・ホラー
アナタが寝てる間に
……アタシは暗闇の中にいた。
ペンキをこねた様に濃厚な、重い重い黒の中にいた。
ドロドロと流れる光沢のある深淵を落下するアタシは、その辿り着く先を知らない。
手の先ほども見渡せない。
このネットリとした漆黒に絡み付かれたまま、どこか見当もつかない場所へアタシは確かに落下して行く。
落ちて落ちて、なのに何時まで経っても、アタシの状況は変わらない。
アタシは変わらずこの黒に包まれ、流され、堕ちて行く。
終わらないという確信。
それはどこか安穏とすらしているのに、アタシの心は恐怖と不安で一杯だった……。
そんな白昼夢みたいな夢を見る。
夢から開放されたと気づいても、目を覚ましたアタシはやっぱり暗闇の中にいるのだ。
ワタシは目を開いた。
此処は目が慣れれば隅々までを見渡せる。漆黒とは程遠い、1DKのアタシたちの部屋だ。
隣には彼が、寝息すら聞こえない静かな様子で横たわっている。
この空間は親の反対を押し切って、愛する彼と二人で借りた二人だけの世界にある幸せの象徴。
今日も異常は無かったし、明日もきっといつも通り。
アタシは背筋が寒くなった。
最近のアタシはずっと深く眠れず、突然深夜に目が覚める日々を過ごしていた。
冷蔵庫が壊れて以来、アタシと彼以外に動く物の無いこの部屋は、時が止まってしまったみたい。
アタシは時を刻む音が聴きたくて、時計が欲しいとねだったけれど、時刻を知らせる物は携帯で足りているからと、彼は聞き入れてはくれなかった。
アタシは堪らずに立ち上がる。
ここにはアタシしか音を立てるものが無い。
アタシが動かないと何も動かない、そんな気にさせられた。
アタシはキッチンで水を飲む。
飲むというより、含んで吐いた。
明かりは点けなかった。
彼を起こしてしまうかもしれないし、そうでなくても、何かを台無しにしてしまう気がしたから。
アタシは水を出した蛇口を緩く締める。完全には締めない。
何故だか分からないけど、今日はそうしたかった。
そうした方が良いような気がした。
水滴がシンクを打つ音が、時を刻むように、アタシを後押ししてくれる。
そんな期待をしていた。
何だか、心が踊った。
アタシは重いボーリングの玉が入った彼の鞄の前に膝をついた。
彼の鞄の横には彼に薦められて買った、私のボールが入った鞄もある。
彼のそれより少し小さな鞄は、仲良く並んでいて微笑ましい。
それはアタシと彼の姿を表している。
彼はボーリングが唯一の特技で、1ゲーム200くらいは当たり前に出す。
アタシは全然ヘタクソで、多くて100、少ない時には50も出ない事さえある。
彼のおかげで回数は通っているけれど、ちっとも上手くならないし、アタシのスコアにはひどくムラがあった。
アタシはボーリングが嫌いじゃないと思うけど、あまり行きたいとは思わない。
皆が遊びで来てるボーリング場で、一人だけ自慢げにグラブをはめてプロ気取りの彼は、何だか少し恥ずかしかった。
アタシは彼の鞄のジッパーを開けて、中からこの部屋の闇よりもずっと深い、漆黒色の重りを取り出す。
落とさないように慎重に持ち運ぶには、胸に抱えるしかなくなる。
中身を奪われた彼の鞄の横で、さっきまで自分よりも大きい存在の影に隠れていたアタシの鞄が、失っていた存在感を取り戻したみたいに見えた。
アタシはボールを抱えたまま布団まで戻ると、彼の頭の横に座った。
抱えているボールの三つの穴に右手の指を入れる。
ボーリング場でレンタルしているハウスボールと違い、彼のマイボールの穴はゴムで補強してあって滑らない。
彼のは自分の指の第一関節辺りで引っ掛けられるくらいのサイズに作ってあるから、彼と比べて細いアタシの指は、深く差し込めば隙間が無くゴムのお陰で滑らない。
ガッチリと掴んで、アタシには過ぎた重さのこのボールでも簡単には落とさない。
左手でボールの側面を支えて補助する様にして、胸の前で腕を真っ直ぐ伸ばす。
ビクリと心臓が跳ねた。
アタシが伸ばした手の真下、この重りの真下に彼の可愛い寝顔がある。
今にも落としてしまいそうな深刻な重量。
手を伸ばす前から、アタシの腕はボールの重みに痙攣を始めている。
鼓動が急速に加速していく。
動悸が激しくなって眩暈がしそう。
水がシンクを叩く、
トン――、
トン――、
という音だけが響いていた静かな部屋に、アタシの荒くなっていく呼吸が溶け込んでいく。
全身から、熱いとも冷たいともつかない汗が滲み出てくる。
アタシが手を放せば、放さなくても間もなく限界がきて、頭蓋骨を割られた彼は死んでしまうだろう。
その確信を疑わないだけの質量が、この手の中にある。
この塊が彼の頭部に接触する時、どんな音がするだろう?
アタシが過去に聞いた、人体から出た一番衝撃的な音は、体育館でクラスの男子がアキレス腱を切った時だった。
アレは凄かったな。
まさに響き渡ったという感じだった。
だからきっと、こんな硬いもの同士がぶつかったら大変なことになるに違いない。
ううん、意外とシンプルな音がするかもしれない。
――限界が近い。
そろそろこの腕を引っ込めて、ボールを鞄に戻さなくては。
そう、これは日課だもの。
眠れないことに耐えられなくなってから、アタシは毎日この行為を繰り返していた。
この後なら、精神的に充足したアタシは疲れ果ててグッスリと眠れる。
だからこれは、ただのストレス発散。
結局アタシは何事も無かった様に、ボールを鞄に戻して眠るんだ。
水が一定間隔で零れ落ちる音は、まるで時計が時を刻む音。
どうしたのだろう……?
いつもなら此処で腕を引いてしまうのだけど、今日のアタシはこれでは足りない。
このままじゃ、眠れない。
アタシは彼の頭部の真上に腕を伸ばした状態を維持したまま、その場に立ち上がってみることにした。
ボールが重くてなかなか立ち上がれない。
今にも彼の頭部に重りを落としてしまいそうな危うさに、ゾクリとする。
ボールの位置が高くなるほど、彼の死は揺ぎ無いものになっていく。
それが快感だった。
立ち上がると、汗でゴムと指の摩擦が無くなり、今にもボールが手から滑り落ちてしまいそう。
ポタリポタリと響く音が、アタシを急かしている。
彼と付き合い始めたのが十四歳だったから、アタシはもう六年もこの人の女なんだな。
彼は優しくて、アタシのことを愛してくれている。
いつもアタシのことを気にかけてくれている。
アタシが何処に居るのか、行くのか、何をするのか、誰といるのか、彼はアタシを愛してくれているからいつも心配してくれる。
だからアタシはバイト以外の時間はいつも彼と一緒にいる。
誰とも遊びになんて行けない、彼が心配するから、泣いてしまうから、殴るから。
殴るのよ、そらがアタシを愛している証。
バイト仲間とも、女友達とも、親とも会わない。
だからアタシには彼しかいない。
だからアタシの人生は全部彼からの貰い物。
趣味も何もかもが彼のお下がり、SEXもそう、全部彼の思惑通り。
アタシの意思が其処に無くても、それでもアタシは彼に従うの。
すべて彼がアタシを愛してくれている証拠だから。
あ、でも一度だけ彼以外の人と寝ました。
でも言えない、言ったらアタシは殺されてしまうから。
落下する水の音が、アタシの頭の中にある何かを刺激していた。
彼の寝顔は満たされていて無邪気で、とても可愛い。
涙が頬を伝う。
その熱さにアタシは満足していた。
アタシ泣いてる。
ああ、アタシはアナタを愛している。
愛している。
愛して……愛している。
愛しているのよ?
時が止まった様な無音の部屋は今、アタシの鼓動と体温で時の経過を実感させている。
満たされている。
握力は限界を過ぎた。
滲み出る汗のせいで、皮膚とゴムの摩擦は無くなりつつある。
次の瞬間には、重りはツルリとこの手から滑り落ちる……。
ほら、落ちる。――――落ちた。
アタシは耳を澄ましていた。
気付くと、アタシの口元は笑っていた。
END
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