赤玉

 洗面器の吐瀉物に繭の玉が浮いている。女の背中をさすりながら俺はその数を勘定する。1、2、…今日は5つか。だんだんと数が減ってきている。

「もうじき1個も吐けなくなりそうね」

 肩で息をしながら女が言った。口の端から透明な唾液の糸がつうっと伸びて洗面器の中の黄色い水面みなもに繋がっている。

「そしたら俺も用済みだな」

 俺は女の吐いた繭を糸にして売る役をやっている。儲けは女と山分けだ。女が吐いた汚物から繭を拾って糸をとる。とれる糸は滅多にない極上物。恐ろしく高い値で買い手が付く。だがこのところ、女が吐く繭の数が徐々に少なくなってきているのだ。

「残念ね。あなたと糸を売る毎日は楽しかったわ。子供の頃から吐いてた繭だけど、それがお金になるなんて、あなたに会うまで気付かなかった。びっくりするようなお金が入って、好きな物を買って、好きな場所へ行って。本当に楽しかったわね」

「そうだな、なかなか楽しかったな。だけど所詮はヤクザな稼業だ。いつかはこうなる気がしてた。長く続ける商売じゃないさ」

 ひとしきり嘔吐し終わり息の整い始めた細い背を見やりながら俺は心の中で女に語りかけた。ありがとう。あんたのお陰で俺も十分潤ったよ。いよいよ繭が吐けなくなったら、稼ぎの余りで田舎に小さな家でも買って、そこでのんびり吐きダコ治しな。他人に珍重される糸を吐けなくなった後は、自分の体がすっぽり収まる等身大の繭を作って、そこでゆっくり眠ったらいい。


 両側頭部を左右の手で掴み3回転ほどひねって首を外す。首の付け根に空いた穴から這い出すと浴室の鏡に俺の姿が映っている。青白い人魂であるこの俺が鏡の中でちろちろと揺れている。外した首は脱衣かごに入れ、首から下の人型スーツもキチンとバラして箱にしまうと、盥に張った人肌の蓖麻子「湯」にどっぷりと浸かり、一日の仕事で溜まった肩の凝りを俺はゆっくりとほぐしていく。

「てやんでぇ、肩なんぞもうありゃしねぇじゃねぇか、ってか?」

 湯の快さに俺は思わず独り言ちた。


 最後に赤いのを一つ吐いたきりとうとう繭を吐けなくなった女と別れて以来、俺が手がける商売はどれもあまり上手くはいかなかった。若い奴らを手なずけて、大昔に誰かが吐き出したものの燻製を飲み込ませ、今風の胃液で味付けしてからそれを吐かせて売ったりもしたが、最近の若いのはどうも線が細い。商売として軌道に乗る頃になると、すぐに何も吐けなくなってしまう。でなきゃ

「これは僕の本当に吐きたいものじゃない」

 などと言い出す。他人の吐いた物を吐き直してるだけのくせして本当も嘘もあるものか。そんな時はどうしても女を思い出してしまう。あの細い体から彼女がどれだけの繭を吐き出し続けたことか。吐き直しでしかない昨今の若い者と違って、あんたには自分の内側に吐き出せるものが山ほどあった。あんたの糸があれほど上物だったのは、あんたが我が身を削って吐いていたからだ。今の吐き手にゃそれがない。吐きたくても削りたくても端から己の身が貧弱すぎるのだ。けれど。曲がりなりにも現役の商い手である俺はこうも考え直す。身を削って自己を吐露する際に漂う臭みは、今のマーケットでは流行らない。時流はリメイク、リミックス。吐き直し薄めた位の方がお洒落で手広く売りやすいのだ。


 俺自身がそうした時勢とあまり馴染みが良くなかったためか、女と別れてからの稼業はどれもこれもが鳴かず飛ばず。赤字続きの持ち出し続き、資金はショートにショートを重ね、自転車操業の金繰りに、家を、車を、田畑を売って、それでも借りは返せずに、腎臓、肝臓、目玉も売って、ツラの皮からケツの毛まで、売れるものならなんでも売って、しまいにどうにも買い手のつかない魂だけが手元に残った。悪魔が買うかと営業をかけると

「今日日、悪魔も肉食でんねん。soulやのうてbodyが欲しゅうおますな」

 門前払いをされたのだった。こうして青臭い魂ひとつとなった俺は、普段は人型スーツの中に収まり、いわば人間の皮を被って、細々と商売を続けてきた。着苦しい人型スーツではあるが、商談の席に魂むき出しでは、まるで仕事にならないからだ。


 ある日のこと、風の噂で、あの女が人では無くなったと聞いた。もはや繭を吐いて糸をとるなどという七面倒くさいことはせず、口から直接に真っ赤な糸を吐くそうだ。とある新興宗教団体に囲われて生き神様と崇められているらしい。神様業は上手い手だな。俺は思った。宗教法人なら税制面での優遇措置もあるだろう。相変わらず商売の上手く行っていない俺は御相伴に与ろうと女のいる社を訪ねてみた。


「ご無沙汰だな」

 通された社の奥の間。案内してくれた教団関係者達が席をはずすと、俺は御簾の向こうにいるはずの女に向かって昔の調子で話しかけてみた。女はさっきから一言も発していない。時折ちいさな唸り声のような音がするだけだ。

「こっちはあれから商売がうまく行っていなくてな。ついちゃ、こちらの教団さんと、なんぞお取引でもと思って訪ねてきた訳なん…だ…が…?」

 吊られていた御簾を引きずり落として、人間より一回りほど大きいかと思われる何かの塊が、こちらへ倒れ込んできた。見るとそれは巨大な蚕だった。さらによく見ると、その頭部に付いているのは女の顔だった。その眼球は真っ赤にそまり、口からはだらだらと赤い糸を垂れ流し、どうもあまり人間的な対話が期待できそうには見えない。人で無くなったという噂は確かに掛け値なしだったようである。女の顔を戴いた巨大蚕は人型スーツにのしかかりあっという間にそれを押しつぶしてしまった。俺は慌てて首を外し、空中へと逃げ出したが、蚕は口から赤い糸を吐き出して、青白い俺の本体を絡め取ってしまった。糸は蚕の口元へと徐々に手繰りよせられていく。そうか蚕は多分ベジタリアンだな。俺の頭に嫌な考えが浮かんだ。肉食の悪魔にそっぽを向かれた青臭い俺の魂も、ベジタリアンにいわせればことによると御馳走になるってことも…。その時、最後のひと手繰りがきた。

「やめろぉお、肉じゃあねぇってだけで、別に野菜でも桑の葉でもね…」

 言葉の続きは蚕の腹の中に飲み込まれてしまった。


 教団はその後、信者を大幅に増やし、お布施の高も倍々ゲームで増えていった。生き神である人面蚕の吐く真っ赤な糸の色にはある時期からほんのりと青みが加わるようになった。その色合いは従前と比べてどこか高貴で神々しい深みを持ち、あるいはそのことも信者数拡大の一助になったのかもしれなかった。

「やっぱあれだな、俺たち二人、ベストビジネスパートナー、ってか?」

 俺は腹の底から満足げにそう呟いた。

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