところで、ふと彼女らの様子が引っ掛かった。


「……?」


女子グループの面々は、進吾と目があっても目を逸らしたり、下を向いてしまっていた。

彼女らは複数ある女子グループの中でも騒がしい方であるから、こういう時は男子達の様に囃し立てるものだと思っていたのだが。

何と形容すれば良いのだろうか、それはまるでとても気まずい事態になったとでも言うような。


「んーと、とりあえず、ちゃんとお礼はしなきゃだよね。ありがとね! 私、男の子から好きって言われたことなんてなくて、すっごく嬉しかった! ……でも」


『……でも』。

彼女は確かにそう言った。

何故か紡がれた逆説の言葉。


それから、少女は続きを話すことを躊躇うように一度口を噤んだ。

彼女は心底困っている様子だ。


進吾は予感する。

これは何か良くない事態の前兆だと。

少女から見て取れる緊張。そして困惑。

少女がなかなか紡がない言葉。


その内容はもしや、自分を破滅へと導く内容ではないかと。

憧れ、夢見た、目の前の少女から送られる、聞きたくもない言葉ではないかと。


そう、その予感は、正しかった。


少女の口から放たれた言葉は、進吾にとって最悪の言葉だった。


「――ごめんね。これ、罰ゲーム告白なんだ」


遊びで負けた罰ゲームとして、好きでもない男子に告白することになったのだと、少女は語る。


『今までそんな素振りはまるで見せなかったのに、なんで今いきなり?』。

そう思ったのは、間違いでなかったと進吾は思い知る。

進吾は彼女のことを好きだと自覚してから今まで、(恐らくは)誰よりも良く少女のことを観察してきた。

その進吾が、自分のことを好きな素振りを少女は見せていないと思っていたのだ。

ならば少女が進吾に好意を抱いていると考えるよりは、そうではないと考える方が正解に近いだろう。

実際に、少女は進吾のことをあくまで友達としてしか見ていなかった。

進吾はそれをこの場でむざむざと見せつけられることになったのだ。


(――騙された)


その後のことを進吾はよく覚えていない。思い出そうとしても、ぽっかりと空白が浮かび上がるだけだ。


ただ、強く残ったのは「騙された」という思い。


『秘めていた思いを皆の前で高らかに宣言することになってしまった』という悔しさ。

『人の気持ちをよく考えて行動する素敵な女の子だと思っていたが、実際は罰ゲームという簡単なきっかけさえあれば人の気持ちを平気で弄ぶことができる女の子だったのか』という落胆。


それら全て、『騙された』という思いに凝縮され、色濃く進吾の心に爪痕を残ってしまった。


そして、それらの原因を進吾は自分と違う性別、すなわち『女性であること』に因るものだと考えてしまった。

罰ゲームが発生したのが、女子の集まりで起きたことからそう考えたのかもしれない。

或いは、少女の事を見限る一方で、心のどこかで自分の好きだった人、その個人が悪かったと思いたくなかったのも、そう考えた一因かもしれない。


とにかく、進吾はそれ以来、病的と言える程に女性を避ける様になってしまった。


また、現在の進吾の生活の一部であるとも言えるネットゲーム。それについてもこの事件が関わっている。


男性が多く、また、仮に女性であったとしても女性らしさを隠しがちであるネットゲーム。

その特徴的な空間は、進吾にとってぴったりといえる土壌であった。

そうしてハマったのがAGTであり、彼はAGTに依存するように定着し、現在に至る。

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