門出
浮つく心持ちの鋼太郎は今日何度目かの身の回り品の点検を再開した。
胸や太ももを叩き、両腕を上げて身につけた装備品の数々をチェックする。
学生服は既にどこかの好事家の手に渡り二度と袖を通すことはない。
結構なことだ。
そのスペシャルな嗜好の恩恵を授かり、銃以外の装備品を揃えることができた。
カーゴパンツ・コンバットシャツ・ソフトシェルジャケットそしてブーツ。
パラコードを編んで作られたブレスレット・ベスト状のプレートキャリアー・マガジンポーチ・バックパック。
バックパックの中身は、救急キット・ポンチョ・折りたたみ式スコップ等々。
MP5用の予備マガジン、大量の9mm弾、そして餞別としてもらった手榴弾とスタングレネードがひとつずつも荷物に加わる。
そして黒とオレンジのツートンカラーのカジノ用チップ。
「忘れ物、ない?」
「――ええ、ないと思います」
「ちゃんと『御守り』も確認した?」
鋼太郎は紐を手繰り寄せ、シャツの隙間から巾着袋を取り出して見せた。
「持ってますよ」
用意された朱色の巾着袋にカジノチップを入れ、首から下げているのを見せると、桜子は満足そうに頷いた。
本当にこんなものでモンスターからの攻撃を防ぐことが可能なのだろうか。
担がれているのだろうか? 桜子の性格を考えるとつい勘ぐってしまう。
どう考えてもこんなガラクタにそんな効果があるとは到底思えない。
どんな突拍子のないことでも、独自の法則が働き、影響を及ぼす。
これまで見知った世界とは別の、少し不思議な世界。
これはそんな世界の一例。
「まだ信じられない?」
「眉唾もいいとこですよ」
「じゃあ試してみよっか――」
桜子の右腕がゆっくりと動き出すのを見て、鋼太郎は青ざめた。
この人なら本当にやりかねない。
効果を認めさせるために、必ず僕を撃つだろう。
カジノチップは、あらゆる物理攻撃に耐性をもつという。
慌てふためき制止を試みるが、時すでに遅し。
桜子はヤル気まんまん、いつでも銃を抜ける状態にあった。
「冗談よ。迷宮探索者なら誰でも持ってる必需品だからこの機会に覚えておいて。それは『加護タイプ』、鉄兵が持ってるのが『防具タイプ』。『加護タイプ』は持ってるだけで力を発揮してくれるわ。怪我をしにくくなるとかお腹が減りにくくなるとか効果は様々」
「鉄兵さんもこのチップみたいな小物を持っているんですか?」
「あいつのは腕輪と首から下げてるメダルがそうよ。腕輪には鎧が、メダルには盾が封じ込められてる。任意のタイミングで収納と展開ができるスグレモノ。鉄兵はあれでもベテランだから、装備は良い物持ってるわ」
「へえ、一瞬で装着できるなんて戦隊モノのヒーローみたいですね」
「さすがに一瞬は無理よ。モノによるけど、喚び出すのに五分ぐらいはかかるわよ」
「そこまでお手軽じゃないんですね……」
「それでも常に持ち運ぶ労力や装備する場所を選ばないから十分過ぎるほど便利だと思うけど」
「それもそうですね。ということは、やっぱり――」
「もちろん。大金かければ大怪我や死を回避できると思えば――安いもんでしょ。実際ダメな時はダメなんだけどね。さっきまではピンピンしてたのに、一発で首を切り飛ばされたー、なんてのもよくあることよ」
「高いんですね……」
鋼太郎は巾着を握りしめて下唇を噛み、その場にしばし立ち尽くした。
一体いくら注ぎ込み、なぜあの人はここまでしてくれるのだろうか。
どうしても自分の価値を疑わざるを得ない。
善意にしては過剰供給だ。
それこそさっき言っていた通りに、一瞬にして首を切り飛ばされでもしたら、どうなってしまうのか。
全ての人の期待を裏切り、全ての時間・モノ・カネを無駄にしてしまう。
また代わりを探し、また訓練を施さなければならないという徒労に心沈む。
諦め。
全てが無駄となったしまった虚脱感。
彼はどんな表情をし、そのとき僕はどんな言葉をかければ良いのだろうか。
そうか、僕はそのとき死んでいるんだっけか――。
鋼太郎の口許が歪み、昏い笑みが浮かんだ。
それを眺める桜子は少し困った顔をしながらも、柔らかく微笑み、ソファーのシートを軽く叩いた。
「ちょっとこっちに来て座って」
鋼太郎は言われた通りに横に座ると、両膝にそれぞれ肘を置き、組んだ両指の複雑な重なりをじっと見つめた。
それぞれ別方向を向く組んだ指先は、手の甲を噛んで引き締まる。
それを見下ろす桜子は慈母の如き温かさで見守っていた。
桜子さんが何を言わんとしているのかは明白、それに対する答えは既に出ている。
迷うことはないと思っていた。
しかし申し出を断るのは非常に辛く、どうしても後ろ髪を引かれる。
様々に訓練と称して酷い目にあったのもそれが自分を鍛えるためと思えばこそ、愛のムチとして受け入れることが出来た。
いま岐路に立っている。
だが、僕の決意は固い。
「もう少ししたら鉄兵が来るわ。だから、二つの内のどちらか選んで」
そう言うと桜子は足許から灰色の布に包まれた筒状のものを取り出し、テーブルへ静かに置いた。
包みの長さや膨らみ、テーブルに置いたときの重量感ある響き、それがなんであるかの見当をつけた鋼太郎は静かに包みを開いた。
ほぼ思っていた通りのものが出てきた。
「スプリングフィールドアーモリー・M1Aのバレルを切り詰めたスカウトスクワッドモデル。M14の民生品モデルだけどウッドストックで、私が調整した特別製。バレルが短くなった分、取り回しが改善されてる。気に入ったのならあげるわ。ただし条件付き。これを選ぶなら――分かるわよね、私の元で働いてもらうことになる」
「もうひとつは?」
「見てわかんない? これよ、これ!」
桜子は両腕を軽く広げているだけで、これといった品を手に持っているわけではなかった。
クエスチョンマークいっぱいの鋼太郎が首を傾げた。
「分からない? ハグよ、ハグ! 鉄兵を選ぶなら、私を抱きしめなさい」
桜子はニヤニヤと笑いながら挑発するように両の手の平をピラピラと動かした。
「……鉄兵さんとハグとの関係がいまいちよく分からないんですが」
「私がしたいからやってるの、文句ある?」
「支離滅裂ですよ」
「女は私利私欲に正直な生き物なのよ」
鉄兵さんと桜子さんのどちらを選ぶかは明白。
心変わりするはずはない。
そう、心変わりするはずはないと思っていたのに。
『実地訓練』と『儀式』。
あんなものを見せられては――。
しかしまずは拾ってくれた恩を、返さなければならない。
桜子さんに対してもそれは同様だ。
それでも筋は通さなければならない。
しかし考えてみれば、これほどわかりやすい筋道もない。
この年上の女性は知っているのだ。
結局のところ何をどうしようと、僕がどちらを選ぶのかを。
「それじゃあ、ええと……失礼します」
根負けした鋼太郎はおずおずと身を寄せ桜子の背に腕を回した。
一方桜子はわざとらしく溜息をつくと、右腕は鋼太郎の頭に、左腕は背中へと回した。
マガジンポーチやプレートキャリアーに妨げられ、肢体の柔らかさを感じることはなかった。
しかし執拗に頬を寄せる桜子の頬骨の感触と鼻をくすぐる強い香りは、脳を痺れさせ、全身を粟立たせた。
「はぁぁぁ~、ちょっと残念」
「何がですか?」
「なんでもない。はぁぁぁ~、落ち着く。ずっとこうしていたい」
「勘弁して下さいよ。鉄兵さんに見られたら面倒なことになりますから」
「やめて。いま他の男のことなんて考えたくないんだから」
「……」
「まあこうなることは分ってたんだけどさ。やっぱりあんなデカブツに負けたと思うと、オネーサン泣きそう」
「何の話してるんです」
「……迷宮探索に限界を感じたら、いつでもここに帰ってきていいのよ。とにかく残念。ここで一緒に働いて欲しかったわ」
自分の匂いを染み込ませんとするかのように、桜子は身をよじり、きつく抱きしめた。
「桜子さん以外はそう思ってはいないようですけど」
「表向きはね。例え鋼太郎くんみたいに全く何も知らなくとも、部外者にはとかく厳しいところなのよ、ここ。もう……知ってるでしょ」
「……ええ。本当に色々とありがとうございました。手伝えることがあったら、いつでも呼んで下さい。桜子さんの為なら……何でもやります」
「嬉しいこと言ってくれるわね。でも私の為じゃあ、困るのよ。それに鉄兵が絶対に許さない、あいつと別れない限りそれは無理よ」
「……そろそろ、行きます」
「銃のメンテナンスもあるから、必ず顔を見せに来て。約束よ」
桜子は鋼太郎の後頭部をクシャクシャにかき乱し、一層きつくきつく抱きしめた。
「……お願いだから死なないで。迷宮には迷宮特有の理不尽さが、あなたやあなたの仲間を弄び殺すわ。鉄兵の言うことをよく聞いて。なんだかんだでアイツもベテラン、迷宮からの生還に長けてる」
「……はい」
「だけど忘れないで。覚えてるかしら、鉄兵のウィークポイント。べらぼうに強いわ、だけど明確に存在する弱点が、アイツ自身と仲間を死に至らしめるわ」
「……」
「私が教え込んだとおりに徹底的にやりなさい。それが彼らの命を繋ぐ最善の方法」
「……」
「――鉄兵は、人を殺さない。特にあの子達の前では。だけれど迷宮の中では、そんなことお構いなしの人間がいることを覚えていて。子供達で構成されたパーティーを見れば、粗末なモノをおっ立てて襲ってくる人間にいつかは遭遇する。男は殺されるか、奴隷商人に売り飛ばされる。女であればその場でさんざん犯された後、奴隷商人に渡り、別の誰かに犯され続ける末路を送ることになる。そういう輩から逃げるのにも限界がある。そのときに、限界ギリギリを、鉄兵が躊躇する一瞬に訪れる悲劇を、鋼太郎くんが撃ち破り、仲間を救いなさい」
「はい。その時は必ず」
そう、僕の決意は固い。
決して褒められるような内容ではない。
半端かもしれない。
それでもそういう技術を手に入れたならば、自分を拾ってくれた彼らを救えるならば。
例え彼らに嫌われることになっても構いはしない。
つまりそういうことなのだ。
「はー、やだやだ。ガラにもなく泣いちゃいそう。年とると湿っぽくなるのよねー」
重ねていた身体を名残惜しそうに離した桜子は、鋼太郎の両肩を掴み、鼻声で言った。
口を尖らせてすする鼻は赤く、目の端には溢れんばかりの煌めく粒。
それでも笑顔を作る口許から覗く歯は白く輝いていた。
しかし唐突に桜子は、手の平に判を押すようにして右拳を叩きつけた。
「おっと、もう現れてもおかしくないな。ちょっと目を瞑ってて」
「突然なんです?」
「いーから、いーから。年上の言うことは聞くもんよ。さあさ、早く早く!」
桜子はこれまたわざとらしく、舌なめずりをした。
鋼太郎は眉をひそめて訝しんでみたものの、ルンルン顔の桜子はその理由を明かそうとする気配は一切なかった。
お返しとばかりにわざとらしく溜息をつくと、鋼太郎は諦めて目を閉じた。
下心ともいえる仄かな期待を胸に。
「これで満足しました?」
「オーケーオーケー、そのまま動かないで。あー、ちょっと緊張するなぁ」
桜子が何度も手をこすり合わせる音を、鋼太郎は耳にした。
そして咳払い。
「聞いて。うちのコミュニティに参加しないのは、もうこの際どーでもいい。降って湧いた仕事が気弱な少年を鍛えろだなんて拍子抜けしたけど、鉄兵の目に狂いはなかったみたい。もう少しの間あなたの成長をするところを見ていたかったわ。これはご褒美、そのまま動かないで……」
これはやはりアレなのだろう。
否が応でも胸は高鳴り、つい鼻息が荒くなってしまう。
心臓が肋骨の隙間からはみ出しそうなくらいに暴れている。
右肩を掴まれた拍子に身体が跳ねる鋼太郎は、目を開きたい思いに駆られるも、そのまま成り行きに任せることにした。
ソファが軋み、桜子が身を寄せるのが分かった。
そして顔の正面に、何かがゆっくりと近づいてくるのが感じられた。
目を瞑っているからこそ、多くのものを感じることができる。
重心が移動していることを教えてくれるソファ。
つばを飲み込む喉仏の上下運動。
香水なのか、シャンプーなのか、いまはもう慣れた女の匂い。
衣擦れ。
焦れったいほどにゆっくりと近づく熱を帯びる何か。
――そして、遂に、正体を知る。
「――――!」
衝撃といっても過言ではない、その行為に思わず鋼太郎は目を見開いた。
見たのは顔を赤らめている桜子の姿。
ただし笑いを必死にこらえ、右手の人差し指と中指を鋼太郎の鼻の穴に突っ込むいい年をした大人の女。
フーフーと鼻息あらく吹き出しそうになるのを我慢している、心底嬉しそうな顔をした武器商人。
鋼太郎はその手を振りほどき、鼻を押さえながら顔を真っ赤にして問いただした。
「こ、これは一体なんの真似なんですか!」
「ねー、ねー、キスすると思った? ね、そうでしょ? かぁー、若いのう」
「お、男の純情を弄んで……」
「見え見えの下心で、鼻の穴おっぴろげてるからよ。いつか足許すくわれるわよん」
かっかっかっと大口を開けて笑う桜子に、ふつふつとたぎる怒りは、今まさに頂点を迎えようとしていた。
「よう、邪魔すんぜ」
ノックもせずに桜子の部屋に足を踏み入れた鉄兵は、その光景を見て硬直した。
くっつきそうなほどに身体を寄せ、右手を桜子の顔に近づける鼻息荒い鋼太郎も、同様に硬直した。
そうはさせまいと抵抗するが嫌がっているふうはなく、むしろ喜色を浮かべる桜子は、待ってましたとばかりに笑顔を向ける。
「鉄兵、どうよ! この成長した姿を! 年上の女の唇を奪わんとするこの勇姿!」
「……俺はプレイボーイを注文した覚えはないんだが」
「ちょ、ち、違うんです。これは、誤解しないで下さい!」
「その台詞はラッキースケベを約束された者のみが使用を許される神聖な言葉だ。事後だろうがなんだろうがイイコトは経験済みなんだろう? まぁなんにしてもやるならやるでもうちょっと周囲に配慮しようぜ、お二人さん」
「だったらノックしなさい」
「よく言うぜ。鍵をかけてないってのは、つまり踏み込んでくれってことだろ?」
違うんです・誤解ですと震える声で鋼太郎が訴えるものの、何かを悟ったように逞しい顎をゆっくりと上下させて頷く鉄兵は聞く耳を持たない。
一方で桜子といえば、わざとらしく胸元のボタンを掛けたり、スラックスのジッパーを上げ下げしたりと、燃え上がる悪戯心は芸が細かい。
「しばらく見ないうちに――男になったな。だが趣味が悪すぎんぜ、鋼太郎君よ」
背もたれが死角となって鉄兵からは姿が見えない、ソファに寝転んだ桜子はニコニコと笑いながら必殺のウインクを送る。
しかしそれを横目で見る鋼太郎の表情は複雑、迷い犬のようなオロオロとした仕草に桜子は思わず笑い転げた。
「リンコが機嫌を損ねる前に上へ戻るぞ」
こうして理不尽な暴力と敵を殺すための手続をひたすら繰り返す日々は、この時をもって終了することに、鋼太郎は言いようのない安堵感に包まれた。
しかし一方で、昏い思いがタールでべったりと心を塗りつぶしていくような、このコミュニティでの生活も子供のように笑い絶えずちょっかいを出す桜子がいたからこそ耐え抜くことが出来たのかもしれないと思うと、寂しさを感じずにはいられなかった。
彼女との奇妙な共同生活もこれで終わりを迎えるかと思うと、胸の内で吹き荒ぶ寂寥感にこごえた身体が堪らず震えだす。
それとは裏腹に目頭が急速に熱を帯び、ついに涙がこぼれた。
桜子はそんな鋼太郎の肩を抱いて顔を寄せた。
「これぐらいで泣かないでよ、今生の別れって訳でもないんだし。これ、忘れない内に渡しとくわ」
強引に握らせたそれは、グロック23の第四世代。
装弾数13発の.40S&W弾を使用するコンパクトモデル。
ボディフレームはオリーブドラブ、スライドは黒のツートンカラー。
「マジックショットが出ないんだから、これぐらい持っておいて。寂しくなったら私の代わりにこれをシコシコしなさい」
最後の言葉がそれか、と呆れる鋼太郎であった。
泣き顔で別れるよりは笑って別れるに越したことはない。
だからどしようもない下ネタへの評価を示そうと顔の筋肉をなんとか動かしてみよう。
八の字眉の鋼太郎は苦笑い、対するは満遍の笑み。
涙で光が乱反射する滲む視界の中で、桜子はきらきらと輝いていた。
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