1-6 獣の戦い

俺の友達、海老沼泰司がまさか通報してこのジムにまで来ているとは、流石の俺も予想外だった。


「泰司!」

「よう、随分ボロボロじゃねえか!こりゃナイスタイミングって奴だな、俺に感謝しろよ!」


グッと親指を立て、ニカっと歯茎を見せて笑う泰司。

いつもは脱兎の如く騒動から逃げ出す奴だが、今回に関しては本当に感謝してもしきれない。

窮地に追い込まれた状況から一転して形勢逆転だ。


「どうやってこの場所がわかった?」

「それは俺から説明しよう」


コートを着た中年男性、恐らく刑事と思われる男が紙巻煙草をポケットからひとつ取り出し、オイルライターで着火して大きく煙を吸い込み、吐き出す。


「昨今の携帯電話にはGPS機能があるからな、警察の権限を利用して君らの携帯のGPSを辿って行き先を調べた。そうしたらここだとわかったわけだ。君の友達が物事の一部始終を見ていたし、今そこでのびている金髪の彼の被害者からも証言を取れたし、確証を持って踏み込む事が出来たよ」


男は一気に煙草を吸い込み、フィルター近くまで煙草が灰になる。懐から携帯灰皿を取り出してそこに吸い殻を捨て、不良達を再び睨みつける。


「さて、ここにいる連中は未成年者略取及び誘拐罪の共犯と見做しても問題無いのかな? …もし自分は関係ない、という奴らがいるなら説教くらいで済ましてやってもいいぞ?」


勿論これは揺さぶりで、自分は関係ないと言えば仲間内で動揺が起きるだろう。それを見越しての発言だ。

しかし、奴らの結束は思った以上に固く、誰も自分が関係ないなどと名乗り出ようとはしなかった。


「…ふむ、全員共犯と言う事か。じゃあ遠慮はいらんな」


男が呟くように言うと、苛立ったように一人の不良が叫んだ。


「てめえ本当に警察かよ?周りの連中だって制服は来てるみてえだが偽物じゃあねえのか?」

「何でも疑えば良いってもんじゃねえぞガキが。だが、俺は親切だから手帳を見せてあげようじゃないか。目ん玉かっぽじってよく見ろよな」


目を穿ったら目ん玉が飛び出して何も見えねえ、っていう突っ込みはナシだろうな。

コートの男は懐から黒い革製の手帳を取り出し、開いた。そこには確かに男の証明写真と、役職と名前が記載されている。


「新宿署捜査一課警部…戌井佳彦いぬいよしひこ…!?」


不良の間からどよめきが上がり、動揺が広がっていく。


「というわけでだ、そろそろお前等との茶番も終わりにしたいんだが…おとなしく手錠かけさせてくれそうには、ないな」

「うるせえ!おとなしく捕まったら白虎高校不良の名折れなんだよ!おい、行くぞてめえら!」


さながらヤンキーものの映画でありそうな、警察と不良達の衝突シーンが俺の目前で繰り広げられ始めた。

慌てて俺たちは警察側の陣地へ避難し、その様子を泰司と共に見守っている。

数の上では明らかに警察側が劣勢だ。しかし全く彼らに動揺はなく、粛々と目の前の不良達を捌いている。


「こいつらぶちのめしてバックレちまえば後はボスが揉み消してくれるはずだ!」

「実に名案だな。全員ぶちのめす事が出来ればの話だが」

「はぁ~?何言ってんだてめぇら数人だけだろうが!!」


警棒を取り出して応戦している戌井刑事が、チラリとエレベーターの方をみやる。

またエレベーターのドアが開き、中から警察官が7、8人くらい制圧用の武器と強化プラスチック製の盾を持って現れる。

何度もエレベーターはフロアを上下し、気づけば警察官の数と不良の数は同数か、或いは警察官はそれ以上の数に達しようとしていた。

不良達は次々と訪れる増援を見て、燃え上がっていた戦意に水を掛けられるような思いを抱いてしまう。


「マジかよ…」

「最初に数人しかいないと思い込んだのがいけなかったなぁ。そもそも多人数で集結しているという情報があるのに、少人数で来る筈がないだろ。常識的に考えればわかるよなぁ。常識的に考えてなぁ」


戌井刑事はニヤリと笑い、声高に部下たちに指示を出す。


「全員確保しろ!一人も逃すなよ!」


了解と警察官達が応じ、更に確保の勢いは増していく。不良達は次々と取り押さえられ、両手首に手錠を掛けられていく。

手錠の冷たい金属の感触により不良達の勢いは衰え、まだ捕まっていない不良達の戦意も更に喪失していく。

所詮、悪ガキの集まりなんざ警察が本気になって掛かれば捕まえるのは訳がない。大人たちは子供たちよりもはるかに上手なのだ。

小一時間もすれば警察が制圧しきって騒動は終わる。誰もがそんな予測を思い描いていた。


「うわぁっ!」


アリーナ中央のリング付近から、一人の警察官の叫び声が響いた。

次の瞬間、叫び声を上げた警察官はまるでアクション映画のように高く舞い上がり、リングに叩きつけられる形になった。

幸い着地は足からで、良くて捻挫、悪くても骨折程度のケガだろう。しかし、ヒト一人を高々と浮かせる事が出来るような膂力を持った奴など、

今この場には一人しかいない。


クレオ=メッツェン。


リング中央から、一人の、いや一匹の金髪の獣が静かに、しかし殺意を込めた瞳で周囲を見据えている。

喉をうならせている。低く、低く、地響きのような、捕食される生き物であれば咄嗟に逃げるような、そんな声が聞こえてくる。

髪の毛の逆立ちは先ほどよりも大きく、獅子のような艶めきがあった。

呼吸は荒い。ふっ、ふっ、ふっ、と浅く短い呼吸を繰り返している。

誰かを探しているかのように、周囲をゆっくりと眺め始めた。フロアの中央に位置するリングから、後ろを向いて、右を見て、左を見て…。

そしてエレベーターのある方向、即ち俺と百合恵がいる方向に目線を向ける。

獲物を見つけたかのように、クレオは歯茎を、牙を大きく剥いて笑った。


その瞬間、獅子の咆哮に等しい叫び声がアリーナに響き渡った。


不良達や警察官は生命の危機を感じたのか足が竦み、中には腰を抜かしたものも居た。

俺も流石に、一瞬だけ竦みを感じた。同種とは言えあれだけの迫力、威圧感を発する奴は今までに見たことが無い。

戌井刑事は何度もこういう場面に遭遇してきたのか、臆する事なく警棒を持ってクレオを見据えていた。少なくとも態度からはそう伺える。

百合恵、百合恵はどうか?彼女はエレベーター脇の壁にもたれかかって、へたり込むのだけは防いでいた。しかし手も壁に着けて、

歯をカチカチと鳴らしている。


「…なに、あれ」

「怒りで我を忘れてるんだな。頭に衝撃を受けて理性が吹っ飛んじまったか」

「こわい…」


クレオは獲物と定めた俺たちに向かい、ゆっくりと歩を進める。

警察官達は勿論それを阻んで制圧しようと向かうが、クレオは素早い動きと尋常ではない力を持って次々と警官達を舞い上げ、吹き飛ばしていく。

しかし見境がないのか、進行上邪魔になる不良も吹き飛ばしている。


「ボス!俺たちですよ!見覚えないんですか!?」

「今のボスは見境がなくなってる!ボスの邪魔しちゃだめだ!」

「今のうちに逃げちまおうぜ、今のボスなら全部なぎ倒しちまうだろ」

「しかしボスをほっといて逃げていいのかよ!?」

「じゃないと俺たちがやられるだろ!!」


不良達の間抜けなやりとりが展開されている。まあ確かに逃げてくれるなら有難いんだが、それ以上に危ない奴が目の前に居るので救いにもなりゃしない。

百合恵は俺の腕を掴んで離そうとしない。頼ってくれるのか縋っているのかはわからない。両方かもしれない。

有難い事ではあるが、今はその感触を楽しむ余裕などまるっきりない。

戌井刑事がこちらに目線を向けて言う。


「君達、エレベーターに乗って下に避難するんだ。恐らく俺たちの装備では今の奴を確保するのは無理だ。俺が時間を稼ぐ。一般市民をまた被害に遭わせるわけにはいかんからな」

「銃、銃か何かで制圧できないんですか?」


泰司が尋ねる。しかし戌井刑事は苦い顔つきで答える。


「…猛獣制圧と話を聞いていれば麻酔銃でも持って来たんだけどな。拳銃で狙いを定めて撃つのは至近距離でもないと難しい。しかも相手は素早い。周囲に誤射する可能性がある」


とここで、戌井刑事は何かを思い出したようで、無造作に無線を取り出して下の階に控えている警官たちに伝える。


「おい、ネットランチャーあるか?犯人制圧用の網ひっかぶせる奴だ。それと、もしテイザーガンがあるならそれも用意してほしいんだが。電気ショックの奴」

「ネットランチャーの方ならありますが…。しかし相手は高校生ですよ?そんな凶悪犯を捕まえる為の代物必要なんですか?」

「お前今この場に居ないからそんな事言えるんだよ。四の五の言わず早急に持って来い!」


そんな会話をしている中、クレオに恐れをなした警官が腰の拳銃を構え引き金を引こうと人差し指を掛けていた。

戌井刑事は目を剥いて怒鳴りつける。


「馬鹿者!何拳銃を抜いているんだ!」

「しっ、しかし!奴を制圧するにはこれしかありませんよ!」

「それならちゃんと手足を狙って銃撃できるんだろうな?威嚇射撃が通用する段階ではないんだぞ。わかっているのか?」


戌井刑事は問うている。

今のこの状況で狙って撃てるのか?周囲には同じ警察官や、気絶して倒れた不良達が居る。

もし逸れて彼らに当たり、運悪く死んだともなればマスコミからの非難は激しい物になるだろう。

警察内部からも批判される事は間違いなく、彼の警官人生は終了するか、そうでなくとも一生閑職で過ごす事は間違いない。

まして、戦闘能力の高いキメラ人とはいえ未成年である高校生を撃つのだ。どう考えても擁護できるような理論は立てられない。

彼のみならず、上司である戌井刑事も何らかの処分は受ける事になる。それら全てを背負い込んで、尚も撃つ事が出来るのか?と聞いている。

震える手で、警官は拳銃をホルスターに収めた。


「そうだ、それでいい…俺たちはな、体を張って犯人逮捕せにゃならんのだ。実銃はなるべくなら使わんほうがいいんだ」

「…」


若い警察官はそれでも不安でたまらない、と言った表情を戌井刑事に向けている。

戌井刑事だってそれはわかっている。銃弾で片づけられるならそうしてしまいたい。

それでも警官であるならばなるべく相手を傷つけずに確保すべきなのだ。彼はそういう信念を持っているように伺えた。

間もなく、エレベーターが4Fに上がって来て、増援のネットランチャーとゴム弾入り散弾銃を持った警察官達が姿を現した。

同時に百合恵と泰司は空いたエレベーターに乗り込む。


「おい、お前は乗らないのかよ?」

「そうよ敬一君。後は警察の皆さんに任せましょうよ」


…残念だが、そんな気は更々ない。


「悪いけど、俺は残るよ」

「おい本気で言ってるのかよ?危ない事はお巡りさんたちの仕事だぜ?ただの一般市民である俺達に何が出来るってんだよ?」


泰司が心配そうな顔でこちらを覗き込んでくる。


「…たぶん、これはキメラ人である俺じゃないと抑え込めねえんじゃねえかな。そう思わねえか刑事さん?」


俺は戌井刑事の顔を見据える。戌井刑事は渋い顔をしたまま、黙って答えない。しかし俺の顔を見て、何やら考え込んでいる。

俺は一つ、ある種の確信をもって彼に問いを投げかけた。


「あんたもたぶん、キメラ人なんだろ。でも戦闘用の能力は持ってない。だから武器とか、そういうのが必要なんだ。だろ?」

「…そこまでわかるとはな。同種ならではのカンって奴か?」

「何となく、そういうのがやっとわかるようになってきたんだよ。今までいろんな奴と喧嘩してきたからかはわからんけど、何も弄ってない人間とはどこか雰囲気、立ち居振る舞いが違うんだよな。なんて言っていいのかよくわかんねーけど」

「成程。確かに俺は捜査に関して役に立つ能力を持っている。しかし、こと戦いに関して言えば何も弄っていない人間と何ら変わらん。ここまで言わせたからには単刀直入に言うぞ。蟹江敬一、ぜひ俺達に協力してくれないか。その戦闘能力の高さを生かして、奴を抑え込んでほしい」


百合恵が悲痛な声で叫ぶ。


「ダメよ!今まで散々危ない目に遭ってきたのに、まだこれ以上危険な目に遭いたいって言うの?」

「そういうわけじゃないんだよ、百合恵。でも、他に出来そうな人がここには俺しかいない。だろ?刑事さん」

「…そうだ。本当なら一般市民に怪我させるかもしれない事態は避けたいんだが、背に腹は代えられん」

「それに、俺は猛烈に腹が立ってんだ。散々あいつに振り回されて、逃げ回って終わりにはしたくねえんだ。あいつをぶん殴ってから警察に引き渡して散々バカにしてやらなきゃ気が済まねえんだよ」

「…」


百合恵は涙の溜まった瞳で俺を見つめるが、あきらめたようにため息を吐くと一言だけ、言った。


「私の分も、殴ってやって頂戴」

「ははっ、了解」


そういうと同時に、百合恵はエレベーターのドアの閉めるボタンを押した。

ゆっくりとドアは閉まり、階下へとエレベーターは降りていく。

俺はランプが4Fから3F、2F、1Fへと点灯するさまを見届けた後、真正面にいる金髪の獣を見据えた。

獣は近づくものを誰彼構わずに殴り、蹴り、投げ飛ばしている。恐れをなした不良は非常階段から逃げて呆気なく下に居る警察官達にあらかた捕まったらしい。

警察官達も、何とか制圧の為に掛かっていったがさすまたや警棒といった武器攻撃は躱されて逆に迎撃を受け、悶絶、気絶しているか、或いは重傷を負うなどひどい有様だ。


「やっぱ実銃の使用許可、俺の責任の下に出すべきだったかね…」


戌井刑事が独り言を言うが、かぶりを振って思いなおす。


「いやいや、あんなに素早く動く相手に当てられる射撃の達人、この場には居ねえし無理だ。ネットランチャー用意!ゴム弾の方は他の連中に当たらんことを優先して射撃だ!」

「了解!」

「…それと、一応蟹江君。君は最後の最後、出来れば使いたくない。ネットランチャーとゴム弾がダメだった時、俺と一緒に奴を抑えよう。いいね?」

「…わかりました」


増援で来た警察官達が、次々とクレオに銃を構える。クレオに武器で当たっていた警官たちは射線上に入らないように退避し、空間を作る。

果たしてそれらが当たり、上手く制圧できるだろうか?一度は間近に対峙した経験がある俺からすれば疑問だ。


「撃てっ!」


戌井刑事の叫び声とともに、まずはゴム弾を発射する警官。

しかし、持ち前の動体視力と反射神経であっさりとゴム弾を躱すクレオ。戌井刑事もそれらを躱す事を計算に入れていたのか、矢継ぎ早に指示を出す。


「ネットランチャー発射!」


クレオが躱した方向に予めランチャーを向け、二人が同時に射撃する。さすがに躱した後に素早く方向転換する事は出来なかったのか、見事に網がクレオに絡まり、動きを抑圧する。


「よし!これで動きを止めたら後は制圧だ!」


警官達がこぞって近づき、腕と足を力ずくで抑え込もうと試みるが、やはり凄まじい力で抑えつける事が出来ずに逆に振り回され、吹き飛ばされる。

諦めて遠巻きに注視し、相談する警官と戌井刑事。


「やっぱり麻酔銃必要ですよ、今からでも持ってこさせましょうよ」

「…仕方ないな、署から持ってこさせるか」

「待っている間、このネット破かれたりしないんですかね?」

「そこはそれ、一応猛獣にも使える強化素材で作られたネットだからな。こんなもん破ける奴そうそういないよ」


と警察官達が言っていた矢先、物凄い何かが裂ける音が響き渡った。嫌な予想しかしないが、ゆっくりとクレオの方を向きなおすと、既に彼は縛めから自らを解いて、こちらを睨みつけている。


「がああっ!」


瞬く間に散弾銃とネットランチャーを所持した警官をなぎ倒し、俺に迫りくるクレオ。

それを止めたのは戌井刑事だった。警棒を両手に持って、クレオの右腕による薙ぎ払いを受け流している。

やはり歴戦の兵と言うべきか、こういったキメラ人相手の戦いも幾度かは経験しているのだろう。

自らに戦闘に向いた特殊能力など無い、とは言ったが鍛え上げられた肉体と技術は確かに持っているのだ。


「ぐっ!やはりこうなったか。こうなれば二人で何とかするしかない」


しかしこのまま戦っても恐らく勝算は薄いだろう。何か良い方法はないか?

考える暇もないのに俺は上を向いてしまう。そこでふっと気づいた。

…あるじゃないか、有効な手段。


「…戌井刑事!いい方法があります!」

「それはなんだ!」

「説明してる暇がないので俺についてきてください!」


急いで、俺はエスカレーターに向けて走り出す。泡を食って戌井刑事も走る。勿論、クレオも追いかけてくるが、俺だけを集中的に狙っている事は

わかっているので、戌井刑事が露払いに動きクレオの動きを妨害している。その警棒捌きは惚れ惚れするほど無駄がなく、美しい。

恐らく何らかの武道を高いレベルで身に着けているのは間違いなかった。それも剣道などではなく、より実戦に近い、剣術の流派か何かに見受けられた。

それでもクレオの力を受け流しきれずに、時には態勢を崩す事もある。戦闘に向いたキメラ人が、純粋に暴力を振り回したらこうなる、という実例を今目の当たりにしているのだ。


「こいつはとんでもねえな…」


流石の戌井刑事からも感嘆なのか愚痴なのかわからない声が漏れる。

攻撃を受け流すたびに、警棒はギシリギシリと嫌な音を立てている。昨今はキメラ人の犯罪も増えたことから、こういった制圧用の武器の素材も強化されているはずなのだが、それよりもクレオの膂力の方が遥かに上回っているのだ。真正面から受けてしまえばこの警棒だって今頃はへし折れているか、ぐにゃりと曲がって使い物にならなくなっているかのどちらかだ。

急いでエスカレーターを駆け上がって辿り着いたのは5F。

そう、25M温水プールやサウナ、大浴場があるフロアだ。

エスカレーターを登り切った所でようやく後ろの状況を確認する。

戌井刑事が必死でクレオの進行を妨害していたが、警棒を弾き飛ばされて抵抗する為の手段を失い、為す術もなく吹き飛ばされていた。

しかし彼は吹き飛ばされる方向に自ら跳躍し、少しでもダメージを減らそうと努めていたらしく、幸いにも壁に叩きつけられた程度で大きな怪我などは見受けられない。

戌井刑事はぐったりと壁にもたれたまま動かなくなった。とはいえ、肩は動いているし目も開いている。死んだわけではない事に一安心した。

俺はプールサイドで膝をつき、手で水の温度を確かめた。

プールは温水で、常にぬるま湯程度の温度が保たれている。本当であればもう少し冷たい方が活動しやすいのだがやむを得ない。

プールと言えば消毒で使われている塩素の匂い、あれが俺は苦手なのだが、ここはそういう匂いがしない。

どうやら別の物質で消毒を行っているらしく、これはうれしい誤算であった。

クレオが猛然と迫ってくる。そうだ、真っすぐ向かって来い…。

近づき、クレオの腕が届く距離になる。獣は左腕を振りかぶり、爪を立てて首を刈り取ろうとするような動きを見せる。

素早いが直線的でモーションもモロバレ、俺くらいの実力者であればこれくらい躱すのは訳が無い。


「今のお前の攻撃、理性があった頃よりもわかりやすくて好きだぜ」


俺はクレオの左腕を上半身を屈めて避け、そのまま両手で掴み背負い投げの体勢に入る。

流石に意図に気づいたのか右腕で俺の後頭部を殴りつけようとするがもう遅い。

俺はそのままクレオを投げ飛ばし、一緒にプールの中へと突入した。

飛び込んだ位置はちょうどプールの中間地点で、距離が短い割にはここのプールは急激に深くなっている。真ん中の深さは2M以上にもなっていてほとんどの人間は底に足を着ける事も出来ない。

しつこく言うが俺はカニの遺伝子を持っているので水中でも呼吸する事は可能だ。むしろ水生のカニの遺伝子なので、水中の方が陸上よりもスムーズに行動できる。陸でも十分な活動は出来るが、水の中であればそれ以上に機敏に動ける。

対してクレオはライオンの遺伝子を持っている。ライオンは陸上生物であり、水中の活動は全く得意ではない。泳ぐことくらいは出来ようが、水中で自在に動ける俺の敵ではない。


「水の中は俺のテリトリーだ。お前はもう何もできない」


水の中でもがきながらも、懸命に俺に拳を振るうクレオ。

しかし水の抵抗にあい、地上では煌めく様な速さを見せた拳速はもはや見る影もない。


「水中でのパンチってのはな、こういう風に打つんだよ」


俺はクレオの間近にまで泳いで接近し、密着する。

そしてボクサーがパンチを打つために構えるように、或いはシャコが獲物に狙いを定めたかのように構える。

クレオは殴りでは太刀打ちできないと思い、握力で対抗すべく俺の頭を掴んで握りつぶそうと力を込める。


「遅い!」


バネ仕掛けの機械がストッパーを外されて飛び出すかのように、俺のパンチはクレオの顎を音速の如き速さで打ち抜いた。

顎が跳ね上がり、クレオは水中からまるで剣を刺されて飛び出すおもちゃのように高々と空中に上がって、またプール上に大きな音を立てて着水した。

完全に白目を剥いており、気絶している。水上に力なく浮いている姿は、今まで暴力を振り回した嵐のような姿とは対照的に思える。

…それにしても。このパンチの打ち方、習っていて良かった。

モンハナシャコの遺伝子を持つ叔父さん直伝のシャコパンチ。モンハナシャコそのもののパンチでも、水槽のガラスをも砕く事が出来るほど強力な威力を持つ。

それを人間のスケールで打てばどうなるのだろうという疑問はあったが、水中で闘う機会など今まで一度も無かった。

今回ぶっつけ本番で使う事になったわけだが、思った以上に使える代物で良かった。

クレオが倒れた事を確認したら、どっと体の疲れと痛みが押し寄せて来た。これ以上はもう、動きたくない。

俺はプールサイドに大の字になって倒れる。すると、痛みをこらえてよろよろとしながらもこちらに歩いてくる人影があった。

戌井刑事だ。腰を手で押さえながら歩き、俺の隣に座り込んで懐から煙草を取り出して火を着ける。


「…終わったか」

「ええ、何とか。幸いプールがあって良かったですよ。あそこの中なら最も俺の能力が発揮できるわけでしたし。もし水場が無かったらじり貧のまま、クレオに負けていたでしょうね」

「協力感謝する。警察組織はケチだから金一封も出さんだろうが、感謝状くらいは贈るだろうよ」

「ははは」


戌井刑事はまたも一気に煙草を吸い、懐から携帯灰皿を取り出して捨てた。


「なあ、蟹江君」

「何です?」


戌井刑事は今までになく真剣な表情で俺を見据え、言った。


「高校卒業した後、もしよかったら警察に入らんか。推薦は俺がするぞ」

「…本気ですか?」

「本気も本気だ。犯罪組織には暴力に長けたキメラ人も多くてな。警察組織にもその手の事件解決に備えて対抗できるキメラ人が欲しいのだ。君みたいに水中活動に向いたキメラ人は今の所人材不足でね。喉から手が出るほど欲しい」


思わぬ形で就職先候補がリストアップされた。就職とか何も考えていない俺にとっては願っても居ない事ではあるが…。


「勿論、最終的に決めるのは君の意志次第だが…俺としては是非とも君に来てほしい。待っているぞ」


戌井刑事は立ち上がり、水中に入って気絶したクレオに手錠と足錠を掛け、プールサイドまで引っ張って来た後に無線を取って、下の階層で待機している警察官達に告げた。


「犯人を確保した。これより署に移送するぞ。それと現場の検証も行う。調査班は上がって来てくれ」


無線を切り、戌井刑事は俺の方を向いて申し訳なさそうに言う。


「君には悪いんだが、もう少し俺たちに付き合ってくれんか。調書を作るために聞き取り調査をしなきゃいかん。ああ、その前に病院だな…君の聞き取り調査は後日行うとしよう」

「是非お願いします。体中ボロボロでまともに受け答えできそうにないっす」


俺は立ち上がり、フラフラと4Fに戻ってリング付近に置かれたままの自分の私物のカバンを手に取り、改めて着替えた。

ずぶ濡れになったシャツやパンツは脱ぎ、替えのパンツとシャツを着て制服に着替える。

改めて着替えを準備しておいて良かった。もし無かったらここからバスタオルかガウンか何かを来て外に出なければならなくなり、泰司に茶化される事態になったかもしれない。


…ともあれ、一連のくだらない事件には自ら片を付けられて良かった。


妙に長い一日に感じられたが、これでようやく終わりだ。ホッと胸をなでおろす。

俺は戌井刑事に連れられ、エレベーターで1Fに降りる。

降りた先で、泰司と百合恵が俺の身を案じて待っていた。


「敬一!生きてたのか!」

「敬一君!無事だったのね!」

「ああ。なんとかな」


そのまま走って俺に近づき、両手で俺を抱きしめてくる百合恵。その気持ちはありがたいのだが、今まで受けた打撃によってできた痣に触れたり、

骨が軋んだりしてちょっと痛い。


「いててててて…」

「…随分、怪我がひどい…本当に、ひどい」

「まあその分やり返してやったから安心してくれよ。君の分も思い切りぶん殴ってやったからさ」


心配させないように痛みを抑えて無理やり笑顔を作る俺。その時、唇にやわらかい感触があった。

目の前には百合恵の顔がある。涙を流している。その感触は一瞬のようにも思え、また永い時間のようにも思えた。

やがて唇を離し、百合恵は潤んだ瞳で俺を睨みつけて言う。


「本当に、馬鹿なんだから。馬鹿」

「…悪かったよ」


俺たちが話をしている間、泰司が絶句してこちらを見ていた。


「おおお、お前等いつの間にそんなに進展してんの!?びっくりだよ!」

「…悪いな。どうやらいつの間にかだいぶ進展したらしいぞ百合恵」

「ふふっ。ごめんね泰司君」

「ちちちち、チキショォーッ!!カップルなんか爆発して死んでしまえ!!」


泰司は警察官の制止も振り切って、何処かへと走って去っていってしまった。

…強く生きろ。

戌井刑事は俺達の様子を見て、煙草を吸いながらただニヤニヤと笑っていた。


「俺にもあんな時代、あったかな…」


日は暮れ、空は満点の星空が覆っている。月がビルの背後からちょっぴり青白い顔を覗かせている。

もうそれくらいの時間が過ぎている事に今更気づいた。

帰ろう。俺達の家に。何時もの日常に。


-----

1-6:獣の戦い END

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