一面の偽世界 その五
空気孔を塞ぐ雪を鉄串で崩すと、外は完全な闇、ヒューヒューと冷たい風が鳴いた。
風の音に寝息。
きっかり一時間、眠ることの許されないローテーションは二巡目、孤独な時間はとりとめもなく多くのことを思いつくのであるが、思いついた先から泡が弾けるように消えていく。
それは答えのない問いを問い続ける堂々めぐりに囚われていたからだ。
これからどうする、これからどうなる?
例えばこのような哲学的で無用の、どうしようもないことを延々と考え続けてしまう。
だからほんの少しだけ、頭の整理も兼ね、別のことについて考えてみるとしよう。
熊手屋の聖域から救出したのは別働隊であるが、男児保護の功績を認められ、装備代金等の桜子さんへの借金は帳消しとなった。
だが当然のことながら、支払いという呪いから永遠に逃れることはできない。
銃のメンテナンスや弾薬の補充のほか薬草や食糧代などでスコアは日々目減りし、度々お世話になっている医者への治療費支払いも考えると、そうそう喜んではいられなかった。
加えて自治会に払われた二度の保釈金も考えると、鉄兵さんというよりもこのパーティーに対する借金はむしろ増えていた。
とことん自分が情けなくなる。
だけれども吾郎さん曰く、これだけ大きなことをやらかしておいてパーティーが分裂しないのは何よりも価値があるとのこと。
ガラスと職人が確保できず店は風通しのよいオープンカフェとなったままなのはむしろ好都合、店に飛び込んでくる乱痴気騒ぎの流れ弾を陰鬱な表情でみつめていた。
鑑定屋の啄朗さん曰く、鑑定結果は努力でどうにかなるものではないが迷宮でのお土産回収率とその結果はなかなかのものだのこと。
女性用の赤銅色に輝く籠手、金属製武器防具生産用の素材であるインゴット、ちりめんのうちかけ、十文字槍、太古の生物の爪等々……冷凍鹿肉二十五キロはなかなかのインパクトだった。
悪いことばかりではないようだ。
だが、これからどうなってしまうのだろうか。
学校、期末テスト、大学受験、就職、結婚……。
それらのイベントが現在時点から遠ければ遠いほどかすんで見えず、想像もつかない。
普段それらを思い出すのは稀も稀、別の惑星・別の次元の誰かの話のように思えた。
自分がそういったものと関わりがあったのかさえ疑わしく思う、最近は特に。
そうは言っても『ここ』とは違うどこかで生活していたのは間違いなく、その証拠に家族や友達の顔を詳細に思い出すことができる。
頭の中で声を再生することだって簡単なことだ。
PS4のコントローラー、毎日使っていたシャーペン、自分の席から眺める教室の様子、飼い犬や玄関を出たときの景色……数々の人との触れ合いも、すべて夢や妄想でなく、『ここ』と同じく現実に生きていた。
帰りたい。
そう思う、心の底から。
ところが思うとおりに事を運ばせてくれないのが現実だ。
身体の芯まで響く銃声と衝撃、
振り下ろされる剣の煌めき、
異形の断末魔の叫び、
飛び散る血が、
離れない。
こすってもこすっても離れない。
身体の芯まで染み付いてしまって離れない。
そして抜け出せない。
この迷宮世界が設定するふざけたルールの支配・強欲と暴力の螺旋構造の呪縛に、僕は組み伏せられ組み込まれ、どう見をよじってもあがいても抜け出すことができなくなっていた。
特に人情と人情の板挟み、人と人とのしがらみに囚われていた。
必要とし必要とされ、力を貸し力を借り、寄り添い寄り添われるうちに関係が広がり深まることは、別に悪いことではない。
だがシーソーゲームの勝敗に偏りが現れ、いまはもう、異世界が僕にとっての現実だ。
だからこそもうひとつの現実があったことを、あることを忘れてはならない。
会いたい人がいる。
いつかこの異世界を脱出し元の世界へ帰るためにみんな苦労しているのは、離れてしまいもう声を聞くことさえないかもしれない誰かの大切さに気付いたからだ。
家族・兄弟・恋人・友人に恩師――
数えてみればきりがない無二の存在がはげしく郷愁をかき立てる。
たが帰りたいと思う気持ちに、逃避が大いに含まれていることを、僕は否定できない。
悲劇のヒーローを気取るつもりはないが、関わりあう人が次々に死んでいく。
コージさん達四人が死に、亜紀さんが死に、次は誰だと疑う日々。
この異世界は悪意に満ち満ちている。
こんな展開誰が望むのか……。
「ちくしょう」
鋼太郎の目から涙がこぼれた。
熱い雫は頬を伝いなんとか顎にしがみついていたが、重力というよりも後続に押し出され、ブルーシートにパタリと音を立てて落ちた。
ゴソゴソと起き上がる音に鋼太郎は涙を拭い、空気孔から外の様子を見るふりをしながら腕時計で時間を確認した。
「雪緒さん、交代にはまだ早いですよ」
自分では普段どおりと思いながらも、やはり声が震えていた。
「ん。おしっこ」
「……は?」
見れば千登勢が目をこすりながらのそのそと起き出していた。
「……千登勢? なに?」
それに気付いた雪緒が眠たそうな声で尋ねた。
「おしっこ」
「……そういうこと口に出さない」
「……お花摘んでくる」
雪緒はガバッと勢いよく上半身を起こすと、抱いて寝ていた刀を杖代わりに立ち上がった。
完全に覚醒していないためにフラフラと揺れ、いつもより据わった目はジト目というよりも凶悪犯罪者のそれだった。
ムスッとした顔で周囲をゆっくりと視線を這わせ鋼太郎に気付くと、あくびを噛み殺しながら左手首を指差すジェスチャーを見せた。
「交代まであと三十七分です」
まだそんなにあるのかと不機嫌そうな顔をして草鞋を履き、長いポニーテールを首に巻いてマフラー代わりにするお茶目さを見せた。
千登勢は三つ編みにしてまとめた髪を肩から垂らし、頭の上からタオルを巻いて農家のおばさんのような姿になると、適度な量に千切ったトイレットペーパーをブレザーのポケットに入れた。
「僕も行きます」
「死ね」
「ち、違います! 一緒に警戒にあたろうと思って別にそんなことは……」
「そんなこととはどんなことだ?」
まだ眠気のさめない雪緒のジト目は凶悪なれど鋭さは鈍い。
いつまで続くかと思われた沈黙は早く行こうという千登勢の足踏みによって破られ、雪緒は先に行けと顎をしゃくって示した。
かまくらの入り口をふさぐ鉄兵の大盾をどかすと、勢いよく風と雪が飛びこんできた。
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