吾郎

「ご注文はココアがふたつ、エスプレッソのダブルがひとつ、カフェモカがひとつ、ホットコーヒーがひとつ。以上でお間違いありませんでしょうか。お会計は――」


「全部一緒で」


 客で混み合う光量を落とした薄暗い店内をぼんやりと眺めながら鉄兵は答えた。


 そして思い出したかのように、読み取り機へ『赤いカード』をかざした。


 軽快な電子音が流れ精算が完了したことを知らせる。

 

 

 ざわめき。


 

 交わされる客達の声は真綿の壁の向こう側から聞こえてくるようなくぐもった低音。


 その低音は耳に心地よく迷宮から戻った鉄兵の疲れた身体を解きほぐす。


 ものを食べ、飲み、会話をし、笑い、泣き、怒り、感情を露わにする。


 それらが発散する熱量は店内にこもり、雲のように厚く垂れ込めた。



 アルコールをすべらす喉仏の上下運動、女の高笑い、グラスが打ち鳴らす涼やかな音、

 

 誰かを呪う怨嗟の声、スコッチに咳き込む掠れ声、顔を寄せて睦み合う男女の囁き、

 

 肉を噛みちぎりすり潰す咀嚼音、賭け金のコインを積む音、獣脂のねばつき、

 

 茹でたブロッコリーがテーブルを跳ねるステップ、

 

 何度も拳が振り下ろされ荒らげる男達の声、

 

 ポーカーで負けた男の悲痛な叫び、

 

 蠱惑に唇を湿らす女の舌。



 そこかしこで交わされるおしゃべりが重なる低音に、フォークやナイフがぶつかり合い陶器達の甲高い悲鳴が響いては融けて交ざり、絶妙なハーモニーとなって耳朶を打つ。


 本来雑音であるそれらが妙に心地よく、立ちこめる熱気も加わり、のどの渇きを早め、空腹に腹が鳴る。




 ここは鉄兵が鋼太郎を案内して訪れたカフェバー。


 おのぼりさんのようにキョロキョロと落ち着きなく周囲を見回す鋼太郎を促し、駅の地下レストラン街やデパートの飲食店街のような店舗群を通り抜け、この店へと辿り着いた。


 店の前面はガラス張りになっている部分の上方には濃緑色の幌が据え付けてあり、黄色い文字で店の名前が書かれている。


 しかし誰も店の名前を読むことが出来なかった。


 複数の文字で組み表された文字の集合は、そのひとつひとつが全く別種類の文字で構成されていた。

 

 ラテン文字、ギリシア文字、キリル文字、ヘブライ文字、ひらがな、アラビア文字、ルーン文字、カタカナ、やたら画数の多い漢字等々。

 

 それらを一文字ずつ拝借して並べ、悪ふざけとしか思えない語群と成し幌に印字されていた。


 ものによっては文字が組み合わさって融合または反転し、一部分が欠けていた。

 

 そのためそれがどこかの国の文字であると判別することも困難なものさえあった。



 テーブル席で待つよう促し鉄兵だけがレジ前に残って注文の品が出てくるのを待っていた。


「相変わらず繁盛してるな。笑いが止まらないんじゃないか?」


「何回言わせんだ、俺は雇われだよ」


「でもこれだけ繁盛してるのは、吾郎がうまく切り盛りしてるからじゃないのか?」


 折り目の入ったスラックス・腰に巻くエプロン・ベストは黒、白いワイシャツに赤いネクタイを締めた店員の男が振り返って答えた。


「俺以外のスタッフが優秀だからだよ。売上が落ちたらオーナーから精神注入棒を食らうことになる。それが嫌だから真面目に働いているだけださ」


 三十代前半とみえる伊達男・吾郎はおどけた表情を見せた。


 オーナー指定ではあるがシンプルな制服に身を包む長身痩躯の二枚目はさぞや女にもてるだろう、と誰もが思う。


 おどける表情や軽い口調、小奇麗に切りそろえた顎髭は一見その男から軽薄そうな印象を受けるが、時折みせる落ち着いた物腰や低音のきいた声が吾郎と呼ばれた男の評価を改める。


 軽いその口調は商売のためのものなのか、それともその男の生来のものなのか、一見しただけでは判断は難しい。


 しかし鉄兵は知っている、後者であることを。

 

「ケツバットを食らわすとは古風なオーナーだな」


「バットはバットでも、オーナーの股間についてるご自慢のやつだ。ボールも二個ついてくるお得なやつね」


「うえぇぇ、まじかよ。――てことは、吾郎はご開通済み?」


 鉄兵はわざとらしくニヤニヤと笑いながら言った。


「口を慎めよ鉄兵、どこでオーナーの間者が聞いてるともしれないのに」


 吾郎はわざとらしく左右を見回し、声をひそめて応えた。


「純潔は守り通しているよ。オーナーは非常に趣味が良い、俺なんざ守備範囲外で棒きれ同然の存在だ。彼のご専門は十代前半の少年だから尻の心配をする必要はない。いまのところは」


 吾郎は小さなカップを手元で転がし、汚れがついていないかを確かめながら言った。

 

 カウンターに寄りかかる鉄兵は店内を行き交う従業員の姿を目で追った。


 男性従業員は皆一様に白シャツにネクタイをしめ、尻の形がよく分かるタイトなつくりのスラックスを窮屈そうに履いて仕事をしている。。


「どこかの誰かに息の根を止められないのが不思議でしょうがない」


「だな。金持ちにお咎めなしは世の常なのかなあ」

 

 鉄兵と吾郎はどこか遠い目をしていた。

 




「ところで面白い噂ない?」


「そうだな……恵比寿駅方面はいま携帯が繋がりにくいらしい、迷宮探索なら東にしとけ。あとは少し前に変な爺さんが現れたよ。なんでも『金玉』を探しているらしい」


「それって別名『オイナリさん』の方のあれ?」


「俺とお前さんにもついてるアレだよ。どっかで落としたらしい。ちょっとした噂でもいいから教えて欲しいそうだ。なんでも、それがあると色々捗るらしい」


「確かに片方しかなけりゃバランス悪いからな。そりゃいろいろ捗るだろうよ、で?」


「そうだな……とある連中が不穏な動きをしているそうだ。どっかの駅を襲撃するのか、降りかかる火の粉を払おうとしているのか、大量の銃火器を仕入れるためこの駅に来ているらしい。当然それを狙ってる奴もいて一悶着起きそうだ」


「他にやることないのかね……で、どこの連中?」


 吾郎は目配せし、他の客からみえないようにして自分の股間のあたりで手をすり合わせた。


 拝むように手をすり合わせていることから、どこかの宗教団体を示しているのだ。

 

「はぁ……あそこの連中こそやるべきとことは他にあるだろうに。他人の命を奪うことで救済に繋がる悟りでも開いちまったのかね」


 鉄兵は大きなため息をついた。


「さあな。この世界はどん詰まりだ、神様にすがりたくなるのも理解できる。だが根本的な解決にはならない。もし神様がいるんなら、なんで俺たちをこんなとこに閉じ込めるんだろうな。俺はその理由を聞いてみたいよ」


 吾郎は話をしながらも、てきぱきと注文の品を用意するために手を休めることはなかった。


「『試練』ってやつだろうよ。案外、神様に一言文句言うためにみんな真剣になってお祈りしるのかもな」


「どうだろうな。かなり信心深いらしく、悪口を言ったりすると信者につきまとわれたり襲われたりするらしいぞ。おかしいのは個人を神格化して祀ってるそうだ」


「そのバイタリティが羨ましいよ」


 鉄兵は思いきり馬鹿にした口調でいったが、吾郎はわずかに口の端を歪めるだけであった。


 

 

 

 一瞬会話が途切れたのを見計らって吾郎は仕事に戻り、鉄兵は再び客席に視線を戻した。


 鉄兵は思った。

 

 いつ見てもここはハリウッドの映画撮影所に併設された休憩所のようだ、と。

 

 デス・スターに勤めるトルーパーやケバケバしい扇子であおぐマリー・アントワネット、スパイダーマンにハルクにバットマンはいないが、ハリー・ポッターやロード・オブ・ザ・リング、ブラックホーク・ダウンや地獄の黙示録、バイオハザードに出てきそうな連中はわんさかいる。

 

 ロビン・フッドや眠狂四郎、ジェダイの騎士っぽいのもいる。

 

 ロールシャッハのような男とすれちがったが、オジマンディアスやブルーマンはいなかった。


 コスプレコンテストの控室と見えなくもない。

 

 ただし長物の持ち込みは解禁済みで、それぞれ思い思いの品を持ち込んでいる。


 ロングソード、アサルトライフル、ツヴァイハンダーにサブマシンガン、弓矢もある。


 誰もが雨傘のように椅子に立てかけたり、大事そうに股に挟んだりしている。


 槍だけは邪魔にならないよう床に置いているが、それでも時々誰かがつまづくもののご愛嬌、皆そんなことは慣れっこであり小競り合いになるのは稀であった。


 鉄兵はこの店も店員も、出される料理も店の雰囲気も大好きであったが、決して気が休まることはなかった。

 

 確かな人の息遣いに安堵を覚える――他人がいて自分がいる。

 

 しかしどれだけ月日が流れようとも違和感は拭えず、孤独感というか、自分と世界との隔絶感に正気を保てなくなりそうになる。


 客の姿はどれも異様で、どのテーブルで交わされる会話の内容も常軌を逸しているからだ。

 

 男女がその身体を売り買いし、銃弾と薬草が物々交換され、スリ師が酔った客の間を縫って歩き、戦利品の分配でもめ事が起きる。


 煌めくコインを積み上げ己の運と手札を交換するプレイヤーたちは、結果熟練ギャンブラーに上等なワインを献上するはめになる。


 話題に上がる噂話のパターンを数え上げ、共通項を分析し、真実は何であるかを議論する小汚い革鎧を着こむ男たちのひそひそ話と盗み聞きを警戒するギラついた目。


 荒らげる男達の声はより一層大きくなり誰もがそちらへと注目する中、ジゴロは女の丸い尻を優しく撫でながら首元へ唇を這わす。


 男達が互いの頭に酒瓶を叩きつけ合う音とともに夜は更けていくのであった。

 

 決して太陽を拝むことができないコンクリート迷宮に閉じ込められた世界の、どこかの誰かが決めた夜が……。

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