3-31:変貌、そして覚醒

 四つ足の獣は息を荒く吐き出しながら、その場に佇んでじっとこちらを見つめている。

 まるで獲物の挙動を観察するかのように。

 よく見れば獣の体からは何かが滴り落ちている。それはタール状の粘液で、床に落ちるとべちゃり、べちゃりと言う音がした。落ちた液体は微かに何かが蠢いているようにも見える。

 今すぐに撃つべきか。

 石橋は逡巡した。引き金を引いた瞬間に奴はどう動いてくるのか。

 全く読めなかった。

 心に迷いが生じた瞬間、獣の瞳が怪しく輝いた。


「ガアッ!」


 瞬時に獣は石橋との距離を詰める。瞬きでもしていたら獣の残像すら掴めなかったかもしれない。それほどまでに速かった。

 獣は前足を駆使し、振りかぶって爪を袈裟切りに仕掛けてくる。


「ぐっ!」


 間一髪で石橋はバックステップで距離を離し、一撃を回避した。だが頬にわずかに爪が掠め、鮮血が飛び散る。皮膚だけでなく肉まで抉られた。

 ひるまずに銃を構えて撃つ石橋。

 獣はいとも簡単に銃弾を躱す。銃弾をも見えているのか。

 いや、奴は銃口を見てその動きで弾道を見て躱しているのだ。

 廊下の幅はそこそこ広く、高さは3メートル程もある。石橋のジャンプ力では天井までには届かず、天井に張り付くなどと言った戦術が使えない。

 牢屋に戻るべきか。だがあの狭い所で素早い相手とは戦えない。逆にこちらが翻弄される可能性の方が高い。また迷う。

 だが、いきなり獣は石橋の目の前から消えた。


「何っ!?」

「兄ちゃん、上!」


 回廊の出っ張りの陰に隠れていた希愛の声を来た直後、タール状の液体が上から滴って床に模様を散らしている事に気づいた。上を見ている暇はない。

 銃を天井に発射すると同時に視線を上に向けると、銃弾を避けながら獣は落下しながら襲い掛かってくる。かろうじて石橋は前転して避けた。


「クソったれが速すぎるぞあいつ」


 しかも天井に張り付くとまではいかなくとも、跳躍して届くほどのバネまでも備えている。石橋のような能力ではなく純粋な力による行動。


「でもあいつ、兄ちゃんしか見てないみたい」

「なるほどね」


 希愛に危害を加えられる様子はない、という事を知れた石橋は少し安堵した。


「兄ちゃんが見失っても私が見ているから」

「わかった。かかってこいや化け物め」


 獣は石橋の叫びに呼応したかのように突進する。弾丸の如き素早さで突っ込んでくる獣を横っ飛びで躱し、アサルトライフルの銃撃をする。弾は確かに獣の体に食い込み、黒いどろどろした体液を飛び散らさせる。


「ガッ!」


 獣が叫ぶ。確かに銃弾は獣にもダメージを与えられた。だがまだ致命には至らない。

 獣は振り向き、憤怒の形相で石橋を睨みつける。

 さてどうすると考える暇もなく、獣はまたも距離を至近にまで詰めてくる。息すらつかせない。

 反射的に石橋はナイフを取り出して反撃を試みた。刃が煌めき、耳をつんざくような音が鳴り響く。

 特別に自ら用意した高周波超振動ブレード。

 これなら獣の重厚な皮膚も、分厚い筋肉の層も易々と切断できるはず。

 獣の攻撃は高速ながらも直線的で単純だ。見える限り、紙一重で躱して刃の一撃を叩き込んでいく。それしかない。

 獣と交錯してすれ違う。刃を向け、いざ獣の腕に当てようとしたその時。


「うおっ!?」


 獣の振りかぶった腕から滲み出ていた液体が、突如形を取って襲い掛かって来た。

 現れたのは虎。その顎が石橋に食い掛らんと大きく開く。

 かろうじてナイフを横薙ぎに払うと、虎の形は失せて元の液体へと戻り、びしゃりと床に粘る液体が散った。

 

「私と同じような力?」

「遺伝子改造とか言ってその実は化け物製作の実験体か。教祖は本当に悪趣味だな」


 どうやら自分のキメラ遺伝子と同じものを体から発現できる能力を持ったようだ。

 しかし完全ではない。未だ希愛の能力の一端を再現できたわけではないようだ。

 だが獣はそれを利用して驚くべき行動に出る。


「ガガアッ!」


 獣は遠間から前足を下からすくうように振り上げたかと思うと、タール状の液体をこちらに飛ばしてきた。どれも小さな虎を模っており、真っすぐ高速で石橋に向かってくる無数の虎はさながら散弾のようで、大きく飛んで躱す以外に有効な回避手段はない。

 横っ飛びした方にもすぐさま液体の散弾は飛ばされ、壁に手をついてそのまま走りあがって石橋は回避する。飛んだ壁にぶつかった滴は穴を開けていた。牙で肉をえぐり取ったかのように。


「おいおい冗談じゃねえぞ」


 裸足で天井まで駆け上がる。こんな遠距離攻撃を持たれては、自分が銃を持っているというアドバンテージも無いも同然だ。走りながらアサルトライフルの引き金を引くが、獣は当然のごとくステップで避ける。走りながらでは照準もブレて当てられないが、けん制にはなる。おかげで獣も攻撃には出れない。

 膠着した状況の中、再度獣は液体をバラまきながら突進してくる。

 石橋は液体を躱そうと横っ飛びした所を予測したかのように獣は体当たりをしてきた。

 もちろん石橋はライフルの引き金を引く。しかし、銃口から弾が出なかった。


「こんな時に!」


 マガジンを交換するか、それとも避けるか。わずかながら石橋は迷った。

 故に獣の突進を躱すには間に合わなかった。猛烈な勢いで突っ込んできた獣を、体を捻って躱そうとしたが腕に当たり、そのままの勢いで壁に叩きつけられた。

 衝撃で後頭部を強かに打ち付け、意識が朦朧とする。


「兄ちゃん!」


 希愛の悲痛な叫びがこだまする。

 獣はついに獲物を捉え、満足気にうなり声をあげた。回廊の中央からじわりじわりと壁際の石橋へと一歩ずつ進んでいく獣。

 ようやく追い詰めた。これからどうやって痛めつけてやろうか。それとも一瞬のうちに殺してしまおうか。いずれにしろ石橋の運命は獣の手の内にある。

 舌を舐めずる獣。

 やがて目の前に獣はやってくる。涎を垂らし、目の色は赤く血走っていた。


「やられる、のか」


 大口を開けて、喉元に食らいつかんと言わんばかりに獣は襲い掛かろうとする。

 反射的に石橋は目を瞑った。


「駄目!」


 希愛の叫びが聞こえた。


「すまない、希愛……」


 死を覚悟した。

 しかしその瞬間はいつまで経っても訪れない。


「……?」


 恐る恐る目を開くと、石橋の目の前にはあの時のキマイラが居た。

 石橋の目前に立ちはだかり、獣から守っている。


「希愛、お前希愛なのか!?」

「うん。兄ちゃんを助けたい、力が欲しいって願ったらこうなった」

「意識も保てているのか?」


 希愛はうなずき、獣を睨みつける。


「うん。私も強くなりたかった。いつまでも守られてばかりじゃ嫌だもの」


 弱さから完全に眼中になかった獣は、明らかに自分よりも強く大きい存在にうろたえた。

 だが、再び闘志を奮い立たせ、獣は変貌した希愛に襲い掛かる。

 黒い液体を飛ばし、同時に別方向から突撃をする戦法。だが希愛は事も無げに液体を振り払うと、突進も体で簡単に受け止める。


「このっ!」


 キマイラとなった希愛は前足を振り上げた。それだけで獣は軽々と宙に浮かび、天井に強かに体を打ち付けて床にべちゃりと落ちた。


「すげえな、おい」


 それでも獣は頑丈で、叩きつけられても起き上がり希愛に向かっていく。

 だが何度やっても結果は同じだった。

 元より希愛のコピーであり、不完全な獣はオリジナルには太刀打ちできなかった。


「もう諦めたらいいのに」

「ガ、ガッ」


 ズタボロになりながらも獣の立ち向かおうとする意志、闘争心は衰えない。

 だがその体は、ついに意志とは関係なく歩みを止めてしまう。

 体の変異を急激にもたらした上に戦いによる怪我と消耗で体内の栄養が全て枯渇してしまったのだ。その場にへたり込む。


「……!」


 そのうち、獣の体は元の獣人の虎嶋に戻ってしまう。


「ぐ、が、……クソが……」


 石橋は虎嶋の隣にまで歩いて見下ろした。

 既に虎嶋の目の焦点はどこにも合っていない。


「なあ、組長。アンタは本当に馬鹿で愚かだったよ。どうしようもなく」

「へっ。お前だけならオレの勝ちだった。そこの小娘が誤算だったぜ」

「アンタは自分一人だけで強くなろうとしたのが失敗だった。人間社会は一人では生きていけないんだ。獣になっちまったら尚更だ」

「……俺は結局、人間として生きる事が出来なかった半端モンなんだよ。だから獣に憧れた。虎のように孤高の存在で在りたかった」

「だけど組長、俺たちはやっぱり人間なんだよ。人間である事を否定しちまったら何にもなれやしねえ。ヤクザにすらな」


 やがて虎嶋の呼吸は次第にゆっくりになり、ついには事切れた。

 

「この人もある意味では可哀想な人だったのかなぁ?」

「かもな。だが自分の境遇を呪ったままじゃ駄目なんだよ。前を向かなくちゃな」

「うん」


 希愛はキマイラからいつの間にか元の人間の姿に戻っていた。

 当然、巨体になった為に服は破けてしまって全裸だった。


「そりゃあんだけでかくなったら服も破れるだろうが、困ったな」

「服なら着替えがあるよ」


 そう言って希愛は牢屋の中に戻り、着替えて来た。

 教祖が用意した特製の金の刺繍が施されたカソック。


「まあこの際、服は着れれば何でもいいか。今度こそアリサを助けに行くぞ」

「うん」


 そして二人は地上へと歩き出す。

 教祖と相対するために。

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