1-3 ゴング三秒前
俺たちを乗せた黒塗りの高級車は、昨日百合恵が拉致されかけた繁華街の中へと入っていった。
繁華街は放課後の時間帯ともなると、授業を終えた学生や仕事帰りの人々、水商売や飲食店の呼び込みの従業員などでごった返している。
車は人々の間を縫うようにノロノロと走る。時折明らかに邪魔な人に対してはクラクションを鳴らして威圧し無理やり道を開けさせる。そもそも繁華街の車道は明らかに狭く、態々ここら辺の建物に用事がなければ通ろうとも思わないくらい混雑が激しい。
俺が着けている安物のデジタル腕時計で時間を確認すれば、学校から出てすでに30分は経過しているというのにまだ目的の場所に着かない。
「おい、まだつかねえのかよ?」
「君はせっかちだねぇ。そう焦らなくとももうすぐ目的地には着くさ」
クレオはしきりに百合恵の髪の毛を弄っては彼女に睨まれているが、まるで意に介していない。俺だってまだ彼女にまともに触った事ないっつうのにこいつはさぞおもちゃで遊ぶかのように彼女に接している。その態度、全く度し難く許しがたい。
怒りをどうにか押しとどめつつ車の窓から外の風景を眺める。行き交う人々が思い思いに友人や店員と喋ったり、足早に街を通り過ぎたりしている。いつものこの街の風景。普段であればこの人ゴミの中に自分も居たというのに、今はまるで現実感がない。喧嘩して脅されてこんな高級車に乗せられているのだから日常性が無いのも当たり前か。
表通りから路地に入り込み、グネグネと左に右にと入り組んだ道を通っていくうちに、ようやく目的地と思われる建物が姿を現した。ここは繁華街の中だというのに、駐車スペースがかなり広く取られており、立体駐車場になっている。そして建物も5階立てのビルで、ワンフロアのスペースがやはりかなり広く取られている。建物の看板には「白浜スポーツジム」と書かれていた。
すると、助手席に座っていた白虎高校の制服を着ている男が後部座席の方を振り向いて告げた。
「そろそろ着きます。降りる準備をお願いします」
「こんなところにもスポーツジムがあったとはな。知らなかった」
「もう廃業してるけどね。僕が自ら買い取ってトレーニング施設兼僕らの溜まり場として使ってるのさ」
「よくそんな金があるもんだな。お前、どこぞのボンボンか?」
「…君はメッツェンという企業名、知ってるか?」
知ってるも何も、業務用の大型機械に付属するセンサー類の製造・販売で大きな利益を上げている有名な企業じゃないか。この街に本社がある事は知っていたがまさかこいつが御曹司だったとはな。仕事は滅茶苦茶キツイがその分見返りも大きく、がっつり稼ぎたい人にはうってつけの会社ではあるが…。
「そう、僕はそこの社長の息子だよ。…とはいえ、正妻の子ではないけどね」
常に微笑みを崩さないクレオの表情が、わずかに歪んだ瞬間だった。その表情には何が含まれているのか、俺には読み取れはしないが少なくとも良い感情ではない事くらいはわかる。
大企業の社長ともなれば女性関係も派手なのだろう。よくある正妻と愛人の争いや、非嫡出子ならではの苦労なんかもあるのかもしれない。庶民の俺にはわからない世界だ。
会話している間に、車は白線で区切られたスペースの一角に駐車し、エンジンを切った。
「着いたぞ蟹江君。後についてこい」
車の後部ドアが自動で開き、クレオがまず降りてその後に俺と百合恵が続く。
「女はこっちだ」
助手席に座っていた不良が百合恵の手を乱暴に取り、何処かへと連れ去っていってしまった。
今にも走って追いかけて行きたいが、建物から待機していたらしき不良がわらわらと出てきて、俺の行く手を阻んでいる。
今は我慢だ。我慢しろ…。
クレオが先導し、10数人の不良に囲まれる形で、俺は不良の溜まり場となっているスポーツジムの中に入った。1階はエントランスとなっている。受付の他には、座って待ったり休んだりするためのソファやテーブル、椅子が置いてある。今は白虎高校のガラの悪い不良がダベったりする為の道具になっているが。
エントランス受付には勿論誰もいない。使われていない受付台と固定電話があるが、それらまできっちり掃除されているのか、埃はかぶっていない。
電気は通じているので照明が点灯しており、中は極めて明るい。明るいが、中に居る人々のせいで雰囲気は極めて殺伐としている。…俺はここでは招かれざる客だな。
エントランスを進んでいくとエレベーターがある。その脇に案内板が設置されており、それによれば2階はトレーニング設備があるマシンジムとロッカールーム、3階はエアロビクスやヨガを行う為のスタジオ、4階はボクシングやレスリングが行えるリングが設置されているアリーナがある。5階は25Mプールとサウナ、そして大浴場が併設されている。
至れり尽くせりの施設内容に、思わず舌を巻いた。
「凄い良いジムじゃないか。こんな所が潰れるなんて世の中わからんもんだ」
「場所が悪かったってのともう一つは放漫経営だったせいだよ。金に糸目をつけないのはいいが経営の事を全く考えてない阿呆がジム運営していたからね。ちょっと策を弄してやれば容易に手に入れられた…フフフ」
…どうやら潰れたというよりも潰された、と言った方が正しそうだ。
「お前はさぞかし頭が良いんだろうな。こういうモノですら手に入れられるほどな」
「…色々父親に叩き込まれたからね。所詮僕は二番手三番手だろうがあいつにとって見れば手駒は多ければ多いほどいいのさ」
どうやら父親には良い印象を抱いていないようだが、そんなことは俺には知ったこっちゃない。とっとと用事を済ませて彼女を解放させるだけだ。
クレオがエレベーターのスイッチを押す。程なくして扉が開き、ドカドカと俺たちはエレベーターに乗り込む。エレベーターも広く10人くらいなら軽く載せて運ぶことができるらしい。
4階のボタンを押し、扉が閉まってエレベーターが上へと動いた。音もなく俺たちを上まで運んでいく。
「4階です」
女性のアナウンスがエレベーターに響き、扉が開いた。
俺は4階の、目の前に広がるフロアの様子を見て驚いた。
4階のアリーナと5階のプールとサウナがあるフロアがシームレスに階段とエスカレーターによって接続されているのだ。いや、よく見れば他のフロアも同じように繋がって、わざわざエレベーターに乗らずとも中で行き来できるようになっている。
しかも5階だけ、まるで透明のアクリル板のような素材で作られていて、4階からプールの様子を眺める事が出来る。水族館か?流石に浴場らしきスペースは普通の素材で作られている。そこまで透明なのは俺もドン引きするが。
「なんだこの造りは?普通のジムでこんな造りのやつみた事ねえぞ」
「2階のロッカールームから直接色んなフロアに行けるようにしたかったんだよね。エレベーターにわざわざ乗り込むの、めんどくさいし」
「…5階のプール部分が何で透明なんだよ」
「スパーリングで疲れた時、下から水着姿の女性を見るのは最高の癒しになるんだよ。わからない?」
いや、その感覚は俺には全く理解できない。しかし、何から何までこいつの為の至れり尽くせりな施設というわけか…全くうらやましい。
ふと、5階のプールサイドを眺めると人影が見えた。後ろ手に布で縛り上げられた百合絵と、ナイフを彼女の首筋に突き付けている不良だ。
「野郎…何してやがる!」
我を忘れ、階段めがけて走っていこうとする俺を護衛の不良が5人掛かりで取り押さえた。流石にこの人数差では力任せに振りほどく事も出来ない。
「愛しの彼女を助けたいのはわかるが、まず君がやるべき事はそれじゃないんだよねぇ」
冷たく微笑んでいるクレオ。その顔に力の限りの正拳を叩き込んでやりたい。
「道具を用意したから、それを着けたらリングに上がってくるんだね」
リングサイドにはご丁寧な事に、総合格闘技用のグローブにヘッドギアと、そして足の防具であるレガースも用意されていた。すでにクレオは着替えを始めている。
俺は制服を脱ぎ、いつもカバンに忍ばせている黒いウチのジムのネームが入ったTシャツとパンツに着替えた。そして更に別の袋から、いつも愛用しているグローブとレガースを取り出し、装備する。
「何だ、折角道具を準備したのに使わないのかい?それにヘッドギアもつけずに大丈夫かな?」
「馴染んだ道具を使うのは当たり前だろ?あと、俺は並外れて頑丈だしお前の猫パンチなんざ効きやしねえよ」
「良いセリフだ。是非とも僕のパンチを喰らっても同じ事を言えるかどうか試してみよう」
クレオが先にリングに上がる。続いて、俺も青コーナーからリングに上る。挑戦者はいつだって青コーナーから王者を殴り倒しにいくもんだ。
リングは多少の仕切りスペースがあり、その外側にはいつの間にか、護衛以外の白虎高校のボンクラ達が集まり始めていた。呼ばれたのか自然と集まってきたのかは知らないが、どいつもこいつも気に入らない面構えをしている。俺が負ける様を楽しみにしているようだ。
リングの床面の感触を確かめながら中央へと進む。クレオも同じように進み、睨み合う形でお互い真正面に向かい合って立つ。
改めてクレオの肉体を見ると、自らのジムを持っているだけにと言うべきか、その体つきはやはり高校生離れしている。元々白人系の血を受け継いでいるからかガタイはかなり良い上に、過酷とも言えそうなほどのトレーニングを自分に課しているのだろう。甘えた贅肉は一切体に着けていない。
加えてこのジムを策謀を以て奪い取るだけの知能を持っている。喧嘩においても何らかの策や戦術を仕込んでくるに違いない。肉体と知能、両面においてスキがない。油断は一切できない。
加えて、高校生離れした肉体と技術を持つ香田を、不意を突いたとはいえあっさりと倒したその戦闘能力。俺にはわかる。…こいつは「同類」だ。
だが、相手がなんであろうとやる事は決まっている。
(こいつをぶっ倒す)
ほぼゼロ距離での無言のにらみ合いを続けた後、クレオがフンと鼻を鳴らしてコーナーに戻った。俺も逆方向のコーナーに戻って背中を預け、深呼吸をして昂った感情と脈拍をクールダウンさせる。
過剰な怒りは要らない。必要なのは熱く流れる血潮のアドレナリンと、冷たく研ぎ澄まされた判断力だ。相反する要素を兼ね備えてこそ闘いに勝つ事が出来る…とウチのジムのプロ格闘家の人は言ってたっけな。確かに、こいつにはいつもの喧嘩と同じように、とはいかないだろうな。
…4階のアリーナは白虎高校の不良生徒でいっぱいになり、異様な熱気に包まれている。ぶっ潰せ、やら殺せ、やら物騒な単語が飛び交う、ある種気持ちの良い空間だ。闘う時のこういう殺伐とした雰囲気がたまらない。
その中から、不良のやりとりが聞こえる。
「何分でボスがあいつを倒すと思う?賭けようぜ」
「1分もかからないウチに秒殺だろ。なんだかんだ言ってあのパンチ喰らったら誰でも立てねえって」
「いや、蟹江ってのも中々やるって話だぞ。総合格闘技やっててしかもキメラ人だろ?5分くらいはかかるとみるね。ボスには敵わんだろうが」
聞いていれば随分な発言ばっかりだな。
俺は声がする方向を向いて、叫んだ。
「なんだ、俺が勝つという賭けをする奴はいないのか?」
不良共は問いかけてくるとは思わず驚き、こちらを向いてきた。
しかしすぐにニヤニヤと緩んだ笑みに戻り、さも知らないのかと言ったようにベラベラしゃべり始めた。
「お前はボスの事知らねえからそういう風に言えるんだよ。なんたってボクシングインターハイで優勝経験者だぜ?他にも実践派空手をやってて段位は師範代だ。これで負けるはずがねえだろ」
一人目の金髪リーゼント男に続いて、二人目の坊主頭で歯抜けの不良が喋る。
「おまけに最近は総合格闘技だって始めた。お前も総合格闘技をやっているらしいが、組み技や寝技で勝とうと思っても無駄だかんな!」
「うだうだ喋るな、馬鹿どもが」
クレオがそこら辺にしとけ、と言わんばかりに不良共を制した。
こんな奴らに態々説明されなくても筋肉の付き具合を見れば打撃メインか、組み技寝技メインかはわかる。
クレオの肉体は明らかに打撃系格闘技に向けて作られた物だ。ここ最近はそこから肉体を作り直しているという事だが、気になる点が一つある。
先ほど体を見ていた時は気づかなかったのだが、右肘にサポーターを付けているのだ。
「…お前、その肘何があった?それにだ、ボクシングで優勝したならずっと部に在籍しててもおかしくないのになんで総合に走ったんだ」
クレオの顔が、薄笑いから無表情に変わった。
「大したことじゃない。部内に僕の事を気に入らなかった先輩方が居て、練習にかこつけて肘をぶち壊そうとしただけさ。おかげさまで、ボクシング部は辞める羽目になったし、リハビリも長期間しなきゃいけなかったししんどかったよ。今となってはあんな所に居てもしょうがないし、目線を変える事が出来て良かった。打撃ばっかりじゃいつかは組み技、寝技主体の相手に負ける事にも気づかされた」
「てことは、関節技か何かで壊されかけたのか?」
「ああ。スパーリングと嘘を吐かれて散々プロレス技を仕掛けられてね。これがまた中途半端に上手いもんだから参ったよ、ははは」
「…肘を壊そうとした連中は、結局どうした?」
「ひとりずつシメてやったよ。僕を舐める奴は決して許さない…」
ぞっとするほど冷徹な声でつぶやくクレオ。
「そしてお前もきっちりシメてやらなきゃ気が済まない。仮にも僕は今この学校のトップに立っている。そういう責任がある」
…こいつにもそれなりの事情がある事はわかった。
俺も程度の差こそはあれ、同じような経験をしているから共感できる部分はある。しかし、だ。
「所詮不良の頭の責任なんてクソッタレなんだよ。何がシメるだ、俺はお前の事なんざ知らなかったし、お前んとこのバカ共がこっちにちょっかい出してきたからブチのめしただけだ。恨まれる筋合いなんかあるか。さっさとお前をぶちのめして俺は彼女と一緒に帰る」
相手の理屈など俺には知ったこっちゃない。
第一迷惑を掛けられているのはこちらだ。今だってそうだ。
俺はいい加減この怒りを抑えるのが限界だった。
「…その喧しい口、いい加減閉じさせてやる。おい」
クレオの呼ぶ声とともに、一人の不良がゴングと木槌を持って現れた。
随分と用意周到なことで。
「お前、あと何秒かしたらゴングを鳴らせ。…それが開始の合図だ、いいな蟹江君」
「…ああ」
クレオも俺も、背中をコーナーから離して軽く膝を曲げて前に体重移動ができるようなスタンスに構える。お互いさながら獲物を狙うかのように。
数秒後、乾いた金属音がアリーナの空間に響き渡り、俺はリングを思い切り踏んで前のめりに駆けだしていった…。
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1-3:ゴング3秒前 END
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