ジャンプ

「まったく……いつ飛んでもおかしくない、二人とも下がってくれ!」


 鉄兵は頭を掻きながら溜息交じりに言った。


 鋼太郎は、交わされる言葉のひとつひとつ、彼女らの行動のひとつひとつが、自分をすり抜けていく感覚を覚えた。


 言葉の意味、行動の必要性を把握することができる。


 しかしそれらは自分の日常生活と常識の範疇を超えるものばかりで、真にそれらを理解することができなかった。


 コンピュータゲームかハリウッド映画でしか見ることができないような――彫金が施された全身鎧、怖気をふるう日本刀、思ったよりも地味ながら確実に聴覚を潰す銃。


 グロ好きの友人が見せてくれた無修正の交通事故被害者写真集に載っているような――内臓の造形とその光沢、こちらを見つめる生首、デミグラスソースのようにゆっくりと広がる血溜まり。


 ゲーム・映画・漫画・ネットなどでそれらの名称や用法を知っていたとしても、それらが作動し、閃くことで命を奪い、死体を築き上げていくのを間近で見るのは恐怖以外のなにものでもなかった。



 思考が停止する。

 

 これは現実なのか、それとも夢なのか?


 この問い以外に思考することはかなわず、検証を繰り返し繰り返す。


 これは、これは、これは――。


 ほんの十数年という人生における乏しい過去の経験や知識が導き出した結果は『否』、これは現実ではないとの判断を下す。


 肉を骨を断つ音が、豊かな水気を響かせて床に落ちる臓腑が、狂人の断末魔の叫びが、四方のタイルやコンクリートに反響する銃声が、耳にべったり張り付く。


 湿った金属臭が血液であることに気づくまでのタイムラグは無知ゆえか?


 千切れた内臓から立ち昇る悪臭、鼻を刺す紫煙は脳味噌にこびり付いて離れない。


 ひねり飾りのごとく連なる内臓の鮮やかなピンク、銃痕の黒、臓腑から沸き立つ湯気の白、血の赤が網膜に焼きつく。


 眼から、耳から、鼻から、口から――呼吸をする度に絶えず身体に取り込まれるそれらは、悲しくもこれが『現実』であるとの判断を厳然と下す。


 身体の内側に張り付いた強烈な印象は、呼吸をする度に自分の息に死が漂う。


 そんな気がして止まなかった。



「普通に戦った方がいいんじゃないのか?」


 雪緒は声を張り上げた。

 

 柔らかい左脇腹を刃が引き斬ると内臓とともに断末魔の叫びが飛び出した。


「駄目だ。いつトクダさんが受話器を取るかわからない。それに――」


「それに?」


「ちと分が悪くないかい? こっからじゃ見えないが、下り階段の先の地形が不明な以上は迂闊に移動できない」


 一際長い炸裂音の連続に、空気が白くかすむ。


「ちょっと、くっちゃべってないで早く決めてよ! 一人で相手にするのはもうムリ!」


 凛は新しい弾倉を叩き込みながら叫んだ。


 冷たいタイル貼りの床で胎児のように身体を縮め、ビクリビクリと痙攣して呻き声を上げる狂人の姿がいくつも見えた。


 それでいてもなお狂人の数が減っている様子はなく、むしろ数を増やしているようにみえた。


 一斉に襲ってくるわけではなく、遠巻きに様子を眺めている集団があった。


 そろりそろりとある者は四つん這いで、ある者は腕をだらりと下げて大股で歩く――手足だけが大きくゆったりと動くその様は爬虫類を思わせた。


「結構まずいかもな……」


 鉄兵は顎をさすりながら考え事をしていたが、何かをひらめきポンと手を叩いた。


「ところで少年! 君ならこの状況でどう動く?」


 厳しい表情で携帯電話を耳に当てる千登勢に促されるまま、しゃがんだ姿勢の鋼太郎は雷に打たれたようにビクリと身体を震わせた。


 突然の問いかけにどう答えたらよいのか分からず、足許に眼を落とした。


 鉄兵は予想もしかった答えに眉を上げた。


「カ……カギ……これ」


 そういって鋼太郎は足許に落ちていたそれを、震える手で拾い上げて見せた。


「おおっ、鍵か?! コインロッカーの鍵だ! 運がいいな、そいつは大事に持っときな、いつかきっと役に立つぞ」


 鉄兵はニンマリと笑った。


 鋼太郎は言われたとおりに、丸い札がついている鍵を学生服の右ポケットへとしまった。


「鉄兵! 様子がおかしい、こいつら一気に襲ってくるぽい!」


 凛は舐めるように銃口を狂人の群へ這わせ、ジリジリと後退した。


 つうっと雫が頬を駆け下りた、撃つに撃てない状況、いつ二方向から同時に襲われても不思議ではなかった。


 文字通り自分が引き金をひくことになってしまうことを凛は恐れた。


 一触即発、包囲網がじわじわと迫っていくのに合わせ鉄兵達は互いの距離を縮めていった。


「なぜこんな低階層に、これだけの数が……」


 そう呟きながらも雪緒は日本刀を肩に担ぎ、飛び出してくる敵を一刀のもとに両断できるだけの気を静かに練っていた。



 『ガチャリ』


 

 突然デジタルの雑音が千登勢の耳を打った。


 『――――もしもし?』


「もしもし、もしもし?」


 千登勢は喜色を浮かべ、何度も通話先の相手にもしもしを繰り返した。


 その時であった――目の前の景色が振動を始め、残像が重なり合っては離れてを繰り返し、隣接する色彩は滲んで融け合っていった。


 そして景色が、身体が、意識が縦にぐんと伸びていく感覚に襲われ、限界まで引き伸ばされたと思ったところで、弾けるようにして全てが一点に向かって収縮を開始した。


 凄まじい勢いでその一点へと引きずり込まれ終着点に圧縮される瞬間、視界が暗転する一瞬に、鋼太郎は右ポケットに入れた鍵を思い浮かべた。

 


 オレンジ色をしたプラスチック製の楕円は細かい傷により掠れて文字が薄くなったいたが、『No.5』と読むことができた。


 数字が印字された面の裏には、駅名が記載されていた。


 丸札に刻まれていたその駅の名は――――『浅草橋』。



 頭の中で浮かべた記憶にあるその駅の情景すらも、突然の暗転により暗闇に飲まれていった。


 次の瞬間、強烈な光を感じた。


 眩しさから顔をそむけ反射的に眼を閉じるも、それは瞼を貫き両目を刺激する。


 そして目の前を回送電車が猛スピードで駆け抜けたような、頬の産毛を逆撫でる風圧が続く。


 身体を軋ませ走り去る列車の金切り声は、リズミカルにレールをたたく蹄鉄のパーカッションとなって遠ざかり、やがて消え去った。

 

 これが『ひとっ飛び』であると解ったのは、目を開いたときのことだった。

 

 タイルが張り巡らされ平面で囲まれた寒々しい通路に立ってはいたが、血溜りも内蔵も死体もなく、全く別の景色が目の前に広がっていたからだ。

 

 あるのは静寂と緑色の公衆電話だけだった。

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