第10話 “完全憑依”
『そのお札ね、かなり性能は良いみたいだけど今回は相手が悪い。多分これから行く拠点にはいくら近づいても反応しないと思うよ』
家を出る前、紅葉のお札を見て日和さんがそう言った。
『あの鬼性種が結界を張ってる。視覚的にも映らないし、誰も気に留めない特殊なやつだね。たとえそこで爆発が起きたとしても、それを見て関心を示さない。極端に人の興味を五感からも常識からも切り離す一種の術式だ』
その結界内では悪魔が会合を開いていたって気配を外に漏らさない。当然、それを感じ取り示すお札の効力も引っ掛からないとのこと。
とんだチート能力持ちだったらしい、あの鬼の子。
しかも、拠点は意外と近場にあった。
俺達の住んでいる家があるのは住宅街の端っこで、他の家もぽつぽつとしか建っていないような場所だ。
そこからさらに住宅街を構築している範囲の外周を沿うようにしばらく歩くと、使われなくなった工場やら廃屋なんかがまばらに見える場所に出る。
その内の一つに祓魔の男と鬼の子はいると日和さんは言っていた。
ってかこんなところあったのか、全然知らなかった。
家から学校行く以外だと買い物に出たりちょっと散歩したりする程度しか外出しないから、必要最低限の地理とルートしか頭に無かった。
あれ、もしかして俺って結構引きこもりか?
「これからはもっと頻繁に外出て歩くか…」
自分の暮らしてる街なのにこの程度の理解しかないのは流石に不味い。
「…っ」
何気なくそう呟いたのを聞いた幸が、慌てたように俺の腕にしがみ付いてくる。
「ん、どした幸…あっ」
言った瞬間気付いた。
幸は基本的に家から出ない。出るとしても人の少ない場所を選ぶし、そもそも外出する理由が幸にはほとんど無い。
俺と一緒なら大体どこでも付いてこようとするが、たとえ見えていなくても人が多い店の中では幸は居心地を悪そうにする。
人見知りだからな、俺と一緒で。
だから、できることなら家の中に居たいのだろう。さらに、出来ることなら俺と一緒がいいのだ。家の中で。
遊んでくれる相手がいないとつまんないし、退屈だ。…日和さんがいてもどうせ読書しかしてないんだろうし。
「そうだな、やっぱ家が一番だよな。うんうん、これまで通り、学校終わったらすぐ家帰ってゴロゴロしよう。な、幸。一緒に花札でもしよう。それとも将棋か」
「…っ(こくん)」
途端に嬉しそうに頷く幸に同じように頷いてみせて、俺は立ち止まる。
「ここ…かな?」
外壁は剥がれ、鉄骨は剥き出し。
真夏なのに寒々しさを感じさせる無機質な灰色と、錆臭さが容易に想像できる赤茶色。
割れた窓から空っぽの内側が少し見える。
ザ・廃屋って感じ。
まあ大きさからして多分廃工場なんでしょうけど。
二階半相当の高さに、そこそこな奥行き。歪んだシャッターはきっちり閉まってる。
嫌だなあ、これ。すげえ埃っぽそう。
中入ったら呼吸した瞬間に喉痛めるんじゃない?ってレベルに汚い。どんだけ放置されてきたんだよ。
なんか建物自体が斜めに傾いでるように見えるし。倒壊待った無し。
あと人気が無い。気配も無い。無い無い尽くしだ。
(確かに、一見するとなんにもないように見えるな。これが視覚的に見えないってことか)
ついでに、何も聞こえないし感じない。外に漏れる情報はオールシャットアウトって話だったが本当みたいだ。
まあ、ここが本当にヤツのいる場所かどうかもまだわからんが。
「あー幸、ごめん。ちょっと嫌かもしれないけど我慢しててくれな」
考えながら、俺は持っていた黒い木刀を竹刀袋から取り出す。
幸が顔をしかめる。人外からするとあまりよくないモノらしいけど、仕方ない。
『着いたら、あまり近づかないようにしてね。結界の範囲に捕まると強引に興味を失くされるから』
(なんとまあ、厄介な)
結界内の状況や情報が五感に作用しない上、近寄り過ぎるとその場所に対する興味や関心そのものが消え失せる。このまま行くといつの間にやら興味が無くなってそのまま小首を傾げて直帰コースだ。
そうならない為には。
『それを使えば、結界を打ち壊すくらいなら可能なはずだよ。ある程度離れて、君の目をよーく凝らしてごらん。結界そのものは見えなくとも、線引きくらいは見える。見えたら壊す、これだけさ』
(“倍加”した“干渉”を視覚に集中、全振りだ)
眼球がカッと熱くなる。眼鏡してたら完全にカットイン入ってたな。
目の奥からズキズキと痛みが来る。
もう少しだ、もう少し…。
両目を見開いて廃工場の手前辺りを凝視する。
―――見えた。
工場を囲っている、妙な空気の滞りのようなものが。ほんの僅かだが、見えない壁のようなものが。
木刀を両手で握り、走る。
「っせい!」
右から左へ、真横に一線。ズバッと何もない空間でこれまた妙な手応えが返ってきた。
それと同時に廃工場を覆っていた何かが消失するのを感じる。
(…、臭いな)
結界の破壊に成功すると、廃工場からとんでもない異臭がしてきた。離れていてもわかるほどだ。
「…」
くいくいとシャツの裾を引っ張られる。
俺を見上げる幸が、持っていたお札を持ち上げる。魔の気配に反応して黒く染まるお札は、結界の破壊と同時に真っ黒に変色していた。
「当たりか。行こう、幸」
お札を受け取って、工場に向かう。
脚力を五倍に設定し、錆ついたシャッターを蹴破る。
工場の内側に押し込められていた悪臭が、一気に押し寄せてくる。
「うっ、酷い臭いだな」
「…、っ」
思わず鼻をつまむ。幸も着物の袖で鼻を覆っていた。
むせるような血の臭い、肉が腐ったような臭い。
それが工場内に充満していた。
(人の、死の臭い…)
間違いなくそれだった。
工場の至る所に返り血の跡が黒く染み付いている。床にはグチャグチャの何か。おそらくは肉。肉だったモノ。
薄汚れた白っぽい棒状のものもあちらこちらに落ちていた。骨だろうと思うが、確認してみようとも思わなかった。
殺された者達。死霊の材料にされた人間。その成れの果て。
死霊は強く憎しみを抱いて死んだ者からでなければ出現しない。強い憎しみ、憎悪を引き出すには、痛みを与え続けるのが一番簡単だ。だから拷問を行った。
死んでも死に切れないほどのことをされてきたのだ、きっと五体満足ではないのだろうとは思っていた。
思ってはいたが、これは予想を上回った。
きちんと『人間』の形を残している死体を見つける方が難しい。
不意に、日和さんが作ってくれるハンバーグを思い出した。肉をミンチにしていた光景が脳裏に蘇る。
あれだ。
アレによく似たものが散らばって、足の踏み場にすら困る。
「…っ!っ…」
「幸。目ぇ閉じて、鼻を押さえてろ。口で息をして、何も考えるな。俺が呼んだらすぐに力を貸してくれ」
小さな両手を口元に当てて僅かに震えている幸の頭を撫でながら、それだけ指示する。
やっぱり連れて来るべきじゃなかったか。俺の考えが甘かった。
まさかここまで酷い惨状だなんて。
幸を破壊したシャッターの傍に待機させて、俺は一歩足を前に出す。
泥のぬかるみを踏み抜いたような嫌な感覚が足の裏から伝ってきた。
「テメエは…やっぱり殺すのが妥当か。こんなん見せられて、もう同じ人間だとは思えねえ」
「一体…一体なんなんだ。なんなんだお前らは。なんなんだあの女はっ!」
叫んだ声の主は、工場の一番奥にいた。
昨日見たあの余裕ぶった表情とは一変して見えた。かなり焦燥しているようだ。
厚手の僧衣に身を包んだ、白髪混じりの中年男は、壁に向いていた体を反転させてこちらを向いた。壁には、両手を釘で打たれて
猿轡をされている男の口からは荒い呼気が漏れ、白目を剥いて見開いた瞳が狂気を感じさせる。
生きてはいるが、手遅れかもしれない。
「なんなんだなんなんだ…!!あの女は…私が時間を掛けて作った自慢の死霊を、一瞬?馬鹿な、あの二体を一瞬で滅ぼすなどッ…!」
男は、祓魔師の男はブツブツと呟いている。
二体の死霊。あの女。
たぶんだが、昨夜日和さんが木刀を回収しに行った時に滅したらしい、俺が半殺しにされた焼殺と殴殺の死霊のことだろう。
男にとってはかなりショックだったようだ。俺には興味無いが。
また一歩進む。
「人間の成せることじゃない、あの女は人間じゃない!!」
「テメエが言えたことか、外道が」
適当に答えつつ、さらに周囲を見回す。
少し離れた壁際に、虚ろな瞳で体を寄り掛からせた少女がいた。首には群青色の首輪。全身傷だらけで、ろくに手当てもしなかったような生傷、痣で痛々しく染まる肌は、乾いた血で固まっていた。
俺を逃がしたあと、また男に酷い乱暴をされたらしい。…暴力だけで済んでいるようなのが、まだ救いだろうか。
体の傷なら治るが、心の傷ならどうしようもないからな。
「そこで釘付けにされている人を離して、鬼の子を解放しろ」
端的にそれだけ言って、木刀を握る手に力を込める。
とりあえず口には出したが、期待なんて少しもしていない。
「…あの女は、いないのか」
「ああ」
「なら、まだどうにでもなるか!」
祓魔師がそう叫ぶと、工場の壁を突き抜けて俺の両側から死霊が二体挟み込んできた。
「三十倍」
呟いて、両手で木刀を構える。
右側の斬撃を上半身を倒して避け、次いで頭上から迫る圧力から一歩で脱出する。
(斬殺と圧殺の死霊か。でも弱いな)
動きも鈍重だ。右にいた斬殺の死霊が次の攻撃を放つ前に木刀を真横に薙いで上下真っ二つにする。
「フッ、フーッ!ぁア、アァアガ、ガがッガアアあああぁアアァァァアァあアアアアア!!!」
「このガキならまだどうにでもなる。最大の脅威はあの女!コイツさえ完成させればまだ手はある。あるはずだ…!!」
「…?」
磔にされた男が正気を失ったような奇声をあげている。
祓魔師が何かしているな。
止めるべくして、まずは目の前の圧殺の死霊を片付けようとした時、横合いからいきなり強烈な鋭い刺突のような衝撃が襲い掛かった。
ギリギリ木刀の腹で受け止めたが、足が踏ん張れずにそのまま吹っ飛ばされた。 靴底を地面に押し付けて、幸の目の前まで来てどうにか止まる。
(刺殺か。しかもまだ出てきやがる)
どうにも、まだ死霊のストックはあったらしい。祓魔師の前に、たった今攻撃してきた刺殺の死霊の他にさらに二つ影が出現する。
「おい、その人になにをした。今すぐやめろ」
「ハッ、その程度の死霊にてこずっているガキ一人が。口だけは
「そうだな。―――幸!」
「っ!」
計四体になった死霊を前に、俺は背後でずっと様子を見ていた少女に呼びかける。
「頼む、力を貸してくれ!お前が必要だ!」
「…(こくん)」
力強く頷く気配がして、後ろから和服の少女が抱き着くようにして密着する。
その直後、全身が淡く光った幸が、その存在ごと俺の身体に入り込んできた。
俺という人間に何か違う異物が混じり込んでくる感覚。ただこれは拒むものではなく、受け入れるもの。そうわかっていれば、この感覚もさほど嫌ではない。
内側で、人間種としての本質がザワザワと力の流入に騒ぎ立てる。
つま先から頭のてっぺんまでが、一瞬にして混ざった何かを受け入れて再構築されていく。俺の頭髪が、元々の黒からさらに黒ずむ。雑な手入れしかしていない髪質が、綺麗に光を照り返す。光沢を得る。いつも俺が梳いている、あの子の髪のように。
完全に混じっても、完全に受け入れても、どこかしらに名残りは残る。俺と幸の場合は、この髪がその『名残り』だ。
「…!?なんだ、お前。それは、なんだ!?」
怪訝そうな祓魔師の言葉を聞きながら、俺は迫る死霊を前に片手で木刀を握り直す。
「七十倍」
ブンッ!!と一振り。それだけで死霊一体と、その数メートル後ろにいた死霊を纏めて両断する。
(力み過ぎたな、あの程度ならもっと軽くていい。幸、具合はどうだ?)
“…(こくん)”
胸の内で呟いた言葉に、応じる少女の感覚。
目で見なくとも、耳で聞かなくともわかる。
五感に頼らずとも、今の状態なら互いのことは大抵わかる。そういう状態だからだ。
(木刀はお前にとっては辛いだろうが、ちょっとだけ我慢しててくれ)
“…っ”
快諾してくれたことを理解する。
「七十倍でも体は無事か。やっぱ耐久自体が上がってるからだな」
俺一人で使う“倍加”よりも出力限界が段違いだ。これならいける。
「昨夜、手を抜いていたわけではないはず…だがその力は」
忌々しげに俺を睨む祓魔師がはっとした表情に変わる。
「そうかそれは!使えない小娘を連れてきて何をふざけているのかと思えば、なるほどあの小娘、概念種の人外か!それは“憑依”の恩恵か!!」
「まあな。正確には“完全憑依”だが」
概念種は、憑り付いた対象に自らの力を貸し与える能力がある。これを“憑依”と呼ぶ。俺が普段から幸に“幸運”の力を分けてもらっているのもこの能力があるからだ。
そして“完全憑依”は、その名の通り、完全なる“憑依”。
一部ではなく、全部。
貸し与えるのではなく、借り受ける。
今は幸の存在全てが人間種である俺の器の中に在る。
「馬鹿が!“完全憑依”など、ただの人間種程度に出来るはずがない!!器が足らんからな!仮に出来たとして、人間としての原型を保てるわけがない!その身、犠牲にしてまで私に挑むか!!」
「犠牲にするつもりはねえよ。それにお前の言ってること、間違ってるか、あるいは俺には該当しないぞ」
さらに迫る二体の死霊の動きを読み取って、無駄なく二撃で討ち取る。この破魔の木刀は威力が高すぎてこのレベルの死霊なら豆腐を叩いているくらいの手応えしかない。
「うん、いい調子だ。馴染んでる。幸、調整は大丈夫か?」
“…(こくり)”
俺と幸がこうして一つになっている間は、幸には『調整』をお願いしている。二つが一つにならないように、加減を考える作業だ。
個人的な認識だが、これはコーヒーと牛乳をコーヒー牛乳にしない為の作業だ。
“完全憑依”は一つの器に異なる二つの本質を混ぜる行為だ。
ただし完全に混ざってしまってはいけない。元に戻れなくなるからだ。
同じ器の中にありながら、二つが二つとして存在し続けなければならない。
コーヒーはコーヒーで、牛乳は牛乳で。
でも力を借りる以上、混ぜなければならないのも必定。でも、それは全体の中でもほんの一滴、二滴くらいでいい。
その加減をうまく調整するのが、幸の役割だ。かなり神経を使うようだから、この状態を長時間続けるのはあまり好ましくないが。
これで俺と幸の“完全憑依”は成り立っている。
使うのは久しぶりだが、うまくいったようでなによりだ。
「あり、えない…」
俺の様子を見て、祓魔師の男は愕然としていた。
「なんだ、どうなってる。何故お前は人の身で人ならぬ存在を受け入れられる!?あの女といいお前といい、人の皮を被っただけの化物か!!」
「失礼な野郎だな。テメエの物差しで勝手に化物扱いすんな。俺からすりゃ、テメエの方がよっぽど化物だ」
まあ、それでも確かに今の俺は、完全な人間種からは少し外れている。
化物と呼ばれるほどではないが、多少は人間離れしている状態だ。
概念種を内包することで発生する、人間種としての本質強化。“完全憑依”の効力だ。
その幸と一時的な融合とも呼べる“完全憑依”を行う。
結果として四つの種族構成が一つの器に混ざることになり、当然その器の主である俺も、ただの人間種という枠組みからは外れる。
肉体の強度と耐久性が大幅に上がったこの体で、もはや“倍加”の五十倍程度はなんの苦にもならない。どこまでいけるか試したことはないが、並の人外であれば真っ向から相手にしても充分に戦える。
これが切り札、これが本気、これが全力。
俺一人の力ではなく、俺以外にも負担が掛かり、俺自身では調節も調整もできない。
小さな少女に制御を任せた、最低な方法。
“…(ふるふる)”
俺の心中を読み取ったのか、視界に映らない幸が俺の考えを否定するように首を左右に振るうのを“完全憑依”で得た共有感覚で認識する。
(ああ、悪い。ありがとな幸、すぐ終わらせるからもうちょっと頑張ってくれ)
任せて、と言外に意思を示す幸に頷いて、俺は漆黒の木刀を強く握る。この木刀から放たれる破魔の威圧、今の俺なら嫌というほどわかる。純粋な人間種だった時に持っていた時とは違って、握る手がビリビリと痛む。人外全般への特効があるというのは本当らしい。
「ちぃっ!」
祓魔師の両脇からさらに二体の死霊が現れ、同時に奴は虚空から群青色の鎖を出現させた。それを右手で掴み、勢いよく引く。
鎖の末端がどんどん伸びていき、それは力なく座り込み壁に体を預けていた鬼の子の首輪へと連結された。
「立て、顔を上げろ。私の敵だ、貴様の敵だ!全力で殺せ…!」
「……」
首輪に繋がれた鎖に引き摺られるようにして、虚ろな瞳の鬼の子がゆらりと立ち上がり俺を視界の中央に定める。
自我が喪失している。操られているな。
あの全身の傷で満足に動けるのだろうか。いや、動かすのだろう。あの強制契約の効力で、あの子は痛みも苦しみも抱えたまま強引に命令通りに戦わされる。
「行け」
祓魔師の男の言葉で、鬼の子はその小柄な体からは予想もできないほどの速度で迫ってきた。
(速ぇ!)
小さな体躯が一瞬沈み、素早く足払いを仕掛けてくる。下がろうとしたが、判断が遅れた。半歩下がった段階で足を片方掬われ、体勢を崩した俺の腹へと五指を揃えて立てた右手を突き入れてくる。
どういうわけか急速に伸びて鋭利に尖った爪を備えた右手の突きをかろうじて身を捻って躱す。ギリギリで足払いを避けられた右足の脚力を四十倍に設定し、足先のみの踏み込みで真横に跳び退く。
「そんなボロボロの体で、動き回るんじゃねえよ馬鹿がっ」
傷が開くのも構わず、鬼の子は俊敏な動きを維持して再度襲い掛かってくる。
(どうする…?木刀は駄目だ、あんな傷だらけの体に一発だって叩き込んだら死ぬかもしれない。だが素手で抑え込もうにもっ)
こうも両手の爪と足捌きで暴れ回られては、徒手で相手するのも骨が折れる。
回避と受け流しでどうにかなってはいるが、やはり攻勢に転じるのは難しい。相手を殺すつもりでやるのなら、いくらでもやりようがあるのだが。
「…!?」
どうやってこの鬼の少女を止めようかと考えていた時、不意に俺と鬼の子との間の僅かな空間から妙な揺らめきを感じ取った。瞬間的に嫌な予感に襲われた俺は、鬼の子の体にタックルするようにして少女ごとその揺らめきから離れた。
その次の瞬間、
ドバンッ!!
「がっ!」
すぐ背後から強烈な爆発が発生し、それに押されて地面に叩きつけられた。
「ふん、仕留め損ねたか。おい鬼、早くそのガキの動きを止めろ」
耳障りな声に顔を向けると、祓魔師の隣にいる一体の死霊が、その腕にあたる黒い影をこちらへ向けた。直後に鼻先と胸の辺りにさっきと同じような空間の揺らめきが起きる。
(不味い!)
慌てて真後ろに跳ぶと、何もない眼前の空間がいきなり爆ぜる。
両手で顔を覆いながら爆風に身を任せて後方に下がる。
「…、テメエ」
「いい顔だね。何かあったかい?」
「屑が」
爆殺の死霊。ありえなくはないだろうが、正気の沙汰ではない。なんらかの爆薬を使って、おそらくは四肢を爆散させながら長く拷問を続けた結果生み出された死霊だ。あの空間の揺らめきは、死霊が爆発を起こす直前の兆候。
俺を鬼の子ごと爆殺する魂胆か。わかってはいたがとんでもない腐れ外道だ。
爆殺の死霊とは別に、もう一体の死霊が背後に回り込んでくる。正面では起き上がった鬼の子が俺を見据える。
どちらか片方にでも押さえ込まれたら爆発で巻き添えにされる。死霊ならまだいいが、鬼の子にそれをさせるわけにはいかない。
ほとんど同時に、前後から鬼の子と死霊が勢いをつけて突っ込んでくる。さらに鼻の頭あたりから空間の揺らめき。
来る。
しゃがんで爆発をやり過ごし、そのまま片足を振り回して鬼の子の足を狙う。足払いのお返しだ。
だがそれを鬼の子は軽く跳んで避け、そのまま屈んだ俺の首筋へ右の爪を突き出す。
立ち上がりながら突き出された腕を取り、反対側に極める。
だが、
(やっぱ関節を極めた程度の痛みじゃ止まらないかっ)
肘が逆側に曲がるのも構わず鬼の子は身を捩って左の爪を突き出そうとする。折るつもりはなかったので慌てて関節を解いて紙一重でそれを回避する。
もう一体の死霊の動向を横目で確認すると、そいつは目の前で黒くぼやけるあやふやな腕で俺の首を掴んできた。
(近っ!接近戦主体の死霊なんていんのかよ!?)
これまでのは自らの“死因”を使って遠距離か間接的な攻撃方法しか持たなかった。てっきりこの死霊も一定の距離を保ったまま攻撃してくるもんだとばかり思っていたのに。
何かされる前に木刀を逆手に持ち替えて、首を掴んでいる死霊の腕を切り落とそうと持ち上げる。
破魔の木刀が死霊の腕に食い込み半分まで切り裂いた時点で、死霊の全体がぐらりと揺らぐ。爆発の兆候である、空間の揺らぎと同じように。
(―――まさか、コイツ…ッ!?)
腕を完全に切断し、首を絞めていた腕を引き剥がす。すぐ傍には再度攻撃を仕掛けようとする鬼の子。
回避と防御、両方は無理だ。
「くそっ!!」
手刀で鬼の子の爪ごと叩き落として、そのまま背中を蹴り飛ばす。地面を擦って数メートル離れたのを確認するところまでで時間切れだった。
死霊はその黒い影のような体を散らせて大爆発し、間近にいた俺はその直撃を受けた。
「ッ!!」
視界が明滅する中、かろうじて地面を捉えて足を着ける。ほんの僅かの間だが宙を舞っていたようだ。
咄嗟に木刀をかざして防御に回したが、破魔の力ではたとえ発生の大元に魔が絡んでいても単純な爆発までは防げないらしい。
それでも一番近い位置で爆発を受け止めた木刀は、焦げることもなくその形を保っていた。どんな材質してんだこれ。
むしろ木刀を握っていた俺の手が黒焦げにされていた。右手から二の腕の辺りまで焼け焦げて嫌な臭いが鼻をつく。
だが思ったよりダメージは少ない。腕を切り落としたことで微妙にバランスを崩した死霊の体勢からの爆発では狙った通りに心中に持ち込めなかったか。
あるいは、必死に爆発から逃げようとしたあの瞬間に焦りから足を絡ませて俺の体勢が急に沈んだこともダメージ軽減の一因だったのかもしれない。
運が良かった。
(幸か!助かった!)
“…っ”
“完全憑依”の恩恵で、俺の内側で様子を見ていた幸はいつでも狙ったタイミングで自らの『異能』を憑依越しに俺へ流し込める。
“幸運”に救われた結果だ。
「中々、うまくいかないものだね」
「爆殺の死人が二人、テメエはどこまでっ…!!」
惨たらしい方法で殺しておきながら、その怨念すら自爆の糧にする。初めからあの死霊は鬼の子に手こずる俺もろとも吹き飛ばすつもりで近づかせたのか。
「が、ぁ…?あァ、あ、ああああ…グっ、ぎあアァああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
(なんだ?)
「だがまあ、
突如張り裂けんばかりに咆哮した磔の男に、祓魔師が何かを吹き込んでいる。
「子供は殺され、今度は妻だ。憎いだろう?殺してやりたいだろう?怨みを束ねろ、その命を代償にしてでも殺してやれ。今のお前にならそれができるぞ」
「何をっ、してんだ!」
連続して生じる爆発を、接近戦で攻めて来る鬼の子を巻き添えにしないように躱しながら、俺は壁に磔にされた男に呪文のように言葉を囁き続ける祓魔師を睨む。
ジャラジャラと群青色の鎖を引きながら猛攻を続ける鬼の子は、荒い息をつきながらもその動きを止めることがない。強制契約による強引な命令で動かされている。
まずはこの子をどうにかするのが先か。
『戦闘面の知恵は貸してあげられないから、自力で頑張って。鬼性種が縛られている契約に関しては、大変だろうけど戦いながらどうにかして。いい、やり方はこうだよ』
日和さんから聞かされた内容を思い返す。
『強制契約は、破壊することも可能だけどそれよりもっと手っ取り早い方法がある。昨夜言った、あの鬼性種の個体特性を利用する』
『と、言いますと?』
『あの鬼は本能的に主人を求める。仕えるべき主をね。祓魔師はその特性を利用して、自らを強引にその主人に当てはめて契約の形を無理矢理に形成している。片方のみの同意で、相手の意思は祓魔の術で押し込めて』
「っらぁ!!」
悪いと思いながらも鬼の子の腹に掌底を叩き込み距離を稼ぐ。その隙に、離れた位置から爆発だけを生み出し続けている死霊へ標的を定める。
漆黒の木刀の柄に指を引っ掛け、思い切り押し出して投擲する。
ドッ!!
筋力を何十倍にも“倍加”させて勢いをつけた木刀は、無防備だった死霊の胸部を穿ち壁に突き刺さる。破魔の威力と速度を乗せた突貫で、死霊の体は貫いた胸を中心に一気に霧散した。
これで邪魔はいなくなった。
残るは本命。
『きちんとした手順も踏まずに契約を形作るなんてわりとデタラメだけど、おかげで手間は省けた』
『えっと、つまりどういうことですか?』
『成り代わればいいのだよ』
手元に武器が無くなって、とうとう鬼の子とは本当に素手で相手しなければならなくなった。だが、それももう少し耐えれば済む。
(右腕八十倍!)
この威力で破壊できるのは実証済み。右拳を強く握る。
操られて強引に動かされているせいか、鬼の子の動き方は慣れると案外簡単に見切れる。死霊の攻撃と巻き添え狙いが消えた今、鬼の子のみに意識を集中させていればまだ対等に渡り合える。
これで最後と心に決め、罪悪感を抱えながら鬼の子に膝蹴りを入れ、息が詰まったところで襟首を掴んでぶん投げる。
放物線を描いて飛んでいく鬼の子の軌道を追うように鎖が舞う。
その鎖の中ほどを掴んで地面に押さえ付け、ギシリと軋む右の拳を落とす。
バゴンッッ!!!
あの時と同じ凄絶な轟音と共に地面は深く砕け、群青色の鎖は粉々になって千切れた。
さあ、ここからだ。
『既製品を量産するなら簡単でいいんだけど、これはもう今回限りの一品だね。対祓魔師の契約権限強奪符とでも呼べばいいのかね。はい』
『…紙である必要性はあるんですか?』
『持ち運びやすいし、
ポケットから一枚の紙を取り出す。紅葉からもらったお札とよく似た、長方形の栞のような紙札。表面には木刀に書き込まれているのと同じような、
千切れた鎖の、鬼の子の側の末端を掴んで紙札を押し当てる。
『そこまでいければもう終わったようなもんだよ。あとは秘密の呪文を唱えておしまい』
『…唱える必要性はあるんですか?』
『私は無言でいけるけど、私以外が使うなら必要だね。ていうかその符は君専用に設定してあるから君の言葉にしか反応しないよ。厳密には日向夕陽の言霊にね。呪文は二重の保険みたいなものさ、取られても君以外には使えないように』
朝に教えてもらったその呪文とやらを必死に思い出す。くっそメモでも書いて持ってればよかった。
「えー…“仕える主君は
どうにか覚えていた、確かもう一句。
「“銘を日向、陰陽の半身を担う者。その意思を以って尽くせ”」
うまいこと全部唱え終えると、鎖の端末に押し付けていた術符から
ビクンと一瞬震えて、鬼の子の体から力が抜ける。
「おっとっと」
膝から崩れ落ちる前に抱え上げ、未だ何かを吹き込み続けている祓魔師と磔にされた男から距離を取る。
「おい、おい!」
「……ぅ」
腕の中で小さな呻きを漏らす鬼の子は、俺の声に反応して瞳の焦点を定めた。
だいぶ弱っているが、大丈夫だ。正気に戻っているようだし、きちんとその目は俺を見ていた。
「あ、なた…は」
「約束通り来たぞ。すぐに全部終わらせてやるから、少し待ってろ」
祓魔師と発狂する男がいるのとは逆側の壁際に鬼の子をゆっくり下ろす。
(これで目的の半分は達成したってとこか。もう半分。幸、いけるか?)
“…(こくん)”
この子はいつでも強気な返事をしてくれるが、俺としては幸への負担はできるだけ少なくしたい。
さっさとケリをつけよう。
「ぎギャっ…ッっ!!はー、ハァー!ああ、あァアッア」
「テメエは、何をしてんだよ」
既に叫び過ぎで喉が裂けたのか、口から涎と血の混じった粘つく液体を止め処なく垂らし続ける男を見て、祓魔師の男は満足げに笑んだ。
「間に合った」
「何が」
「これがさ」
短い問答で、祓魔師は男を示した。
「おそらく、現状でもっとも強く憎しみと怨みを抱えている死霊の素体だ。もうすぐ、この男は自ら命を絶つだろう」
男の口に回されていた猿轡を取り、両手の中央に打ち込まれていた鉄杭を引き抜く。磔にされていた壁から解放され、男は血肉がばらまかれている地面に顔から倒れ込んだ。
「この男の目的は君だ。必ず君を狙う」
「何をした」
木刀の位置を確認する。倒れ込んだ男がいる場所から三メートルほど離れた壁に突き立っている。
「君がここへ来て最初に滅した斬殺と圧殺の死霊。その斬殺の方はこの男の子供だ。いや、『だった』死霊か。君が真っ二つにしてくれた」
「……」
「君を巻き込もうとして自爆した爆殺の死霊、この男の妻だ。目の前で無残に爆散したがね」
なるほど、とは思った。
確かにあの二体を倒した時、あの男はそれまでとは比較にならない絶叫をあげていた。あれは死んでまで悪霊として操られた妻子がさらに殺された場面を目の前で見せられたことによるショックの表れか。
おそらくその二人が殺されていく様子も見せられてきたのだろう。彼は自分の家族の死を二回も見せられたんだ。
発狂もするだろう。
「―――ギッ!!!」
もはや言葉も忘れたのか、磔にされていた男は勢いよく顔を上げて凄まじい形相で俺を見る。そこにあるのは憎悪のみ。
「…殺すだけ殺しておいて、矛先だけは俺に向けるように仕向けたのか」
俺が戦ってる最中、ずっと男に何かを囁いていた内容もなんとなく察しがついた。
男は、自分の掌を貫いていた鉄杭を掴み、迷いなく自分の首に突き立てた。
「…っ」
目を逸らす。見ているのは俺だけじゃない、五感は幸も共有している。こんなものは、見ずに済むなら見せない方がいい。
「狂死だよ、この場合は狂殺になるのか。受け入れ難い現実を前に、意識と思考を手放して狂い死にすることを選んだ結果だ。そして憎しみは君へ向く。なんだかんだと色々試してみたが、どうもこれがもっとも死霊として完成したものであるようだ。様々な外的要因で殺されるよりも、こちらの方が強い力を持つからねえ。やはり人間の感情が力を生み出す源となる以上は」
「うっせえ」
三十倍で強化して踏み込み、杭で風穴を空けた首から致死量の出血を流す男をそのままに、男の隣でくだらないことを喋っている祓魔師の顔面を殴る。
すぐ後ろが壁だった為、振り抜いた拳ごと祓魔師が工場の壁をぶち抜いて外まで吹っ飛んでいった。
やっとあのツラに一発入れられた。
「ぐ、ゴボッ!がばァ…」
口と喉から鮮血を吐き散らす男が、それには一切構わずただ俺を睨み上げる。
怨嗟の篭った瞳。手遅れだ。
たとえ今この男をこの手で殺したところで、楽にはなれないだろう。
致命傷と出血多量で死ぬにしても俺が一思いに殺すにしても、この男は必ず死霊となる。俺を殺す為だけに死霊と化す。
死にかけの体から黒い影のようなものが滲み出してくる。もうすぐ絶命と同時に出現する。これまでの比じゃない、凶悪な死霊が。
男の頭上を跳び越えて壁に突き立つ木刀を回収し、そのまま工場の中央付近まで下がる。
(来るぞ幸!もう少しだけ、“憑依”を深くしてくれ)
“っ…”
人外の力を、人間の器に満たしたそれをより混ぜる。
全体の一、二滴から五、六滴へ。
身体の内側がざわつき、真っ黒く艶やかな光沢を持つ『名残り』の髪が僅かに伸びる。綺麗な長い黒髪を持つ座敷童子へ、一歩近づくように。
血溜まりの真ん中で、男は最期にもう一度だけ俺を見た。ぞっとするほど寒々しい、何も感じさせない表情をしていた。
糸が切れた人形のように絶命した男はその体を血溜まりの中に落とす。
代わりとばかりに、その肉体からは不気味な黒い影が蒸気のように噴出する。それは中空で収束し、形を整える。
死霊が生み出される瞬間というのは初めて見たが、こういうものなのか。
どうでもいいことを考えながら、極力冷静を装う。
俺が殺した死霊の中に、あの男の妻と子供がいた。それを容赦なく滅した俺を、あの男は強く憎んでいる。祓魔師に余計なことを色々吹き込まれたにせよ、だ。
実際は事実だし、怨まれるのも憎まれるのも当然だ。男は、男から生まれ出た死霊は全力で俺を殺しに掛かるだろう。
でも、だからといって無抵抗にただ殺されてやるわけにはいかない。俺も全力で、死霊を滅する。
既に人間ではなかった、妻も子供も。そしてこの夫も。
救う手段はなかった。死んだ人間を生き返らせることはできないし、死霊を浄化する方法も無い。無念と怨念を抱えたまま滅してやることが、死霊となった者への最善の葬り方。
誰かに言い訳するように自分に言い聞かせて、俺は自らを正当化する。
俺の中には幸もいる。背後には鬼の子もいる。俺が殺されれば死霊は満足して自己消滅するかもしれないが、もしそうならなければ、次の標的は彼女達だ。
―――という言い訳を重ねる。
もういい。そんなことを考えるのはあとでいい。今は今やるべきことが別にある。
狂殺の死霊。これまでの死霊とは違い、随分と大きい。人間大サイズの通常の死霊よりも。
三メートルはあるだろうか。手足と胴体、頭の部分が黒い影でとりあえずわかる程度には構成されている。言ってしまえば、死霊が総じてあの形をとるのも人間だった頃の『名残り』からか。
となればサイズの違いはそのまま怨念の強さを示す。通常よりも二倍も三倍も大きければ、それだけ抱く怨念も並大抵ではない。
巨大な影が、ゆっくりとその腕を持ち上げる。天井に組まれている鉄骨を蜘蛛の巣を払うように軽く折り曲げ、限界まで腕を引く。
来るか。木刀を正面に構える。
あれだけの巨体が一瞬ブレて、俺の視界は瞬きの内に真っ黒に染まった。
「く、あ゛っ…!?」
目の前を覆い尽くしているのは、死霊の拳か。正面に構えていたおかげで咄嗟に木刀で受け止めたらしいが、重圧が尋常じゃない。
踏ん張るだけの暇も与えず、受け止めることすら叶わず俺の体は巨体に殴り飛ばされた。
さっき祓魔師にやったのと同じように、今度は俺が工場の壁を粉々にして外まで吹き飛んだ。
(三十倍じゃっ、話にならねえ!)
全身に走る痛みを堪え、靴底を削りながら雑草で埋め尽くされた砂利の上に着地する。
(やべっ)
俺が壁を破壊したせいで、崩れた瓦礫が工場内に降り注いでいた。元々倒壊手前の廃工場だ、これだけ暴れればそうなるのも当然。
「八十倍っ」
木刀を両手で握り、限界まで踏み込んで一気に踏み込む。爆発的な勢いを得た体でまだ工場内にいた鬼の子へ手を伸ばす。
狂殺の死霊が拳を振り上げる。
左手で鬼の子を抱え上げ、右手で上段に木刀を構える。
(右腕瞬間百十倍!!)
さっきは見えなかった一撃を八十倍の五感で捉え、百十倍の右腕で対応する。
強い圧迫感を与える拳が迫り、タイミングを合わせて上段に構えた木刀を振り下ろす。
工場内を揺るがす轟音が響き渡り、俺は鬼の子を抱えたまま工場から飛び出した。
「ふざけやがって、百十倍でようやく互角かよ!」
右腕が衝撃で痺れる。
狂殺の死霊の一撃は、百十倍強化の肉体+破魔の木刀でようやく相殺された。死霊の右手は破魔にやられて掻き消えたが、木刀を握っていた俺の右手首も感覚がおかしい。
鬼の子に意識が向かないように、手早く工場の外に横にさせて俺自身は離れて死霊の正面に立つ。
俺が生きてる間は、多分最優先は俺になるはずだ。
“…”
幸が不安を伝えて来る。それと一つの提案を。
(…いや、いい。幸はそのままで維持を頼む)
それは“完全憑依”の深度を上げる提案。より深く力を混ぜれば、それだけ俺は人としての濃度が薄くなり、代わりに人外寄りの性質となる。一時的にではあるが、全てにおいて人間種の枠を超えて戦うことができるようになる。
だが駄目だ。これ以上深く憑いたら痛覚まで共有してしまう。俺が傷つけば痛みをそのまま幸にもフィードバックしてしまう。
まだ大丈夫なはずだ、この状態でもやれる。
工場はすでに半壊し、その中からのっそりと狂殺の死霊が姿を現す。
消え失せたはずの右手は再生していた。
「チッ!」
駆け出す。
後手に回れば不利になる。常に先手を打って隙を見つけるしかない。
あの図体からは信じられないほどの速度で、腕が振るわれる。三メートルはある巨体が腕を伸ばすだけで、もう俺の拳も木刀も届かない。
(破魔の効力があっても直撃は不味い!受け流しながら少しずつ削いでいく)
さっきの一発でよくわかった。いくら木刀に宿る破魔が働いても、一撃の重さまでは消せない。死霊の体の一部を消滅させることができても、これでは俺の体が保たない。
だが、木刀さえきっちり当てていけば確実にダメージは通る。掠る程度でも受け流すだけでも。奴にとって木刀は焼けた鉄の棒のようなものだ。たとえ再生しても完全に治っているわけではないはず、触れるだけでも効果がある。
(ッ…八十、五倍!)
しかしそれを続けるこっちもそれなりの覚悟と度胸が必要だ。何せ奴の拳が当たらずとも、少し掠るだけでとんでもない豪風が身を削るように吹き抜けるから、しっかり踏ん張っていないと飛ばされてしまいそうになる。
おまけに速さが増している。怨念が増幅しているのだろうか。
(九十倍!!)
右側から迫る掌のような影を跳んですれすれのところで回避し、通り過ぎ様に一撃加える。
死霊の大きな左手が霧散する。着地から続けて大きく跳び上がり左腕を切り落とす。
地面に足が着くまでの間に残る右腕が迫る。
「せぇっああ!!」
百十倍強化、両手で握った木刀のフルスイング。右腕は一気に肘まで消し飛んだ。
狂殺の死霊が放った威力は殺し切れず、俺の体も後方に飛ぶ。激突した地面が大きく抉れて体の随所から悲鳴が上がるが、ここで止まるわけにはいかない。
両腕のなくなった死霊、殺し切るなら今しかない。もたもたしてたらまた再生する。
(身体強化百三十倍!致命傷を狙う、ッ幸!!)
心中で叫び、力を借りる。
フェイント混じりの足捌きで翻弄し、右の脛を蹴り上げて体勢を崩したところへ両手持ちの逆袈裟切り。脇腹から肩にかけて胴体を斜めに両断する。
まだだ。
左足を持ち上げて膝蹴りの挙動に入っていた死霊の足を付け根から切り飛ばす。返す刀で木刀を振り回し死霊の首を撥ねた。
バラバラになった狂殺の死霊は、地面に落ちながら塵のようになって消えていった。
「…ふうっ…」
最後まで消えるのを見届けて、ようやく止めていた息を吐く。
「助かったよ、幸。最後までな」
俺の『致命傷を狙う』意思に従って、幸の“幸運”を効力を発揮してくれた。おかげで、ろくに見てもいないのに的確に運良く首を撥ねられた。
弱っている鬼の子を抱き上げて、そのまま他に死霊がいないかざっと見回してみたが、工場内の無残な死体からはもう死霊の一体も発生する様子はなかった。紅葉のお札にも魔の反応は見られない。
そして殴り飛ばしてのびていたはずの祓魔師の姿も消えていた。いつの間に逃げやがったのか。
「くそ、近くにはいなさそうだな」
狂殺の死霊を相手にする前にもっとボコボコにしておくべきだったがと思ったが、ひとまず鬼の子も助け出すことができたのでよしとしよう。
「幸、もういいよ。お疲れ様」
木刀を竹刀袋に納めながら、取り憑いたままの幸に言う。
体の内側からなにか抜け落ちるような虚脱感と共に、目の前に長い黒髪の小柄な着物姿の少女が現れる。髪も元に戻った。
「…」
「大丈夫か?疲れたよな、帰ろうか」
少し表情に力がない幸の頭を撫でて、腕の中の鬼の子を見る。
「…ひとまず、この子の傷を治すか」
家に戻るのはそれからでもいいだろう。
今はもうとっくに授業の始まってる時間だ。堂々と入るのはきつい。
まだ明るい内なのに、自分の学校にこそこそと忍び込まなければならないのかと思うと地味に気分が落ち込んだ。
傷だらけのこの状態で行ったら、あの女子寮長さんにまた間違いなくお小言を言われるだろうしな。
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