一面の偽世界 その六

 かまくらの外は、後悔するには十分すぎるほどの強烈な猛吹雪だった。


 髪はざんばらにかき乱され、親の仇のごとく打ちつける氷の礫によってまともに目も開けていられなかった。


 天井からの光は雪に閉ざされ、ほとんど真っ暗闇だった。


 レバーを回して発電させるタイプのランタンを持ち、光を腕で覆いながら千登勢はかまくらの入り口の反対方向へ向かった。


 この吹雪の中で活動しているものが存在するとは思えないが予測不能の迷宮ゆえ、結界が機能してるとしても、用心するにこしたことはなかった。


「何かあったら撃て。それで鉄兵も起きるだろう。お前は風上だ。こっちを向くのが許されるのは非常時だけだ」


 革ジャンの襟を立て袖から人差し指だけを出して銃把を握り風を正面にして立つと、外に出てまだ一分も経っていないのに歯の根が鳴り、そのつもりもないのに身体がガタガタと震え始めた。


 切り落とされたように人差し指の感覚は失くなっていた。


 耳を千切ろうとする雪の冷たさ、


 毛根まで刈り取るような風、


 見渡す限りの黒。


 指を温めようと息を吐くと、吐いたそばから風に飛ばされ闇に溶けて消えた。


 本当にここが構造物の中であるのか疑いたくなるような、そんな景色と気温に、寒さとは異なる震えが止まらない。


 実は知らず知らずにワープゲートを抜け、フィンランドかどっかの雪原をさまよっている――そんな気がしてきた。


 だがここはシベリアでもなければ八甲田山でもない。


 そこらにそびえる雪の柱や壁をほじくり返してみれば事務机なんかが出てくる異世界、新品ではなく人が使った形跡のある品の数々、不可解ながらもよく計算された悪い夢のような世界。


 誰が何のためにと考えるのはナンセンスだ。


 すべては装置だ――侵入者を驚かせるため、恐怖させるための。


 もしくは迷宮が意図する何かをさせるめの。


 ありのままを受け入れよ――そんなインチキ宗教指導者の言葉を盲信するのではなく、自己啓発本の太字をラインマーカーで強調し毎朝お唱えするのでもない。


 『騙すな、騙されるな』


 そんな貼り紙の文句が思い出される。


 小便を漏らすぐらいなんだ、大泣きしたって構わない。


 この異世界と一体になるんだ、吐く白い息が闇に溶けていくように。


 組み伏せられ支配下に置かれるぐらいなら意図するものを演じてやろう。


 ただし僕は僕の求める最適解を貫き通す、高速回転して進む弾丸のように。


 軌道修正しようと迷宮が手を加えようとするならば、僕はそれを食い破るまでだ。


「鋼太郎くん」


「……どうしました?」


 いつの間にか背後に千登勢が立っていた。


「雪緒ちゃんがすぐ済ませるから待っててって」


「……了解です」


 たとえ武器を携帯していても仕事中は確実に無防備と考え、鋼太郎は距離を少し詰めようと歩き出すと、


「死にたいのか? 持ち場を離れるな!」


 かまくらの向こうからドスのきいた雪緒の声が聞こえてきた。


 その上ずった声に違和感があったのは、こちらが風上だからではなく激しい雪風のためでもなく、単純に恥じらいからきているのだと気付いた。


 この極寒の中ではアブノーマルな妄想をする余裕さえなく、思いついたそばから強烈な吹雪が吹き飛ばしてしまうことをどう理解してもらえばよいのだろうか。


 女はたくましい。


 身体を丸めぶつくさ言う雪緒になんとか頼み込み、鋼太郎はレモン風味のカキ氷を山ほど提供できるぐらいのメロウイエローを解き放つと、二人に続いてかまくらの中へと戻っていった。





 雪緒は白湯を一杯飲み干すと、横になるなりイビキをかき始めた。


 ショットガンを脇に置き、火を灯す石を前に体育座りする鋼太郎は、背中の重量感に落ち着きがなかった。


 すっかり目が覚めてしまった千登勢は、鋼太郎の背中にもたれかかりながら静かに白湯をすすっていた。


 男女が背中合わせになるという至高のシチュエーションは互いの背骨が当たって実はたいしたことがないんだなと思いつつも、背中から伝わる温もりにむしろ眠気は吹っ飛び目が冴え渡っていた。


「飲みますか?」


「いえ、こっちにします」


 鋼太郎は手を伸ばし、かまくらの内壁を削って口に入れた。


 しばし離れた温もりは、また重量感とともに背中に戻ってきた。


 口の中のほどよい刺激に頭を冷やし、残り十分弱をどう過ごすかとあれこれ考えていた。


 淡々と燃える赤石は細かい砂となって音もなく崩れた。


 三人の寝息も空気孔を通る風の音も聞こえず、心音だけがやけにうるさく聞こえ、ときどき千登勢が白湯をすする音が背筋を通り抜けた。


 このまま時間が経つのも悪くないと思わせる緩やかさを断ち切るようにして、突然千登勢が口を開いた。


「身体の方は大丈夫ですか?」


「千登勢さんのおかげでもう痣一つ残ってないです」


 自治会の殴る蹴るの取り調べは徒労に終わり、品川駅を騒がせる襲撃事件とは無関係であることを納得させるに至るも、解放されたときは陳腐な用言であるがまさしく『ボロ雑巾』のようだった。


 『自治会による人権無視を糾弾する会』の度重なる訪問を追っ払い、千登勢が調合した塗り薬で傷が癒えるまでの一週間、鉄兵は献身的に世話をするだけで何も言わなかった。


「みんな心配してたんですよ。みんなに内緒でコソコソしてると思ったらボコボコにされて帰ってきたりとか。そこまでする必要、あるんですか?」


「……ええ」


「じゃあしょうがないですね」


 白湯をすする音が聞こえた。


「このパーティーから誰一人欠けて欲しくない――みんなそう思ってます」


「僕はここから抜ける気つもりはありませんよ」


「ほんとかな?」


「え?」


「このままだと誰かさんは無茶をしているうちに見なくてよいものを覗き、やめろという方へ足を向けどっか行っちゃうんじゃないか――って誰かさんが心配していました」


「最近の僕はそう思われてもしょうがないですね」


「自覚はしてるんですね?」


「まあ、少しは」


 再び白湯をすする音が聞こえた。


「……鉄兵さんは他に何か言ってました?」


「んー、特に何も。でもほんとは裏で懊悩してるんです。オーノーって。みんなの前では困った困ったって苦笑いしてるだけなんですけどね」


「やっぱり僕のせいでどんどんスコアが減ってるからですよね」


「んー、ちょっと違います」


「違う?」


「……もっと奥へ行こうとしてるんです。この五人で、誰一人欠けることなく。今いるこの四階層を越え、五、六、七……そしてさらに深い奥底へ」


「ちょ、ちょっと待って下さい。それは変です。鉄兵さんはリンコさん脱出のためのスコア獲得を目標に動いてるはずじゃあ……」


「それはいくつかある内のひとつ、鉄兵さんには、いくつかの目的があります。そしていくつかの条件を探しています。これ、内緒ですよ」


 鋼太郎はゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。


「……それは?」


「どっちのことですか? 目的? それとも条件? 鉄兵さんのこと、知りたいんですね」


「鉄兵さんのやりたいこと、手伝えるかもしれないですから」


「強く追い求める心、欲が『ここ』では重要なんです」


「欲が重要? じゃあ両方教えてください」


「内緒話だから二つはダメ。だから欲張りさんには、ひとつだけイイコト教えてあげます」


 白湯をすすり肺の空気を絞り出す動きが、背中を通して伝わってきた。


「鉄兵さんは誰にも言わないけど、私だけが知っている『あるもの』、なんだと思います?」


「ちょっと待って下さい。それは話しちゃ駄目なんじゃないですか? でも、まあ、気になります。鉄兵さん色々隠し事してるからなぁ。なんだろう、まったく見当がつかない。たぶんみんなに関係するようなことだっていうのは分かるんですけど……ヒントは?」


「それはなんでも願いを叶えるという――」


「願いを叶える? 打ち出の小槌? わかった! 聖杯戦争的なアレ? いや、まさか」


「それは玉。金色に輝くまんまるの玉――」


「ん? それってもしかしてドラゴンボール?」


 背中の温もりが離れこちらを向く衣擦れの音に、鋼太郎はそっと振り返った。


 千登勢は莞爾(にっこり)とほほ笑んでいた。


 しかし桃色の唇が動き出す瞬間、ほほえみは消え、真顔になった。


「願望機」

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