第六席 病道楽

 このところ道楽の様子がおかしい。

 まず、朝、早く起きなくなった。《ちくわ》や《とんぶり》がいくら腹の上にダイブしてこようとも反応がない。朝食にありつけなくて困ったねこたちは仕方なく妻の腹にダイブする。

「うぎゃあ」

 妻の心臓は頑強なので停止することはないが、かなり不愉快そうである。

「ガッテムゥ」

 スペイン系東北なまりのスラングを大声で口にしながら、妻はねこどもにえさをやる。夫に対する嫌味である。それでも道楽は床から出てこない。やむなく妻は自分で湯を沸かしコーヒーを淹れる準備をする。

「ポツポツポツ」

 コーヒーの滴がサイフォンをガーファンクルするころ、ようやく道楽が起きて来た。

「グッドモーニング、あんた」

 妻がごあいさつをする。しかし、道楽は暗い目をして会釈するのみ。椅子に腰掛けると淹れたてのコーヒーを勝手に飲みだす。

「目玉焼きでも焼くかい」

 やさしく妻が尋ねても、

「いや、結構でございます」

 ひとこと言うと中空を見つめるのみ。仕事が忙しい妻はそんな亭主の状態を気にしつつも時間に追われ、それでもしっかり化粧は決めて家を出て行く。

 さて、一人っきりになっても道楽は動かない。洗濯も掃除も随分長いこと手を付けていない。そのために大量のねこ毛が西部劇のワンシーンのように家中を転げまわっている。荒屋の決闘である。

 しばらくして、

「よいしょ」

 と道楽が動き出した。やっとやる気がでたか。いや、そうではない。彼はベランダに出るとまた椅子に座って日向ぼっこを始めた。季節は早春。風はまだ冷たいが日差しは暖かい。彼の家(大マンション)は東向きなので午前中いっぱいは太陽の光を浴びられる。道楽はただボンヤリと身体を天日干しする。良い干物が出来そうだ。

 お昼がくる。

 以前だったら張り切って《道楽炒飯》などを作っていたが、今はもう何も作らない。ただ冷蔵庫に入っている、魚肉ソーセージやチーズなどをモグモグと食し、水道の水を一杯飲み干すと万年床に入って寝てしまう。それは、昼寝などという生易しいものではない。夜遅くに仕事で疲れきった妻が帰宅するまで果てしなく眠り続ける。その間、目を覚ますのは尿意を催したときだけである。(まれに便意もある)夢も見ない。

 やがて、妻の御帰還。

「ただいま」

 妻が帰宅のご挨拶をする。その声を聞いてようやく床を抜ける道楽。

「夕飯はなにがいいかい」

 妻が尋ねる。

「何でも結構でございます」

 つれなく答える。

「そう」

 淋しげに言うと妻は台所へ向かった。いつの間にか夕食の仕度も道楽は放棄していた。とにかく何もしない。ただ眠るだけ。寝るのが仕事。まるでねこだ。そう、道楽はこの家の三匹目のねこに成り下がっていたのだ。

 不思議なのは妻の態度である。いつもだったら、

「なにだらけてんだ、この野郎!」

 と廻し蹴りの一発でも飛び出しそうなものなのに、なにも言わずに道楽の世話をしている。よっぽどねこの飼育が好きなんだな、この人は。ねこならば許される。ねこならばなにをしても可。なにもしなくても良し。

 だが道楽はねこではなくて人間だった。

 ある日、妻はそのことに気付いてしまった。その瞬間、妻のこめかみにぶっ太い血管が浮き上がり、脳天から積乱雲が発生し青いイナズマが走る。鼻から突風がうねるように吹き荒れ、椅子やテーブルがひっくり返る。溜まりに溜まった、積年の、というか積日の恨み・つらみ・怒りが黒い三連星となって大噴火する。終末の風景だ。

「おい! ○×(道楽のファーストネーム)、おんどりゃ何様のつもりだあ!」

 怒号が部屋中に轟き、地面が揺れる。《ちくわ》と《とんぶり》が押し入れに逃げ込む。御近所中の犬が吠えだし、隣の赤ちゃんはひきつけを起こしたように泣叫んだ。

「毎日働きもしないで家でゴロゴロしやがって、その上なんだいお通夜みたいなその態度。あたしの疲れた心と体に潤いどころかダメージを与えてくれてありがとよ。あんた、誰の稼ぎで喰ってると思ってんだ! いい加減にしないと、叩き出すぞ!」

 周りの迷惑顧みず、やって来ました、禁断の一言!

「あああああああ」

 呆然と虚空を見つめ震える道楽。だが、次の瞬間、

「あうううううう……」

 と嗚咽をあげると頭と胸を押さえて苦しみだした。

「あんた、どうしたの?」

 攻められ過ぎで、脳硬塞か心筋梗塞でも起こしたかと心配した妻が詰め寄る、いや駆け寄る。すると、

「うわあああああああああああーーーーー。ウメボシ! ウメボシィー」

 意味不明な叫び声をあげ、道楽は部屋中を掛けずり回りだした。

「ウメボシ! ウメボシィ」

 絶叫する道楽。

「ウメボシだよ。ウメボシが襲ってくる」

 頭を抱えて走り出す、暴走特急道楽号。走り出したら止まらないぜ。永久機関の発明だい。しかし、

「成敗!」

 妻が延髄を蹴り飛ばすと、

「はんにゃばらはら」

 道楽は地に伏し気絶した。もう、ぴくりともしない。

 妻の緊急停止攻撃により騒ぎはいったんおさまった。


 翌朝。

 熟睡した道楽は心地よく目覚めた。

「おはようございます」

「グッドモーニング、あんた」

 妻も気色悪いほどにご機嫌がよい。

「コーヒーでも淹れようかねえ」

「よいですねえ」

 ぎこちない日常会話。

「昨日はどうしたんだい」

 妻がさり気なく尋ねる。

「昨日? なにかありましたか」

 答える道楽。

「えっ」

 びっくりする妻。

「なにか?」

「なにも憶えてないのかい」

「……」

 フリーズする道楽。

(これはかなりの重症だねえ)

 妻は不安になった。

(なんとかしないと……そうだ!)

 いい考えがある。

 その日、妻は久々の休日だった。

「どうだいあんた、気晴らしにドライブにでも行こうじゃないか」

 モーションを掛ける妻。

「いや、わたしは家に居ますよ」

 テンションが再下降している道楽。

「そんなこと言わないで、海岸通りをぶっ飛ばそうぜ」

 妻は気勢をあげると道楽を蹴飛ばして玄関にゴールした。

「湘南にいいスポットがあるからさ」

 妻は、ほくそ笑んだ。


 早春の朗らかな日射しを浴びて、日参ファイヤーバードは1号線をひた走る。

「♪湘南フリーウェイー♪」

 妻が微妙にでたらめな鼻歌を歌う。これならJASRACに料金を払わなくてもいい。

「ここは1号線ですよ」

 ノリの悪い道楽が呟く。

「フリーウェイってのは無料の道路ってことだろ。どこに料金所があるのさ。この道はまさしくフリーウェイじゃないのかい。あたしがなんか間違えてるとでもいうのか」

 鼻歌を遮られて苛立つ妻。

「いえ……あなたさまのおっしゃる通りでございます」

 超卑屈になる道楽。

「そうだろ、♪湘南フリーウェイー♪右に見えるけーば場♪」

「どこに、競馬場が見えるんですか? 左に観音さまなら見えますけど……」

「うるさいねえ、観音さまならその法力で右手に競馬場くらい作れるだろ! ちょちょいのちょいってな。そりゃ、♪左はビールこーじょうてな、♪飲みたいビール、だけど今飲んだ〜ら捕まるよ〜♪」

 妻のでたらめな歌はエンドレスに続く。その左には大仏さまが……という軽口さえ叩けない道楽であった。

 やがて日参ファイヤーバードはルート134を蛇行しながら突き進んでいた。(飲んでませんよ!)

 その時、突然、

「あっ!」

 道楽が声をあげた。

「どうした? あんた」

「今、何時ですか?」

「もうすぐ、十一時だよ」

「ああ、大変。ラジオをつけてください」

 慌てる道楽。

「なにを、あせっているんだい。カチッ、ほらつけたよ」

 すると、

「♪ちゃーん、ちゃーちゃちゃーん♪ 人生には様々な悩みがあります……」

 お馴染みの《ラジオ人生相談》が始まった。

「ガクッ、他人の悩み、聞いてる場合かよ」

 妻が車中でずっこける。

「すみませんが、こればっかりは外すわけにはいかないんです」

 真剣な目をして訴える道楽。そう、この番組こそ、奈落の底にいる道楽のたった一つの愉しみなのだ。

《こんにちは、心理学者の関東鯛三(かんとう・たいぞう)です……》

 さあ、始まった。じっと聞き入る道楽。気のない様子の妻。番組は続く。

《……というわけで、奥さんが突然、ひとり二人羽織の通信教育を始め、家事を顧みなくなったという、Aさんの悩みにお答えしてもらうコメンテーターはココロに関する著作でおなじみ、エッセイストのマドレーヌYOUさん。そしてもうお一方、ねこちゃん愛護協会会長にして、動物エッセイストとしてもおなじみのキャットリーヌ聖子さん……》

「おお、今日はコメンテーター、東西の横綱そろい踏みだ!」

 いつになく興奮する道楽。

「あんた、ねえ」

 うんざりする妻。

 番組は毒舌二人の辛辣コメントを関東鯛三さんが丸く納めてつつがなく終了した。

「ああ、満足しました」

 ラジオを消す道楽。

「これのどこが面白いのかい?」

 尋ねる妻。

「だって、リスナーから寄せられる難問にあーだこーだと言いながら、生番組なのにしっかり納める手際の良さ。噺家として見習うことばかりですよ」

 うっとりする道楽。すると、

「生? そんなわけないでしょ! 録音だよ録音!」

 妻は大笑いして答えた。

「えっ? 本当に?」

「当たり前じゃないか、常識、常識」

「生じゃない……なんで、そんなこと知ってるのです」

 妻に聞く道楽。

「……まあ、あたしもマスコミ関係長いからね……」

 中途半端に答える妻。

「そうですか、録音ですか」

 夢が壊れて、再び落ちていく道楽。

 車は、心が落ちた道楽を引きずるように海岸通りを進む。 

 そのうち、前方の切り立った崖の上に大きな白い建物が見えて来た。

「あそこが今日の目的地さ」

 妻が指差す。

「一気に登るよ。グィーン、グィーン」

 車は頂上向かってまっしぐら。やがて、白い建物の全貌が現れ、門柱に掲げられた看板が見えてくる。

「ここがナイススポットさ」

「はあ……なになに、医療……法人元気会……悠愛クリニック……びょ、病院!」

 そこはオシャレでナイスな心療内科クリニックであった。


「わ、私は病気なんかじゃありませんよ!」

 激しく訴える道楽の首根っこを押さえて、妻はクリニックにずんずん入っていく。

「心配するなよ、あんた。ここはあたしの知り合いがやってる、超人気のスポット、じゃなくてクリニックなんだよ。なんたって予約をとるのに一年待ちなんてざらで、大抵の患者さんはそれを待ってる間に直っちゃうってくらい腕のいいお医者さんなんだから」

 なんだ、それ。

「あんたはただ、長年のプー太郎生活で心の張りを無くしてるだけなんだ。だからここの院長さん、ああ、あたしの知り合いのことね。彼に思いの丈をありったけぶちまけてやんな。なんなら一席打って来たっていいんだよ。そしたらすっきりしてまた、のん気に明るくプー太郎できるからね。あたしは別にあんたがいつまでもプー太郎してたってかまわないんだ。ただね、頭に来るというか心配なのは、あんたが無気力になったり、『ウメボシーッ』とか意味もなく叫んだりすることなんだ。だからここで一気に正気になっておくれ!」

 そういうと妻は道楽を思いっきり蹴飛ばして受付に追いやった。ナイスシュート! これも愛の水中花……いや、愛の形なのか。

「ボコッ」

 激しい音をたてて道楽が頭から受付カウンターに突っ込む。

「だ、大丈夫ですか……」

 どん引きする受付のお姉さん。

「はんにゃばらはら……えーと多分割り込みで予約してある○×と申しますが……クラクラ」

 意識を朦朧とさせながら道楽が案内を請うと、

「○×さま、お、お待ちしておりました。特別診療室へ、ど、どうぞ」

 受付のおねえさんは、どん引きし続けたまま特別診療室の入口を指し示した。

「獰猛……いやどうも」

 再び、意識が朦朧となった道楽。パンチドランカーのボクサーのように千鳥足で病室にリングインした。


《トントン》

 ノックアウトされた道楽が特別診察室のドアをノックする。

「はい、どうぞ」

 中年男性(おそらく)の声がする。

「失礼いたします」

 道楽は高座に向かう時と同じように、腰を屈めて医師の前に進み入った。

「初めまして○×さん。私が当院の院長窓辺悠(まどべ・ゆう)と申します。いつも奥様にはお世話になっております。さて今日はどうされました」

 窓辺院長が優しく話しかける。

「いつも妻がお世話になっております。わたくし、妻の仕事については何も存知ませんで、先生のようなご高名な方と(道楽には初耳の名前だが……)お付き合い頂けているとは知らず汗顔の至りでございます」

 当たり障りのない社交辞令をする道楽。超、人見知りの彼は初対面の人と話す時は必ずそうなのだ。

「まあ、そう肩肘張らずに、心の中身をさらけ出してください。私は心に関する悩みをお聞きするのが仕事なのですから」

 窓辺院長がさらに優しく問いかける。

「はあ」

 道楽は考え込む。

「さあ、どうしました。心を開いて自由になってください」

「はい……」

 返事はしたものの道楽、考え込む。

 考え込む。

 考え込む。

 考え込む。

 それに対して、窓辺院長はじっと待つ。この手の患者に対しては焦ってはいけない。急かしてもいけない。じっと待つ。

 じっと待つ。

 じっと待つ。

 じっと待つ。

 そうして、窓から見える烏帽子岩に夕日が沈もうとしたころ……。

 もう我慢の限界とばかり、窓辺院長が叫んだ。

「あなたねえ、そんなに黙ってたんじゃ、なにも解決しないよ。直す気がないんだったら、いっそ死んじゃいなさいよ」

 なんと辛辣なお言葉。

 しかし、その怒声を聞くやいなや、

「あのう」

 道楽がようやく口を開いた。

「はい、なんでしょう?」

 優しい声に戻って、尋ねる窓辺院長。

「ええ、非常に申し上げにくいのですが……」

「なんの、御遠慮なく」

「はい……ではお尋ねしますが」

「なんでしょう」

 両者に緊張が走る。

 バチ、バチッ。

 医師と患者の真剣勝負!

「思いきってお尋ねします……あなたは、あなたは!」

「わたしが、なんですか?」

 窓辺院長の顔が強ばる。私がなんだというのだ!

「ええと、あなたは……もしかしてココロに関する著作でおなじみ、エッセイストのマドレーヌYOUさんではありませんか?」

 突拍子もない質問が道楽の口から転げ落ちた。

「ええっ」

 驚く窓辺院長。そして!

「そ、そうですよ。私はココロに関する著作でおなじみ、エッセイストのマドレーヌYOUですよ。よくおわかりになりましたな。このことは、ごく一部の関係者にしか教えていないのに……」

 院長は告白した。すると、

「やっぱり! そうでしょう! そのダンディーな美声! わたくし、毎朝あなたのお声を拝聴しているヘビーリスナーでございますよ。まさか、こんなところでお会いできるとは夢にも思っておりませんでした。もう嬉しくて、嬉しくて、鬱蒼とした気持ちなんてどこかに吹っ飛んでしまいました! さすがは、ココロに関する著作でおなじみ、エッセイストのマドレーヌYOUさん。嫌々きたクリニックですが、なんだかすっかり元通りです。わはははは……」

 道楽は小躍りすると病室から飛び出していった。

「?」

 後には呆然とする窓辺悠院長、いやココロに関する著作でおなじみ、エッセイストのマドレーヌYOUさんが取り残された。

「私、まだなんの治療もしてませんが……」

 まあ、直ればいいでしょう。

 そこに、

《トントン》

 再びノックの音。

「なんでしょう」

 窓辺院長が答えると、

「先生、いやココロに関する著作でおなじみ、エッセイストのマドレーヌYOUさん。サインをいただいてもよろしゅうございますか?」

 上気した表情の道楽が顔を出した。

「ああ、良いですよ」

 と答えつつ、窓辺院長いやココロに関する著作でおなじみ、エッセイストのマドレーヌYOUさんは、

「この診療は保険外診療にしましょう」

 と強く心に誓っていた。


「とりあえず、よかったねえ」

「ああ、ココロに関する著作でおなじみ、エッセイストのマドレーヌYOUさんのサインが貰えて本当にようございましたよ。ありがとう、マイハニー」

 サインを胸に抱えて放さぬ道楽。興奮覚めやらぬ様子である。

「あんたも物好きだねえ」

 妻は呆れ顔だ。

「あんな有名人と知り合いだなんて、あなた一体どんな仕事してるんですか」

 妻の職業すら知らぬ道楽。

「ああ、いろいろ手広くやってるよ」

 適当に受け流す妻。

「あとはキャットリーヌ聖子さんのサインが欲しいですねえ。なんか、伝手でもないですか」

 欲張る道楽。

「キャットリーヌ聖子だと……そんなもんが欲しけりゃいつでも呉れてやるよ」

 投げやりな妻。

「ヤッホー」

 舞い上がる道楽。

 その様子を横目で見ながら妻は不機嫌そうにハンドルを切った。

 さあ日が暮れる。家路を急ごう。


 ……そんな彼らの身辺に怪しい影が近付いていた……

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