グラスウォール その四

 くぐもった砂嵐に知っている声ふたつが、やはりくぐもって聞こえる。


 白熱灯の強い光を頭上にいただき、二本のおさげのひとつを解いた凛は、自身の影を見下ろしていた。


 その影の中の奇妙なカタチに丸まった布製品と己を見つめ、脱衣場に一人佇んでいた。



 ボーナス――頭から離れない言葉のひとつ。



 パフェを食べたあとで千登勢ちゃんのあざといクシャミを受け止めた、このハンカチを持っていったらなら、あの男はいくら払うだろうか。

 

 P90の頭金ぐらいもらえるかもしれない。

 

 なんせ相手はストーカーだ、金に糸目をつけないはず。


 いや、冷静になれ凛、よく考えるんだ。

 

 ハンカチのとなりにいる8の字型のそれの方が良くないか?


 それは千登勢の脱ぎたてパンティ――ほのかに温もりを感じる、柔らかな一品。



「いやいやいや、これはシャレにならないよ――」


 独り言をいう凛はやれやれといった感じで顔を横に振った。



 だが待てよ、この特大ボーナスに対する報酬は正味いくらになるだろうか。


 

 P90が買えて、なおかつお釣りが出るぐらいもらえるんじゃないか?

 

 聞くところによると千登勢ちゃんのファンクラブがあるらしい。


 ならばそれ相応の価値があり、それ相応の額で取引されるのではないだろうか。


 ストーカーというのは仮の姿か?


 

「カンプピストルとかグレネードランチャーあったら便利なのにな――」


 ため息をつく凛の小さな心臓が飛び上がった。

 

「凛、そこでなにをしているんだ?」


 曇りガラスの向こうに人影が現れた。


 輪郭はぼやけているが、間違えるはずはない。

 

 恐怖の大王その人が扉に手をかけた。



 ――ええい、ままよ!


 

 凛は洗濯カゴに手をつっこみ、掴んだ柔らかなそれをジャージのポケットに素早くおさめた。


「どうした、調子でも悪いのか?」


 大量の湯けむりの中から、髪を下ろした雪緒が現れた。

 

 濡れた髪をすべり落ちる雫を追うように、視線は自然と下へ、自分と異なる大きさの乳房に答えた。


「え、いや、別に。はやく背が伸びないなと思って」


 ひきつった愛想笑いに雪緒は真面目くさった顔で答えた。


「嫌がらずに牛乳を飲め、それからまいにち棒にでもぶら下がることだ。それよりあの男から何を受け取――ちょっと、やめなさい千登勢」



 風呂に入ったときのいつもの儀式とも言うべき男根不在の乳繰り合い。


 

 千登勢は自分の巨大なものを雪緒の背に押しつけ、後ろから雪緒の形のいいそれを遠慮無く揉みしだくのであった。

 

 普段は絶対に見せることのないクネクネ動きで雪緒は逃げようとするが、千登勢の完璧な指使いとホールドから逃れることはできなかった。

 

 まんざらでもない様子の雪緒をみれば、案外悪いものではないのかもしれないと思いつつもやはり儀式に参加する資格がない――凛は薄い胸板から手をのけた。


 外からポケットのふくらみを確認し、緊張に唾を飲み込む凛は覚悟を決めると、今日だけはきちっと脱いだ服をたたみ、おさげをほどき浴室の戸を開けた。

 

 白い湯気のベールが迎える先には、きゃっきゃとはしゃぐ千登勢と顔を赤らめる雪緒がまだじゃれ合っていた。


 凛は報酬ばかりに気を取られていた自分にすこし嫌気が刺した。

 


 大事な友達で仲間の千登勢ちゃんをストーカーの魔の手から救わねば!



 そう思いながら湯船のお湯を桶にすくって修行僧のように頭からかぶった。


 しかし凛はまごうことなきお年頃の女子中学生、修行僧の真似事ぐらいで物欲を断ち切ることはできなかったのだった。





 無精髭をはやした外国人のその男はウイスキーをひとくち口に含んだ。

 

 見た目は戦いに疲れた戦士のようで、愛剣を椅子に立てかける彼はまさしく西洋騎士の格好をしていた。


 彼は目頭を揉みながらとうとうと語り始めた。

 

「ある寒い日の夜遅く、まだ右も左も区別のつかない幼かった俺は、物音に目が覚めた。


 部屋のドアを開けると、ヒゲを生やした男とばったり出くわした。


 あまりの出来事に声も出なかったが、それは向こうも同じようで、目を白黒させてた。


 やがて彼は固まってる俺の前に跪くと、優しく微笑んだ。


 それから俺をベッドまで導くとかいがいしく毛布をかけ、俺が眠りにつくまで優しく頭をなでてくれた。


 朝起きると、赤と緑と金の包みが枕元にあった。それは欲しかったオモチャだった。


 両親に昨晩のことをたずねると、それはサンタクロースだよ、という答えと笑顔が返ってきた。


 俺は幸せな気分で一日中オモチャを抱いて過ごした。


 だが大人になった俺は気づいてしまったんだ」


「待て待て、ここにきて夢のないことを言うなよ」


「あれは母親の浮気相手だっだんだ……」


「純真無垢の子供時代よさらば、か。それでお前の弟はサンタさんからのプレゼントってわけか?」


「お前はなにを言っているんだ? 俺の弟はコウノトリが運んできたんだ。親父はそう言ってたし、そう信じてる」



 こんなどうしようもない話が聞こえてくるものの、凛はカウンターに肘をついて無表情に氷を噛み砕いていた。

 

 約束の日の当日、グリーンドルフィンにて約束の時間になるまで待っているつもりだったが、ニコニコ顔の吾郎からサービスを受けてなんとなしに甘酸っぱいソフトドリンクをちびちびとやっていたものの、緊張のため思いのほかハイペースで飲んでしまい既に空、なんとなしに氷を噛んで時間を潰していた。

 

「鉄兵は今日のこと知ってるのかい?」


 会計処理を終えた吾郎は、二杯目を用意しながら心ここにあらずの凛に尋ねた。


「知ってたらここにいらんないよ。ま、千登勢ちゃんが報告してるだろうから時間の問題かもしんないけど」

 

 カウンター向こうの吾郎の方へ振り向くことなく、談笑する客達がならぶウインドウから目を離すことはなかった。

 

「その紙袋は秘密兵器?」


「まあね――あ、来た」


 凛はスツールから降りると、ホルスターから抜いたシグザウエル・P239のスライドを動かし、初弾が装填されていることを確認するとジャージの右ポケットにつっこみ紙袋を手にとった。

 

「ごちそうさん」

 

「お粗末さまでした。怪我しないようにな」


 それには答えず二房のおさげを揺らしそそくさと店の入り口へ向かう凛の背中に吾郎が頷くと、ウインドウ側の席にいた女二人がウインクを返した。


 しかし動いたのはウインドウとカウンターの中間にあるテーブル席から立ち上がった男四人で、うち三人は優男と並んであるく凛の後を追ったのだった。


 何食わぬ顔で会計をする吾郎が再び頷くと、女二人がやっと立ち上がった。

 

 ジーンズにロングブーツ、革の胸当て、短剣とマカロフPMを腰に携え、装備も見た目もまったく同じの女達は蠱惑的な流し目を残してしずかに男たちと凛の後を追った。


  

 ランクは中の下――監督不行き届きは保護者責任、自主性を尊重すればすぐこれだ。


 かといって過保護すぎたら思春期のお嬢さんから反発を食らう……難しいもんだ。


 とはいえ、大人がちゃんと護ってやらないと。



「さて鉄兵にはいくらで請求しようかな……」


 吾郎は手付かずの二杯目を手に取り、カウンターの後片付けを始めた。

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