第14話 曖昧な存在、稀薄な認識

「どうです家の方は、うまいことやってますかね」

 昼食を終えて女子寮長室を退室した俺は、その足で屋上に向かった。

 本来学校の屋上は生徒は立ち入り禁止で扉も錠が掛けられているんだが、俺はそこを開ける鍵を持っている。

 屋上へ通じる鍵は、多分俺以外にも何人か持ってるはずだ。なんか生徒間の独自ルートでいくつか合鍵が作られて出回っているらしい。俺は友達のツテで偶然にも鍵をもらって、せっかくだからと使わせてもらっている。

 同じように鍵を使って屋上を利用している人もいるはずだが、これまでは会ったことがない。俺が屋上を使う時はいつも誰もいない。

 そうして、俺は屋上で携帯電話片手に風を受けながら通話している。

 相手は我が家の大黒柱、日向日和さんだ。

『んむ、仲良くやってるよ。今は将棋だね、篠が全敗してるけど』

「あー、幸やたら将棋強いですからねえ」

 よかった。どうやら俺の心配は杞憂だったらしい。

『今昼食をとっているところだから、それが終わったらまた続きをするんじゃないかな』

「わかりました、ありがとうございます」

『私は何もしていないよ』

「そっすね、では」

 軽く笑って、通話を切る。

 まあなんだかんだで日和さんも二人の様子はしっかり見ていてくれたみたいだ。それだけでも俺はありがたい。

(さて、午後の授業はなんだったかな)

 午前はずっと反省文作成に費やしていて何をやったかまったく覚えてない。机に座り続けていたから体育は無かったと思う。

 しかし今日も陽光がきつい。刺すように肌をじりじりと焼いてくる。屋上は風が涼しくていいんだけど、代わりに日陰が無いから快晴の時はそれが痛い。

 とはいえまだ午後の授業までは少し時間がある。教室に戻って寝てるのもいいけど、どうしようか。

「……あ?」

 何も考えないままとりあえずの一歩を踏み出した瞬間、強烈な違和感と共に変化を感じた。

 吹いていた風。

 学校全体から聞こえる喧噪。

 肌に痛いほど降り注いでいた陽光の熱。

 それらが一気に消えた。

 唐突に世界が停止した。

「なん…だ」

 あれほど服や髪をなびかせていた風は、今はほんの少しの微風すら感じない。

 空は相変わらず晴れ渡っていて、真上の太陽は何も変わらずその輝きを地上に落としている。なのに肌に触れる熱が無い。

 うだるような暑さも消えていた。

 学校も無人のような静けさだ。さっきまでの、お昼休み特有のはしゃぎ声がまったく聞こえない。

 何が起きた?

 ふと気が付くと、俺は無意識に自分の五感と身体性能を“倍加”で強化していた。

 警戒しているのだ、この状況に。

 普通じゃない。明らかに何かが起きていて、それは人間が引き起こせるものじゃない。

 人外の仕業か、あるいはそれに基づく現象か。


「あ」


「ッ…!!」

 たった一文字の呟き声に、俺は即座に反応して顔を向ける。

 その声の主は、屋上にある貯水槽の上に立っていた。

「…?」

「…あーあー」

 見上げたその相手は、陽炎のようにはっきりとしない輪郭をした顔で唸った。

 声音からして、それが困り顔であるということがどうにかわかった。

 何故か、その表情は俺には理解できなかった。

 藍色の着流しのような出で立ちの、おそらくは男のような相手。

 それは貯水槽の上から俺を見て、また少し唸った。

「うーん…。不味ったな」

「人間じゃないな、アンタ。俺に用か?」

 身構えながら相手に問い掛ける。


 ―――妙だ。おかしい。何か、何かが。


 着流しみたいな姿の男は、俺の言葉に慌てたように手を左右に振った。

「ああ、違う違う。誰もいないポイントを狙ったんだけど、間違えたなこりゃ。ごめんよ少年、巻き込んでしまった」

 そのまま男は両手を胸の前に持ってきて、

「せい」

 その両手をパンと打った。

 瞬間、停止していた全てが戻ってきた。

「うぉっ」

 いきなり風に体を押されて思わずよろめく。風音と校内にいる人達の声や物音、喧噪が一気に俺の耳に入り込んでくる。

 急激に熱が全身を包み、陽射しが肌を焼く。

 真夏の、いつもの世界に戻った。

「ほい、戻ったっと」

「…なにしたんだ?」

 わけもわからず、この現象を起こしたらしいおぼろげな姿形の相手へと質問を重ねる。

 着流しらしき恰好の男は、どうやら笑ったらしい。


 ―――おかしい。なんだこれは。


「少年を元の世界に戻しただけだよ」

「俺を?」

 てっきり相手が周囲に何かおかしな細工をしたのかと思っていたが、違うのか。

 戻ったのは世界ではなく、俺。

 そういうこと、か?

「聞きたいことだらけなんだけど、まだ質問していい?」

「珍しいなあ」

 俺との会話をする気があるのかないのか、相手はおかしな返答をする。

「……」

「あ、ごめんごめん。なんでこんなに会話が長続きするのかなと思ってさ。まあいいよ、珍しいついでにもうちょっと付き合ってあげよう」

 言っていることの意味はわからないが、どうやら話を続けるつもりはあるとみた。

 質問は手早く済ませた方がよさそうだ。よくわからないが、そう感じる。直感的なものがそう言っている。


 ―――あやふやだ。定まらない。認識が。


「俺を元の世界に戻したって、どういう意味だ?」

「そのまんまの意味」

 まるでその質問を予想していたかのような、間髪入れずの即答。

「さっきおかしな空気だっただろ?いつもと違う雰囲気の空間。俺の出現時に周りに人間がいると、そこに巻き込まれるんだよ。まあすぐ俺が元に戻すんだけど」

「どこから来た?」

「ここではない違うところから、としか言い様がない」

「異世界か何かか?」

「世界は同じだよ、異なる世界なんて存在しない。此処はどうあっても此処だ」

「アンタ何者だ?人外だろ」

「人じゃないのは確かだけど、正体を明かしたところで覚えてられないよ、きっと」

「なんで?」

「なんでも」

 俺の心を読んでいるかのように、男はつらつらと台本を読み上げるように答える。

 そろそろ不味い。

 何が不味いのかはわからないが、きっと不味い。


 ―――干渉されている。駄目だ、これは。


(…………………三十倍)

 どうしてかはわからない。

 俺の持つ“干渉”の能力を、三十倍に跳ね上げる。何かの浸食を拒むように、この身を何かから守るように。

「ほう。少年、君もただの人間ではないな。よく耐える」

「俺になにをした」

 おかしな寒気がする。鳥肌が立つ。不自然な違和感に体が震える。

「まだ覚えてる?」

「なにが」

「僕のこと」

「なに、言ってんだアンタは」

 一人称の変わった男は、俺の言葉を聞いて頷いた。

「嬉しいね。まだ認識してくれている。いやいや純粋に嬉しいよ、記憶に留めてくれていることは」

「アンタは……?」

「お礼と言ってはなんだが、これを進呈しよう。もしこのあともまだ君が私を覚えてくれるようなら、それでまた会おう。そしたら儂の、愚痴の一つでも聞いてくれ」

 そうして、ゆらゆらとはっきりしない輪郭の男は、そのまま夏空に溶け込むようにして消えていった。

 何かを言うより早く。まるで初めからいなかったかのように、俺だけが屋上に立っている。

 よくわからない、違和感や寒気のような干渉からも解放されていた。

「……」

 そして、手ぶらだったはずの俺の右手にはいつの間にか何かが握られていた。

「…鈴?」

 小さな、朱色の鈴のようだった。ただいくら揺すってみてもなんの音も出さない。

「なんだこりゃ」

 おそらくはあの発言内容からしてあの男…が俺に渡したものなのだろうとは思うが、これをどうしたらいいのかさっぱりわからない。

(結局なんだったんだあのおと…男?男だったかな、いや女?)

 おかしい。たったさっきまで話していた相手のことがあやふやだ。

(あれ、なんでだ?男だったよな…あの渋い声は、…甲高い女の声だったか?だってあの着流し姿はどう見たって男にしか、あ?本当に着流しだったか…?)

 自分の記憶力の無さが恐ろしくなってきた。マジかよなんにも覚えてねえ。

「………まあ、いいか」

 あの感じからして何か悪さしようってんでもなさそうだし。出会う人外に毎度毎度突っかかってたらキリが無い。

 なんか困ってるなら手伝えることもあるだろうが、そんな感じでもなかった。っていうかもうほとんどあの相手が思い出せない。

(ぼやけてたなあ…はっきりそこにいるって認識できなかった。ノイズ混じりの画面の向こう側と話してるみたいな。いやどうだろう、むしろ現実味の無さか?)

 それすらもうよくわからない。

 もしかすると篠みたいに人の関心や興味を失わせることができる能力系統の人外かもしれない。だとすると“干渉”を展開させてなかったら完全に存在を忘れてたな。

 なんてやってる間に昼休み終了のチャイムが鳴り響く。午後の授業はなんだっけ。

 既になんで手の中にあったのかすら曖昧な朱色の鈴をポケットに突っ込んで、俺は屋上から出て行った。




     ーーーーー


(……ほんの僅かな時間だけど、今この空間に出現していたか。何者だ?固定されていた存在を剥がして別の何処かへ飛んだ…や、違う。私も認識を誤魔化されているな、やたら強い干渉力だ)


『え、と…これでしょうか』

『……っ』

『やった、揃いました。これで上がりです』

『………』

『お嬢様、将棋は強いのにチェスは弱くて、花札は強いのにトランプは弱いんですね』

『…っ(ぐすっ)』

『いやっ、あの!いいと思いますよわたしはっ。東洋伝来の座敷童子が西洋にまで通じてるのは辻褄が合いませんし!』


(ま、今のところ私には関係の無い話だ。夕陽に手を出すわけでもなさそうだし、わざわざ手ずから殺す必要も無い。ってかそんなことしたら夕陽に怒られる)


『ほ、ほらお嬢様!次は囲碁しましょう。わたしも存在の出自が東洋である以上、わりと負けられないですので』

『…(こくん)』

『では先手はお嬢様、どうぞ』


(しかしくだんの口裂け女の狙いが未だに掴めない。人間を襲って発生する感情や認識から自身の存在を強化しようとしている、わけでもないみたいだし。うーむ)


『ううん……難しいところですね……』

『……(ぴっ)』

『え、十?考えるの十秒までってことですか?ちょ、ちょっと待ってください…!』


(めんどくさい、もういいや。とりあえず洗い物をして、本の続きを読んで、夕陽の帰るまでこの子らの面倒を見よう。彼の大事な戦力だからね)




     ーーーーー

「やほー夕陽くん~」

 午後の授業もつつがなく終わり、学生鞄を担いで帰ろうという時になって一人の女生徒に呼び止められた。

「なんだよ胡桃、もう帰るんだけど」

 茶髪のロングに、目元が隠れるほど長い前髪。

 須藤胡桃くるみが、口元と口調だけでそれとわかる上機嫌で俺に声を掛けてきた。

「どこかへ行きませんか~」

「どこへだよ、図書館とかか?」

 胡桃は日和さんと同じで本を読むのが好きだから、よく図書館に立ち寄っているのは知ってる。俺は日和さんから借りる本以外はあまり読まないから滅多に行かないけど。

 俺の言葉に胡桃は前髪を揺らして、

「ううん、外に遊びに行かないってこと~」

「お前、先生の話聞いてなかったのか?」

 終礼の際、閃奈さんが言っていた通りに教師から通り魔の話とそれに伴う部活動の休止の旨が伝えられた。

 そうでなくとも俺は基本的に学校から自宅へ直帰がほとんどだから関係ないとほぼ聞き流していたが。

「もちろん聞いてたよ~。でも明るい内なら問題ないんじゃないかなってね~、人通りも多いところなら大丈夫だろうし~」

「だとして、どこ行くつもりだよ」

「カラオケでどうでしょ~?」

 インドア派の胡桃にしては珍しいことだ。もっとも、胡桃とカラオケってのは別に初めてのことでもないからさして意外でもない。

「はいはいはーいっ!行くよ行く行くー!」

 うるさいのが聞きつけてやってきた。

「おいおい……口裂け女が出てるってのに呑気過ぎんだろ……行くなら暗くなる前に行こうぜ」

 秀翠まで話を聞いて乗ってきた。

「いやお前はおかしいだろ…怖いのになんで外出たがるんだ」

「俺は怖いことに怖気づいて友情を蔑ろにするような人間になりたくないんだ」

 誘ってもいないのに友情とか超図々しいな。単純に遊びたいだけだろ。

「じゃあ、四人で行きましょうか~」

「おー!」

「最近行ってなかったからなあ、あの曲入ったかな」

 この三人はもう完全に行く気らしいが、

「俺は今日無理だ、すぐに帰らないといけない」

「え~?」

「なんだとー、許すまじ日向夕陽!」

「おい俺との友情を蔑ろにするつもりかこの音痴!」

 一斉に非難の目で見られる。

「仕方ねえだろ、用事があるんだ。あとお前にだけは音痴とか言われたくない」

 鞄を背負い直して三人を見回す。

「おとなしくお前らも帰っとけよ。例の口裂け女、本物じゃなかったとしても通り魔と遭遇したら不味いんだから」

 玲奈と胡桃は俺のやってることの大半を知っているからいいが、秀翠がいる手前あまりはっきりと人外が跋扈している話はできない。

「大丈夫だいじょーぶ!危なくなったらゆーくんが助けてくれるもんねっ!」

「そうならない為に帰れっつってんだけど?」

「仕方ないね~。じゃあ夕陽くんが無事に解決してくれるまで待とうか~」

「そうだな、頑張れ夕陽」

 なんでか俺が口裂け女の騒ぎをどうにかする流れになっている。まあ実際は日和さんが動いてるわけだから俺よりも確実だし、近い内に収束する話だろう。

「んじゃ、そういうわけで解散。あと秀翠は今度俺に飯奢れよ」

 まだ死霊騒ぎで解決させた秀翠の問題のお礼をもらっていない。きちんと奢ってもらうまで俺は絶対に忘れんぞ。




     ーーーーー

 家に帰ると、やたらリアルな清水寺がまず一番に目に入った。

「なんだこれ…」

 居間に鎮座するそれをよくよく見てみると、どうやら小さな部品で組み上げられた一品らしい。さらによく目を凝らしてみるとそれが積み木であることがわかった。

「…」

 俺が呆気にとられていると、幸が小さな両手を腰に回して抱き着いてきた。いつもの、この子なりの『おかえり』だ。

「あ、ああ…ただいま」

「おかえりなさいませ、主様」

「おかえり」

 次いで篠、日和さんにも帰宅の挨拶を交わして、俺は幸を抱き上げる。

「すげえなこれ、幸が作ったのか?」

「……(ふるふる)」

 首を振るって、幸は篠を指さした。

「一緒に作ったのか、篠と」

「はい、お嬢様のお手伝いをさせて頂きました」

 だと思った。幸一人でここまでとんでもない大作を作ったのは見たことがない。 二人の少女がやったことだとしても信じ難いが…。

「片づけるのもったいないな、しばらく飾っておこうか」

 幸い、ミニチュアの清水寺は居間の隅に建造されていたし、あのままでもたいして邪魔にはならないだろうと思う。

「すごいぞ幸、俺びっくりしたわ」

 嘘偽りなく本音で褒めると、幸は得意げに胸を張った。

「篠も、ありがとな。幸と遊んでくれて」

 言って篠の頭も軽く撫でる。

「いえ、主様の命令でしたし。それに、わたしも楽しかったですから」

 それなら良かった。一応日和さんからは聞いていたが、二人はちゃんと仲良くしててくれていたようで安心する。

「日和さんもありがとうございます」

「んむ、電話でも言ったことだけど私は何もしてないから気にしなさんな」

 そうは言うが、一人増えたことで日和さんが作る食事も一人分増えているのだ。同じメニューなら一人分増えても手間はそんな変わらないのかもしれないが、少なからず負担は掛かっているはず。

 やはり感謝せずにはいられない。

「それで、結局口裂け女は動かなかったんですか」

 俺が朝出てから帰ってくるまで日和さんはずっと家にいたようだし、そうなると仕事の対象である口裂け女は行動を起こさなかったのだろう。

「やはり学校でも噂は上がっていたみたいだね」

 俺の口から初めてその言葉を聞いて、日和さんは軽く頷く。

「はい、わりと広まってましたよ。こっちでは口裂け女を模した通り魔ってことになってましたけど」

「そうか、なるほど。まあその方が話は自然に通るね」

「あと口裂け女を目撃したっていう人が、襲われた時に自分を助けてくれた謎の女性がいたことも話になってました」

「あー…そう」

 面倒そうに頭を掻いた様子を見て確信する。

「日和さんですよね」

「そうだろうね、助けたつもりはないんだけど相手はそう感じたらしい」

 相変わらず、この人は自分に関係のない相手のことは眼中にも興味も無いらしい。それは人であっても人外であっても変わらない。

「ちょうど、君がふん投げたあれを回収する時にね」

 死霊との戦いで木刀を投擲した時、その木刀はそのまま夜空の彼方まですっ飛ばしてしまった。

 それを取りに外出して、一般人が口裂け女に襲われかけていたタイミングで割り込んで深手を負わせたということか。

「今夜は出ないですかね」

 いくら人外とはいえども、深い傷はそんな短時間では治らないだろう。それこそ閃奈さんの持つ“治癒”や篠のような強靭丈夫な鬼の体質でもない限りは。

 しかし日和さんは微妙な表情で目を細めて、

「いや、どうだろうね。狙いがよくわからないし。焦っているのかはわからないが、悠長に構えているわけではなさそうだ。もし動けるようなら早いと今夜にでもまた動き出すかもしれない」

「マジすか」

 カラオケ行かなくて正解だったな。他の三人もおとなしく寮なり自宅なりに帰っていればいいんだが。

「…主様」

「ん?」

 それまで黙って俺と日和さんの会話を聞いていた篠が、おもむろに口を開く。

「その相手、主様は関わるおつもりなんでしょうか。あの祓魔師のように」

 やめた方がいい、そう言いたげな表情で篠は俺を上目遣いで見る。

「いや、俺は多分関わらないよ。この件は日和さんが担当してるから」

 厳密には俺には任せられないという話なんだが、情けないからそこら辺は黙っておく。相手は俺だと殺されかねない程度の強さを備えているらしいからな。

「そう、ですか。なら良かったです」

 ほっと胸を撫で下ろす篠の様子を見て、俺はふと思ったことを問うてみる。

「お前、もしかして知ってるのか?口裂け女のこと」

 すると篠は曖昧な感じでゆっくりと首を左右に振るい、

「…その相手が口裂け、女?とかいうのだとは知らなかったです。ただ、あの祓魔師が厄介がっていたのは知っていたので」

 そういえば、祓魔師と口裂け女はほとんど同時期にこの街へ現れたんだったか。紅葉くれはが『魔族』と遜色ないほどに強烈な悪意と敵意を持った人外って言ってたくらいだし、やはりあの男もその存在を邪魔に思っていたのか。

「主様」

 そんなことを考えていると、篠が俺の右手を持ち上げて両手で握ってきた。

「なんだ、いきなりどうしたよ篠。握手か?」

「…主様。なるべく危険なことは避けてください。もしどうしてもというのなら、その時はわたしを使ってください」

「……なんの話だ?」

 幸よりは高いが、それでも俺から見れば充分に低い中学生のような背格好の少女は、真摯な瞳で俺を見つめる。

「日和様から聞きました。主様は人と人以外の両方の立場に立ち、双方が双方から起こり得る騒ぎや荒事に率先して身を投ずる、と。わたしのことも、そうやって関わった結果なのでしょう?」

「別に率先してとか、そういうつもりではないんだけどな」

 ただ、俺は俺の出来る範囲でやれることをしたい。それだけで俺は動いている。

俺が多少無茶をするだけで助けられる者や救えるものがあるのなら、俺は確かに率先して無茶をするだろう。でも別に死にたがっているわけでもないし、多分篠が思っているような、危険な思想を持っているわけでもない…と思う。

「大丈夫だよ俺は」

「でも…わたしの時だって主様は死にかけてました。貴方がそんな目に遭うのは、おかしいです。人外の為に命を張れる人間あなたは素晴らしい人だとは思います。だから尚更、そんな…命を危険に晒すのなら、その前にわたしを使ってほしいんです」

「……」

 左手に微かな圧力を感じる。見下ろすと、そこには幸が篠と同じように俺の左手を両手で包み込んで見上げていた。

「わたしは貴方のものです、主様。もっと、貴方の好きに使ってください」

「…(こくん)」

 その宣言に同調するように、幸も大きく頷いた。

 ……どうしてこう、俺が助ける人外は皆こうなんだろうか。

 ここにはいない犬娘のことも含め、俺はわからないように静かに吐息と溜息を混ぜる。

 視線を上げれば、本を持ち上げたままページには目を向けずにこちらをにまにまと満足げな笑顔で見ている日和さんがいた。

 あの人が何か吹き込んだか。

 幸は違うとしても、篠はおそらくそうだろう。まったく余計なことをしてくれる。

 嬉しいことは、もちろん嬉しい。

 人であるとか違うとか、そういうのを抜きにして好かれているというのはとても嬉しい。

 だが、好いてくれるのと自己を犠牲にしてまで気遣われるのとではまた違う。

 そんなことをさせる為に、俺は命懸けで人外を助けてきたわけじゃないんだから。

「気持ちは充分に嬉しいよ。現に、俺は幸の力を借りなきゃこれまでやってこれてないし、きっと今後もこういうことを続けていけば篠の力が必要になる時も来るだろう」

 子供に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「でもな、お前らはお前らなんだよ。俺の駒じゃない。もっと自分を大事にしてくれ、嫌なことは嫌だって言ってくれ。俺に死ねと言われたからって喜んで死ぬような、そんなのはやめてくれ」

 篠に対しては強制力の無い命令のつもりで、幸に対しては娘に対してものを教えるように。

 今一度、はっきりとここで告げておく。

 俺と彼女らの関係性を。

 しっかり認識させる。俺の言いなりの駒なんかじゃ決してないことをわからせる。俺なんかに恭順することなんてない、隷属することなんてない。

「主、さま…」

「…」

 俺の話を聞いて、二人の少女はしばし黙っていた。

 わかってくれたか。

 確かな手応えを感じ、心の中でガッツポーズをとる。

 やがてほうと息をついた篠が、呟くように一言。

「………やっぱり、すごい」

 ぽつりと、そう言った。

 うん?

 あれ、その反応は少しおかしくないか?

「篠?」

「はいっ。主様のお言葉、しかとこの胸に刻み込みました!この命尽きるまで、貴方様の為に」

「いやいや待てや!俺の言ったこと理解したか!?」

 わかってたらそんな発言飛び出してこないんじゃないかな!?

「もちろんです。わたしはわたしの思うままに、主様の為に生きます。貴方の為にこの命を使います。無意味に死すようなことは、絶対にしません」

「あ、うん…」

 えぇ、これ本当にわかってる?なんか結構なこと言ってんだけど。

 でも無意味に死ぬことはないって言ってるし、これはこれでいいのか。まあ俺に仕えるのは既に篠の意思に任せて自由ってことにしてるわけだから、その上でそう簡単に死なないことを明言してるのは俺の言ったことを理解してるってことでいいのか。

 いいのか?

「……」

 ぎゅっと左手を握る幸は、キラキラした瞳で俺を見ていた。

 なにその尊敬の眼差しは。俺そんな大層なこと言ったつもりないよ?

 『やべー、下僕にそこまで思いやりを持てるパイセンまじべーっすわマジで!』みたいな顔で俺を見てる幸も、きっときちんと俺の話を理解してはいないんだろう。

「ぷっ、くく……っ!」

 必死に堪えている小さな笑い声に顔を向ければ、読みかけの本で顔を隠している日和さんがいた。肩が小刻みに震えている。

 くっそう、俺は大真面目に言ったのにその意思はおかしな具合に曲げられて伝わり、日和さんには笑われる始末。どうしてこうなった。

 …いいか、もう。とりあえず。

 きちんと伝わっていなくとも、いくらか言いたいことは分かっただろうし。それにこれは俺がしっかりしてれば済む話なんだ。この子らにそんな話を偉そうに言う前に、俺は俺でやることがたくさんある。

 日和さんにしてみれば、俺はまだまだ半人前だからな。そういう自覚ももちろんある。

 この話は、幸や篠がまた自分を蔑ろにした言動や行動を取ったとき、あるいは俺が一人前と日和さんに認められた時にでも、またするとしよう。

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