グラスウォール その五
カフェバー・グリーンドルフィンからはだいぶ離れ、いったいどこへ連れていくのかとストーカー優一が不安になってきた頃、先をあるく小さな身体の女子中学生・凛はおもむろに足を止めた。
顔こそまともなイケンストーカーは緊張した面持ちで指さされた方を見ると、そこには簡易休憩所があった。
薄い灰色のむき出しコンクリートの壁がぼっこりと正方形にえぐれて開いた空間には、背もたれのない薄汚れたピンク色のビニールソファが並べているだけの簡素なもので、通りを挟んだ向かい側の壁にある四台の自動販売機が嫌でも目に入った。
メインストリートに比べればだいぶ幅の狭いこの通路の人通りはそこそこ、道行く人の多くはちらりとこの簡易休憩所を目にするので、もしもの時は大声を出す必要もなく誰かしら助けてくれるだろうとあらかじめ目をつけていたこの場所に、凛はストーカー優一を招き入れた。
五人は余裕で座れる細長のソファの両端にそれぞれが座ると、否が応でもアンバランスな組み合わせの二人は道行く人の興味を引いた。
しかしこれも計算のうち、『きゃー痴漢!』とでも叫べばストーカーの手にある茶色の紙袋の中身は女物の下着――言い逃れはできまいと内心ほくそ笑んでいた凛は、当然それを顔に出すことなくクールを装っていた。
「ねえ、『こいつ』をあげるからあの店には二度と顔を出さないって約束して。つきまとうかどうかは個人の自由だけどさ、迷惑してる人がいるぐらい簡単に想像できるだろ、いい年してるんだから。その代わり手に入るのは千登勢ちゃんの私物――ちょっとやそっとで入手できるようなものじゃないんだ、ビビって臓物飛び出すぞ」
「……わかった。あの店に現れなければいいんだろう。可憐に座る彼女を眺めるのに最高の場所が使えないのは悲しい。たけどその悲しみを吹き飛ばすに値するものをくれると言うなら、悪くない相談だ。ああ、千登勢さんが使うティーカップになりたい。パスタになって咀嚼され瑞々しい唾液との一体感を――」
一人盛り上がる妄想から優一を現実世界へ呼び戻すため、凛はわざとらしく紙袋を鳴らした。
「ブツはこれ。ルビコン川を渡る思いで昨日ゲットしてきた――脱ぎたてホヤホヤ千登勢ちゃんのパンティだ」
カッと優一の目が見開くと、予想外の気迫に凛は思わずうしろへ倒れてしまうところだった。
「と、遠目から見るだけだよ」
紙袋の口を開くと、優一は恍惚な表情でぷっくりと鼻を膨らませるや、思い切り息を吸い込み始めた。
白い粉を鼻から吸い上げるヤク中も真っ青のその勢いに、凛は全身が粟立つのを感じた。
鳩のように胸を膨らませた彼はしばし呼吸を止めると、目を閉じ紙袋から立ち昇るかぐわしいものを肺の隅々まで行き渡らせた。
が、とつぜん激しく咳き込むや固いタイルの上によつん這いとなった。
「騙したな?! これは千登勢さんのものじゃないじゃないか!」
「は?」
優一が大声を上げたことよりも、衆人の注目を集めたことよりも、『これ』が千登勢のものでないことに凛はひどく困惑した。
「このみずみしさが感じられない、ひどくバランスを欠く酸味の効いた臭い、あとからやってくるこの不快な渋味は――躾のなっていない駄犬のように誰彼なく威嚇する暴力女・雪緒のものじゃないか! 僕は騙されないぞ!」
大声を上げた張り上げ拳を握りしめるも、優一はボロボロと大粒の涙を流していた。
「僕はそんなものなんか欲しくないんだ。歯ブラシとかリコーダーとか下着なんて。よりによって狂犬のなんて……あんまりだ、あんまりだよ凛ちゃん!」
あんまりだよとつぶやく彼がゆらりと動くの見て命の危険を感じた凛は、ポケットにつっこんでいた右手を拳銃もろとも抜こうとするも、あっという間に距離を詰められなり両肩を掴まれ完全に動きを封じられてしまった。
掴まれる小さな肩には雪緒の使用済みパンティ、掴む男はストーカー、情けなく鼻水を垂らして女子中学生に泣きつくものの情け容赦なガクガクと揺さぶる。
「ひいぃ事案発生! 事案発生!」
しかし無情にも通りを行く人は一瞬目を留めるだけでやんわりと無視し、下着を売って生活の糧を得る者への同情を胸にいだきながらも、そういう手合いと関わりあうのを避けるのだった。
「なにを根拠に?! 恋は盲目、ゆえに愛はすべてが許される!」
「わかった、わかったから、ちょっと落ち着け!」
涙に鼻水を垂らして迫るストーカーを引き離そうとするも、大人の男の力に屈してしまう凛は己の無力さを情けなく思いながらも、優一の手から逃れようと懸命にもがいていた。
落ち着きを取り戻そうと深呼吸するために、二人はソファの両端へと向かいそれぞれ距離をおいた。
なんと表現すべきか――涙ぐみながらすがりつく優一がどういうわけか可愛らしく思え――凛は純情路線を変な方向にこじらせたであろう彼の話を聞いてみたいという欲求に駆られた。
「……ねえ、見た目ちょっとはいいんだからさ、ストーカーなんて恥ずかしいことやめて正面からぶつかってみたら? 大人なんだし。だからさ、千登勢ちゃんのことどう思うか話してみ」
「……千登勢さんはどういうのが好みなんだろう。僕みたいなのはどうかな?」
「知らんがな」
話してみろと言ったにも関わらず、どうしようもないことを口走る優一に、ついつい凛はバカにしたよう笑いを漏らしてしまった。
「そこ重要でしょ、ていうかなんで調べてくれないの?」
「なんでって。千登勢ちゃんは、普通だよ、みんなと同じ。かわいいものが好きで、甘ったるいものが好き。いつもニコニコ笑ってて女の子女の子してるくせに、妙に肝が据わってる。ときどき鉄兵と二人でコソコソなんか話してるけど雪緒ちゃんもなに話してるか知らないみたい。んー、男の趣味はたぶん何でもいいんだよ。自分のことが好きなら何でもいいんだと思う。顔の良し悪しはたぶん二の次。あー、でもよく鉄兵といること多いからああいうのが好みなのかも。でもそんな素振りは見せないしなー。むしろこっちが聞きたいくらいだよ」
苦笑いをしてやれやれといった具合に両手をあげる凛に、優一は真剣な表情で言った。
「あの大男のことが気になる?」
「はああああああああああ?! 突然なに言っちゃってんのこの犯罪者は?!」
「じゃじゃ馬に相談はしてみた?」
「ダメダメ、雪緒ちゃんはそういうのは無理なの。棒状のものなら男の竿よりカタナ振り回してるほうがいいっていう脳筋なんだから」
「え、ああ、そうなんだ……」
「つーかさぁ、恥ずかしげもなくガラスにくっつくぐらい執着するならさっさと告っちゃえばいいじゃん。あの性格だから案外オーケーもらえるかもよ、そうだ、そうしよう」
そしてさくっと撃沈してしまえ、と凛はほくそ笑んだ。
「そんな、まさか。そうやっておだてておいて、フラれるのをみんなで陰から覗いて楽しむつもりなんだろ? 僕には分かってるんだ。それにやっぱりバランスってのがあるよね。とても僕なんかじゃ釣り合いが取れないよ。だから僕には陰から千登勢さんを見ているしかないんだ……」
「面倒くさいやつだなあ。だいたい隠れてないし」
頭をかかえる優一はなにかを思い出したかのように、とつぜん顔を上げや髪を振り乱して凛の方を向いた。
その妙に大仰なアクションに、凛はキモいなと思った。
「だいぶ話が変な方に向かってるけどそうじゃないんだ。いや、確かにそうだけど違うんだ」
「よし、まずは落ち着けこの野郎。順序立てしゃべるんだ」
「確かに千登勢さんが好きだけど、僕はまず『ありがとう』を言いたいんだ」
「はあ?」
凛の頭いっぱいを埋めつくすクエスチョンマークなぞつゆ知らず、優一は淡々と語り始めた。
毎日毎日、大量のモノが届く。
僕の仕事はそれを捌くこと、ようは仕分け。
ハブラシはこっち、修正ペンはあっち、バスタードソードはそっち――だけど鞘なしだから気をつけて、という具合。
カゴいっぱいのナックルダスターや延長コードをあっちの棚へ、こっちの棚へ。
両手に持ち、肩に担いでは、上げたり下ろしたりの繰り返し。
いつも人手は足りないけどれど、増える気配はない。
いつもいつも文句を垂れ流してるアイツは『辞めてやる、いつか辞めてやる』を念仏のように繰り返すがいっこうに辞める気配はない。
辞めるキッカケをを今か今かと待ち受けるものの、いっこうに大事件が起こる気配もない。
つまり今日も平穏無事に単純作業の重労働が終わる。
疲れきった身体はただ威張るだけの上司を殴る体力さえも奪い、就業時間前には確かにあったその決意さえも奪い去る。
仕事を辞めたあとのこと、漠然とした将来の不安について考えるのも億劫で、ただ心地良さを求めるのだ――たとえそれがどんなに安っぽくバカげたものでも構わない。
同僚は使う上限をつぶやきながら、酒と女を求めて歓楽街へ。
僕はまっすぐ自分の城――畳五枚ほどの広さしかない――ささやかな聖域へ。
いったい何時になったら正常運転するのかと思えるようなスローモーションで数字が繰り上がる、僕のスコア残高は悪くない数字だ。
しかしどうしたものかと思案するものの結論はいつも決まってる。
遣わない。
酒や女を買うのは無駄、かといって素敵な雑貨を飾るほど我が家は広くない。
僕が特別ってわけではなく、誰もがそうなのだが、所有が制限されている。
単純に物不足が原因じゃない――余分な金も、スペースも、心の余裕もないのだ。
時間だけはよくわからない。
職場と聖域との往復の往復で感覚は麻痺している。
仕事中は時計の針がまったく進まないのは故障かと思っているがそうではないようだ。
大災害か核戦争で地下街や地下シェルターに閉じ込められたような生活が続き、季節・曜日・いま何時であるのか常に曖昧だからだ。
そんなわけで起きて仕事に行き、帰ってきて寝るだけのシンプルさも相まって、この世界に迷い込んで何週間・何か月・何年経ったのかがわからない。
多くの人間がそうであるように、僕もどうでもよく、
スコアを貯めればここから元の世界に帰れるというが、いまの仕事じゃあと百年はかかる。
かといって、『迷宮探索者』になるのは嫌だ。
緑の公衆電話から化け物が現れたのを見たことがある。
迷宮探索者がダンジョンからワープしてくるときの出口が、緑の公衆電話なのだそうだ。
七人が死んだ。
身の毛もよだつほどの醜い姿、そしてあの臭い、恐ろしい。
映画や小説のように、異世界へ飛ばされた場合に主役級以外のその他大勢を待ち受ける運命は語られないし、語る価値もない。
その内容はひどくつまらないからね。
物語同様に語られなければそれっきりだが、もといた世界と同じくここで死んだら最後で後がない。
どこかから美術スタッフやメイクさんが出てきて、血糊で汚れた衣装を取り替えたり化粧を直してはくれないのだ。
だから地道に稼ぐほかない。
毎日毎日のルーチンワークの積み重ねが大事。
ところ変わればというが、異世界に来ても平凡な日常は続くのだ。
特別なイベントはいつも危険で、どこかの誰かが必ず死ぬ。
そいつが学校の先生をやっていたのか、OLをやっていたのか知らないが、ここに来たならば人生の仕切り直しをさせてくれるものの、倉庫作業員Aか配達請負人Bとかになってあとは単純作業のお出ましだ。
堂々めぐりの日常が終わることはない。
ときどき考える――職場と寝床を行ったり来たりするときに生じる熱量で世界が動いているのではないかと。
もちろんその受益者はどこか別のリラックスできる空間でよろしくやっているのだ。
みじめな毎日が嫌ならば『迷宮探索者』になるしかない。
リスクに見合った報酬を与えられる代わりに、失敗すれば良くて死亡、運が悪ければ不具となって単純作業従事者Cとなってごくごくわずかな――一桁二桁少ない――数字を稼ぐしかない。
しかしこれはレアケース、たいていは物乞いか自殺する運命を受け入れる他に選択肢がない。
とにかく余裕のない世界なのだ。
自分でさえ手一杯なのに他人を好き好んで面倒見る人はいない。
かといって互助精神をすっかり忘れてしまった人ばかりではなく、仏教系からクリスチャン系に得体のしれないものまで様々な団体が様々な名目でもって弱者救済に精を出している。
本当の目的は弱者の上前をはねようとすることかもしれないのだが。
化け物の襲撃・派閥の抗争等ときどき殺伐としているものの、それ以外は元の世界の延長線上にあるつまらない毎日の連続に、僕はそれなりの折り合いつけていた。
――そんなある日、僕は彼女に出会ったのだ。
「ゴホン、ここからが本番なんだ」
「え、まだ続くの?」
怒れる凛は、優一に自動販売機へ行くよう命じた。
ストーカー優一は一瞬ためらうも自分の『赤いカード』を読取機にかざして缶ジュース一本分の精算を終えた。
それが棚から棚への往復何回分になるのかをざっと計算する自分が映る自動販売機に、侮蔑の笑みを向けた。
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