第15話 遭遇、発見、そして襲撃

「食事、これからはわたしが作ります」

 夕飯の最中、篠が突然そんなことを言った。

「どうした?」

 四人で一つのテーブルを囲って、俺は隣の幸の口についてるソースを拭ってやる。今日のおかずは日和さん手作りのコロッケだった、やはりお手製ともなると市販のものよりずっと美味しく感じる。

「いえ、わたしは従者であるのに何もできていないので。せめて身の回りのことくらいはこなしたいと思いました」

 篠は行儀よく背筋を伸ばして、口の中のものを飲み込んでから改めてそう言う。

 最初は同じテーブルで食事をすることも恐れ多いとかなんとかで命令するまでは床とか廊下とかで食べるつもりだったらしいけど、説得して今は普通に椅子に座って皆と同じように食事を共にしてくれている。

「風呂の準備とかしてくれてんじゃん。それでいいよ」

「それは当たり前のことです。もっと、日向様や主様の負担を減らせるように」

「駄目だよ」

 篠の言葉を遮るように、日和さんが割り込んできた。

「食事に関しては私が許可しない。これは譲れない私の一線だ」

「で、ですが…」

「夕陽に手作りを振る舞う私の楽しみを奪わないでくれよ、篠」

 予想通りというか、日和さんは食事の当番を誰かに任せるつもりは毛頭ないようだ。

 ずっと前にも、俺が朝夕晩の食事を作りますと提案した時も、同じような感じだった。料理はいくらか教えてくれたけど、基本的に日和さんが家にいる時は日和さんが食事を作るのがこの家での常だった。

「……ま、そういうことだ。なんか日和さんの数少ない楽しみみたいだからさ、そこは諦めた方がいいよ」

「わかりました…」

 しゅんとする篠を見て、少し考える。

「…ほら、あれだ。お前は俺がいない間、幸の面倒を見てくれてるから。それに、今後いくらでも仕事なんて出来るよ。俺が頼むまで、お前は待機ってことで」

 実際篠は優秀だ。頼る機会なんて山ほどあることだろう。たまたま、今はそれほどないってだけで。

 これから馴染んでいけば、それぞれの担当や動き方も決まってくるはずだ。

 ……月末にやってる大掃除の当番でも任せようか。何かしら固定の仕事があれば多少は安心するだろう、働きたがりの篠なら特に。




     ーーーーー

「夕陽」

 夕食を終えてくつろいでいたところへ、日和さんが声を掛けてきた。

 いつもであれば洗い物をするところだったんだが、その仕事は篠に取られてしまった。まあ仕事をもらえて活き活きしてるみたいだからそれはそれでいいんだけど。

「はい、なんでしょうか」

 やることが無くなったので幸の髪を梳きながら、俺も答える。

「君、もしかして今日変な人外に会わなかったかい?」

「変な人外?」

 言われて、心当たりはすぐには出てこなかった。

 あれだけおかしな感覚の人外がいたことを、俺はたっぷり数十秒置いてようやく思い出せた。

「……ああ、あー…いましたね、変なの。妙にぼやけるっていうか、あやふやで曖昧な感じのする。屋上で会いましたよ、すぐどっか行きましたけど」

「やっぱり。学校の方向から私も妙な気配を感じ取ったからもしかしたらと思ってね」

「日和さんは知ってるんですか?その相手のこと」

 おかしな能力や特性を持ってる人外は大勢いるが、あんなのもいるんだな。篠の使う隠形術と似たようなものなのだろうか。

 人外に博識な日和さんなら知っててもおかしくはないと思っていたが、意外なことに日和さんは俺の言葉に首を振った。

「いや知らないよ。古い歴史を持っている人外なら大体は知ってるはずだけど、あの感じには覚えが無い。ここ最近産まれたばかりの存在かもしれない。…君が持ってるそれも、その人外から貰ったものかな?」

「はい?」

 人差し指で俺のズボン…正しくはポケットを指される。

 なんのことかと手で触れてみると、何か小さくて丸い物があった。手を突っ込んで取り出してみると、それは朱色の鈴だった。

 ……思い出した。

「…ほんと、嫌になりますね。この歳でもうボケてるなんて」

 ほんの数時間前の記憶すら覚えていられないなんて、もはや何かの病気かもしれない。

「大丈夫、奴はおそらくそういう仕様だ。むしろ君じゃなければ会った瞬間にもう忘れているよ」

「〝干渉〟のおかげってことですか」

 俺は常時微弱ながらも〝干渉〟の能力を発動させ続けている。あまり強く使うと疲れるが、ある程度慣れたら弱めで常に展開できるようになった。幸と接触できなくなるのは困るから訓練した結果の、結構前の話だが。

 どうもそれのおかげで、あの人外のことをかろうじて頭の片隅に留めておけているようだ。

「タイミングが良過ぎるね」

「なんのですか?」

「んーむ…」

 俺の質問には応じず、日和さんは少しの間黙考する。どうしたんだろう。

 考えがまとまったのか、日和さんは俺を見据えてふっと微笑んだ。

「ちょっと、君に頼み事してもいいかな」

「?、はい」

 また唐突だが、別に断ることもない。仕事の話だろうか。

「なにをすれば?」

「街のパトロール」

「パトロール……俺がですか」

「まあ、また夜道で誰かが襲われるのも君としては面白くないだろう?ちょっと夜風に当たるついでに街の様子をざっと見てきてほしいんだ」

「はあ」

 曖昧に頷く。正直日和さんの意図が読めない。いつものことだけど。

「その程度であればわたしが行きますが」

 洗い物を終えた篠が名乗り出る。

「…」

 俺に髪をいじられるがままにされていた幸も、ついていくと言わんばかりの眼差しで見上げてきた。

「いや、別に俺一人で充分だろ」

「ですが」

「前も言ったけど、女の子があんまり夜道を出歩くもんじゃない」

 もし何かあったとして、俺が守り切れる保証もない。最近は色々と物騒だし。

「俺が帰ってくるまでまた幸と遊んでてくれ。どうせすぐ戻ってくる。それでいいんですよね?日和さん」

「構わないよ。ざっと街を一周、ゆったり散歩してくるくらいでいい。それと、これを」

 放り投げられたのは、見覚えのある竹刀袋。おそらく中には黒い木刀が納められているんであろう、つい最近お世話になった物。

「一応ね」

「…了解」

 その一言とその表情で、大体察した。

 この散歩、何事もなく終わることはなさそうだ。




     ーーーーー

(ありえないんだよなあ…)

 蒸し暑い空気を吸い込んで、浅く息を吐き出す。もうちょっと涼しいかと思っていたけど、そんなことはなかった。暑い。

 夜道を歩きながらも、俺は日和さんの考えを読んでやろうと考える。

 まず日和さんが俺に街のパトロールを頼むことからおかしい。ってかありえない。

 あの人は街の人間のことなんてどうとも思っていない。口裂け女の狙いが読めるまでは死人が出ても動かないつもりだったみたいだし。知り合いというか、多分自分の身内以外には興味も関心もないんだろう。

 力があるなら人を助けろ、なんてくだらないことを言うつもりは俺も無い。

 日和さんなら死人も怪我人も出さずに事件を解決することなんて造作もないんだろうが、だからといって率先して悪を倒すヒーローにならなければいけないなんてこともない。義務もない。

 強大な力があるからって、別にそれを振るうべき場を求める必要性なんてどこにもない。

 だから日和さんのやっていること、いや、『やっていないこと』に関しても俺は悪いことだとは思わない。

 でもそうなると、日和さんはどういう目的で俺を外に出したんだろうか。

 街の誰かが襲われる前に割り込んで助けてあげなさいなんてこと言う人じゃない。まあ多分そんな場面に直面したら俺は助けに入ると思うけど、それは日和さんの目的じゃないだろう。

(しっかし、これを俺に持たせた時点で既に何かが起こること前提なんだよね)

 右手には木刀の入った竹刀袋が握られている。

 何故か俺のことになるとやたら心配性になる日和さんのことだから本当に万が一のことを考えた上での一応だったのかもしれない。でもそれだったらまず俺を夜の街に出すこと自体がおかしくなる。

 やっぱり、俺が出ることに意味があるのだろう。俺でなければならない理由がある。

 日和さんでは駄目で、俺である必要。

「……」

 結局それがなんなのかはわからなかったが、きっとすぐにわかるだろう。既に木刀は竹刀袋から出して握られている。こんなところをお巡りさんにでも見つかったらちょっと面倒だが、別に真剣じゃないし言い訳はどうとでもなるだろう。

 出遅れることが一番怖い。

 そう、例えば、


「…ネエ」


「―――!」

 背後から突然襲われたりなんかしたら、

 一瞬の出遅れは、即座に命の危機に直結するのだから。

 ガギン!!

 振り向きざまに薙いだ木刀が背後からの強襲を弾き、反動でそのまま後方に跳び退る。

(二十、いや三十倍)

 全身の身体機能を“倍加”する。芯に鉄でも入ってるんじゃないかと思うくらいに見た目以上の重さを持った木刀が途端に軽く感じる。

「ねえ……アタシ」

 相手はこの蒸し暑い真夏の夜に、乾いた血のようなくすんだ赤色のコートを着込んでいた。シャキンシャキンと右手に握られた、持ち手から刃が異様に長い裁断鋏の刃が不気味に街灯の光を照り返す。

 幸とは比較にならないくらい薄汚いバサバサの黒髪が鎖骨の辺りまで伸びていた。

 顔がほとんど覆われた髪の黒色の中で、顔の下半分を隠す大きな白いマスク。空いた左手が、そのマスクを鬱陶しげに剥がした。

「…!!」

 蛇に睨まれた蛙のように、俺の体はそれを見て硬直した。

 全身を怖気が走った。


「アタシ……キレイ?」


 返答を聞くより早く踏み出し、口の大きく裂けた化物のような女はその裁断鋏を俺へ突き込んできた。

「く、ぁ…ああっ!!」

 目を見開き、頭の中で鳴り響く警鐘と危機意識でほとんど強引に肉体に動くよう命令を下す。

 危うく俺の顔が真ん中からバヅンと斬り裂かれそうになった二枚の刃の挟み込みを木刀を噛ませて受け止める。

「ねえ、キレイ?キレイ?」

「襲い掛かるのは…返答を聞いてからじゃねえのかよっ」

 凄まじい腕力で押し込まれる。木刀の柄と真ん中辺りを押さえて両足を踏ん張っているのに、片手で鋏を持った人外に力で負ける。

 すぐ目の前にニタリと笑う大きな口があった。

 その口が大げさに動き、はっきりとした声を放った。

「どんな答えだろうが、コロスって結果に変わりはねえんだ。細けえコト喚くなよクソガキ」

 勢いよく跳び上がった女の膝が、俺の腹に減り込む。

「ごほっ!」

「オラ顔上げろ、アタシとおンなじお口パックリメイクしてやっからよォ!!」

 伏せた瞬間顎にもう一度膝が叩き込まれ、顔が真上に跳ね上がる。

「が…っ」

 揺さぶられた頭が一瞬だけ意識を手放し掛けたのをどうにか繋ぎ止めて、迫る凶器を受け流す。

「ほーまだヤれンのか。じゃあもうちっとだけ遊ン…ッ」

 愉しそうに笑む顔が、言葉の途中で痛みに割り込まれたような苦い表情になる。

 ここだ!

(四十五倍!!)

 両腕に回した〝倍加〟を一気に引き上げて思い切り振り回す。

「ぐギッ!」

 恐ろしい反応速度で俺の一撃を鋏で受け止めたが、そのまま力任せにフルスイング。吹き飛んだ女は電柱をへし折って仰臥した。

(あれに対応すんのかよコイツ!絶対入ったと思ったのに)

 ほんのコンマ数秒程度の隙、好機を逃すことなく脇腹を抉り抜く勢いで振るった一撃を防がれた。どうかしている。

 戦闘経験がおそらく段違いだ。それと、戦闘能力も。

 両手で木刀を握り直し、思う。

(勝てるか、あれに?今の俺で、俺だけの状態で)

 俺単体での〝倍加〟の限界はせいぜい五十倍。最大好機に捻じ込んだ四十五倍を防がれてしまったことを考えると、勝ちにいくのはかなり厳しい。

「…あァあ、おいオイ。折れちまったよ、アタシの鋏」

 真ん中から砕けた裁断鋏が起き上がった口裂け女の右手から落ちる。

 口裂け女自体へのダメージは…ほとんどないな。

「ったくよォ…。まあ、ブチコロスのに鋏はやりづれェと思ってたンだ」

 両手が赤くくすんだコートの長袖の内側に引っ込むと、次出てきた時にはもう両手には新しい凶器が握られていた。

「選べよ、どっちでもバラすのには便利だぜ?」

右手に鉈、左手に手斧。

 あんなのコートの内側のどこに隠してやがるんだ。

 くそ、不味い。日和さんの言っていた通りだ。

 めちゃくちゃ強い上にとんでもない殺意、俺を殺すことしか頭にないような血走った瞳は直視したくないくらいに濁っている。それなのに殺す一点だけに関して妙に冷静だ。

 このままだと…確実に、

(確実に殺される)

 簡単に予想できる未来の結果に戦慄を覚え、木刀を握る手にさらに力を込める。

 逃げる、しかない。

 勝てない相手、惨殺は目に見えている。

 ただ問題はどうやって逃げるかだ。単純な速力勝負ならわからない、だが凶器と狂気を振り回すアレを背に純粋な速度のみで撒けるかは怪しい。どうにかして足を止めて、その隙に全力で離脱するしかない。

(そうなるとやっぱり、戦うしかないってか)

 今思えば、逃げるのはさっきのタイミングが一番だった。口裂け女が倒れている間に逃走しておくべきだったんだ。判断が遅れるとこうなる、わかっていたはずなのに…。

「答えねえなら、両方で半分ずつバラすが構わねえンだな?とりあえず、口さえ残ってりゃコッチとしては問題ねえ」

「っ……」


「いやいや構うよ。おおいに構う」


 夜空から、聞き慣れたそんな声と一緒に見慣れた女性が降ってきた。

「テメエ!!!」

 大声で叫び、口裂け女は両手を交差させて鉈と手斧の刃で構え、頭上から落ちる踵落としを真っ向から受け止めた。

 バギベギンッ、と粉々になった刃物の欠片が舞い散り、その中で肩甲骨までの髪を適当に後頭部で括った女が口裂け女に素手で数撃叩き込んでアッパーカットで夜の空に思い切り打ち上げた。

 それを見て俺は、安心すると同時に呆れていた。

 踵落としで刃物を破壊し、素手で凶悪な人外を殴り飛ばすこの人が、本当に人間なのだろうかと不思議に思わずにはいられない。

 日向日和さん。

 俺の知ってる人間種では間違いなく最強。人間のはずなのに化物以上に化物やってる人間。

 そんな人が、未だ落下中の口裂け女には目もくれずに俺へ振り返ってにこりと微笑んだ。

「や、お疲れ夕陽。頑張ったね」

「はは…お疲れっす」

 実際この人にはお疲れの『お』の字もないんだろうが、俺はそう返す。

「それ、ちょっと貸してくれるかな?」

 俺が持っていた木刀を指で示すのを見て、すぐさま木刀を投げ渡す。

「んむ、ありがとう」

「ってか日和さん、もしかして初めから見てました?」

 まるで俺が危なくなるのを見計らったかのような場面で割り込んできた感じからすると、どうもそんな気がしてならない。

「君にも経験しておいてもらおうと思ってね。口裂け女…都市伝説最強格の人外の実力を」

 人々から語り継がれてきた、近世代のジャンルである都市伝説。その中でも最古参に当たる口裂け女はやはり相当な力を溜め込んでいるようだ。

 まるで自分の一部のように木刀を棒術さながらに片手で振り回す日和さんは、顔を正面に向けてさらにこう続けた。

「それに、私では奴は出てこなかっただろうからね。多少危なくても、誘き寄せるには君が必要だった。まあ、実際出て来るまでは私も確信があったわけじゃないんだけど」

「…なんで俺を狙って来たんですか?」

 俺は口裂け女とはなんの接点も無い。一度会って闘った日和さんならわかるけど、いきなり俺を標的に定めて襲撃してきた理由がわからない。

「それは直接聞いてみよう。君はここで見てて」

 既に口裂け女は落下してから体勢を立て直し万全の状態に戻っている。ダメージは入っているんだろうが戦闘不能になるほどではなかったか。

「テメエ…またテメエか」

「やあ。まだ傷は痛むかい?」

「おかげサマでなあ!!」

 裂けた恐ろしい口で咆哮し、両手の袖から出刃包丁を抜き出した口裂け女が突撃する。

「テメエ、どこのバケモンだ!その人間臭ェ皮を剥いで正体見せやがれ!!」

「失礼だな、正真正銘人間だよ私は。そんなことよりも」

 二つの閃く刃の軌跡を完全に見切り、木刀すら使わず回避する日和さんが、殺し合いの最中とは思えないほど呑気な声音で問う。

「お前の狙いはなんだ?後ろの彼が接触した人外か?」

 包丁には掠りもせず、軽く持ち上げた右足の底が重く口裂け女の腹に突き刺さる。そのまま連撃で胸部から首へと続けて蹴り飛ばし、サッカーボールのように女が吹っ飛ぶ。

「…なんだ、テメエも知ってんのか。そうだよその人外だ、そこのクソガキからはあのザコの残り香がする。手足バラして、ソイツの居所を聞きてえダケだ、邪魔すんじゃねえよ人間モドキが」

 あれだけ派手に飛んでたのに意外と平気そうだなと思っていたら、二つの出刃包丁の内一本が折れていた。あの一瞬でかろうじてガードに回していたのか。

 やっぱどっちもありえない実力の持ち主だ、ただの人間状態でしかない俺から見るとまるで次元が違う。

「あまり考え無しに口を開くなよ、今すぐ殺されたいのか?」

 口裂け女の言葉の受けて、日和さんの語調が僅かに強くなった。表情からは読み取れないけど少し怒っているように見える。

「ケッ、バラすのに順序は関係ねえ。先にテメエからヤってもイイぜ?」

「そうだね…彼に手を出して私を怒らせてからだと、普通に殺されるよりも辛い死に方になるから。そっちの方がお前としては楽に死ねるだろう。来なよ、程度の低い新参人外。私の知識にも含まれていないような新規の人外如きが勝てる要素は一つもありはしないが」

「ほざけッ!!」

 残り片方の出刃包丁を日和さんの眉間目掛けて投げるが、これを難なく素手で弾く。刃物なんだけどそれ。

 さらに口裂け女はくすんだ赤いコートの内側から草むしりの時に使うような鎌を指の間に四つ、両手で八つ取り出して握る。

 両腕を広げるようにして、一斉にその鎌を放り投げた。

 それぞれが曲線を描いて迫るその先は日和さんではなく、

(俺かよ!)

 回転しながら迫り来るそれを見て、慌てて〝倍加〟を全身に巡らせるが、間に合わない。

 油断していた。日和さんの化物っぷりを呑気に眺めてるからこうなった。気を緩ませていなければとは思うが今更遅い。

 せめて致命傷だけは避けようと、両腕で直撃したら不味い部位を隠すようにする。

 だが、その刃は一つとして俺に届くことはなかった。

 ギャギンと金属の擦れるような音がして、壁や地面に折れて破片になった鎌の残骸が散らばる。

 目の前には木刀を振り抜いた格好の日和さん。俺を守ってくれたのだろうと理解するが、別々の軌道を描いて迫るあの八つの刃を一瞬で全部破壊したのか。迎撃音がほとんど一つに聞こえたんだが…。

「オォラッ!」

 続けて怒声にも似た雄叫びが轟き、口裂け女が大きな石柱を持ち上げてこちらへ投擲してきたのが日和さんの背中越しに見えた。

 投げ飛ばしてきたそれが俺が吹っ飛ばした時に折れた電柱だと気付くと同時に、振り上げた木刀の先が接触した途端に石柱を粉々に砕き割った。

 ざっと見で俺の〝倍加〟七十倍はありそうな一撃だった。

 バラバラになった電柱の欠片と一緒に粉塵も巻き上がり、街灯で照らされた薄暗い夜道をさらに見えづらくする。

(これが狙いか)

 どこから襲われてもいいようにすぐさま中腰で構える。

「…ふうん、思ったより馬鹿ではないか。これが狙いだったんだね」

 しかし俺の予想に反して、いつまで経っても人外が粉塵に乗じて襲い掛かってくることはなかった。そして日和さんのつまらなそうな呟きを聞いて納得する。

 狙いは狙いだが、俺の思うものとは違った。

 夜風に吹かれて粉塵が消え失せても、口裂け女の姿はどこにもなかった。

 目くらましで襲撃する為ではなく、視界を遮断して逃亡する為の策。

「挑発に乗り易そうな感じはしたんだけど、思いの外冷静だったようだね。勝てないから闘わない、闘わないから逃げる。わりと役者な上に無駄に賢いようで腹が立つ」

 初めから逃げるつもりだったのなら、激情任せに見えた行動の数々もただのフリだったってことになる。計算済みでやっていたんなら確かにタチが悪い。

 しかも口裂け女は日和さんではなく俺を狙って来た。わかってたんだ、俺への危害が日和さんにとって看過できないであろうことに。

 俺をバラすという発言に対して見せた日和さんの僅かな怒りを読み取って、そうすれば日和さんは俺を庇って後手に回るであろうと理解した。

 その上で攻撃を行い、粉塵に紛れて追撃するものだと見せかけて全力で逃走した。

 そうなるとあの感情に行動が左右されやすそうな様子も、挑発にキレたのも演技。そのついでで日和さんの弱みを見つけて後手に誘導する手際。

 あの醜悪な見た目と凶悪な性格にばかり意識が向いていたが、それ以前に奴は頭が回る。おそらく日和さんが現れた時点から、いかにして逃げおおせるかの算段を立てていたのだろう。

「帰ろうか」

 電柱の残骸や砕けた凶器の欠片が散らばる道をそのままに、日和さんは俺に木刀を返す。

「いいんですか?」

 受け取った木刀を竹刀袋に入れて紐で縛りながら、歩き始めた日和さんの後ろをついて行く。本当に帰るつもりらしい。

「口裂け女は百メートルを六秒で走るらしい、そこそこ早いよね。別に追えない速度ではないけど、その前に確認しておきたいことがある。それまでは野放しでいいさ」

 それでいいのだろうか。また街の人間が襲われることになるかもしれないのに。

 まあ、日和さんにとっては本当に関係ないことなんだろう。でも、俺はあまり野放しにはしておきたくない。

「奴は手負いだった。やっぱりまだ傷は癒えていなかったね、君と闘っている時も少し動きがぎこちなくなかったかい?」

 言われて、途中で口裂け女の表情が苦悶に歪んだ瞬間があったのを思い出す。

「そんな感じありましたね。結局それでも勝ち目はなかったように思えますが」

「今の君じゃそうかもしれない。本当に勝ちにいくなら幸の力は必須だよ」

 そうだろうな、と心の内で思う。あれはどう考えたって俺個人の力でどうにかできる相手じゃない。それは人外全般に言えたことだが、やはり一介の人間では限度がある。

 日和さんも、明らかに人間離れはしているが本人曰くれっきとした人間らしい。今でも疑わしくなるくらい馬鹿げた実力の持ち主だが、多分日和さんは本当に人間なんだろう。これまで会ってきた人外も、日和さんからは自分達とは違う人間の気配を持っていると言っていた。

 三重能力所持者トリプルホルダーという時点で若干人間の基準を超えてるような気もするが。

 一つは〝千里眼〟の能力。さらにそれを自らアレンジして〝感知〟という能力にも派生させている。

 残りの二つは俺も知らない。一つは予想できてはいるんだが、もう一つは完全皆目見当つかない。

 そもそも日和さんの本気すら見たことがないんだから、『異能』の正体を知るどころの話でもなくなっている。

 どこまでも底の知れない人だ。

「人が集まってくる前にさっさと帰ろう。家に戻ったら君にも話がある」

 あれだけやったら誰かしら見にやって来るだろう。電柱も一本折ったし、この近辺は停電であちこち困ってるだろうな。

 いつもより少しだけ楽し気に見える日和さんが、正面を向いたまま横目で俺をちらと見て、一言。

「話の次第と今後の展開によっては、君も黙ってはいられなくなるかもしれないね」

 これまでの付き合いでわかってはいたが、こういう時の楽しそうな日和さんの表情は、確実に俺を人外絡みの事件に向かわせる。

 死霊騒ぎが解決して安堵し、日和さんが担当している事件だからと安心していた俺は、軽く息をついて覚悟を決めた。

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