2-8 消えたあの子
翌日。いつものように山賀は自分の病院へと向かっていた。この当時の自宅からは徒歩十分もすればつくほど近い距離。悠はたぶんベッドで暇をしているだろうから、何か暇つぶしのネタになるようなものでも道すがらに買っていこうと思い、コンビニによって雑誌を少し買っていった。漫画やファッション雑誌で会話のネタの一つでも作れれば御の字だろう。
雑誌や漫画を適当に買い込み、袋を下げて病院へたどり着いた。一応当直がいるとはいえ、万が一の侵入者があってはいけないので施錠はしていたのでポケットから鍵を取り出す。入口の扉に鍵を差し込むと、そこで違和感を覚えた。
「鍵が開いている?」
まさか老医師が鍵を開けたまま外出をしたとでも言うのだろうか。違和感を抱えたままエレベーターで下へ降りていく。こないだのチンピラのように、病院内を荒らされた様子はない。診察室に入ると、老医師がテーブルに突っ伏していた。
「ちょっと!どうしたのよ」
はたから見る限り外傷はないが、もしかすると病気で倒れているのかもしれない。脈を測ると、拍動を感じるし呼吸もあるので生きてはいる。しかし、いくら老いたとはいえ医師としての矜持は持っている人が、何故眠っているのか。とりあえず軽く頬を叩いてみると、うめき声を上げて目を覚ました。
「うう……」
「何眠ってるのよジジイ!仕事でしょうが」
「違う。夜中三時くらいに、侵入者が来た。わしに睡眠薬を投与して、眠らせたスキに何かをしたらしい」
「でも、部屋は荒らされてないわよ。金庫のある院長室やレジの中の金だって盗まれてないし」
「……悠はどうした?」
ここで侵入者の目的に気づいた。財産狙いでないというのなら、対象はひとつだ。慌てて入院用の個室に向かうと扉は開きっぱなしだった。そしてベッドに悠の姿はなかった。サイドテーブルにある荷物もなく、もぬけのからだ。
「まさか……さらわれたとでもいうの?」
「それしか考えられまい。どうする、警察にでも届けを出すか?」
「バカな事言わないで。どうにかして捜し出すしかないでしょう」
「手がかりすらないというのにか?」
「ぐっ……」
山賀は歯噛みし、手の色が変色するほど拳を握りこむ。
「残念だが、わしらにできる事は何もない。悠の事は諦めるしかない」
「……あんたはそれでいいだろうけどね、私は今まで悠の事を診てきたのよ。この病院を開いて初めてのちゃんとした患者なのよ。診てきた期間は短いけどさ、悠の事は大事に思ってたし、先の事まで見通して色々やってきたのにこれで台無しよ。納得しろっていうの?」
山賀は瞳に涙を溜めて絞り出すように言葉を吐く。老医師も、もちろん山賀の思いに気づいてないわけではなかった。
「一応わしの知り合いの探偵や、興信所の連中に依頼はしておこう。もとはといえばわしがしっかりしておればこんなことにもならなかった筈だ……。もし探し当てることができれば連絡する。本当に済まない」
老医師は山賀に深々と頭を下げる。
「いや、あなたが頭を下げる事じゃないわ。本当に悪いのはさらった連中よ。……ダメ元で今、知り合いに当たってみる。私にも一応ツテはなくはない」
山賀はつぶやき、先日出会った刑事からもらった連絡先を携帯電話のアドレス帳から開いた。個人的な連絡先なので携帯電話の番号だ。通話ボタンを押してみる。数度呼び出し音が鳴ったのちに、一人の男の声が聞こえてきた。
「……誰だ」
「お久しぶり。遺伝美容整形外科ベイビーリザードの山賀です。貴方に助けてほしいことがあって連絡しました」
「どういう要件だ」
「……私の患者の誘拐よ」
しばらく返事に間が空いたのち、相手の刑事は重い口調で答えた。
「誘拐事件か……。個人でやるには荷が重いな」
「……まさかやらないとでも言うつもり?」
思わず、山賀の口調も厳しくなる。
「そんな事を言うつもりはこれっぽっちもない。ただ、事件の発端を署に隠し続けながら個人で誘拐を探らなければならないのは、正直な所難しい。正式な事件として署を挙げて捜査すれば解決の道筋も立てられるだろうがな、それでは君の病院を潰さざるを得なくなる。それは望みではないだろう?」
「つまり、何が言いたいの?」
「個人でできるだけの事はするが、君の納得できるような捜査結果にはならんかもしれんという事だ。……期待せずに待っててくれ」
「……そう。でもこれだけは言わせて。私は貴方以外に頼れる人、居ないの。何とかしてちょうだい」
その一言を言い残して、山賀は電話を切った。結局、期待に応えてくれそうな相手などどこにもいないという事を、山賀は思い知らされた。表立って警察にすら頼れない、自らの立場をこれほど呪ったのは初めてだった。泣き寝入りするしかないというのか。
「慰めにもならんが、警察なんてあまり信用できるもんじゃないぞ。所詮あいつらは上のご機嫌伺いしかせん連中だ。個人個人は信頼できるとしても組織のしがらみから逃れられんのだ」
「……」
「わしの頼んだ連中からも情報があったら何か知らせよう。……ではわしは、帰るとする。何も出来んですまんな」
老医師は申し訳なさそうにしながら、病院を出ていった。山賀は悠が居た個室のベッドに座り、天井を見上げてしばらく何もできなかった。
まさかこんな事が起こるとは思わなかった。
「悠……」
山賀はぬくもりもなくなったベッドを触り、涙をこぼした。突如として消えた悠はいったい何処へ行ったとでも言うのだろうか。崩れたベッドを元に戻し、うなだれて診察室の椅子に座る。何か手がかりでもないかと電子カルテソフトウェアを起動し、悠のデータを眺める。……そういえば家庭環境が云々とか言っていたような気がする。孤児で施設で暮らしていた所を、家人とやらに引き取られたとか。思い当たるのはそれしかない。しかも悠に淫らな事をしているというニュアンスの話もあった。それらを考えると、ますますその家人とパトロンが怪しいという思いが強くなってくる。
「畜生、住所聞いておけばよかったな」
ここでひとつの閃きが山賀の頭の中に生まれた。
「……悠の携帯番号から、住所割り出せないかしら」
さっそくもう一度戌井刑事に連絡し、その事を話してみる。最近では、捜査の為に警察が携帯電話等の個人情報を開示する事が簡単にできるようになっている。
「おそらく家人とやらがきちんとした身分の人であれば、可能性はあるな。そのセンで調査をしてみよう」
「よろしくお願いするわ」
戌井刑事との連絡後、自分でも探してみようかと思ったがあてもなく探してみた所で無駄足なのは目に見えてわかっている。臨時休診のつもりだったが午後から普通に診療を開始しよう。働いていた方が気がまぎれるものだ。
そうして午後に臨時休診を取りやめて普通に診療開始すると、早速患者が訪れた。面談をして次回、施術を行う予定を組み、患者を帰すとまたぽつり、ぽつりと少しずつではあるが患者が来る。
悠が居なくなって以後、皮肉な事ではあるが患者が徐々に増えていった。それは以前行った宣伝活動や地道な足を使った挨拶回りのおかげかもしれないし、もしかしたら老医師や戌井刑事がひそかに情報を回していたからかもしれない。どちらでもよかった。働いて、辛い記憶を少しでも忘れる事が出来れば。
数か月経過し、老医師が雇った興信所や探偵からの目立った情報もなく、戌井刑事からも大きな進展があったとの情報も連絡もなく、次第に悠の事も記憶から薄れ始めたころ。いつものように山賀が診察開始の為に朝早く病院に訪れて準備をしながら朝の情報番組にチャンネルを合わせていると、臨時ニュースが飛び込んできた。
「……何かしら」
妙に興味を覚えた山賀は、燃え盛る一つの豪邸がTVに映し出されている映像を見た。とても大きく、広々とした一軒家でこれほどの家を建てるにはどれだけの資産が必要だろうと思わされるが、今はそれも火に包まれて燃え落ちようとしている。すべては諸行無常か。現場に急行したリポーターが口早に情報を伝えようとしている。
「大変な事になりました。高級住宅街の一軒が火事によって今現在も燃えております。懸命の消火活動は続いていますが火の勢いはとどまる所を知りません。周辺住民は既に避難を完了していますが、この住宅にお住いの鴨井竜二氏(45)と鴨井悠さん(14)とは連絡が取れていません」
画面から映る火はごうごうと燃え盛り、消防隊は次々と集まって水を放射しているが、恐らくこれは全焼してしまうだろう。幸いな事に周辺の住宅とは距離が離れているので、今日は風もないので火の粉が飛んで延焼することはないだろう。
大変だなぁとぼんやり思いながら、妙に山賀の心に引っかかりを覚えたのは、この家の息子の名前が悠という名前だからだろうか。確かに年齢も一緒だが苗字も違うしどこに住んでいるかなどという事を聞いていない。気のせいだと思い、午前の診療に入ろうとすると、山賀の携帯に連絡があった。
「戌井刑事……?何の用かしら」
応答ボタンを押し、電話に出る。
「山賀医師か?戌井だ。大変な事になったな」
「どういう事?まさか今やってる火事が何か関係あるとでもいうの?」
「その通りだよ。君の病院に通っていた白鳥悠という名前の中学生。調べてみたら白鳥というのは偽名で本当の苗字は鴨井だ」
山賀はにわかに受け入れられず、すぐに返事をすることができなかった。うろたえ、TVの画面を改めて見ては絶句した。
「……冗談、であってほしいわ」
「残念だが事実だ。信じられないというなら後で色々と資料を見せに行こうか?」
「いや、いいわ。情報ありがとう」
「そうか。……こんな結末になるとは残念だ。君には申し訳ない」
「電話、切るわよ」
言って、山賀は戌井からの着信を切って携帯電話を懐にしまった。今現在、行方不明で連絡もつかないとあっては、きっと家の中で煙に巻き込まれてしまっているだろう。大抵の火事で連絡がつかないという事は、つまりそういう事なのだ。
そう自分に言い聞かせ、悠の事はもう忘れよう。山賀は改めて診察の準備を進め、患者の来訪を待つ。診察開始と同時に、患者は現れてすぐに待合室はそこそこの人入りになる。前のように暇を持て余す事もなく、山賀は忙しく働いて今日一日を過ごしていった。
昼飯を食べる暇もなく午後も患者をさばき続け、気付けば診察終了時間を二時間も過ぎていた。最後の患者の診察をようやく終えて、山賀は一息つくために煙草を吸っていた。そろそろ一人で病院を回すにもきつくなってきたので、一人くらい助手か看護師が欲しいところだなと感じている頃合いだ。
煙草を吸っていると、携帯電話に着信があった。公衆電話からの着信だ。
「誰だ?」
普段なら取る事も無かったのだが、空腹と疲労で頭が回っていないからか普通に着信を取ってしまった。
「もしもし、山賀です」
「……悠です。白鳥……いや、鴨井悠です。お久しぶりです」
既に死んでいると思った相手からの電話に、危うく山賀は持っている電話を落としかけた。慌てて拾いなおして通話を続ける。
「悠!なんで……いや、それよりも生きてたの?」
「ええ、まあ細かい事はいいじゃないですか」
こういう言い回しをするときは、何かやましい事を抱えているのが悠の癖だ。山賀はあえて何も突っ込もうとせずに話を続けようとする。
「それよりも、これからどうするつもりなの?私の病院で体と顔も理想に近づけるんでしょう?約束したじゃない」
「……すいません先生。しばらく私はそちらに顔を出せそうもありません。だから施術の事も、私の事も忘れてください……申し訳ありません」
「悠。私は待ってるからね。早いところ顔を見せて安心させてちょうだい」
「ありがとうございます。……先生、実は……」
そこでぶつりと電話が切れてしまった。掛け直そうにも公衆電話の番号など知れようもないので掛けられない。小銭でここに電話をかけてきたとでも言うのか?それほどまでに困窮しているのか。
「……」
何もできない。助けられない自分に、山賀はあきらめにもにた感情を抱いた。所詮自分はその程度の存在なのか。人ひとりを助ける事すらままならないのか?
「……」
山賀は煙草を吸おうとして、箱の中に一本もない事に気づいてゴミ箱に投げ捨てる。診察室の椅子に座り、テーブルに肘をついて手を組み考える。
「人に頼る前に、まず自分が頼れる存在にならないと話にならないわね」
今までの事を経験して悟った。今の自分の立場では何が起きても解決すらできず右往左往するしかない。それではこの街で生き抜いていく事は出来ないだろう。ならばどうすればいいか。
「まず顔役になる。この街の中で影響力を持つような大きな存在にならなきゃいけない。警察にすらうかつに手出しできないほどに……」
そう思った瞬間、山賀の心には一つの炎が点いたような気がした。何物にも消されないような強く、高く、大きく燃え盛る炎の柱のごとき決意。山賀の瞳には力強く光が宿っていた。
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2-8:消えたあの子 END
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