オフィス街の朝のセーラー服

 午前8時30分頃、淀屋橋上にギターケースをしょったセーラー服が現れた。この時間にこの場所で女子高生を見かけるのは比較的珍しい。


 早朝のオフィスに一人の男。実直そうな容貌。始業30分前、既に着席でメール処理。携帯のバイブ、2回。メール着信。

『おはよ。びぃだよ。今、橋の上。淀屋橋』

『おはよ…てか何でココわかった?』

『名刺渡しといてよくゆう』

『びぃに渡した憶えない』

『べッドサイドに名刺入れホカしてたら渡したのと一緒』

『…で?』

『デビューできそう。ちっさいトコやけど、来年あたりCDだせるて。一応メジャー。計りじゃない奴。来週、東京、越す。オヤゴサンとかぶち切れだけど軽く無視。ヴォイトレとかももう会社持ち』

『マジで?。そらすごいな。おめでとう』

『だから歌いに来た』

『は?』


 2年ほどさかのぼる。

「ええな、目指すもんあるんは。おじさん、うらやましーわ」

 男、ネクタイをしめながら。

「自作曲がもう30曲ぐらいかな。ギターはまだ下手やけど曲は自信あんねん。ちょっと歌ったげよか?」

 少女、制服のファスナーを上げながら。

「遠慮しとく」

「ちぇっ、ほんまに自信作ばかりやねんけど」

「君、プロの歌い手やないやろ?、少なくとも今はさ」

 財布を取り出す。

「おじさん、汚れちまった悲しみなオトナのヒトやからさ、お金と引き替えられるものにしか興味あらへんねん。お金に替わらんと信用できひんの」

「そゆ人、好きやわ」

 少女がてのひらを上に向けて右手を突き出す。

「扱いやすいから。おとな大好き」

 2万円。

「言うたら、これも犯罪やねぇ。君は少女Aで済むんやろうけど」

「Aまでいかへんね。あんまし真面目に少女してない」

「ならBくらいか?。少女B」

 少女が先に部屋を出る。

「B級少女好きならまたよろしくね~。何かとモノいりやねん、目指すものがあるとさ」

 これが男と少女の最初のお取り引き。いつしかお得意様。


『ちょっとフライングだけど、じきプロだよ。あたしのもちゃんとお金に替わるよ。歌の方もさ』

『なこと急にいわれても。もうじき始業だし』

『へへへ、待つのは自由やんか。しばらく待ってるよ』


 暫時のち、早朝のオフィス街に時ならぬ路上の歌声。周囲を気にしていた男の視線は、やがてどこか遠いところに焦点を合わせていく。雑踏はかき消え、男にいま聞こえているのは少女の歌声ばかり。

(この〝楽器〟を鳴らす夜はもう来ないんだな)

 少し顔を上に向ける。川がいつもの異臭を放っている。

(いや、最初から、鳴っていたのは空っぽな俺の共鳴胴だけか)

 最後のストロークの余韻が消える。たった一人の聴衆の長い拍手。

「…な、自信作ゆうたやろ?」

「泣ける曲やね」

常ならぬ音響の消え去った橋に恐る恐る鳩たちが戻ってくる。行き交う人間たちは、この幾分奇妙な光景にも興味を引かれた様子がない。みな、それぞれのビジネスに忙しいらしい。ビルの窓が照り返す朝の日射しがまぶしい。思えば、男が日の光の下で少女の顔を見るのは、これが初めてだったのだ。

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