エピローグ


 ◆


「……どうだよ、師匠」


 仰向けで満点の星空を眺めながら、青年は傍らで同様に空を見上げて立つ、壮年の男に向かって語りかけた。しかし、ただ男は空を眺めるのみで黙っているので、激闘の後で少しだけ回復した青年は、構わずに続けることにした。


「……人の魂は、大いなる意志で繋がってるんだ。例え今日に分かり合えなくたって、心の奥底には、何か同じものを抱えてる……そしてそれは、きっと、悪いものなんかじゃない。良いものを追い求める強さは、誰の心の中にだってあるんだ」

「……それは、少し楽観的だ、ネッド。恐らく、ジェニファー・F・キングスフィールドの演説だけでは、人々は心を合わせなかっただろう」

「……どういうことだ?」

「空の異変が、人々の心を束ねたのだ。落ちてきそうな空に、人々の心は恐怖していた……つまり、人種の垣根を越えた、共通の敵が、あの空だったのだ。だから、人々の心を束ねたのは、分かり合いたいと言う、ポジティブなものではなく、もっと根源的な欲求……平穏を求める心、云わば防衛本能が働いたに過ぎぬ」


 そこで、ダンバーは一旦話を区切り、夜空を指した。その先には、満天の星空が――いや、注視してみればうっすらとだが、まだこちらとあちらが繋がっている証のように、暗い荒地が見えた。


「あのように、まだ空に魂の荒野は残っている。それはつまり、彼女の演説を聞いて、なお反発する者が居たからに他ならない」

「それでも……ジェニーの夢が、多くの人々の心を束ねるきっかけになったのは間違いないだろう?」

「あぁ、そうだな……人は、神の力が無くとも、分かり合える日が来るのかも知れないな……」


 そこでやっとパイク・ダンバーは口を開き、こちらを見下ろして腰を下ろし、青年の手を握りって上半身を起こしてくれた。


「……立てるか?」

「アンタが、肩を貸してくれるならな……」


 青年の催促に、ダンバーは小さく笑って、しかし希望通りに肩を貸してくれた。二人の身長は丁度同じくらいなので、体に力は入らずとも、歩きやすかった。


「……だが、くどいようだがもう一度言うぞ。争いを無くし、平等な世が訪れるのは、ジェニファー・F・キングスフィールドの言っていたように、長い長い時間が必要だ。その間に、人間は技術と本能がその善性を塗りつぶしてしまい、人が人を滅ぼす結果になってしまうかもしれん。そういう意味では……お前等ワイルドバンチの思い描く明日は、あまりにも不確定で、見通しが甘いと言わざるを得ない」


 ダンバーはそう言いながら、岩を背に出来るように、青年を座らせてくれた。


「はっ、負けず嫌いのジジイがよ……俺の勝ちだろ?」

「いいや、お前の勝ちではない。貴様の奥の手はしっかりと凌ぎきったのだからな……だが……お前が紡いできた絆の力……スコットビルを乗り越えて、人々の心に可能性を示したジェニファー・F・キングスフィールドの夢と、それとおまけに先ほどの無茶苦茶な一撃で、あわせ技一本をくれてやる」

「はっ、またあわせ技かよ……まぁ、それでもいいや」


 最期まで、一人の力では師匠を超えられなかった。それでも、自分はいつだってこうやって戦ってきた――ジェニーの言うように、青年は特別な存在ではない。だからいつだって、誰かと力を合わせて、戦ってきたのだ。人一人の力は、たかが知れているのだから。

 青年が満足していると、一方で青年の予想通り、横に座った師匠が次第に表情を曇らせていくのが見えた。


「……ネッド、すまなかった、私は……」

「いや、いいんだよ……謝らないでくれ」

「しかし……」


 青年は手を上げて相手の言葉を静止しようとしたが、残念ながら動いてくれなかったので、なんとか首を小さく振って、相手に続きを言わせないようにした。


「……もし俺が、アンタの心を少しでも救えたんだったら、それはさ、巡りに巡っただけなんだよ。あの日、アンタが俺を救ってくれたから、俺は生き残った。アンタが俺の背中を押してくれたから、俺はネイ達に合流できた。アンタが魂の荒野を抜けたから、俺も自分が抜けられると信じて、歩き続けることができた……つまり、アンタが俺の先を歩いてくれていたから、俺は今ここにいるんだ。もっと言えば、アンタの優しさが、俺の胸を打ったから……それで俺は、アンタに少しでも恩返しをしたいと思っただけなんだからさ。だから……」


 そこで何とか首を回して横を振り向くと、いい歳をした壮年が、年甲斐も無く泣きそうな顔をしながらこちらを見つめていた。その顔に、いつかの日に自分に対して謝った男の顔を思い出し――だからこそ、相手を安心させるため、青年は笑顔に努めた。


「だからもう、謝らなくたっていいんだよ、ダンバー」

「ネッド……」


 青年の言葉に、パイク・ダンバーは目元を覆い――だがすぐに、青年の良く知っている、強い、しかし優しい笑顔を浮かべてくれた。


「そうだな……それならば……私は、お前のおかげで……いいや、お前とその仲間達のおかげで、最後の最後に、迷いを断ち切ることができた。だから、ありがとう、ネッド」

「……どういたしまして」


 そう言って二人笑い合いあって後、青年の視界が揺れ始めた。それは、ギャラルホルンの奥底で、何者かが怒り、浮遊城を震わせているようだった。


「……ヘブンズステアか」

「こうしちゃいられない、俺は……!」


 きっと仲間達は最期の戦いに赴いているだろう――それなのに、自分だけここで果てるわけにはいかない。何より、約束があるから――しかし無常にも、既に燃やせるものの無い青年の体は、意志とは裏腹に、まったく動いてくれない。それどころか――。


(くそ……意識が……)


 その時青年の胸中に飛来したのは、二つの感情――一つは、まったく動けないやるせなさ、そしてもう一つは、少女との約束を違えてしまう事への恐怖心だった。不思議と、自身が消え去る恐怖感はあまり無かった。全てをやりきった後なら、怖さもあったのかもしれないが――駄目だ、もう何も考えられない――眼を開けているはずなのに、世界は段々と暗く染まっていく。今日は、こんなにも星と月が明るい夜なのに――。


「……青年は少女が困っていたら、我が身も振り返らずに駆けつける……なのだろう?」


 その声が聞こえた瞬間、青年の視界に淡い鼈甲色の光が射し込み――少し意識がハッキリとしてきた。その光の正体を知ろうと、自分の方に向かってくる、暖かい光を手繰っていくと、青年の前で膝を付いて、右の手のひらに魂の結晶――本来あるべき大きさよりも、随分と小さく、ボロボロに朽ちかけてしまっているが、確かな光を帯びている――それを乗せて微笑んでいる、青年の師匠の姿があった。


「し、師匠、アンタ……!」

「……我々は、大いなる意志に見放された、世界にたった二人の馬鹿な男だ。しかしだからこそ……同じ力を持っているならばこそ、きっとこの魂を、お前に継ぐことが出来るのではないかと思ってな……」


 許されざる者の魂は、その結晶は、心の臓を代替している。つまり、パイク・ダンバーは自らの左胸を切り開いて手を差し込み、それを取り出していたのだ。しかし、血はまったく出ていない――その体はすでに機能を停止しているようで、まるでどこか人形のように生気が無い。唯一つ、青年が大好きだった、優しい眼差しを除いては。


「……もはや、搾りかすのような物だが……それでもきっと、あの子の元に辿りつく位には、もつはずだ……」

「う……うぅ……!」


 師匠の魂の暖かさに包まれたおかげか、枯れていたはずの涙が、青年の瞳の奥から溢れ出して来る。いい歳なのに、それこそ子供のように――。


「……ネッド、最期の頼みだ。どうか……最後の一瞬まで、諦めないでくれ。残酷な頼みかもしれない、それでも、私は……お前に魂の荒野を歩かせたというのに、それでも私は、お前に、明日に向かって欲しいのだ」

「あぁ……! 言われなくたって……俺は絶対に諦めない! 諦めてやるものか! 俺は、生きて、あの子と一緒に、これからも歩んでいくんだ!!」


 そこで青年は一度俯いた。それは胸中に、前に居る男の様々な思い出が蘇ってきたから――釣りの仕方を教えてくれた、国の歴史や政治を教えてくれた、術式を――昨日に今日に、あの子を護る力を授けてくれた、そのことが脳裏に浮かび――。


 そして、再び顔を上げ、青年は自分の恩師の顔を、滲む視界の向こうに見た。やはり、パイク・ダンバーは、我が子を慰めるような柔らかい笑みを浮かべていた。


「アンタの事だって、絶対に忘れない! 子供に、孫に、ずっとずっと、アンタの優しさを語り継いでいく! アンタの魂が、俺の中で燃えて消え去ってしまっても……それでも、ずっと、誰かの心の中に、残っていくようにするから!!」


 青年の言葉に、老剣士は目を閉じ――。


「だから、俺からも……ありがとう……!」


 ダンバーは頷き、しかしその頭は、もう上がることは無かった。光の逆行が止み、青年は心臓に、僅かだが確かに、体に力が戻ってくるのを感じ――涙を拭い、世界で一番尊敬する、我が養父を少しの間じっと、見つめ、そして右手で左の胸を抑えながら立ち上がった。


「……アンタの想いは、俺が必ず持っていくから……」


 青年は空を見上げながら呟き、そして視線をギャラルホルンの入り口へと向けた。数歩歩いて振り返り――右腕を掲げたまま動かなくなった男の亡骸を見て――その姿が、最後までこの世界で、何かを掴もうと戦い続けた男に相応しいように思った。だが、すぐにその体は灰の様に崩れ去っていき、夜風にさらわれていき――聖なる夜に、誰よりも人類を憂い、誰よりも優しかった男は、肉体を散らし――そして、青年は再び振り返り、もう二度と振り返ることはしなかった。


 そう、肉体は滅びても、彼の魂は、これからも共にあるのだから――だから、もう振り返る必要など無い。青年は少女との約束を果たすため、明日に向かって走り出した。

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