一面の偽世界 その七(了)
寒さに目が覚めた。
見れば親指の爪ほどの大きさだった燃える石は、ラムネ菓子よりも小さな粒なっており、ロウソクの火よりも弱々しくなっていた。
灰の代わりに真っ白なさらさらとした細かい砂が残されていた。
「よう。お目覚めにはまだ早いぞ。コーヒー飲むか?」
「……いただきます」
迷宮に降る雪をクッカーに入れ、ガスバーナーで湯を沸かす。
フィルムケースに入れたインスタントコーヒーの粉をカップで溶き、それを一口づつ交互に飲んでいく。
かまくらの中はコーヒーをすする音と飲んだ後の息を吐く音だけだった。
ふと見れば空気孔の向こうが明るいことに気付いた。
「雪……止んだんですね」
「ああ、ちょっと前だな。それに、ほれ、この通り」
鉄兵の携帯電話には電波状況を示すバーが二本が立っていた。
「じゃあ、帰れるんですね?」
「そういうこと。もう少ししたらみんな起こすか」
鉄兵はカップに湯と粉を足すとうまそうにすすった。
「鉄兵さん」
「ん?」
「……この先どこまで行くんでかすか?」
「もう一回キャンプできるだけの食糧はあるし、水筒に雪を詰めれば水も確保できる。みんなのやる気次第体調次第だな」
「えーとそうじゃなくて」
「そうだな、このまま進むなら四階層は早く抜け出したい。経験から言えば不思議と第五階層の方が危険が少ないだからだ。それ、いいかい?」
鉄兵はなにか言おうとする鋼太郎からカップを受け取ると一口飲み、コーヒーの黒いさざなみを見つめながら言った。
「この階層はふるいだ。細かい目を通り抜けた者だけがこの先に待つ祝福にあずかることができる。通り抜けられなかった奴はどうなると思う? ふるいにかけられる豆なり石を想像してみるといい。シェイク、シェイク、シェイク……どうなる? 石同士がぶつかり合うだろ?」
「人が……襲ってくる?」
「ビンゴ。四階層で足止めを食らう俺たちみたいなのを襲う、頭のおかしい連中と遭遇してもおかしくない。なんだかんだで『お土産』拾ってるからな」
「……」
「笠原っておっさんの日記は読んだ?」
「滝とか針葉樹の森とかがあるって書いてありました」
「ほかにも色々だ。とにかくこの先は稼ぎが多くなる代わりにランダム要素が強くなって突拍子もないことが起きる。異形どもが強くなる反面、遭遇率はぐっと下がる。だが余裕が油断に代わり、欲に飲まれ迷宮に飲まれて死ぬ。バランスが難しい。同じ階層にとどまり続けると『風』が吹いてロクなことが起きないし、まったくどうしろっていうんだよなあ?」
鉄兵が飲み過ぎたコーヒーを足して手渡すと、鋼太郎は覚悟を決めたように熱さと苦みを飲み干すと、一拍置いてから尋ねた。
「……鉄兵さんは何階層まで行ったことがあるんですか?」
「気になる?」
「ええ、まあ、やっぱり」
「そうだな……参考までに話してあげたいのは山々だが……そろそろお開きの時間なんだ。ねえ、雪緒ちゃん?」
「前置きが長い」
雪緒は毛皮をはねのけガバリと上半身を起こした。
「起きてたのは気付いてたんだけどね。どうもキリが悪くて」
「……どんな塩梅だ?」
「たぶん問題ないだろう。鋼太郎君、準備してくれ。
「何の準備ですか?」
鋼太郎はそう言いながらもポンプしてすべての弾を抜いて再装填し、KBP・RMO-93リンクスの動作を点検していた。
「ご本人に聞いてくれ」
「死ね!」
「二人を起こそう。用を足したら軽く食事しながらこの後どうするか決めよう」
寝起き後の生理現象を済ませたならば、お次は別の生理現象を満たすのみ。
朝食は炙ったソーセージにクラッカー。
香ばしい肉の匂いと油の弾ける音に自然と腹が鳴る。
ケチャップなんて必要なかった。
脂の甘み、肉の弾力感、食を囲むそれぞれの笑顔に、十分すぎるほどに英気を養う。
このままどこまでも行けそうな気がした――何階層でも。
不気味なくらい静かだった。
雪が音を吸収してるにしてもその静けさは異常なくらいで、嵐の前の静けさというのがこれにあたるのかもしれない。
ぐるりと周囲を見渡せばなにもかもが凍りついてきらきらと輝いている。
雪の壁や柱はその厚みや高さを増して幻想的風景はさらに現実離れしていた。
上を見上げればいくつもの目を潰すような強い光の数々。
頭上にあったのは太陽ではなく、いくつもの照明器具だった。
風が吹いていた。
第四階層の奥から吹き付ける猛吹雪をしのぎ一夜を明かすと、追い風というよりも奥底へと導くようなやや強い風が背中を押す。
迷宮は呼吸をしていた。
吸い込まれるように、導かれるように風とともに奥へ奥へ進むと、遠く前方に、白紙を切り取ったような黒い長方形を見つけた。
はじめ黒い石版だと思っていたのであるが、双眼鏡でじっくり観察してみると、それは口をぽっかりと開ける第五階層につづく下り階段に見えてきた。
しかし見渡す限り氷柱・氷壁がそびえる一面の銀世界において階段というものが場にふさわしくなく、偶然自然がつくりだした影かなにかにしか思えなくなってきた。
「いや、階段で間違いない」
鉄兵は単眼鏡を覗いたまま言った。
石版と思しきものの上部には雪をかぶった緑色のものが見えた。
人工的な質感と色合いになんとなく見覚えのある形のそれは、白い長方形にかけこむ緑色の人の姿が描かれたピクトグラム、非常誘導灯だった。
ここから抜け出すのであれば第三階層へ続く階段につけるべきであるのに、下層へ向かえという表示が意図するところが何であるのか、理解し難くどうしても二の足を踏んでしまう。
迷宮の最下層に、この世界から脱出するためのゲートなり装置なりが用意されているとでもいうのだろうか。
進めば進むほど困難を極めるのは理由がある――つまりふるいをかけられ見事通り抜けた者だけに与えられるご褒美が、この世界からの脱出なのだろうか。
改札とは別の脱出ルート。
しかしきっと待ち受けているのはラスボスだ、ここはダンジョンなのだから。
この迷宮に人間を引きずり込んだ邪竜か魔導師だかは知らないが、きっといまかいまかと暇をもてあまして退屈しているに違いない。
そういえば鉄兵にうまくはぐらかされたことを思い出した鋼太郎は、『願望機』という言葉が浮かぶと同時に『騙すな、騙されるな』という貼り紙の文句がなぜか脳裏によぎるのだった。
「……千登勢ちゃんは『あれ』どう思う?」
鉄兵は単眼鏡を覗いたまま言った。
「せん――――ぷうき?」
「やっぱそうだよなあ?」
いまは第五階層へつづく階段かどうかよりも、その両脇に鎮座する大型機械の存在をどう受け止めれば良いのかを検討すべきだった。
一枚も羽が人間の背丈ほどもある超大型扇風機二台が阿吽像のようにそびえ、その上部には壁からサンドワームのようなホースが生え、巨大なノズルが口を開いていた。
ゴソゴソとホースが身じろぎすると、巨大ノズルは咳き込むように雪を吐き出したが、調子が悪いのかすぐに停止した。
「まさか……あれ……降雪機か?」
「えー、なんも見えない」
凛がぴょんぴょんと垂直跳ねるが、小学生のような背丈なので雪緒頭のてっぺんさえ見ることができなかった。
「もう少し近づきますか?」
「いや、変身でもして襲ってきたら大変だ。合体シーンは正直見たいけどね」
「なになに? 巨大ロボ?」
「そーいえばロボットと戦ったことはないですね」
「ないなぁ。そんなもん出てきても困るけどな」
「肩車!」
「ダメだダメだ。おんぶした途端にリンコを狙って槍でも飛んできたらどうする? 毎日目が覚める度に死にたくなれと?」
「肩車ぁ~」
「子供みたいなこと言うんじゃないありません」
「だったら鉄兵の頭にまだ槍が刺さってないのはなんでよ?」
「なんでって言われても……」
「はいロンパー! 早く膝ついて、早く」
雪緒が厳しくいさめるも凛は諦めようとはせず駄々をこね続けた。
三秒という時間制限つきを落としどころに説き伏せ、雪緒と鋼太郎はおんぶひとつのために周囲を見回り安全を確かめた。
「まったくどいつもこいつも……」
雪緒はぶつくさ文句を言いながらあれこれ怪しいと思うところへ視線を這わせていたが、突然足を止め、遠く一点をじっと見つめた。
「どうかしました?」
「いや、なんでもない……」
敵とも罠とも異なる違和感に、雪緒は蓄積してきた経験をぶつけてみたがこれといって合致するものはなく、ひたすら鷹のように目を鋭くさせ一点を睨んでいた。
変だ変だと中止を訴える雪緒に凛は約束を破るのかと恫喝し、千登勢が大丈夫だからとにっこり笑って圧力をかけることにより、肩車は決行となった。
まずはふつうに肩車し、亀の甲羅を背負わせるように鉄兵の円盾で凛の頭から腰までをすっぽり覆う――こうすれば少なくとも死角からの攻撃は防ぐことができる――千登勢が思いついた妙案は悪くないように思え採用となった。
右手にウージーサブマシンガン、左手に単眼鏡。
だんだんと高くなるにつれて広がる景色に、凛は興奮に身体を上下させた。
「すごぉーい!」
中腰だった鉄兵の背筋がピンと伸びると、高所から見下ろす雪柱がそびえる幻想的な景色に無邪気にあふれる感嘆の声が上がった。
周囲を警戒する雪緒と鋼太郎の口元がほころんだ。
「つぎ私やりたいです!」
「千登勢ちゃん重いからダメだよ。はい、しゅ~りょ~」
?!
とつぜん凛が身体を捻るので、鉄兵もこれに合わせ肩車したまま同方向に勢い良く身体を捻って低姿勢の回避行動をとった。
景色がぐにゃりと曲がるや有無を言わせぬ急激な重力加速度に、朝食のソーセージとクラッカーの混合物が凛の喉元までせせり上がってきた。
「い、い、いた!」
「なにを見た?」
「私!」
「だからその私はなにを見たんだ?」
「だーかーらー、私がいたの! 肩車をされる私が!」
「はあ? こんなときにおふざけはなしだぜリンコさんよぉ」
第五階層へ続く階段についてはとりあえず保留、右方向へ進路を変えて進んでいくと、
『いた』――あった、ではなく、いた――
同じよ警戒に眉根を寄せた厳つい顔、同じ装備、同じ人数、
まったく寸分違わぬ姿をした僕らがゆっくりと近づいてきた。
鏡だ。
高さはどれくらいあるかはわからない。見上げていれば首が痛くなるほどだ。
横幅はよくわからないが、風も雪もない今はかろうじて第三階層につづく階段がある壁を双眼鏡を通しておぼろげに見ることができた。
「……この場合、パターンはニつだな」
「パターン?」
三人娘は同時に首を傾げた。
「つまりどういうことかと言うと、鏡に映った僕らが襲ってくるのと、鏡を割るとモンスターが襲ってくるっていう王道的展開のことです」
「ゲーム脳め」
雪緒が毒づいた。
「でも降ってくるガラスでさっそく敵さん倒せるかも!」
「よし、試してみよう! 隠し『お土産』があるかも!」
「そんときは巻き添いくらって俺たちもお陀仏だな」
お陀仏になりたくいので第五階層へは下りず、帰ることにした。
見渡す限りの幻想世界は中途半端なオフィス用品の土台、降る雪は機械による嘘、あの下り階段はきっと罠だ――頃合いを見計らって咀嚼を始める人喰い階段。
駅の中のダンジョンはどれも嘘ばかり。
だけれでも雪の降るダンジョンに僕らがいたことは絶対の真実。
嘘偽りでないことの証明に、なんやかんやの物言いに何度かやり直したが、携帯電話で自撮りをし、僕らは品川駅へとワープした。
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