6


 果たして時間というものは何なのか、この頃そんなことが頭をよぎる。


 あくまでも体感的にだが、なんだかすでに一年は歩いているような気がする。しかし、本当に一年なのか? 昼も夜も無い、ただ黄昏時が延々と続くこの空間に、そもそも時間などという概念が果たして通用するのだろうか。コグバーンは五年待ったと言っていた。あそこに送られたのは、しっかり時系列が守られており、そういう意味では、ここにも時間は流れているのだろうが――そんなものは、あくまでも状況からの推理に過ぎない。


 そもそも、時間という物は、不可逆で、連綿とした、河の流れのようなモノなのだろうか。生きている時は、時計の秒針は右に周っていた。左に周ることは無かった。だけど、そんなものは人間が決めた尺度だ。そして自分は、その尺度を基準として、それに異を唱えることもなく、所謂常識を刷り込まれていたにすぎない。ここでは、それが通用しない気がする。もしかすると、自分は出発してから、まだ一分も発っていないのかもしれない。はたまた、一年などでは無く、十年も二十年も歩いているのかもしれない。そんな風に思ってしまうほど、ここは異様で、寂しくて、ただただ孤独だった。


 むしろ、孤独と感じられるだけマシなのかもしれない。無に帰したら、孤独と感じる心さえ無くなる。しかも、仮に生き返ったとしよう、いや、生き返ると言うより、歩く屍と言うべきなのかもしれないが――そんなことはどっちでもいい、ともかく現世に帰れたとしよう。それは自分にとって、本当に幸せなのだろうか?


 冷静に考えてみろ、世の中なんてクソッタレだ。客観的に見れば、自分は幸福な方だっただろう。生まれで蔑まれる事は無かったし、肌の色で迫害されたことは無かった。それでも、貧困は続いていたし、父親にだって先立たれ、幼くして丁稚奉公に出され、奉公先では仕事はきつかったし、何より仕事場が強盗に襲撃された。


 師匠と出会って力を得ても、生活は楽にはならなかった。むしろ、賞金稼ぎとしてやってきたせいで、安心して眠れる夜は減ったのではないか――いや、そんな風に言うだけおこがましいか、自分は他人の自由を売って生計を立てていたのだ、随分とクソッタレではないか。


 いや、クソッタレは自分だけでは無い。自分は、生まれや性差で人を見下したことは無かったし、酷いリンチや虐殺に加担したことは無い。世の中の方がよっぽどクソッタレで、他の人の方が余程冷たかったではないか。


 いやいや、自分もやはりクソッタレだ。世の中がそんな酷いと言う事は分かっていても、知った風になって、その事実を受け入れるふりをして、諦めた風を装って、眼を逸らしてきたではないか――。


 だが、ともかく世の中嫌なことばかりだ。生きている間の、九割は嫌な時間だったと言っても過言ではない。いや、下手すればもっとか――良かった時など、ほんの欠片の様な物ではなかったか。


 そう考えれば、果たして現世に戻るのが正解なのか、甚だ怪しかった。今の世の中は、本当に嫌な世界だ。もし今からでも、この背中に感じる引力に誘われて戻ったとして――そう、輪廻の輪に組み込まれたとしよう。いや、それはそれで嫌なものか――もう一度、このクソッタレた世の中に生を受けるなど、まっぴらごめんなような気もする。しかし、次に生を受ける時には、今よりはマシな世の中になっているかもしれない――そう、今は少々、生きるには過酷な世の中だったのだ。


 いや、果たしてそうだろうか、師匠から倣った歴史を思い出してみると、何時の時代もクソッタレでは無かっただろうか。そう思えば、人の世は、常にクソッタレなのかもしれない。人は、誰かを傷つけずにはいられない生き物だ。それこそ、明日を生きるためには、同じ人だって殺す。そうでなくとも、自分の理解を越える者、もしくは自分の立場を脅かす者は、暴力で排除する。それは、今までの人生の中で何度も見てきたではないか。人間とは、なんという畜生ではないか。


 そうだ、次に生まれ変わるならば植物にでも生まれかわればいい。そもそも、こう、言葉というモノが駄目だ。これがあるから、こんな風に色々と考えてしまう。言葉という物が人類最大の発明だとか云った奴は誰だ、そいつは畜生だ――言葉があるから、人は悩むんだ。辛さを言葉で明確化してしまうんだ、苦痛を定義してしまうんだ、だから辛いんだ。分からなければ、それで悩んで、それを言葉にしようとすらしない。そう、言葉が無ければ、きっともっと穏やかだ。動物だと、本能だとかやかましい物があって、恐怖や飢えに苦しむかもしれないが、植物だったらきっとそういう物とも無縁だ――ともかく、現世に戻るのが、そんなに素晴らしい物なのか、世の中ってのはクソだ、嫌だ、もう歩くのは疲れた、なんでこんなふうに自分ばっかり辛い想いをしてるんだ、畜生、チクショウ――。


 そもそも、何を考えていたんだっけ? そう、時間だ。いや、時間も言葉だ。いや、違うか、でも同じ人間が作り出した尺度だ――なんだか、色々とどうでも良くなってきた。考えるのすら面倒だ――。


 だけど、何故だろうか、足は止まってくれなかった。それは、引力に逆らっている証拠だった。小さなプライドだった。過酷の下に居る自分に、酔ってしまっているだけかもしれない。そう思えば、人間って言うのは意外と立派な生き物な気もしてきた。いや、下らないか――だって、ちっぽけな物をよりどころにして、荒野を一人行くなど、ハッキリ言って愚かしい。そうだ、自分は馬鹿だ。大馬鹿だ。そんな自分を嫌いじゃないとか思ってしまう自分が、果てしないほど馬鹿で、そして嫌いで、それでも愛おしかった。


 不思議なモノで――そう、世の中って言うのは九割以上がイヤなことだ。それでも、ほんの欠片の愛おしさがあれば、それだけでなんだか生きる気力が沸く気もする――そうか、いや、なんとなく分かってきた。これが生き物の本質なのかもしれない。


 重力に引かれて物は落ちる、当たり前だ。川の流れに逆らわなければ、水は低きに流れる、当たり前すぎることだ。だが、生き物ってのは骨を持って、立派に重力に逆らってやがるじゃないか。魚は激流だって登って見せる時がある――そう、生き物ってのは、何かに逆らうために生まれてきたのかもしれない。


 そもそも、大いなる意思って奴は、それを試したかったのかもしれない――生きるという事は、逆らうという事。ただ連綿と流れ続ける時の中で、あるがままの世界の法則に逆らって、泳ぎ、歩み、飛んで、育んで、切り拓く者達――そういうものの存在を作りたかったのかもしれない。


 真実など分からない。哀しいかな、背後から感じる引力は、それに答える言葉を持っていないらしい――そうなれば、この思考その物もナンセンスな気もした。いや、そうでもないか、解が無い思考というモノも、時には価値があるかもしれない。そこに意味があるかを見出すかは、結局は自分次第なのだから。


 しかしともかく、この考えが正解だとしても、世の中がクソッタレだという事は何一つ変わりない。生物の本懐が逆らう事だとしても、いやだからこそか、やはり現世は辛いことの方が多いのだ。生きるには力が必要だ、エネルギーが必要なのだ。しかも生き物の本懐というやつは、今度は本能という物に支配され、奪い合う事が整然と肯定されてしまっている。物理法則に逆らうために生まれた生物は、今度は本能というなの激流に逆らう事を忘れてしまったのだ。そして自分自身も、それに抗えているとは言い難い。そう考えれば、結局自分もクソッタレなことには変わりないのだ。


 だが、それでも――抗う事を選んだ自分は、やはり少し誇らしい。この誇らしさっていうのが意外と大切で、なんだか九割の嫌なことと相殺できる程、素晴らしい物にも感じられる。もちろん、素晴らしい物を感じる以上に、嫌なことを感じる頻度の方が余程多く、こんなことを考えた自分のことを忘れてしまう日もあるだろう。それでもなお、やはり素晴らしい物は素晴らしいのだ。


 そしてもう一つ、サカヴィアが言っていたことを思い出す。自分は、特別ではないと――そう、自分は特別な訳ではない。思考が鈍い訳でもない、かといって天才でもない。色々と恵まれていることも自覚はしているが、かといってただ唯一、と言えるほど誇れる物も無い。


 しかしだからこそ、自分が特別でないからこそ――自分の考えは、自分の想いは、きっと誰だって抱くことが出来るし、誰にだって素晴らしいと思える感性はあるはずだ。


 そう考えれば、世の中というのはクソッタレだが、意外と良い所もあるのではないか。きっと、人の世はいつまでもクソッタレだ。一つ問題を解決すれば、どうせ次に新しい問題が出てくる。しかしそれと同時に、人の世にはいつだって、素晴らしいモノがあるのではないか。


 そう、思い出そう――世の中は、きっと戦う価値がある。


 孤独は、人を殺す。どうにも、もはやどれだけ孤独の時が流れたか――もう、一年は孤独なのではないか、いや、もしかすると百年は孤独なのかもしれない。現世でも五年は孤独な時があり、アレは死んでいるようなものだとも思ったが、思い返せば最低限は人との触れ合いはあった。自分が食べていた食料は、誰かが作ったものだ。自分が使っていた繊維は、元々は誰かが紡いだものだ。人は、孤独じゃ生きられない――だが、今は絶対的な孤独だ。


 だからこそ、想い返そう。孤独で無かった時を――この引力に逆らうだけの、この孤独に耐えられるだけの根拠を、絆を――。


 自分の人生で輝いていた時は何時だったか、やはりここ一カ月――この荒野では無い、そもそももう二百年は歩いている気がする――生前の一カ月、アレは素晴らしかった。心許せる仲間たちに囲まれて、もちろんやろうとしていたことは物騒だが、それでも人生で一番楽しい時だった。


 クーの作る料理は上手かった。味が濃くて脂っこくて最高だったのだが、歳を取ってからはきつそうだ――いや、このまま戻っても、今度は美味しく食べられないかもしれない。それでも、気の使えるいい奴だった。ヴァンの事も本気で心配してくれていた。


 ヴァンの奴は、割と心配だ。自分が死んだ後、結構思い詰めてしまっているのではないか。元々は引っ込み思案な奴だったが、正義感は人一倍だった。何より、自分と同等に悩む性質だった――そう、だからヤツといる時も、また素晴らしい思い出だ。


 ポワカと居ると、なんだか妹が出来たみたいで嬉しかった。クソ生意気な奴で、何度もイライラさせられたが、あの子も意外と根はイイ子で――人の心に共感できる優しさがある。成程、あの子みたいな子が笑って暮らせる世の中にしたいという気持ちも分かるし、またそうするだけの価値もあるだろう。


 ブラウン博士は、結構頼り無い所が多かった。意外と肝心なことは知っていなかったりして――しかし、自分たちを心配してくれる暖かさがあった。年長者として、そして今の大陸の悲劇の一端を担ってしまった負い目もあったのだろう。しかし逆に、負い目を感じ、それを清算しようというのも、人間の素晴らしさの一つではないか。


 ブッカーは、いつもニヤニヤしている胡散臭い奴だ。仲間の内じゃリアリストで――しかし、だからこそ頼りになった。何より、ジェニーの事を案じる想いはだれよりも強い。奴隷制の犠牲者だと言うのに、綺麗な夢に賭けたいと言った彼の顔は、決して忘れることはできない。


 ジェニーは、半分くらい男なんじゃないかと思う事もあった。それくらい、熱くて強い奴だ。しかし一方で、誰よりも人の善性を信じているお人好しでもある――ある意味、ヴァン並に心配な奴だが、それでもあの背中が、何度自分の心を打ったか分からない。


 そこで、青年は一旦歩みを止めた。決して、流れに逆らうことを止める気になった訳ではない――ただ、一度自分の想いを整理したかったのだ。


 目を瞑り、荒野では無く、心の奥底を――瞼の裏の暗い闇、しかしその中に光る何かを掴もうと、心を落ち着かせる。


 そう、自分が共に歩んできた人たちは、素晴らしい人たちだった。もしかしたら、彼らも自分に対して、同じように思ってくれているかもしれない。


 そう考えればやはり、人間って言うのは素晴らしいのではないか。再三だが、人間っていうヤツは、同じ以上にクソッタレなことも間違いない。それでも、むしろクソッタレだからこそ、抗う価値があるのではないか――この荒野を切り拓き、なんど打ちのめされても、それでもなお、素晴らしい物を希求する――愚かしいけれども、愛おしい生き物。


 そう、愛おしい――青年は、そこで瞼を開けた。辺りの景色は、少しだけ変わっていた。何も無い荒れ地が続いているのは変わりないが、辺りはすっかりと暗くなっていた。気がつくと、背中に感じる引力も、小さくなっていて――代わりに、空に一つ、輝く星が見えた。アレが、自分の目指すべき往き先だ。果たして、辿り着けるか――しかし思考は随分と明瞭で、今までゴチャゴチャと考えてきたことが嘘のように穏やかな気持ちになっていた。

 

 恐らく時間的に、ただいま四人の場所を発ってから一週間ほどだろう、根拠は無いが、確信はあった。しかし、自分が歩んできた思考の道は、間違いなく何年もの道のりがあった――そう、時間というのは人間が決めた尺度に過ぎない。いわゆる外の時間に換算すれば一週間、しかし青年は今、数年分の哲学の道を歩んできたことも間違いなかった。


 何よりも大切なことは、それだけ考えて、答えは単純だったと言う事だ。環状線なのか、戻ってきたと言っても過言ではない。結局今の自分は、大佐達の居る場所を発ったときと、想いは変わらなかった。


 だが、思考したことは無意味だったとも思わない。別段、これが世の真理だとか言うつもりはさらさらなくとも、自分にとっては迷わない一つを見つけられたのだから。


「……世の中ってのは素晴らしい、抗う価値がある……それだけでも、帰る理由になるってもんさな」


 随分、久々に音を聞いた様な気がした。誰に言う訳でもないのだが――強いてを言えば、自分に語りかけたのか、ここの所ずっと、一緒に抗い続けた相棒である自分に。


 ともかくこうなると、意外と言葉というものも素晴らしい物に感じられてきた。自分を苦しめていたのも間違いなく思考、つまり言語であるのだが、同時に素晴らしさに気づけたのも、また言葉の、思考のおかげだったのだ。こう思うと、人間って言うのはつくづく面白いものだと感じられた。サカヴィアが言っていたように、矛盾した生き物――しかし一貫していないからこそ面白いのだろう。


 ところで果たして、我が先達たる師匠は、どのような思いでこの荒野を抜けて行ったのだろうか。自分と同じように、人間の善性を信じたのか、それとも――。


 しかし、それを知るために、青年は長い時をかけて、この荒野を歩いてきたのだ。パイク・ダンバーと決着をつけなければならない――それは間違いなく、歩き続けるための理由の一つだった。


 しかし、それだけでは随分と味気ないではないか。この苦行の報酬が、師の想いを知ることだけというのに耐えられるほど、青年はタフでもなければ誠実でもない。ハッキリ言って、もっと単純で、本能的な欲求の方が、余程大きかったのも確かだ。


 そう、あの光だ――間違いない。自分が迷いを断ち切ったから、それが見えるようになったのだ。


 自分が現世に戻りたい理由――もちろん、人の善性を信じ、それが故に人々を支配する様な連中を放っておけないのもあるが、そんなことは青年にとって割とどうでもよかった。自分は卑劣漢でも無ければ、正義漢でもないのだから――大切なのは師の想いを知ること、仲間達が心配なこと。だがそれだけでは、大いなる意思の引力に逆らえる程、足に力を入れられる訳では無かった。


 もっともっと単純に、あの子に会いたいから――そう、それだけでいいのだ。自分は、少女と会うまでは、死んでいるようなものだった。あの子と出会って、自分は蘇った――改めて、人の素晴らしさに気付いたのだ。全ては、あの日、列車であの子と出会った時に始まった。あの子のために一生懸命になっている自分も嫌いではなかった。


 もう一度会えたら、今度こそ君の右手を握ろう。今の自分ならば、それが出来る――青年が自分を肯定出来たように、きっとあの子も、自分を認められる日が来る。いや、自分がそれを紡いでみせよう。


 気がつけば、背中から感じる引力は無くなっていた。そこで青年は一度振り返った。


「……言っただろ? お前さんの度肝を抜いて見せるってな」


 驚かれたと言うよりは、呆れられた、という方が正確なのだろうが――しかし青年は、小さな自尊心を満足させるために、それを言わないと満足できなかった。


 さて、やはり孤独は人を殺す。いい加減、かなりさびしいのも確かだった。あの子と出会ったらどうしようか、先ほど考えたように、まずあの子の手を握ろう。そうしたら、今度は頭でも撫でようか――ともかくたくさん、甘えさせてあげたい、あの子はさびしがり屋だからな――いや、自分もか、青年はそう思った。


 まだ、ゴールが見える訳ではない。しかし、青年の足取りは軽かった。あと、どれ程で帰れるのかまったくわからなかったが――仮にどれだけ掛っても、歩み続けよう。


 ただ、もう一度君に会いたいから。青年が歩き続ける理由は、結局それだけで十分だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る