2-3 新宿区三番街

 間もなく、太陽がビルの隙間から向こうへと消えようとしている。空は薄暗くなり、ぽつぽつと街灯の電気がつき始める。それに伴って、街の中では飲み屋やキャバクラ、風俗の呼び込みの店員ががしきりに歩く人々にかける声が聞こえるようになる。街を歩く人々も仕事を終えてどこに呑みに行こうかと考えているサラリーマンやOL、授業を終えて羽を伸ばしたい学生、一目でも見てもらおうとストリートミュージシャンやパフォーマーなど様々な種類の人々が集まって人の流れを形成している。新宿という街は昼よりも夜に活気があるように思える。特に、この三番街という街の中では。


 一人の患者が雑居ビルの一角から出てくる。一階の看板にはカラフルで小さなトカゲが描かれており、胴体にはベイビーリザードという名前が小さく刻まれて患者が帰る姿を見送っている。程なくして地下から助手が上がってくると、『診察中』のプレートを白衣のポケットにしまいこんで、代わりに『本日の診察は終了いたしました』というプレートを入口扉のフックに引っ掛ける。時間にして午後五時三十分を回ったところだ。患者の問診が少々押したようだがこの程度ならよくあることで、特に忙しい日だと二時間くらい遅れて診察終了となる時もある。

 最後の患者の問診を終えて、山賀は新たにまとめた患者の電子カルテを苦虫を噛み潰した様な顔をして見つめている。毎度の事ながら、ここに来る患者の要望は一筋縄ではいかないものばかりで山賀のように腕が立って経験豊富な医者であっても、どのような手段を取るべきか、あるいは患者の要望を断るべきか迷う代物が多い。例えば今、彼女が眺めているのは新宿区三番街でパフォーマンスを売りにしている店に勤めている男性の要望だが、人間の尾骨にあたる場所にクジャクの羽を付けたいというものだった。山賀はさすがにめまいを覚えて目頭を指で押さえながら、天井を仰いだ。


「いくら目立てるからってそれはないわ……。日常生活どうすんのよ」


 頭に鈍痛が襲いかかってくるのを自覚しつつ、次の患者のカルテを開く。次は次でさらに問題がある患者で、とあるでしくじったから顔面全体の整形と両腕と背中に刻まれた入れ墨の除去、さらにキメラ人であるように見せかける為に偽のうろこを作って背中の皮膚に埋め込んでほしいという念の入り様である。一体何をしくじったのか気になっている山賀ではあるが、それをこの手の人々に問い詰めてはいけない。彼らには彼らなりの掟が存在する。部外者が興味本位で突っ込んで良い領域ではない。ずっと部外者の立場を維持しているからこそ、山賀はアウトローな人々の信頼を得ている。まあ、免許があれば危ない人々を相手取る必要もないのだが。


「はぁ、この人も難儀な手術しなきゃなのよねぇ。……問題はそれまでに生きてられるかって事なんだけど」


 もしもの時の為に、匿ってくれる病院のツテはあるが、知り合いに面倒ごとを押し付けるのは山賀は心苦しかった。もし預けた病院に敵対している集団の襲撃でもあって、知り合いの医者や看護士、患者に怪我されたり死なれたりした日には後悔の念に堪えられないだろう。とはいえ自らの病院に匿った日には自分が危ない。結局、どうにかして当人の腕前とツテを駆使して逃げのびてもらうしかないのだ。

 様々な難儀な人々のカルテを一通り眺め、相変わらず額にしわを寄せたままで表情は固まっている。一癖二癖では済まない要望が勢ぞろいで頭痛がひどくなってくるのを自覚し、たまりかねて、診察室のデスクの上に置いてある頭痛薬に手を伸ばし、水と一緒に錠剤を流し込む。最近は患者の無理難題のレベルが高くなる一方で、そろそろこの病院の施設では手に負えないかもしれないと山賀は感じている。といっても、他に良い物件も中々見つからないのでしばらくはここで診療を続けるしかないのだが。

 しかめっ面をしつつも今日受け付けた患者のカルテをすべて見終え、電子カルテを閉じる山賀。診察室のデスクトップ型パソコンの電源も落として荷物をまとめ、帰る準備をする。


「アコ、そろそろ病院閉めるから帰っていいよ」

「……はい」


 病院の掃除と後片付けを黙々と続けていた、アコと呼ばれた助手は一通りの後片付けを終えて、自らの私物を収めている小部屋に行って着替えを始めた。看護士の制服を脱ぎ、下着姿を露わにする。……その体には無数の傷跡が走っていた。刃物で切られたような、あるいは抉られたような傷。過去に壮絶な何かがあったのだろうと想像できるが、アコは全く語ろうとはしない。ある時、新宿区三番街の路地の奥まった場所で、傷だらけでボロ布だけを身にまとってうずくまっていた所を、山賀が見かけて子猫を助けるような感じで病院に連れていき治療した。あと少し助けるのが遅ければ出血の為に死んでいてもおかしくなかったらしい。一通り体の傷も癒えたころ、行く先も無いということと、人手が足りなかったという当時の事情もあり、助手として雇っている。寡黙で何も語らないアコだが、居心地がいいのか山賀の下を去るというのは今のところない。

 アコはシンプルで装飾が全くない無地灰色のパーカーとデニム生地のジーンズに着替えて、病院入口まで来た。見送りに山賀も来ている。アコはなぜか山賀が見送りに来ないと帰りたがらない。入口に立って葉巻を加えている山賀の方を振り向き、少しだけの微笑みを浮かべ、挨拶を言うアコ。

 

「せんせ……また来週」

「うん、また来週」


 アコはゆっくりとした足取りで、徐々に病院から遠ざかっていく。時折病院の方を振り向いて、山賀がまだ病院の入口に立っているのを見ながら、名残惜しそうなそぶりを見せつつ、駅の方へと歩いていく。山賀は葉巻を燻らせながらそれを見つめている。いつもの風景。やがてアコの姿も消え、太陽の光もビル群の向こう側に完全に消えていく。薄紫から黒に染まっていく空と、白い月が太陽の代わりにひょっこりとビルの隙間から顔をのぞかせる。新宿区三番街の夜がやってくる。それも週末の、羽目を外そうと躍起になっている人々の夜。

 山賀はアコの見送りを終えた後、院長室に戻ってゆっくりと葉巻の煙を楽しみつつ、あらかじめ今日の予定を聞いていた、とある相手の返事を確認しようと携帯電話にインストールしている簡易メッセージ送信ソフトを開いた。戻ってきた返事は『今日は残業です。残念!』というもので、一緒にうなだれながら涙を流すスタンプが添付されていた。それを見て、山賀は葉巻の火を乱暴に消した。


「あぁもう。最近忙しいなぁあいつ。そんなに仕事が立て込んでるのか」


 髪の毛をかき乱し、一か月も会えていない相手の事を思うと胸に軽い痛みが走る。まだ一月?もう一月?どちらにしても一目でも、五分間でもいいから直接会って話をしたい。大人だから無分別な行動には走らないけれども、そろそろ限界かもしれないと山賀は感じている。今回付き合っている相手とは結構長続きしている。数えるのも億劫だがそれなりの期間、相手が大学生から卒業する程度には、といったくらいの年数だろうか。お互いそろそろ次のステップを見据えている……かどうかは定かではないが。

 白衣から私服に着替え、街に繰り出す山賀。今の季節は冬。街を歩く人々はみな何かしらの防寒具を着こみ、息を白く吐きながら忙しく街を歩いていく。山賀もグレーのコートに白いマフラー、黒のドレスにタイツとかなり着こんでいる。時折女子高生らしき制服を着た女の子たちともすれ違うが、彼女たちは若いからか、ストッキングやレギンスの類を履かずに生足で歩き回る。上はさすがにコートやジャンパーを着こんでいるとはいえ、寒さにまるで無頓着であるかのように。対照的な姿に、山賀は年は取りたくないものだと独り言を吐く。

 

 何時だったかはもう誰も覚えていないが、とある区長が大々的に新宿区の区画整理および市街地の再開発を行うと宣言してそれが実行された。旧名である歌舞伎町やらなにやらと呼ばれていたものも区割りされなおして何番街、というように番号で呼ばれるようになり、区画整理されて昔の街並みはどこにもなくなった。何番街が何を主目的とした街なのか、わかりやすくしたと行政は豪語するが昔ながらの街並みを記憶していた人々からすれば、いろいろ弄りすぎてよくわからなくなったと反発もあった。しかし時代を経るにつれて、人々も区画整理された街に馴染んでいき、昔の街並みの記憶はなくなり、古い地図上にかつての街並みの姿を遺しているだけとなっている。

 中でも山賀が運営する病院がある、新宿区三番街は飲み屋街や風俗街として有名だった。もちろん、一般客を相手とする店もあるが、とある通りに入るとその様相は一変する。いわゆる同性愛を主眼に置いた店がズラリと立ち並ぶ通りになっていた。いつからそうなったかはやはり定かではない。かつての新宿二丁目にいたコミュニティの人々が、いつの間にかこの新宿区三番街に移り住んできたという話がもっとも有力ではあるが……。彼らの中にももちろんキメラ人がいて、やたらと動物らしさを押し出した人々が増えている。今歩いた中でもトラやゴリラ、ライオンなどといった動物の遺伝子を持った人とすれ違った。今そちらの界隈ではケモノ系の人々が人気らしい。彼らの中には遺伝子を移植した人もいるわけで、その中には山賀が施術を行った人もいた。彼女はこの街では一番遺伝子移植が上手いという事で評判が高く、そこそこに有名人だった。

 ふらふらと街を歩いていると、ヴァンパイアのコスプレをした人が山賀に挨拶してきた。彼の口からは明らかに大きな牙がちらちらと見え隠れしている。


「こんばんは!山賀先生今日はどちらへ?よければウチの店でちょっと呑んでいきませんか」


 彼が指をさした先には『ヴァンパイア・クラブ』というホストクラブがあった。彼はこの店の指名No.1で一番の売れっ子だという。彼も山賀のクリニックで施術を受け、トラの牙とコウモリの羽を移植したのだ。


「悪いけど今日はそういう気分じゃないんだ。ありがと」

「あぁそれは残念だ、いつでもお待ちしてますからね!」


 こんな調子で、いろんな店の人々に挨拶をされる山賀。少しばかりウザったいと感じてはいるものの、こうやって挨拶や感謝の気持ちを伝えられるのはけして悪くない。医者冥利に尽きる。

 山賀は街の中の、さらに路地裏に入り込んでいく。すると目の前に、少し立派で古めかしい民家のような建物が見えた。ここは山賀の行きつけの飲み屋のひとつである。ドアの前に置いてあるランプの灯りのみがかろうじて目印になるくらいで看板などはない。店の位置を正確に把握していなければ、例えたどり着いても素通りしてしまうだろう。

 ドアを押して、中に入る山賀を迎えるのは、筋肉質でラグビー選手のようなガタイの良いマスターだった。長袖Yシャツを腕まくりして、黒いエプロンをかけている。よく整えられたもみ上げとつながっている顎髭がトレードマークだ。彼は同性愛者であり、店もその手の人がメインターゲットだが、女性や普通の男性も客として迎え入れている。純粋な飲み屋であり、マスターが作るおつまみや揃えられているお酒の豊富さもあって知る人ぞ知る名店であった。山賀が声をかけると、屈託のない笑顔を向けて挨拶を返すマスター。今日はまだ他に客はいない。


「こんばんは。お邪魔します」

「あら、しいちゃんじゃないの。随分久しぶりね。二週間くらい来なかったじゃない何やってたのさ」

「最近は仕事が忙しくてね~。今日も無理難題を言うお客が多くてもう参ったのなんのって」

「恋人ほったらかしてるんじゃないのぉ?ダメよ仕事にかまけてたら。はい、とりあえずビールね」

「逆に私がほったらかされてるんだよなぁ……。ありがと」


 駆けつけ三杯とでも言わんばかりに、マスターはグラスについだビールを山賀に手渡す。山賀も一気にそれを飲み干し、すぐに次の飲み物を要求せんといわんばかりにグラスを突き返す。しかしマスターはすぐにグラスに飲み物をつがずに、フライパンを手に取った。

 

「またどうせ夕食も食べずにここに来たんでしょ。お酒ばっかり飲んでたら体に毒よ」

「じゃあ適当に何かお願い~」


 はいはいと生返事を返しながら、マスターは冷蔵庫を漁って何かを作り始めた。それとともに、山賀はTVのリモコンを手に取り、適当にチャンネルを回し始める。そのとき、国営チャンネルで歴史ドラマがやっているのを見て山賀はそのチャンネルを見始めた。料理をしながら番組をちらちら見ているマスターがぼそっとつぶやく。


「最近、このドラマに出てる女優で良いのがいるのよ。鈴谷ちなつっていう子なんだけどね」

「へえ、どの女優?」

「いまお姫様の役やってる子よ」

「あら、随分と可愛いわね」

「そうなのよ~。それでいて嫌味さとか、驕った部分が見えないからね、ウチらの業界でもひそかに人気あるのよね」


 人を見る目に長けている彼らの評判が良いともなれば、普段の人柄も良いのだろう。しかしそれ以上に、彼女の演技力はずば抜けて高く、他の俳優を凌駕していた。喜怒哀楽どの感情の演技を見てもまるで本当にそうであるかのように演じ、また時代劇とあって手足の動かし方から勉強したと思うが、それにしてもその時代の人が本当にこの場にいるかのような存在感すら感じさせる。彼女は美しく、儚げで時折見せる自然な憂いの表情が何よりも世の男たちをひきつけた。女性でさえも、彼女の美しさに惚れていた。老人であれ、子供であれ彼女の事を嫌う人はほんのわずかでしかなかった。

 山賀は出された料理を口にしつつも、目はずっと歴史ドラマに釘づけだった。彼女の演技を見逃さまいと、一挙一動を瞬きも忘れてみている。見ながらウイスキーを入れられたグラスを手に取ろうとするものだから、危うくこぼしかけたりもした。


「ちょっと、行儀悪いわよ」

「いまいいところだから黙ってて!」


 ちょうど、姫が何らかの犠牲となって倒れるシーンがTVに映し出されている。象徴的なシーンだからか、姫の背中には天使のような羽が生えているのが映っていた。山賀は、そこで眉間にしわを寄せる。どこかでこの羽を見たことが無いか。……いや、まさかな。こんな綺麗な人をうちのクリニックで診た事などあるはずがない。そう思いなおして、グラスを手に取り、ウイスキーを喉に流し込む。カッと喉が熱くなり、顔が火照る。


「ほんと、あの羽綺麗よね。うらやましいわ、私もつけたくなるもの。あんたんところで手術してくれない?」

「マスターの体で羽なんかつけたら何の冗談かと思うから。あと私んとこ普通の病院より高いけどいいの?」

「……友達価格とかない?」

「当クリニックは誰であろうとも分け隔てのない診療が売りなので、そういうのは承っておりません」


 アルコールが回り始めて上機嫌になってきた山賀。店内には徐々に他の客も訪れはじめ、店の雰囲気は少々騒がしくなる。マスターも山賀ばかりに目を向けているわけにもいかず、忙しく店内を往復する。グラスを二杯、三杯と傾けるうちに意識もあいまいになってきた。

 カウンター席の隅っこで、鈴谷ちなつが演じている姫がはやしている羽を見続けているうちに、彼女の脳裏にはひとつの思い出がよみがえろうとしていた。あれは確か、何年前だったか……。

 

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2-3:新宿区三番街 END

 

 

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