3-30:親と子の戦い
悠然と虎嶋は歩いてくる。まるでそれが当然であるかのように。
ある程度の距離を保って、虎嶋は歩を止めた。
いつものメーカー製のジャージを腕まくりをして着ている。というか、石橋はそれを着た虎嶋しか見たことがない。義理事の時ですらも彼はジャージを着て出席していた。
誰も咎める者がいないから。咎めた人は全て力ずくで黙らせられた。例えそれが敵対組織や仲間でさえも。
獣同然の姿であり、獣でしかない知能の持ち主。そう嘲られた時もある。
だからなんだ、と彼は笑い飛ばした。
力のない奴が何を言っても意味が無いのと同じだ。
従わせたければ俺を力でねじ伏せてみろ、と彼は以前からのたまっていた。
「アンタ、何でこんなところに居るんだよ」
石橋は当然の疑問を口に出す。
「言っただろ? 尾熊組は組織として教団に協力している。そして俺も、検体として連中に協力しているというわけだ。とはいえ、他の雑魚みたいに獣の遺伝子を抜いてくれなんて軟弱な事は言わん。俺はより高みに昇る為に、強くなるために遺伝子改造を受け入れた」
「そう言う事か。アンタらしい答えだ」
「人間に戻りたいなどと、馬鹿げた願いだ。元より弱くなってどうするつもりなんだか」
「アンタみたいに馬鹿になりたくないから戻りたいんだろう」
石橋の挑発に、鼻息荒く語っていた虎嶋はギロリと睨みつけた。
「しかし、ここは大事な場所のはずだが警備の連中が全然居なかったな。おかげで楽にここまで来れた訳だが」
「そりゃ、俺がそうしろと言ったからだよ。お前がここに来るまで怪我でもされたらつまらないからな」
「なんだと?」
「希愛が攫われた以上、お前は必ずここにやってくる。だったらよ、折角助けに来た兄ちゃんを愛する娘の前でブチ殺してやったら、最高に気持ちが良いだろうって思ったわけだよ。どうだ、俺は優しいだろう?」
「そう言う事かよ。つくづく俺は
虎嶋は息を大きく吐いた。生臭く、獣じみた息。
「いい加減にお前の顔も見飽きた。その腹、掻っ捌いて内臓をぶち撒いてやる」
「へっ。獣狩りだ。虎嶋ぁ!俺がお前を剥製にして飾ってやるよ」
グ、グ、グ、という虎嶋の唸り声が響き渡る。
上着を脱ぎ、上半身を露わにする。虎の毛皮そのものの肌、いや毛。腕や胸、腹は荒縄のような筋肉が盛り上がっているのが見て取れる。
牙をむき出しにし、目は血走らせて獲物を睨みつけている。
上半身を前傾させ、まるで四つん這いになるかのように腰を落とした。
対して石橋はボディアーマーにヘルメット、ブーツと手袋を装着していたが、ここでブーツと手袋を脱ぎ捨てた。ぺたぺたと地面の感触を踏みしめて確かめる。
「冷てえ床だ」
「殺す!」
虎嶋は猛然と走り出した。普通の人間であれば到底出せないような速度で、真っすぐ石橋の方へと向かっていく。一歩一歩進むたびに加速度は増していく。
向かってくる獣に対して、石橋はどうしたのかというと。
くるりと後ろを向いて、猛然とダッシュし始めた。
「ええっ!?」
驚いたのは見ていた希愛だ。何かしら向かっていくものだと思っていた。
「希愛はどこかに隠れてろ! あいつの狙いは俺だ!」
今しがた居た牢屋の中に石橋は戻った。
「自分から袋のネズミになりやがったか、馬鹿め!」
虎嶋も牢屋の中に入っていく。
しかし牢屋の中には、彼の目前には誰も居なかった。
忽然と消えた石橋。虎嶋は首を振って相手を探す。
「どこに消えやがった!」
「バーカ、よく見ろ」
上から声が聞こえ、虎嶋がそちらを向いた瞬間に銃弾の雨が彼を襲う。
「うおおおおっ!」
天井に二本足で石橋は立っていた。ヤクザに襲撃を掛けた時と同じように。
たまらず、虎嶋は牢屋から飛び出す。あれだけ至近距離で銃弾を浴びせられながらも、彼は持ち前の反射神経で皮一枚の所で弾丸を躱していた。うっすらと血が皮膚に滲んでいる。
「流石に最も獣に近いだけはある。反射神経だけで全部避けやがった」
「お前にはヤモリの能力がある事をすっかり忘れていた。なんせ見た目が普通の人間と全く変わらないからな」
滲んだ血を手で拭い、舐めとる。自分の血の味にわずかに顔をしかめた。
狭い場所では石橋の独壇場だ。自分の素早さも生かせない。
相手の作戦に気づいた虎嶋はすぐさま牢屋から脱出しようと扉まで駆け抜ける。
しかし、牢屋の扉の前に転がる何かを目の端に見つけた。それは既にピンが抜かれている。
「ぐわっ!」
気づいたが、既に爆発と破片が虎嶋に襲い掛かった。
さしもの虎嶋と言えども、全く意識していない爆発を咄嗟に避ける事は出来ない。
咄嗟に身を縮めて両腕で頭と胴体を守る体勢を取ったが、果たして。
爆発の後の煙が牢屋前をもうもうと立ち込めている。
「単純馬鹿なアンタだから、こういうのにも引っかかる」
銃撃を浴びせた後に虎嶋がどういう行動を取るのかを完全に見透かして、手りゅう弾を投げていたのだ。組長と若頭として長く付き合いがあっただけに、石橋は虎嶋の性格を熟知している。とはいえ、危険のただ中にわざわざ無策で突っ込むような奴などいやしない。虎嶋とてむやみに相手に向かっていくような事はしない。
「一人だけ、どんなに危険な状況でも向かっていく恐ろしいやつがいるけどな」
石橋の脳裏には一つの人影が蘇る。あの人と比べたら、どんな奴だって怖くはない。煙が晴れる。うっすらとシルエットが姿を現した。
「やっぱこの程度で死ぬわけねえよな」
「糞が……!」
「まだやるよな? こういう狭い場所ならアンタの瞬発力は無いも同然だ。俺の特性は活かされる。さて、どう来るね?」
「舐めるなよ若造が!」
虎嶋はワンステップで石橋の懐まで踏み込んでくる。こういう速さは流石に素晴らしいものを持っていた。ネコ科の動物の俊敏さは人の目では追いきれない。
そこから繰り出されるのは拳ではなく掌底。爪を立てており掌を当てるというよりは肉を爪で切り裂こうという意図だ。
石橋はそれを躱し、代わりにいつの間にか構えていたナイフで攻撃する。ちょうど腕をそれで撫でつけるかのように。
刃は虎嶋の皮膚を切り裂き、鮮血がほとばしった。
「ぬうっ」
「確かに俺は脆いし弱いぜ。能力以外は人間とまるきり変わらないからな。だが人間が何故この世の中でここまで繁栄できたと思う?」
虎嶋は石橋を睨みつける。血が滴り落ち、床に花のような模様をつける。
「頭が良くて、道具を作れたからだよ。強い獣にも打ち勝てるような道具を持ったからだ。それでありとあらゆる獣を狩れたからだ。それに」
逆に石橋が虎嶋の懐に入り込む。
「むっ」
そこから繰り出されるのは拳とナイフのコンビネーション。
速度こそ虎嶋に劣るものの、フェイントを交えた攻撃に虎嶋は過剰に反応し、逆の手の攻撃をもらってしまう。ひとつ、ふたつ、みっつと確実に喰らう打撃とナイフによって、少しずつ虎嶋の傷は増えていく。
「人間は訓練することによっても強くなれる。ヤクザになりたての頃の俺ならアンタには敵わなかったが、傭兵部隊に派遣されてそこで鍛えられたからこそ今の俺がある。アンタはどうだ?日がな酒ばかり飲んで、女を喰らい、自堕落な生活を送ってばかりのアンタはよ」
「うるせえ!」
「それでも、喧嘩屋として過ごしていた頃のアンタならマジで強かった」
ナイフの動きがより素早くなり、更に急所を的確に突いていく。
はじめは石橋を圧倒していたはずの虎嶋の速度が傷によって、徐々に鈍っていく。
獣臭い血が腕を、胴を、足を伝って流れていく。流れた血の量はけして少なくはない。
「俺はアンタの事なんか大嫌いだ。だが腕っぷしだけは尊敬していた。憧れていたと言ってもいいよ。でもな、今のアンタは腕っぷしすら鈍っちまった。そんなアンタ見たくなかったよ」
「黙れ!」
虎嶋は右腕を振りかぶり、大きなモーションのパンチを出す。
だがそれも石橋にはよく見えていた。密着するほどにまで潜って躱し、石橋は虎嶋の胴体に深々とナイフを突き立てる。
「ちっ、まだ浅い」
石橋はナイフを抜いて血を払った。
流石の肉体の強さを誇る。腹の筋肉まで刃は至ったものの、内臓にまでは通ってない手ごたえだった。それでも虎嶋に与えたダメージは深い。刺された虎嶋の息は明らかに荒く、左手で刺された箇所を押さえている。血はそこから流れている。
「俺達を見逃してくれたら、救急車くらいは呼んでやる。破門されたとはいえ、今でもアンタは俺の親だ。親殺しはしたくない」
「……詰めが甘いな。すぐに殺しにかからないからお前は甘ちゃんなんだよ。だから組長になれねえのさ」
不敵に獣は笑った。
「今更アンタに何ができる。変な動きをしたら撃つぞ」
「へへっ、もう遅いんだよ、馬鹿が」
口角を上げ、牙をぬらりと見せる笑み。
虎嶋が押さえていた左手をよく見ると、手の中にはアンプルを隠し持っていた。
薬品を打ったのだ。
「何を、何を打った!」
「へへへ……見てればわかるぜ。そして後悔しやがれ」
途端に、虎嶋は叫び声をあげた。
明らかに苦痛に苛まされている声を上げ、虎嶋の肉体はみるみるうちに変貌を遂げる。
傷が早送りのように再生していき、筋肉はさらに異常な程の盛り上がりを見せる。ドーピングを施したボディビルダーのような筋肉の異常増殖。特に背筋や下半身の筋肉の増殖が人とは比較にならない程の凄まじい太さに変貌した。人の胴体以上の太さがあるかもしれない。
関節がゴキゴキと鳴り響き、元々長かった手足が更に伸びる。それはさながら獣の前足のように。二本足で直立することを辞め、本来の獣の姿である四本足で立つようになる。
代わりに彼が持っていた人間としての理性は完全に失われ、ただ唸り声をあげる獣へと成り果ててしまった。
虎嶋だった獣は涎をガフガフと垂らしながら石橋のほうをゆっくりと向いた。
その瞳にはただ獲物を捉えて、仕留めようという気配しか感じられなかった。
「人間であった事すら捨てやがった。クソったれが」
放った言葉の意味が彼に伝わる事は、もう無い。
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