2-9 白鳥怜美
新宿区四番街の高級マンションの一室に、携帯電話の耳障りなアラームが鳴り響いている。時刻は午前十一時を回ったところ。アラーム自体は設定された時間を過ぎれば止まるが、その設定時刻がかなり小刻みに設定されているせいで数分経過したらまた鳴り響くという有様になっている。
「あー……うるさいな」
部屋の主がようやく目を覚ます。ベッドから半ば転げ落ちる形で抜け出し、ベッドサイドに置いていた携帯電話のアラームを止める。寝癖のついた頭をかいて、先ほどまで見ていた夢の内容を反芻していた。
「……随分と懐かしい夢ね」
山賀椎香は独り言をつぶやいた。あの時の子は、今はどうしているのだろう。ふと思い出しては、かぶりを振る。所詮は行方知れずの子であり、探すにも手がかりがない。忘れた方が良い。
顔を洗ってカーテンを開けると、すでに太陽が高い位置まで登っている。そのまぶしさに思わず顔をしかめてカーテンを閉める。まぶしいのは苦手だ。
今日は日曜日。前日の酒による酔いもほぼなし。今日はゆっくり家で過ごそうかと考えていた矢先に携帯電話にメールが入る。
「なんだ?」
メールの内容を確認すると、新宿区三番街のシガーバー店主からのメールだった。最近、店に来ないのはどういう事だというお叱りもとい、店にもっと来てほしいという内容だ。苦笑しながらメールを読み進める山賀。
「そういえば最近足を運んでないな……今週土曜の仕事終わりに行くか」
早くも今週末の予定が決まった。恋人に連絡を取ろうと電話帳を開く。その手は軽やかに動いていた。
土曜。山賀はアコと一緒にシガーバー『フラジャイル』に訪れていた。しかし機嫌はひどく悪い。アコは山賀の様子をみて少し怯えている。
理由は簡単。当初は恋人と一緒に来る予定だったのだが、突発で仕事が入って急に行けなくなったという連絡が来たのだ。山賀は腹立ちまぎれにアコを無理やり誘って……というか半ば拉致みたいな形で連れてきた。この手の店に全く来たことのないアコは借りてきた猫のように縮こまっておとなしい。
いい加減、山賀の愚痴を聞き飽きたマスターが口を開いた。
「まあまあ、相手もきっと来たかったんだろうよ。残念なのは君だけじゃない」
「それにしたって仕事仕事仕事で会ってさえくれないんだもの! 嫌になるわ」
「忍耐だよ忍耐。まだ一か月じゃないか」
マスターが笑ってウイスキーのロックとプレミアムシガーを山賀に差し出す。慣れた手つきで山賀はカッターで吸い口を作り、マッチで火をつけてさっそく吸っている。アコもマスターにドライシガーをカットしてもらって火を点け、恐る恐る吸ってみるが、そもそもアコは紙巻き煙草すら吸わない。煙を口に入れた瞬間にむせてしまった。
「けほ、けほっ、けほ」
むせる様子を見て山賀が笑う。
「やっぱり無理か」
「……こんなもの吸ってるなんてセンセイの気が知れない」
アコは若干不機嫌になりつつもカシスオレンジを注文してちびちびと飲み始めた。
山賀は葉巻をふかしながらグラスを傾け、グラスを磨いているマスターに話しかける。
「にしてもさぁ、この辺も昔と変わったよね」
「そうだな。前はもっとごみごみして雑多な雰囲気があった。俺はあっちの方が好きだったね。今は小奇麗になっちまっていけねえ」
マスターも一口酒をあおる。彼は長袖の白いシャツと黒いベストを着ている。シャツからうっすら透けて見える二の腕の和彫りの入れ墨が、かつての生きざまを雄弁に物語っていた。
「マスター、腕に絵が描いてあるね。おもしろい」
アコが無邪気にそれを指摘する。
「背中にもあるぜ。……昔は俺も、この辺では幅ぁ利かせてたんだがなぁ」
かつての記憶を懐かしむモードに入ってしまうマスター。しかしすぐに現実に引き戻されるが。
「マスター。酒なくなっちゃったからお代わり!」
テーブルに勢いよく置かれるカラのグラス。山賀の目は既に据わっている。
「おいペース早いぞ、何杯目だよそれ」
「何杯だっていいでしょ、早くちょうだいよ」
「センセイ、また二日酔いになるよ」
カウンター席での喧噪をよそに、店の入り口の扉が開く。サングラスをかけてブランドもののコートを着込んだ女性が入店してきた。
彼女はカウンター席に山賀がいるのを見つけると、山賀の隣の席が空いてるのを確認して素早くその席に陣取った。ぱらぱらとメニューをめくり、酒と葉巻を注文する。
「マスター、バカルディください。葉巻はドライシガーの何かおすすめを」
「ではフィリーズ・シガリロ・ハニーを」
注文を受けるとマスターは素早くカクテルを作り、葉巻と一緒に彼女の前に置いた。バカルディを口にし、付け合わせのつまみを軽く口に放り込んだのちに、葉巻をゆっくりと吸う女性。慣れた手つき。煙からこのシガー特有のハチミツのような甘い香りが広がる。
最初は誰も気づかなかった。
まずマスターが気づいたが、彼女は常連客の一人なので全く驚かないし表情にも出さない。次に気づいたのはアコだった。彼女は隣で葉巻をふかしながら山賀をちらちらと見る女性に不審なものを感じた。警戒してずっと睨みつけていると、ふと女性がサングラスを外し、アコの方を見てニッコリと笑顔を作った。
「!!」
アコは驚いて思わずカウンターの椅子からずっこけそうになる。
「ちょっと、どうしたのよ」
「せ、センセ! センセ!」
アコが指をさす方向を見る山賀。そして山賀も隣に座っている彼女を見て、目をしばたかせていた。
「やっと気づいてくれた」
彼女がにっこりと嬉しそうに笑う。
その笑顔は、普段山賀達にはモニターの向こう側のものでしかなかった。それがいまここにある。
「……まさか、鈴谷ちなつ?」
山賀が独り言のようにつぶやくと、彼女はゆっくりと首を振った。
「それは仕事用の名前。本当の名前は
「うーん……」
さすがに山賀も首を傾げる。記憶の彼方から出来事を引っ張り出そうとしてもなかなか思い出すことが出来ない。
「先生もこのお店に良く来るんですか?」
「良く来ると言うか……時々? それよりもちなつ……あー怜美ちゃんが吸うのは意外よね。イメージにない」
「私、デビュー当時のイメージが未だにあるせいか酒も煙草もやらないって思われがちなんですよね」
全然そんな事ないんだけどな、と言いながら先ほどのバカルディを勢いよく飲み干す怜美。豪快な飲みっぷりに思わず見惚れる山賀。
「あー、おいしっ」
「いいね。いい飲みっぷりだよ。おばちゃんがおごってやろうか」
「えー、大丈夫ですよぉ」
「こういう時は素直に好意を受けとくんだよ」
そんなやり取りをしているうちに他の客も白鳥、もとい鈴谷ちなつが店にいる事に気づいてざわつき始めた。
「おい、君ら三人は一旦奥のVIPルームに引っ込んでくれんか。店が騒々しくなっていけねえ」
「しょうがないな。行きましょ、先生」
白鳥怜美が先導してVIPルームへと歩いていく。その後をおずおずとついていく山賀とアコ。扉を開けてVIPルームに入る。部屋は広々としていて、三人で使うにはもったいないくらいのスペースだ。テーブルと椅子も見るからに豪華で作りがしっかりとしている。怜美と山賀は何度か出入りしている事もあって慣れているが、アコはただでさえ慣れない場所で縮こまっていたのに、VIPルームの雰囲気に完全に飲まれてしまって全く何も出来なくなっていた。
動かないアコをよそに、二人は酒を飲みながら話をする。
「わたし、本当に先生には感謝してるんですよ」
「そうなの?」
「そうですよ! 私、高校生の頃は本気で悩んでたんです。当時はモデル体型にならなきゃ、みたいな強迫観念に襲われてて……。真剣に脂肪吸引とかまでやろうか悩んでました。でも、未成年は法律で美容整形が禁じられているでしょう?」
「まあ、そうだな」
頷きつつ山賀は何杯目の酒かわからないハイボールをあおる。
「それで山賀先生の所へおたずねしたんですよ。どうにか手術してもらえないかと」
「ああ。ようやく思い出してきた。思い詰めた顔で来たわね」
記憶の底から浮かび上がって来た情景を、山賀は昨日のように思い起こしていた。
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2-9:白鳥怜美 END
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