第二席 釣り道楽

 道楽はきわめてインドア人である。決してインド人ではない。

 下積み時代から、稽古や師匠の言いつけがない限りは部屋に閉じこもって瞑想(昼寝の丁寧語)をしていたし、真打となり、高座勤めの日々が続いたときでもたまの休日には自宅で過ごすことが多かった。そして自主失業も二年目となった現在では、一週間くらい平気で外出しないことがよくある。とくに苦ではない。できることなら家から一歩も出たくない、というのが道楽の本音である。

「男がひとたび外に出ると、そこには『七人の侍ジャパン』がいますからねえ」

 と道楽は意味不明な言い訳をする。今では、妻に「どうしても行って来い」とやさしく脅迫された買い物などの重要事項や、メタボリック予防のための散歩以外、めったに外出をしないのである。インドア派というより、引きこもりである。


 そんな彼にも、若い時分にはアウトドアな時があった。

 道楽が二つ目のころ、秋の日の話である。

 九代目・萬願亭苦楽一門の同輩に暴楽(ぼうらく)という噺家がいた。彼は日本人には珍しい、元ヘビー級プロボクサーという経歴をもつ変り種の巨漢で『ファイティング落語』という劇画調の持ちネタを得意とし、早いうちからそれなりに注目を集めている期待の新鋭だった。その性格は少々乱暴で喧嘩っ早く、特に酒が入ると手に負えないため一門の兄弟子や他の師匠方には白い目で見られていたが、反面純情で一本気、仲間に対して思いやりが深く、道楽をはじめ何人かの同輩や若い弟子達とは割と親しく付き合っていた。

 その暴楽があるとき、釣りにハマりだした。それもバスフィッシングである。キャッチアンドリリースである。フィッシュ、フィッシュである。

 最初は一人で行っていたらしい。しかしそこは人間の性、誰かと趣味を共有したいもの。そこで暴楽は仲間たちに声をかけた。その中に道楽も含まれていた。

「よう道楽、今度の休み、釣りに行こうぜ」

 暴楽にさそわれた道楽、もし今だったらきっと、

「私はいいですよ」

 と断るところなのに、そのときはどういう風の吹き回しか、

「釣りですか、いいですねえ。やったことないから教えて下さいよ」

 と二つ返事で承知した。若さゆえの冒険心。

「おお、道楽、お前行くかい。じゃあ道具を揃えよう」

 喜んだ暴楽は、さっそく道楽を《釣り具の常習屋》という店に連れて行き、あれやこれやと釣竿の選定にとりかかる。一方道楽、釣竿のほうは一向に興味がわかなかったが、ショーケースに並べられた『ルアー』をみて、

「なんだかおもしろいねえ」

 と次第に興奮してきた。実は道楽、幼少の折から『ちっちゃいもの』が大好きなのだ。『ちっちゃいもの』だったら生きた昆虫からドールハウスの小道具までなんでも見入ってしまう。しかもその『ちっちゃいもの』が群れをなしていたりすると、もう鼻血ブーである。(ただし女性は大柄の方が好みである。彼の妻も実はスーパーモデルなみに態度がでかい……トホホ)

「これもかわいい。この顔もまたひょうきん族だねえ」

 とつぶやきながら道楽は『ルアー』を十個も買ってしまい、お道具箱まで揃えてご満悦である。

「なんだか『タイム母艦』シリーズみたいですねえ」

 と今の若者にはわけのわからないことを言いながら『ルアー』のぎっしり詰まったお道具箱を眺めてほくそ笑む道楽。しかしこの『ルアー』どもが後でとんでもない悲劇を彼にもたらすとは思いもしないのであった。それはともかく、

「おい道楽、竿はこれがいいぜ」

 と暴楽が選んだ二万円もする釣竿を、

「ああ、そうかい」

 とよく見もせずにとっとと購入しその日は暮れた。お代はしめて三万三千六百円也(税込)。いまではとても支払えない高い買い物だ。(このころ道楽は刑事貴族……いや独身貴族であった)

 道楽たちが釣りに行ったのはその一週間後である。


 当日の出発時刻は夜十時だった。

 集まったのは、暴楽、道楽のほか、一つ年上の駄楽(だらく)、同い年の鎚楽(ついらく)、弟弟子の音楽(おんらく)の計五名であった。

 そのうち駄楽は年齢こそ道楽らの一つ上だが、いまだに二つ目に上がれない一門の落ちこぼれであった。なにしろ基本中の基本、前座噺の『寿限無』すら覚えられない。何度教えられても、

「ジュラク、ジュラク……あれえ?」

 とやってしまい、普段は温厚な師匠苦楽もあきれてしまって、

「お前さんはホテルのコマーシャルでもやってなさい」

 と横を向いたっきり、以後駄楽にだけは絶対に稽古をつけてくれなかった。それなのに破門されなかったのは、彼の父親がさる大手銀行の頭取であり、なおかつ萬願亭一門後援会の名誉会長だったからである。つまり大事な金づるとして取り置かれていたのである。ただし、駄楽自身はその辺の事情が良くわかっておらず、金で人の関心を得ようとするでもなくただ茫々と一門の中を漂っていた。そんな性格だから周りとの折り合いは悪くなかった。後年そのボンヤリとしたキャラクターが一部テレビ関係者の目にとまり、『いじられ役』としてバラエティー番組などに出演していたが、セリフはいつも「あは、うふ、えへっ」という呻き声しかなかった……。

 次に同い年の鎚楽。彼は大工の息子である。名前も金鎚からとられている。体躯は小柄で痩せ型、まるで孫悟空のように身軽そう。そんなだから、おとなしく家業を継げばよいのに何故、苦楽に弟子入りしたのか。その理由は、彼が実は外見とは似ても似つかぬ、

『高所恐怖症』

 だからである。

 後の鎚楽が高校生のころの話である。彼の親父さんである大工の棟梁は苦楽のあばら家の屋根の修繕に来ていた。(やーねーとかいわないこと)そこに見習いでついてきた後の鎚楽、目の前にある梯子に登ることが出来ないでいた。

「大工の息子が梯子ひとつ登れないなんてよう。情けねえ」

 頭を抱える棟梁。それに対し後の鎚楽は、

「だって、高いとこから落ちたら怖いじゃん」

 と口をとんがらせる。

 たまたまその会話を聞いていた苦楽師匠、

「だったら噺家におなりなさいよ」

 と後の鎚楽に話しかける。

「えー、俺が、なんでよ」

 ふてくされながら、後の鎚楽(しつこい?)が尋ねると、苦楽師匠は、

「噺家は落ちないほうがよっぽど怖いんでございます」

 とサゲをつけた。

 こうして、苦楽のスカウトにより屋根から落ちずにすんだ鎚楽。入門後は必死に安全に『オチる』ための稽古をしているのである。

 最後は弟弟子の音楽。このとき若干二十歳。

 彼の身体的特徴はとんでもない美男であるということである。まるで北欧からやってきた微笑返し、いや微笑みの皇太子である。そのため、まだまだ下積みの身でありながら前座で寄席にあがると、おばちゃんたちで小屋中がいっぱいになる。(なぜか、彼のファンはおばちゃんばっかりで若いギャルにはそれ程キャーキャーいわれなかった)

 おばちゃんたちは口々に、

「おんさまー」

「おんさまー」

 と叫んでいる。それを気に入らない兄弟子連中はその声に合わせて、

「オバさまー」とか、

「オバカさまー」などと叫んでいるが、黄土色の砂塵のような声援にかき消され全く聞こえない。そんなざわめきのなか、

「ジャララーン」

 とエレキギターの出囃子にあわせて音楽が登場。

「ぎぃやああああー」

 心筋梗塞でも起こしたかのような声援が鳴り響く。もうおばちゃん軍団、臨界点到達である。メルトダウンしている者もいる。

「ハロー警報!」

 音楽はよくわからない挨拶をすると座布団に正座しつつ手に持ったエレキを弾きだす。そう、彼の持ちネタは『ギター落語』である。伝統芸能である落語の席で前座の小僧が前代未聞の掟破り、本来ならば許されるはずもないが、なにせこの人気! 席亭さんも、

「まあ、いいんじゃないですか」

 と渋々了承している。しかし頭の固い先輩連中や、他の一門からの視線はとても冷たい。

「ギター落語にしろ、ファイティング落語にしろ、苦楽のところは最近、芸が荒れているんじゃないかい」

「売れりゃあ、なんでもいいってもんじゃないだろうにさあ」

「ホントですよ、これじゃあ開祖の萬願亭極楽丈も草葉の陰で嘆いていらっしゃるだろうよ」

 厳しい言葉があちこちから聞こえてくる。

 そんな剣呑なバッシング吹き荒れる中、のん気な五人組がとぼけた顔して、バスフィッシングに出発なのである。


 さて、一行は暴楽ご自慢のパジャマだかパンジャだかいう四輪駆動の車(道楽は自動車の知識が全く欠落しているので、正確な名前を覚えられない)に乗り込み、音楽の出身地、茨城県のKヶ浦に向かった。道のりは遠い。だが、出発して十分も経たないうちに駄楽兄さんが、

「あは、お腹すいたなあ」

 と飢餓状態を訴えてきた。(駄楽兄さんの辞書に満腹の文字はない。なぜならそのページを破って食べてしまったからである)

「そーっすねえ」

 同調する暴楽。

「じゃあ、あそこにでもはいりますか」

 と鎚楽が指差した先にはオレンジ色のニクい看板。

《味の吉菜屋》

 が鎮座していた。『牛丼ひと口、八十円』のコマーシャルでおなじみの《吉菜屋》さんである。

「ヤッホー」

「イカすー」

 と時代錯誤な喜び声をあげる一行。しかし、その中で一人、道楽だけが、

「ギクッ」

 と冷や汗をかいていた。なぜなら道楽、生まれてこのかた《吉菜屋》さんには入ったことがなかったのである。しかも、日頃からあの茶色ばっかりで彩りのない牛丼という食べ物が気持ち悪くってしょうがない。

「どうしようかねえ……」

 悩む道楽。そして、

「私は家でしこたま晩御飯を食べてきたので、ここで寝ていますよ」

 と一人車内に残ると宣言した。

「なんだよー」

 一同にしらけた空気が漂う。だが、

「まあ、いいや。ちょっと待ってろや」

 と暴楽がその場をとりなし、道楽以外のメンバーは早速に《吉菜屋》に入っていった。ホッと胸をなでおろす道楽。

「あんな気持ち悪いもの、食べられませんよ」

 と心で悪態をついた。


 それはさておき、一人で車内に残った道楽、最初はボーっと夜空を眺めたりラジオを聴いたりしていたが、そのうち、

「ブルルン、ブルルン」

 という、バイクの騒音が気になってきた。時刻はもうすぐ夜の十二時である。もしかしてこのバイクの音は……

「ぼ、暴走族のみなさん!」

 恐ろしい想像が道楽の脳裏をはしった。

「お……襲われたら、ど、どうしましょう…」

 妄想が暴走する。

「ぶるぶるぶるぶる……ぶるぶるぶるぶる……」

 一人残ったことを激しく後悔する道楽。そこに、

「オラオラオラ」

 と横浜銀蝿か(古いっすか?)、はたまた氣志團か(その当時はいなかったけれど……)という御一行様が《吉菜屋》のお客様駐車場に入って来た。それも、《近隣の住民のご迷惑になりますので夜間はお静かにねがいます》と看板がでているのにもかかわらず、

「ヤンキー、マンキー、天気ヤッホー」

 などと奇声をあげている。

「こ、こりゃあ……まずいですねえ…」

 首をすくめる道楽。

「と、とにかく、気付かれないようにしましょう」

 とシートに埋もれて隠れようとしたその瞬間!

「ピキーン」

 と視線に火花が飛び散り、ヤンキー軍団のリーダー格とおぼしき金髪リーゼントのツキノワグマとバッチリ目が合ってしまった。

「うわわわ…」

 恐怖のあまり硬直する道楽。金髪リーゼントツキノワグマはまさに獲物を見つけた野獣のように道楽の乗るパジャマだかパンツだか(恐怖でもうなんだかわからない!)に迫ってくる。

「た、食べられちゃいますー」

 道楽、失神寸前! すると金髪リーゼントツキノワグマは、

「おひとりなんて、さびしいわねっ、カワウソちゃん、チュッ!」

 とウィンクして店内に去っていった。なんだったんだろう……。

 やがて暴楽たちが戻ってきた。放心状態の道楽は、運転席に乗り込む暴楽を見て、

「うわあー、今度はヒグマだあ!」

 と叫び、

「なに、寝ぼけてんだ、コラ」

 と暴楽にウエスタン・ラリアットを食らってしまった。本当の恐怖は身内にいたのである。

 旅は続く。


 一行を乗せたパンダ号(もう、なんでもいい)はいろんな道路(道楽は方向音痴で地図の読めない男だから首都高とか常磐道などという専門知識を持ち合わせていなかった)を通って午前三時過ぎにKヶ浦に到着した。あたりはまだ暗い。

「まあ、適当にはじめようぜ」

 そういうと暴楽はさっさと一人でフィッシングしだした。この薄情者め。教えてくれと頼んだのに。道楽は思った。鎚楽や音楽も心得があるらしく好き勝手に釣りだす。残されたのは道楽と駄楽兄さんのみ。

「兄さん、この糸どうすればいいんですか?」

 バスフィッシングどころか釣堀にもいったことがない道楽はなにをやったらいいか、さっぱりわからない。

「あは、道楽のくせにそんなこともわからないのかい?」

 などといいながら駄楽兄さんはリールに釣り糸を括ってくれた。

「へえ、兄さん釣りは初めてじゃないんですか?」

 駄楽の慣れた手つきをみて感心する道楽。

「うふ、子どもの頃から、パパに連れられてよく川釣りに行ってのさ」

「いやあ、たいした手つきだあ」

「えへ、そんなことないよ」

 日頃、他人様から褒められたことなどない駄楽は喜んでルアーまでつけてくれている。

「いやいや、兄さんブラボーですね」

 褒め殺しする道楽。その内心では、面倒くさいことはこの際、駄楽兄さんに全部やってもらおうという心根の悪い人になっていた。ばちが当たるぞ。

 やがて、漆黒の闇から薄いベールを一枚ずつ剥がしてゆくように東の空が明るくなってきた。いまだかつて屋外で朝を迎えたことがなかった道楽はその美しさに目を奪われた……がそれもつかの間、

「ぐりゅぐりゅりゅー」

 毎朝のお勤めの時間がやってきた。

「に、兄さん、お手洗いはどこにあるんでしょうかね?」

 もだえながら尋ねる道楽。すると、

「あは、そんな上品なものはないだろうよ、その辺でするしかないよ」

 と、あっさり塩味で答える駄楽。

「で、でも『大ちゃん』のほうなんですけど……」

 悶絶寸前の道楽。

「うふ、じゃああっちの草むらでしてきなよ」

 指差す先には人の背丈ほどある吉幾三……ではなく葦の密集地。

「オラこんな草むら嫌だあ」

 泣きながら、道楽は気張った。

 やむを得ず葦の草むらにて人生初の、『野グソ』をプロデュースした道楽。澄み渡った空を見上げながら、

「こうやって無垢な少年は汚れた大人になっていくんだなあ」

 などと思いながら深呼吸して、むせた。

「くさっ……むらむら……なんちゃって」


 日が高くなってくると、ようやく道楽もルアーフィッシングのコツがつかめてきた。

「行けえ、ルアー君1号」

 奇声を発しながら投げ込む道楽。だが調子に乗ると必ず災いが起こる。

 何度目かのスローイングのとき、

「ガチッ」

 という手ごたえがあった。

「やった、フィッシュ、フィッシュ!」

 興奮してリールを回す道楽。しかし相手は相当の大物らしく全く動かない。キリキリと軋む釣竿。

「に、兄さん……マグロが引っかかったようです」

 助けを求める道楽。

「えへ、ほ、本当だ。よーし、俺も手伝うぞ」

 そういうと駄楽は道楽の後ろについて釣竿を引っ張り出した。

「えっさ、えっさ、あー重い」

 幼児向け絵本『大きなかぶ』のような滑稽な場面が続く。

「兄さん、暴楽たちも呼びましょうか」

「あは、そうだな」

 などとアホな噺家二人が漫才に興じていると、たまたま横にきてタバコをふかしていた微笑の皇太子、音楽が、

「兄さんたち、地球を釣ってますねえ」

 と嘲笑している。

「ち、地球?」

「うふ、それじゃ、マグロより大物だな」

 漫才は続いている。二人は根がかりを知らなかったのだ。

「そのままじゃあ、釣竿が折れてしまいますよ。糸を切ってください」

 音楽が親切に教えてあげると、

「糸を切る……い、嫌だ、それじゃあルアー君1号が死んじゃうじゃないですか」

 道楽はルアー君1号の安楽死を断固拒否した。彼には、二万円の釣竿より千円のルアーのほうが大事らしい。

「ご、強引に引っ張れば取れるかもしれません。兄さんフォローよろしく」

「あは!」

 ルアー君1号救出のため、釣竿の危険も顧みず引っ張りあげる二人、もうやめときなよと誰もが思ったそのとき、

「ガシャーン」

 奇跡が起こった。根がかりから脱出したルアー君1号が、秋の日差しにキラキラと輝きながらアホな二人の元へ飛んでくる。

「やった!」

「あは!」

 ルアー君1号が飛んでくる、飛んでくる、さあおいで、僕の腕の中に!

「グサッ」

 ルアー君1号は見事、道楽の手に戻ってきた。もう二度と離れぬようにとしっかり釣り針を人さし指の根元に食い込ませて……。


 ……その後のことを思い出すたび、道楽はやるせなくなる。なにせ釣り針という奴は一度引っかかった獲物から簡単にはずれないように『返し』というのがついている。だから道楽がいくら引っこ抜こうにも、駄楽兄さんの力を借りようとも、激痛が走るばっかりで一向に埒が明かない。

「こりゃ、もう駄目だよ。病院行って抜いてもらおう」

 暴楽の決断の元、哀れ道楽病院送り。

「でもさ、何科に行けばいいんですかねえ」

 道楽はつぶやくと軽く失神した。

 確かに、何科へ連れて行けばいいのだろう。頭を抱えた一行は考えた末、とりあえず総合病院へ向かおうという、至極、真当な結論に達した。早速暴楽のパイナップル号にて(い、意識が薄れて……思い出せない……)犠牲者、道楽の身柄を、近くのタバコ屋のオバちゃんに教えてもらった、《Kヶ浦総合病院》(仮名)に搬送した。

 なんとか息を吹き返した道楽、青息吐息で受付のおねえさんに尋ねる。

「す、すみません、こういう状態のときは何科にいけばいいのでしょうか?」

「はい?」

 事務的な表情で見上げてくる受付のおねえさんにルアー君1号がぶら下がった人さし指を見せる。かなり屈辱的である。

「……こ、これは外科ですねえ……うぷぷぷ」

 失笑する受付のおねえさん。軽く殺意が芽生えるが我慢、我慢。

 外科受付に向かう。ここでも受付のおねえさんに失笑を買った後、

「こちらの問診表にご記入お願いします」

 と意地悪をされた。ルアー君1号を人さし指にぶら下げてどうやってペンを持つのよ。怒りがこみ上げてきたが、グッとこらえて口で書く。昔、曲芸の南極斎北京(なんきょくさい・ぺきん)師匠に教わった芸がここで生きた。

 治療はいたって簡単であった。恐怖のため全身麻酔を主張する道楽の懇願を医師は一蹴すると部分入れ歯ではなく部分麻酔をかけてペンチで釣り針を抜いた。ルアー君1号にケガはなかった……。


 ……その後のことを思い出すたび、道楽はさらにやるせなくなる。

 一連の騒ぎのうちに秋の日は釣瓶落し、何の釣果もなく終わってしまった。帰りの車中、暴楽自慢のパンドラボックス号は(開けちゃ駄目だって!)重苦しい雰囲気に包まれた。その責任は全て道楽にある。彼の気持ちは相当にハードボイルドしていた。そんな中、

「あは、お腹すいたなあ」

 と駄楽兄さんが飢餓状態を訴える。見事なスカシ芸である。

「そーっすねえ」

 同調する暴楽。

「じゃあ、あそこにでもはいりますか」

 と鎚楽が指差した先にはオレンジ色のニクい看板……。

「デジャ……ブー……」

 道楽は泡を吹くと深い眠りに落ちた。多分、化膿止めにもらった抗生物質が効いてきたのだろう。


 目覚めると、自室に戻っていた。もう翌日になっているようだ。なんだか体がだるくて呼吸も苦しい。とりあえず、顔を洗いに洗面所へ向かう。

「ジャバジャバ」

 冷水を顔に浴びせかけた。タオルでさっと拭き鏡に向かう。

 すると鏡の向こうには、おそろしく皺深い老人が映っていた。

「ど、どなたさまで?」

 そっと尋ねる。

「道楽よ……芸に身が入ってないねえ……」

 そう言うと、皺深い老人は何千、何万もの釣り針を道楽に向かって投げ込んできた。

「ギャー」

 悲鳴を上げる道楽。その体全体に釣り針が食い込む。

「い、痛たたたた!」

 末期の声を上げると彼は完全に失神した。

 またしても病院に運び込まれた道楽。医師による診断は、

「化膿止めの抗生物質によるアレルギー反応」

 であった。全身に針で刺したような湿疹が浮かんでいたというが、道楽にはその前後の記憶が一切残っていなかった。


 ……その後のことを思い出すたび、道楽はしつこいほどにやるせなくなる。

 あれ以来暴楽は道楽を釣りに誘うことはなかった。というより全ての面でなんとなく疎遠となり、挙句、暴楽は一門の大先輩、快楽と大喧嘩をして廃業してしまった。結局は古いしきたりの中で生きづらかったのだと思う。彼は現在八王子の方でボクシングジムを経営していると風の噂で聞いた。しかし、道楽はそれを確かめようとはしない。

 美男子の音楽も同様に落語界を去った。今は人気ロックグループ《レア・メタル》でリードギターを勤めている。この前は武道館をオバさんではなく若いギャルでいっぱいにしたようだ。こちらとも道楽は付き合いがなくなった。

 鎚楽は今も高座で頑張っている。彼の『オチ』付く先はそこだけだったのだろう。

 そして……親愛なる駄楽兄さん。彼を最近ではテレビでも見かけなくなった。人づてに聞いた話では、彼の父上の銀行が合併、合併、合併で元の名前も分からなくなったころ、兄さん自身も月餅の食べ過ぎによる糖尿病の合併症が原因で自分の名前すら分からなくなり、夜の街を「あは、うふ、えへっ」と言いながら、茫々と漂っているらしい……。親しいものはみな、道楽のそばから去っていってしまった。


 ルアー君1号はあのあと釣竿と一緒に捨てた。道楽はもうアウトドア派には絶対ならない、そう決めているのだ……。

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