第四席 蘊蓄道楽

 一説によれば、萬願亭一門の歴史はとても古い。その始まりは江戸時代中期にまで遡るとも謂われている。

 オムツの国、いや陸奥の国、御示威山華麗宗二王寺(おじいさん・かれいしゅう・におうじ)に一人の学僧がいた。彼の名は日常(にちじょう)。鄙には稀なる秀才で、得度して僅か三年にて華麗宗門外不出の奥義、『栖語彙項集(すごいこうしゅう)』、『緋土意安久集(ひどいあくしゅう)』、『苦才堆集(くさいたいしゅう)』の三巻を身に付け、さらには中興の祖、空最上人(くうさい・しょうにん)以来、わずか四人しか成し遂げたことがないとされる『孤之辺耶苦歳妖(このへやくさいよう)』の荒行を僅か十八歳で成就した。まさに仏門の若きエースである。密教インポッシブルである。なのでひとたび彼が麓の町に降り立てば、老若男女が取り囲んで、

「握手ぅ」

「握手ぅ」

 とハンドシェイクを求めた。そのあと必ずハンドウォッシュもした。そうすることであらゆる災厄から逃れられるという風聞が伝わっていたからである。彼もまたギャラリーの声援に応え、

「一般大衆のみなさーん」

 と呼びかけると、

「二王輪亜丹耶(におわーにゃっ)、喝!」

 まじないの言葉を発して、臭気を、いや周囲に気を撒き散らしていた。その気に守られ、町はまるで臭いものに蓋をしたかのようにひっそりと静かな時が澱んで、いや流れていた。

 そんなある日のことである。村に縁日の出店が並んだ。日常は、

「今日も又、無垢な大衆をお救いしましょうかねえ」

 と言いつつブラブラと山門を降りてきた。

「あ、日常さまだ!」

 町の人々が口々に悲鳴をあげている。日常は微笑みながらメインストリートを闊歩した。すると、前方にひときわ大きな催し小屋が建てられており、彼の周り以上に人だかりができている。少し嫉妬を感じた日常は、

「あなたにも慈恵羅思惟(じぇらしい)あげたい」

 と意味不明な、まじないをつぶやきながらそちらに近づいていった。

 小屋は笑いに満ち溢れていた。

「拙者、司会の素浪人大木凡人正(おおき・ぼんどのしょう)でございますよ。続きましては江戸から参りました、刃無家惨兵(はなしや・ざんぺい)師匠の小噺でございますよ、どうぞー」

 禿(かむろ)頭の男が叫ぶと、舞台袖からどう見ても落武者みたいな男が出てきた。髻は落ち、黒い着物は継ぎはぎだらけ。あまりのみすぼらしさに失笑する日常。だが、

「元旦に、物知り坊主がやってきた。これが本当の和尚が通(おしょうがつう)……」

 と惨兵が駄洒落を言った瞬間。

「ピキーン」

 日常の体に電流が走った。さらに、

「となりの空き地に囲いが出来たってねえ……もう、その話には空き地ゃった(あきちゃった)」

 と惨兵が続けた時にはもう日常は失神していた。

「こ、このすばらしい説法はなんなんだあ!」

 と叫びながら。

 その夜から、日常は寺の座禅小屋に篭もりきってしまった。食事も水も拒否する。

「日常殿がまた荒行をはじめたぞ」

「中から読経の声がしている」

 寺の小僧たちが慌てている。そのころ小屋の中で日常は、

「布団が強風で吹っ飛んで……恐怖ぅ(きょうふう)だあ」とか、

「このそばに蕎麦屋はあるかい? ある! それはソバらしい(すばらしい)」

 と新しい駄洒落をいくつもいくつも作り出していた。

 そんな日々が続いて一週間後、小僧の一人が、

「今日は、小屋から日常殿の声が聴こえません」

 と心配げに和尚に訴えてきた。

「なにっ」

 と和尚が心配して小屋の戸を開けると、そこに日常の姿はなかった。

 密室(おおげさですな)から忽然と消えた日常。この事件を寺の小僧や、町の人々は、

《日常の謎》

 と呼んで戦慄したという。

 もちろん、実際には日常が事件に巻き込まれた訳では無い。彼は刃無家惨兵に弟子入りするため自ら進んで寺を出奔したのである。

「出奔でーも人参! 人足がー参上!」

 と数え歌を歌いながら、奥の細道の逆ルート、すなわち『オモテの太道』あるいは『エンタの花道』を突き進んでいくのである。

 江戸に着いた日常は、その華やかさに感激した。

「江戸はええど」

 早速、刃無家惨兵の住居を探し出し弟子入りを乞うた。しかし、すげなく断られる。

「どうも、スイマセン」

 あやまる刃無家惨兵。なんでも前日に越後から米俵を担いだ百姓の倅がやってきて、ちゃらーんと入門させてしまったため、弟子の置き場がなくなってしまったのだという。一足違いであった。

「はて、どうしましょうか」

 途方に呉れる日常。

「まあ、仕方がありません。こうなったら独立独歩で参りましょう」

 と開き直って辻説法ならん辻小噺を始めたところこれが巷の大評判を呼んだ。当然、寄席の席亭さんから出演のお声がかかる。サクサクとマネジメント成約。

「ところで、お前さん芸名はなんというのかね」

 尋ねられた日常。

「ええと」

 と言いよどむ。さすがに『僧・日常』では、ばち当りだ。しかし芸名なんぞ考えてもいなかった。

「ううむ」

 困り果てた日常は遠い陸奥の極楽浄土に眠る空最上人さまに百萬回の願を懸ける。

「先客万来の名前をお与えくだされ!」

 すると北の空から七色の光が差し込み、

「ならば、萬願亭極楽とせよ」

 上人さまの声がした。

「ははあ」

 日常は空に向かって平伏し萬願亭極楽を名乗ることにしたと日常の手記、『萬願亭日乗』に書き残されている。さすがは元秀才学僧、奇蹟の誇大表現は得意のようだ。

 その後も日常改め萬願亭極楽は、独自のスタイルで永く演芸界の第一線で活躍し、なんと百八歳まで高座を勤めた。晩年のほうは「座布団の上に皺深い梅干しが乗っかって小噺をやっている」と言われたりしたという。その一方で萬願亭極楽は優秀な弟子を何人も育て上げた。とくに初代苦楽、初代安楽(あんらく)、初代気楽(きらく)は『萬願亭の三楽』と呼ばれ名人芸が謳われると共に、現在まで連綿とその名跡が受け継がれている。だが名跡でいうと何故か留め名である極楽だけは初代以降誰も名乗っていない。俗説では初代極楽の死後、初代安楽が二代目極楽を襲名することになっていたが、その襲名披露の稽古中、初代極楽の亡霊が現れ「安楽、お前には極楽の名はあげられぬな」といって呪い殺そうとしたため、急遽その名を封印したといわれる。後に初代安楽は「あやうく師匠に安楽死させられるところだった」とぼやくことしきりだったという。(ただしそれはネタだという説もある)

 萬願亭一門は独立独歩を旨とした成立過程のため、他の一門との交流を嫌っている。そのため落語が職業として認知された明治・大正以降も大日本落語家協会には参加しなかった。現代においても全日本落語家協会、新日本落語伝統協会のどちらにも所属しておらず、山河亭馬顔(さんがてい・ばがん)一門や桂川山椒(かつらがわ・さんしょ)一派のように独立運営している。しかし、馬顔や山椒のようにマスコミ、メディアに取り上げられることも少なく、一部のコアなファン以外にその存在を知るものは少ないのである。

                   

「トントン」

 肩を叩くと道楽は読んでいた本を閉じた。『落語者の日本史』(外来亭ホワイト・著、戸棚津子・訳 月並新書)という本である。著者の外来亭ホワイトは、元々は《カリフォルニア・ポスト》というアメリカの郵便箱製造会社の営業マンであり、そこの日本支社に赴任したのち、なぜか落語に興味を持ち、桂川山椒に弟子入りしたというナイスガイである。彼はエンターテインメントとしての落語だけでなくその歴史にも興味を持ち、古い文献などをあたってこの本を書いた。もちろん外人さんだから古文書なんぞ読みこなせないので、訳者である戸棚津子さんが協力して作りあげたという。なんで道楽がこの本を読んでいるかというと、彼の妻が先だって、

「あんたの一門のことが書いてあるよ」

 と言って放り投げてきたからである。月並書店に知り合いの編集者がいるらしい。小難しい内容だから、大量に売れ残って、いろんなところにばら撒いているんだろうなと道楽は思った。なんせ読めない漢字がいっぱい出てくる。作者(外来亭ホワイトのことです、念のため)だって読めないんじゃないのかな。一門の出てくるところまでは読んだから、もうこの本は打っ棄って明日からは大好きなミステリー小説を読むことにしようと決意を固める。

「さてと」

 気分を変えるべく道楽は窓の外を見る。そこには北海道大樽市の通称『百万ペソの夜景』が輝いていた。今日の外貨レートはわからないが、この美しさは札幌のそれと大差あるまい。

「ああ、きれいだねえ」

 妻に同意を求めると、

「グォー、グォー」

 ワインのボトルを抱えたまま彼女はベットに沈没していた。朝から晩まで酒浸りである。その背中では《ちくわ》と《とんぶり》も夢の中。これではせっかくのスーパービューロイヤルストレートスイートルームが意味無いじゃん。思ってもぶつける相手がいないので道楽も寝ることにした。消灯。


 北の朝は早い。

 北海道というものは何のために存在するのだろう。それはおいしいものを食べるためである。そう主張する妻は、朝食に回転寿司を所望した(廻すところがいじらしい)。

「え、朝から寿司ですか?」

 できれば拒絶したい道楽に対し、

「こんな遠くまで無理やり連れてこられたんだから、せめて好きなものを食べさせろ」

 とお門違いに怒鳴りつけた。仕方なくタウンガイド(るるる情報版・大樽)をめくると、大樽近隣の回転寿司、その他全ての寿司屋さんの回転……いや開店時間は午前十一時からだった。やむなく(?)ホテルのバイキングにて朝食を済ます。

 つつがなく朝食を終えると執事の宇佐木乳童が迎えにやってきた。ようやく今回の主目的である寄席の建設現場に行くという。道楽は尋ねた。

「来楽、いや吹雪さんにはお会いできるのでしょうねえ」

 昨日、ウエルカムパーティーに肝心の来楽こと吹雪丈一郎は現れなかった。なんでも東京から重要な取引先の幹部が来てその接待をしているという。

「なんだい、私たちは大事じゃ、ないのかい」

 ヤケ酒をあおる妻を形ばかりなだめながら、道楽は『吹雪オイリオン(株)』の重役連中との名刺交換に追われていた。もちろん道楽は名刺なんて持っていないので昔作った名前入りの手ぬぐいを渡した。お宝グッズだよん。

 昨日のことはもう言わないの。今朝に戻る。

「申し訳ございません。吹雪は今日も東京からきた大幹部さまに付きっきりでございますよ、はい」

 宇佐木が耳を丸めて謝る。

「そんなに大事なお客様なんですか」

「大事は大事なんですが、それよりも……」

「それよりも?」

「かなり口うるさい方のようで、吹雪ほどの行儀作法をわきまえた人間でないとまともにお世話できないようでございますよ、はい」

「なるほど」

 うなずきながら、道楽は師匠九代目苦楽を思い起こしていた。師匠は落語については放任主義だったが行儀作法には厳しかった。その弟子である来楽こと吹雪氏ならどんな辛口の人間でも納得させられるだろう。

「そんなこんなで、まいりますよ、はい」

 宇佐木は車へと案内した。今日もあのマリモ型リムジンである。

 車で行くこと約十分、目の前に巨大なお城が見えてきた。吹雪の言うところの『文化施設』であろう。ぱっと見では巨大モーテルでしかないが。

「あちらが、《パッキーランド》のシンボルタワー、《トゥモロー城》でございますよ、はい」

 宇佐木が説明する。

「パッキーランド?」

 また、パッキーかよ。本名はパチョレックだろ。

「ええ、パッキーランドには《パッキー・ドッグ》というかわいい男の子のキャラクターがおりますよ、はい」

 あー、パクリね、と納得する道楽。

「女の子のキャラはなんて名前なのよ?」

 妻が質問すると、

「ポッキー・キャットですよ、はい」

 宇佐木は悪びれずに答えた。

「ねこちゃん最高!」

 喜ぶ妻。

「異種交配か……」

 子孫繁栄は期待出来ないなと道楽は思った。

 車はつり橋をゆらゆら渡り《パッキーランド》に入国する。

「パスポートはいらないの?」

 千葉県の浦寂市(うらさびし)にある《東京ネズミン・ランド》が大好きな妻がワクワクしながら聞く。

「パスポートではなく通行手形を発行いたしますよ、はい」

「ちっ、江戸村かよ」

 もう興ざめのようである。女心とあき竹城……。

 関所を無事破ると、道楽一行はマリモ型の馬車に乗り換えて寄席の建設現場に向かった。御者はまたもや宇佐木である。

「宇佐木さんは何でも運転出来るのですねえ」

 道楽が感心すると、

「わたしが乗れないのは時代の流れだけでございますよ、はい」

 うまいこと言いやがった。座布団一枚!

 宇佐木をおだてに乗せていると馬車は寄席の建設現場に到着した。もう外観は完成しているようである。

『来楽軒』

 という看板がでている。

「ラーメン屋さんかよ」

 妻がつぶやいた。道楽同感である。

「さあ、中へどうぞ」

 妻の嫌味を無視して、宇佐木が招く。では、お邪魔することにしよう。

 中に入るとすぐ、

「あれ?」

 道楽は「おかしいな」と首をひねった。

「あの、宇佐木さん」

 道楽が尋ねる。

「はい」

「これ、もう完成してません?」

 一瞥するに内装もできあがり、桟敷席や椅子席もきちんとしている。舞台も提灯がぶらさがって、いつでも興行が張れそうである。いったい何のアドバイスをすれば良いのだろう。

「たしかに器は完成しておりますよ、はい」

 宇佐木が口を開いた。

「でも、実際に噺家さんが高座にあがって、その視線で出来上がりをみないと、本当に完成したかどうかはわからないのではないでしょうかねえ、はい。寄席の魂は噺家さんですからねえ」

 嫌な予感が道楽によぎる。

「ならば、吹雪さん、いや来楽自身が見ればいいでしょう」

 いつもならぬ、強い語気で道楽が言う。

「いいえ、そうは参りません。吹雪は所詮二つ目止まりの落第生。ここは若くして天才と呼ばれた幻の噺家、道楽師匠に高座にあがっていただかなくてはなりませんよ、はい」

「そ、それはできませんよ」

 猛烈に拒絶する道楽。

「なんでですか? はい」

 つめよる宇佐木。

「わ、わたしは……高座からおいとまを頂いている身でございますから」

 道楽が怯えたように言うと、宇佐木が高笑いを発した。

「ははは、勘違いはいけませんよ、はい」

「か、勘違い?」

「だって、そうでございましょ。わたしは道楽師匠に噺をしろとは申しておりませんよ、ただ高座に上がってその視線でのアドバイスをお願いしたいと言っているのですよ、はい」

「ああ……そうですよね」

 そう言われてみればそうだ。ただ座ってみればいいのだ。冷静になれ道楽、自分に言い聞かせる。

「もたもたしてないで、さっさと終わらせろよ」

 妻が蹴飛ばしてくる。

「はやくウニが食べたいよう」

 もう、昼飯かいな。

「さあさあ、とにかく高座へどうぞ」

 妻と宇佐木にせかされ高座へ昇る道楽。

「よいしょ」

 と座布団の上に正座する。

「ええと」

 アドバイス、アドバイスと客席を見回す。だが、

「カチッ」

 後頭部で何かが弾けた。自然にまぶたが下がってくる。

「い、いけません」

 道楽はあせった。しかし、もうどうすることも出来ない。スイッチが押されてしまったのだ。古今東西の噺を収めた脳内データベースのスイッチが!

「えー」

 道楽がお得意のマクラを打ちかけたそのとき、寄席全体の照明が消えた。

「おまちなさいよ!」

 甲高い叫び声が寄席に響き渡った。道楽のデータベースは停止し、その瞳が開かれる。すると、

「ガラガラガラガラ」

 鉄の軋む音がして天井からゴントラが降ってきた。ご丁寧にドライアイスの煙まで焚いている。

「はあ、どなたかの結婚式ですか?」

 道楽が口をポカーンとしてつぶやく。見上げたゴンドラの中には地味なスーツ姿の男性と、紅白歌合戦のトリを勤める演歌歌手のように派手な着物をきた女性が載っていた。

「あらら」

 ゴンドラは道楽の目の前で止まった。

「久しぶりだね、道楽」

 派手な演歌歌手が口を開いた。

「これはこれはご無沙汰しております……来楽くん、いや吹雪丈一郎さん」

 一息付く。

「それと快楽……姐さん。」

 道楽と一門の先輩、女流噺家萬願亭快楽、約三年振りの遭遇であった。

「これはどういった趣向でございますかねえ」

 道楽がいぶかしげに尋ねる。

「この度は騙し討ちのような仕儀となり申し訳ございません」

 大企業の社主さまが一介の失業者に時代がかった口調で頭をさげる。かたじけない。

「来楽、あんたが謝ることはないよ。道楽、今回のことは全てあたしの仕組んだことだよ」

 ゴンドラの上で快楽が叫んだ。

「し、仕組んだ?」

「ああそうさ。あたしはあんたの真意が知りたいのさ」

「真意?」

 おうむ返しするばかりの道楽。そのうえ久々の正座でこむら返りも起こしている。

「そのためには、まずあんたを穴倉から引っ張り出さなきゃならないからね。それで金持ちで人の良い来楽の力を借りたのさ」

「穴倉じゃないよ、豪華大マンションだよ」

 桟敷席から妻がクレームを付けるが誰も聞いていない。話の腰を折るなよ。

「真意とは? わたしの何が聞きたいというのでしょうか」

「簡単なことよ、あんたが何で高座から遠のいたかということさ」

「それは……本当の自分を見つめ直す時間が欲しかったからでございますよ」

「ふふふ、自分を見つめ直すとね……それで見つかったのかね、本当の自分とやらは」

 見下した口調で尋ねる快楽。

「今だし、今だしでございます」

 のれんに腕押しの道楽。その態度に快楽は業を煮やして啖呵をきった。

「とぼけてんじゃないよ。こちとらすべてお見通しなんだよ!」

 よっ、緋牡丹快楽! 無事済み子!(意味不明)

「な、なにをお見通しなんでございます」

 勢いに押され脅える道楽。

「あんた、十代目が継ぎたくなくて逃げ出したんだろ?」

 快楽はついに切り札を出してきた。

「うぐぐ」ぐうの音も出ない道楽。

「グー」腹の音が鳴る妻。

「わかっているのよ道楽、あんたの浅慮なぞ……せっかくの才能がもったいないよ」

「恐れ入ります」

「うちの一門で観賞に値する噺が出来る若い衆はあんただけだものな」

「姐さんだって、正当な噺家ですよ。血筋だって……」

「芸事に血筋は関係ないよ、それに親父さんだって『快楽、お前さんに苦楽の名を継がせることは出来ない』と言っているし……」

 快楽は九代目苦楽の晩年に出来た一人娘だった。(ああ、苦楽師匠はまだ存命です、念のため)

「どうみたって、十代目はあんたさ、あんなことさえなけりゃ三年前に襲名披露が行われていただろうよ」

「……」

「あの時、あんたはきっと考えたのさ。三十代で苦楽襲名。世間はすぐにこう言うだろう『十代目、いずれは二代目極楽襲名ですね』とね」

「……」

「それであんたはビビってしまったんだろう。『二代目極楽を襲名しようとした者は初代の亡霊に呪い殺される』っていう伝説にさ」

「……」

「小心者のあんたのことだ。お得意の人生方針『とりあえず逃げる!』の精神にのっとってケツをまいたってとこだろ」

 快楽の大演説は終わった。『泥鰌ワイド劇場』ならば続く道楽の告白、そして高座からの飛び降り自殺で大団円なのだが……

「ははははは」

 犯人、いや道楽が突然高笑いをはじめた。

「姐さん、それは大いなる勘違いでございますよ」

「勘違いだと?」

「ええ、そもそも『開祖極楽の亡霊』なんて話が出てくるところから間違っていますよ」

「なんだって」

 今度は快楽がうろたえる番だ。

「だって姐さん、本当は『開祖極楽』なんてお方は実在しなかったんですよ!」

「えー?」

「うそー?」

 快楽はじめその場にいた来楽、宇佐木までもが驚きの声を上げた。ただ一人、妻だけが、

「極楽? ヘブン? Why?」

 とロイヤルイングリッシュを唱えていた。(今まで黙っていたが、道楽の妻はハーフである)

「では、お話いたしましょう」

 道楽は座布団に座り直すと脳内にある『古今東西の蘊蓄データベース』を起動した。

「世に伝わる『僧・日常』の流転の人生。これは、史実に沿ったお話でございます。だがこれは開祖極楽のことではございません。この逸話、実は『初代苦楽』のことなのであります。すなわち我らが萬願亭一門の開祖は極楽ではなく、初代苦楽なのであります」

「はあ?」

 呆然とする一同マイナス一名。道楽は続ける。

「世に言う『萬願亭の三楽』苦楽、安楽、気楽の三名。巷説では開祖極楽の弟子となっておりますが実際には安楽、気楽は初代苦楽の弟子なんでございます。考えてもごらんください。何で二代目極楽を弟子筆頭の苦楽ではなく序列二位の安楽が継ごうとしたのでしょう。まあ安楽のほうが優秀だったという仮説も成り立ちますが、実際には、安楽が継ごうとしたのは『極楽』ではなく『苦楽』の名跡だったのであります。それが初代苦楽の意向で取りやめになった。納得のいかない安楽はそれをネタにして世に訴えようといたしました。だが苦楽の実名をあげるのは気が引ける。そこで『苦楽の誤り』転じて、『誤苦楽(ご・くらく)』これをもじって『極楽』の名前をひねり出して噺を作ったのでございます。その噺のネタがいつのまにか現実と混同して我が一門の歴史として語られてしまっているのであります。ゆえにわたしが極楽の襲名を恐れる理由などなにも無いのです」

 道楽の一席が終わった。おあとがよろしいようで。

 沈黙の時が流れる。そして、

「ら、来楽……ゴンドラをあげよ」

 快楽は青い顔をし、唇をかみしめて言った。完全に道楽の噺に言いくるめられたようだ。

「はい」

 動揺した快楽らを載せたゴンドラが天井に吸い込まれていく。ご苦労さんでございます。

「では、わたしたちも失礼しましょうか」

 道楽は妻をいざない、出立のふれを出す。

「ウニとイクラだな」

 よだれを垂らす妻。

 いくらでもお食べよ、どうせ来楽のおごりだ、と道楽は思った。

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