徳田
塗り込めた暗闇によって遠近感は喪失し、耳にまとわりつく残響による浮遊感で身体がゆらゆらと揺れる。
小さな赤い火が尾を引いて遠ざかり、滲んで消えていくのをぼんやりと眺めていた。
視界が暗転した時と同じように、突然に視界は白一色となり、眩しさに思わず鋼太郎は両手で顔を覆った。
「安心しな、もう大丈夫だ」
野太く低い声に安堵を覚える優しげな響きに、鋼太郎はゆっくりと眼を開いた。
「ここは……」
白と青の光沢のあるタイル貼りが組み合わさった壁、人工的な光を注ぐ蛍光灯と天井ボード、灰と若葉色の公衆電話、ブロックノイズが所々に走るモザイク壁画のような壁広告、正方形の床材が敷き詰められた通路。
目にするもののどれもがごくごくありふれた日常の景色を構成するピース。
地下鉄の駅構内の連絡通路としか表現しようのない景色が広がっていた。
「ここは安全地帯だ。さっき見たような化け物は、基本的に、ここに現れることはないと思っていい。ただ安全地帯といっても、繁華街の路地裏程度の危険はあるから軽はずみな行動は慎むように」
そう言うと鉄兵は鋼太郎の肩を軽く叩いた。
先ほどの修羅場とここに、どれほどの違いがあるのか全くわからなかった。
明るく・静謐で・硬質な駅構内としか見えず、単に異形の姿が見えないだけ。
しかしそれよりも一瞬にして景色が変わり別の場所へ移動したことの方が、混乱していたもののずっと関心が高かった。
「だいぶこんがらがっているようだな。俺はテッペイ、鉄の
「コウタロウです。鋼に太郎で、鋼太郎です……」
「へぇ、奇遇だな。同じ金物同士ここはひとつ仲良くしようや」
そう言って鉄兵は大きな手を差し出した。
おずおずと差し出す鋼太郎の手を、鉄兵はニンマリと笑いながらしっかりと握った。
固い握手に翻弄され身体を揺すられながらも、鋼太郎は少し微笑み、その手を握り返した。
「ちょっと、こういうときはお礼を言うのが先でしょ? 小学校で習わなかった?」
鋼太郎が振り返ると、そこにはウージーサブマシンガンを肩からかけ、小学生とも見える女の子が不機嫌そうに立っていた。
「おっと、紹介しておこうか。こっちのロリっ子がリンコ、ムチムチで巨乳なのが千登勢ちゃん、そんで腕組みしてるジト目のツンデレが雪緒ちゃんだ。メガネっ子がいないのは残念だが、まあ、そのうち仲間になるかもな」
もうちょっと言い方はないのという非難ののち、鋼太郎は他の三人と自己紹介を交わした。
ロリっ子の名前は『凛』、14歳の中学生二年生。
ショートパンツにニーソックス、膝にはニーパッドを付けてオリーブ色のバックパックを背負い、銃の弾倉を収納することができるマガジンポーチをつけた迷彩柄のボディーアーマーを着込んでいた。
グローブをはめた手には、二段階折りたたみ式のストックを備えたウージーサブマシンガンを握っていた。首にイヤープロテクターをはめ、シューティンググラスをかけていた。
前髪は眉毛の高さで切り揃え、二房のおさげを揺らして不機嫌そうに鋼太郎をジロジロと見ていた。
言うほどムチムチはしていないが、豊かなバストの子の名前は『千登勢』。
鋼太郎と同い年17歳の高校二年生。
チェックのスカートが眩しいブレザータイプの制服を着ており、縦長の一際大きな迷彩柄のバックパックを背負い、高さは千登勢の頭頂を超えている。何が詰まっているのかバックパックはパンパンになっており、優に千登勢の胴回りを超えるほどの太さがあった。
くるぶしをすっぽりと包む厚いソールの編み上げ式のブーツを履いている姿は、キャンプにでも出かけるかのようであった。
腰には複数のポーチを付けたベルトを巻いていた。
大きな瞳と太めの眉は千登勢を子供っぽくみせるが、微笑む口許のほくろが時折妖艶ともとれる表情を生み出す。
大きなバックパックを背負っている為に、豊かな長い髪を身体の正面へと垂らすことで、ふくよかな胸を見た目よりも大きく見せた。
ツンデレと紹介されたのが『雪緒』。
鋼太郎と千登勢よりもひとつ年上の18歳の高校三年生。
着ているものは濃紺のセーラー服だが足回りは濃紺の足袋に草鞋を履いて脛当てを装着しており、膝から下だけは鎧武者のようであった。
朱塗りの鞘に収めた日本刀を組んだ腕に差していた。
長い睫毛に切れ長の眼、縛り上げた髪を後頭部でまとめた黒漆のような光沢のポニーテール。
整った顔立ちに浮かぶのは、ジト目ではなく、冷ややかな眼差し。
これといった感情を見せることなく、強いて言えば無関心、ただただ鋼太郎の姿を眺めていただけであった。
そして二十代半ばをこえた会社員だという大男、『鉄兵』。
逞しい顎・胸板・腕――体格に恵まれた大男の表情は柔和。
野太い声、太い眉、快活な笑い声でつとめて明るく振る舞うリーダーは、度々ひょうきん者の顔を見せる。
両端を短く刈った短髪と太い首、その恵まれた体格もあってラグビー選手を思い起こさせる。
映画かゲームでしか見られないような白銀に輝く全身鎧を着込み、金属製の大盾を手にしていた。
コスプレにしては気合の入った姿だが何のキャラクターを模しているのかは不明。
今日がハロウィーンで会場に向かう途中というのであれば許されるかもしれない。
しかし凛の持つサブマシンガンも異様ではあるが、コンクリートで囲まれた駅構内での彼らの格好は全くの場違いだった。
対して詰襟学生服の少年・鋼太郎は彼等に比べればはるかに現実的だった。
学校指定の制服と鞄。
靴に指定はないが派手なものを避けるようにとのお達しをきっちりと守り、学校が推奨する黒い革靴を履いている。
髪型についても少し前髪が長い程度で、生活指導の教員に睨まれるような色や髪型ではない。
漫画を教師に取り上げられて以来、鞄の中身は教科書類以外は入れていない。
身長は全国平均に少し届かず、帰宅部ということもあってか、筋骨隆々からは程遠い。
バリバリの体育会系を思わせる鉄兵に比べれば、あまりにも貧弱としか形容できない。
当然酒タバコに縁がなく、タバコを買う金があれば、嬉々として漫画本に費やす平均的・模範的な内向型の高校二年生であった。
「自己紹介も終わったことだし、これで君は俺達の仲間ってことだ。さてコーヒーでも飲んで一息つこうか。今日はお互い驚きの展開だったからな」
「ちょ、まさか新人の面倒みるつもり?」
『仲間』という言葉に反応した凛はすぐさま異議を唱えた。
「え……あれ? もしかして反対?」
「そりゃ気の毒だけどさー、もうこの四人だけでいいんじゃない? こっちだって余裕がそんなにあるわけじゃないんだし」
学生服の裾をぎゅっと掴み、鋼太郎はうつむいて床の一点を見つめていた。
「そんな冷たいこと言うなよ。だって可哀想じゃないか、何も分からず、あんな危ない目にも会ったんだ。これもなにかの『縁』だ。それに聞いただろ、彼は俺と同じ金物仲間、捨てては置けない」
「えー、じゃあ多数決で決めようよ。賛成の人は手を――ひぃっ?!」
背後でもぞもぞと蠢く気配に気付いた凛は、短い悲鳴を上げるやとっさに拳銃を抜いた。
「あのう、お取り込み中のところすみません。お振込みの方をお願いしたいんですけれども」
凛の背後で蠢く黒いモノの正体は一人の中年の男であった。
「やあ徳田さん、もちろんちゃんと払うから心配しないでくれよ」
鉄兵は徳田と呼ばれた中年男へ親しげに声を掛けた。
徳田が着ているスーツは湿気を吸ってヨレヨレとなり、そこかしこに年季の入った折り皺がついていた。
両端は豊かだがすっかり薄くなった頭頂部は、その脂ぎった顔と同じく蛍光灯の光を反射していた。
ペイズリー柄の緩めたネクタイ、カビが生えたように傷んで薄くなった革靴の靴先、淀んだ目、白いものが混じった無精髭、五十代半ばとみえるひどく疲れた顔をした男だった。
「それじゃ頼んだよ、千登勢ちゃん」
はい、と元気よく答えた千登勢は手にしていた携帯電話を操作した。
操作をし終えていくばくもしない内に、二つの振動音が通路に響いた。
ひとつは千登勢の携帯電話、もうひとつは胸元から取り出した徳田の携帯電話であった。
「無事決済が終わりましたよ」
千登勢は携帯電話の画面を鉄兵にみせた。
「……ありがとうございました」
ボソリ呟いた徳田は踵を返し、のそのそろ歩き始めた。
肩を落として歩く徳田の背中に鉄兵は声をかけた。
「徳田さん、次はもうちょっと早めに頼むよ。緊急の場合だってあるんだからさ」
足を止めた徳田は溜息ひとつすると、上目遣いで答えた。
「私が危ない目にあうじゃないか。そういう時は電話しないでって言ってるじゃないですか」
消え入りそうな声を残し徳田はペンキが剥げて薄汚れた鉄扉がある壁の窪みへ歩み寄った。
そして着ているスーツの襟を立て、敷いたダンボールの上に膝を抱えるようにして座った。
曲げた膝の上に乗せた両腕に頭を預けた姿は、急に解雇を言い渡された窓際族のサラリーマンの悲哀を思い起こさせた。
幾筋かの頭髪が薄くなった頭頂を滑ってダラリと垂れている様は、ただただ物悲しい。
困った顔をしながらも、またお願いしますよと鉄兵は声をかけた。
「さてと、行くとするかね……」
うずくまる徳田の姿を哀れみの表情で眺める鋼太郎の肩を叩き、鉄兵は先を促した。
「何を言っているか解らないかもしれないが――ダンジョンから公衆電話を鳴らすとそこからワープしてこれるんだ。驚いたことにね。『マトリックス』観た? あれと同じようなもんだと思えばいい。ただ稀にあるんだが化け物と一緒にワープしてくるパーティーがあって、そりゃあ大変なことになるわけよ、だから――」
「だから使いどころを間違えると大惨事になりかねない。特にあの男のように戦闘能力がなく、備えのない者にとっては」
雪緒は淡々とした声で鉄兵の話に付け加えた。
「だが安心しな。化け物は連れてきちゃいないし、仮に連れてきても俺達が守ってやるさ」
肩を叩く大きな手、柔らかな微笑み、心地良く響く低音、そして太い眉の下の真摯な眼差しに、ほんの少しではあるが、不安で縮こまった鋼太郎の身体を解きほぐした。
千登勢は不満そうに頬を膨らませる凛のなだめながら、前を行く三人の後を追った。
背後にはくたびれた男、灰色の公衆電話、反響する足音。
華やかさとは一切無縁の底冷えのする長い連絡通路。
弾む声は疎らに、やがて霊安室のような静けさを取り戻す。
果たしてこの静寂はいつまで保たれるのだろうか。
冷え冷えとした空気が流れる身を刺すような沈黙。
それが男の心の安寧であることを誰も知らない。
世俗の煩わしさから隔離された完璧な世界。
一瞬でも長くそれが続くことを祈りながら、男は公衆電話が鳴るの待つ。
公衆電話が鳴れば平穏は破られる。
しかし『スコア』が手に入る。
心を満たすか、腹を満たすか――。
問いと膝を抱き可能な限り身体を丸める男は、寒々しい通路でひとり一日を過ごすのだった。
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