第9話 失われたモノ

「それじゃあ、お疲れさまでしたぁ!」

なぜか栗野里紗が乾杯の音頭をとって、宴会が始まった。

「それにしても惜しかったね」

「おうよ、だが、次こそは負けねえ。必ずタイトルをとってやるぜ」

いつもの笑顔を浮かべた溝呂木弧門の言葉に、剣城直輝は豪語して一杯目のビールを飲みほした。

その顔にはまだ先日の試合での負傷の痕が残っている。殴られた後が数日間でどんどん腫れ上がったということで、これでもまだマシになったほうである。

次、という夫の言葉にびくりと身を震わせた剣城奈緒香を見やり、姫乃は首を傾げた。

「奈緒香さん、大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫ですよ」

手拭いで顔を拭いて、奈緒香が答えた。その様子に雪姫も心配そうな目を向けた。

「さあ、みんな。遠慮せずジャンジャン喰ってくれ」

料理を運んできた愛居真人、真咲親子が大皿を卓に置き、その姿に赤子を抱いて席に座っていた愛居咲夜が立ち上がろうとする。

「わ、私も手伝います」

「良いから座って座って」

「母、は、咲良、の、世話」

母の動きを制して父子が再び厨房の奥に消え、割烹着を着た別の女性が新しい料理を運んでくる。

「はい。どうぞ」

「おお、美味そうじゃんこれ」

「おいしそうだねえ」

置かれた料理に栗野里紗と天貝香住が目を輝かせた。

「まあ、アレだな。祝勝会じゃなくて残念会になっちまったが」

二つ目の料理を運び終えた真人が席につき、真咲が続く。

さらに参加者の大半が子供ということで昼に宴会という運びになってしまったが——

「昼間から呑むという贅沢に勝るものはねえ!」

「——だな」

無理して振る舞っているのがわかる剣城直輝に真人がビールジョッキを合わせた。

「というか、ここ居酒屋さんだと思ってました」

店内を見回して、姫乃が思わず言った。

前回、父と塞神降魔に挨拶したときは店内の様子を見る余裕など全然なかった上、2年前に訪れた時もそれどころではなかったので、中をゆっくり見るのはこれが初めてだった。

呼ばれてやってきたお店ののれんも「狩天童子」ではなく「ゆるり」というものに変わっている。

「うちの親父が店出してんの週末金、土の夜以外は不定期だからな。それ以外は夕香ゆうかに貸してるからというか、もうそっちが本体みたいなもんか」

「あら、共同経営と言ってくださいな」

そう言って割烹着の女が奥の厨房から顔を出した。

30代半ばの女性と見える柔和な表情の女性だ。

(というか、この人?も人間じゃないし)

この街に来てから人間の知り合い以上に妖ばかりと知りあっている気がする。ただ、夕香と呼ばれた女性がなんなのか、姫乃にはわからなかった。妖ではない気がするが、人間でもない。

それに店の構造が、カウンター席の前に簡単な調理場があるだけで、奥にある厨房は客席からはまず見えないようになっている。

姫乃の視線に気づいたのか静上しずのえ夕香はさりげなく目線を返す。その優しげな目線に、厨房の奥から感じられる霊気については、もはや考えないようにする。

「じゃあ、愛居のじいちゃんって普段何やってる人なの?」

「まあ、多芸な親父なんで毎回そうとは限らないけど、平日は大体近くの大学で講義してるな」

「大学教授なんですか!?」

里紗の質問に対する真人の意外過ぎる回答に、奈緒香が驚いた。

「確か、宗教政治学の権威で塞神教授と言う方がいたと思いますけど」

「ああ、それそれ。もともと護法輪で先々代の僧官長の側近務めてたからな。その筋じゃ結構有名らしいぜ」

「護法輪、ってなんだっけ」

「国内の寺院系勢力の最大組織。こないだ社会の授業でやったよ?」

「そうだっけ?」

真人の言葉を受けた弧門と里紗のやり取りに、姫乃はあはは、と冷や汗をかいた。

護法輪は表向きは国立の宗教組織として世間に知られた団体だ。裏の顔として退魔組織として退魔師の育成機関も兼ねており、姫乃の父、星川頼火の実家である三日月家をはじめとする八聖家は、名門という表の顔と、この護法輪の最高幹部に名を連ねる裏の名門でもあった。

「何話してんだか全然わからねえ」

「気にすんな。なんだか偉そうだと思え」

ぼやく剣城直輝に、真人はさらにビールジョッキを回した。

その隣で、真咲は我関せずと料理に顔をうずめている。手が器用に使えないので、彼の食べ方はつかみどりか、両手で皿をつかんでの犬食いだ。

「というか、本当にかなり偉い人なんじゃ……」

「三日月、姫ちゃんたちの父親も中学の時に親父の教えを受けたいって押しかけてきたことがあってな。まあ1年ばかりここで暮らしてた縁がある」

そう言って、真人は店内の壁の天井近くに立てかけてある写真の一つを指さした。10年以上も前に取ったという一枚の記念写真だった。

写真に写っていたのは中学1年生のころの父、三日月頼火と高校1年生の愛居真人、もう一人の学生は火武斗が以前言っていた悠城という少年だろう。それに塞神降魔と静上夕香。

「中学生ってそんなこともできるんですか」

「いや、アイツは色々特別だな。頭いいのと真面目と礼儀正しいが服着て歩いてるようなやつだったし」

「そんなことより夕香さんっていくつ……」

その写真とまるで容姿の変わらない彼女の姿に里紗が思わずつぶやきかけ、凄まじい殺気を感じて口を閉じた。厨房から顔を出した静上夕香の無表情がとても怖かった。


「……で、咲夜に酒飲ませたの誰だ」

間違ってビール一杯で眠りこけた妻を前に真人は頭を抱えた。

一通りの料理を食べ終わって、みんな思い思いにくつろいでいる。

よっと、妻を抱きかかえて2回の居間に運ぶ真咲をよそに、剣城直輝は自分の妻を侍らせて、前に集まった少年少女に過去の武勇伝を聞かせている。

愛居咲夜を寝かしつけて、娘を父がこちらに用意していたゆりかごに預けて、再び下に降りた真人の前で、剣城の武勇伝は、最高潮に達していた。

「というわけで、次こそ俺は——」

「次があるって、本気で言ってんのか?」

思わず、真人の口から言葉がついて出た。

「どういう、意味だ?」

睨みつける剣城に答えず、真人は調理場の冷蔵庫からリンゴを取り出して、これ見よがしに投げつける。

放物線を描いて宙を飛んだリンゴは、子供たちの頭上を越えて剣城の手で受け止め……られなかった。顔に直撃したリンゴが足元を転がり、床に落ちる。

「突然、何すんだ!」

「見え見えだったろ」

「酔ってんだよ、簡単に取れるわけねえだろ」

「……拳に、な」

睨みつける真人に、剣城直輝は身を震わせた。

「何を、言ってやがる」

「パンチドランカー、もうずいぶんと進行しているんじゃないか?」

睨みあう男たちを前に、子供たちは困惑し、剣城奈緒香は顔を伏せた。

「パンチ、ドランカーってなに?」

「ボクサー特有の病気、かな。殴られすぎて頭とかに障害が出るの」

不穏な空気に戸惑う香住に、自分の頭を指さして、いまだに笑みを浮かべたままの弧門が答える。

「こないだの試合、見せてもらった。相手との距離も測れない、自分の位置もつかめない、まともなフットワークも使えない。自分でも、自覚あるだろ」

「……てめえみたいな素人に何がわかる!」

「少し、調べさせてもらったよ。ジムの会長も、嫁さんと相談して引退を薦めても断わられたって愚痴ってた。今回が最後って口約束もどうせ守らないだろうってな」

剣城の顔に怒気が宿った。その言葉が事実だったからだ。

怒りとともに立ち上がり、真人に向けてとびかかる。だが、プロボクサーの怒りの一撃より先に、愛居真人の右拳がその目の前に突きつけられていた。

眼前におかれた拳に、剣城の動きが止まる。

「で、その素人に負けるつもりか」

真人の目は冷ややかだ。もともと最初から話をするつもりだった。そのための残念会だ。剣城直輝が自分自身の状況をもっと自覚していれば、こんな切り口でなくてよかったのに。

「このまま負けたまま終われって言うのか!」

「次は勝てると思っているのか?」

「やってみなきゃわからねえだろ!」

剣城は吠えた。デビューから何度も負け、そのたびに這いあがり、挑戦し続けてきた。その自負がある。

「自分の強打と打たれ強さにかまけて防御を磨かず、ひたすら殴って殴られての試合をしてきたお前に、これ以上何ができる?」

「てめえ!」

剣城が拳を繰り出し、真人はそれを簡単に避けた。避けられた剣城の拳が宙を切り、足がもつれてその場に倒れ込む。

ボクシングは殴り合いの商売だ。商売道具は拳と身体。そのうち、剣城は身体を安売りしてきた。相手に打たれても打ち返し、拳の強さで勝利をつかむ。その繰り返しの果てに、彼の身体は彼の考えている以上に限界を迎えていた。

「あなた!」

青ざめた奈緒香を真咲が制した。

「お前、今いくつだ?まだ26の若さで、これ以上身体に障害を残す気か?」

「若く、ねえだろ!」

立ち上がれない、酒による酔いだけではない。集中していれば問題ない動きが、今の剣城直輝には出来ない。

「ボクサーとしては、な。だが世間じゃ若輩扱いされる。考えろ、その年で、これから先、嫁と娘を食わせていかなきゃならないんだぞ。それなのに、これ以上自分から壊れに行ってどうする!」

「クソ、クソ、クソクソクソクソォ!」

倒れたまま床を叩く。彼自身にも分かっていたことだ。分かっていて見ないふりをしていたことだ。負け犬のまま終わる。それが悔しくてたまらない、嫌でたまらなかった。

だから、まだ平気なふりをしてきたのに。

ぱちぱちと拍手の音がした。気が付けば、入り口から巨体の老人が姿を見せている。その姿、真人は震えた。

「……親父」

「立派だな真人。流石、我が子に地獄を味合わせた男の高説は一味違う」

皮肉と言うにはあまりに毒がありすぎる言葉が父の口から吐き出される。

「悪かった。ちょっと、頭冷やして来る」

愛居真人は、父と入れ違うように外に出ていく。

「父!」

真咲が叫んでその後を追った。真咲に止められていた奈緒香が夫に駆け寄り、立ち上がろうとする直輝を手助けする。

「追うな真咲!あれはお前を苦しめたあれ自身の過ちを棚に上げた自業自得である!」

「なら、なぜ、爺、は、助けて、くれ、なかった!」

えずきながら吐き捨てるように言った真咲が、降魔の横を駆け抜ける。

孫の言葉に、塞神降魔は何も言わず、そこに立ち尽くしていた。

棚上げの自業自得とはよく言ったものだ。


「お恥ずかしいところをお見せして、重ね重ね、失礼をした」

愛居親子が店を出て言った後、取り残された者たちへ、塞神降魔は頭を下げた。

そんな老人へ、夫を支えた剣城奈緒香は勇気を出して歩み寄る。

「あの、もし差し支えなければ、ご事情を伺ってもよろしいでしょうか」

まだ興奮冷めやらぬ夫をなだめながら、彼女は降魔へと問いかける。

彼女は愛居真人が、夫に強く当たった理由を感じ取っていた。

「今まで、真咲くんの姿にも何か事情があるのだろうと思っていましたが、聞こうとはしてきませんでした。でも、もし私たちで何かお力になることが出来るのであれば、お聞かせ願えませんか?」

「いや、無関係の方には……」

言いさして、降魔は彼女の腕に抱かれた赤子を見やる。

「……咲良の友人ともなれば、付き合いも長くなるやもしれませんな。聞いてもらった方が良いのかもしれません」

つくづく孫に甘い老人である。

「しかし、話を聞くにあたっては他言無用に願います。これはあなた方の身の保証のために必要なこと」

厳しい表情を向ける降魔に、奈緒香が大きく頷き、剣城直輝は不承不承頷いた。

そんな大人たちの様子を見て、姫乃は雪姫を伴って席を立った。

「里紗ちゃん、私たちは……」

帰ろうと促す姫乃に里紗と香住は首を振った。

「なんで?あたしらも聞きたいよ。友だちじゃん」

無造作に里紗が言い放った言葉に、姫乃は緊張する。里紗の隣で香住も頷き、二人とも聞くつもりであることがわかった。

「良い話じゃ、ないよ?」

「姫乃ちゃんは知っているの?」

「私たちはもう、だいたいの事情は知ってるから、……溝呂木くんもそうだよね」

話を振られて、溝呂木弧門は何のことかさっぱり、と言いたげに両手を広げて肩をすくめた。わざとらしいその仕草が、逆に姫乃の言葉を肯定している。

「でも里紗ちゃんたちは……」

「ひめのんさ、難しく考えすぎじゃね?あいつのこと全部知ってなきゃ友だちじゃねーの?」

姫乃の言葉を遮るその反論は姫乃には衝撃的だった。

「でも、あいつになんか事情があるのはわかるから、出来ればちゃんと知っておきたいんだ」

ああ、そうか、と姫乃は里紗の言葉に、その悔しそうな表情に自分が思い違いをしていたことに気付く。

あの日、愛居真咲の変貌した鬼から逃げ出してからずっと、彼は孤独なのだと思っていた。再会したときも、周囲を距離をとって、正体を知っている自分も遠ざけたがっていて孤独なままだと思っていた。

しかし違うのだ。自分たちが、おそらく真咲自身もそう思っていただけで、彼のことを知りたいと、友達になりたいと思っていた子はいたのだろう。

愛居真咲の正体を知れば、理沙も香住も逃げ出すかもしれない。いや、きっとそうなるだろう。かつて自分が自分がそうであったように、真咲がそう理解しているように。

そして姫乃のようにもう一度会いたいとは思わないだろうと思う。姫乃は自分がおかしなことをやっている自覚はある。人を殺す怪物に、今の人知れず人間を食べるような存在と知っていて近づこうとしている自分が間違っているとも思っている。

でも知らなければ、知らせなければ、その正体を隠していれば自分たちは皆で友達になれるのだ。

姫乃は雪姫と視線を交わし、弧門はお手上げと言いたげにもう一度肩をすくめる。

子供たちが一斉に頷き合い、老人に向き直った。

「おじいさん、お願いします。」

孫に良い友達ができたことを、塞神降魔は人知れず神に感謝していた。


「そもそもの起こりは、我が息子、真人がある娘との間に子をなしたことにある」

淡々と老人は語り始めた。

「愚かなことだ。当時息子は17、娘は13。あまりにも軽率な行いであった」

意図して愛居咲夜の名は出さない。

彼女が寝てしまったことは都合がよかった。聞かせたくない話だったから。

この事実に、当然ながら少女の家族は激怒した。

「あえて名を伏せるが、娘は名家の末娘でな。得体のしれない男の子どもを産む前に中絶するようにと父親は強要し、それに怯えた娘は逆に息子とともに逃げ出した」

「ひょっとして駆け落ちですか?」

香住が目を輝かせた。ロマンチックな展開だと思ったのだろう。その前の中絶という言葉の意味は彼女には理解の外にある。

だが、所詮は子供のやることだ。すぐに見つかって彼女は連れ戻されることになる。

「そして先方が娘を見つけた時、すでに臨月を迎えていた。娘の身の上を考えれば、それ以上の強行は不可能。結局、子供は生まれることになった」

塞神降魔の言葉には嘘がある。この時、少女の父親は強引に堕胎、いや流産させるようにしたのだ。娘が穢れた血の私生児を産むことになるくらいなら、母子ともに死なせても構わない。それほどに苛烈な男だった。

男の誤算は、娘はともかく、死ぬはずの赤子が死ななかったことだ。

「生まれた子はその出生すら秘匿され、先方の持つ別荘の一つに軟禁された。本来ならすぐにでも殺したかったのだろうが、その存在を娘の母方の親族にも知られていた以上、手荒な真似は出来なかったのだ」

それが嘘だと、姫乃は知っている。

母親の父、真咲にとってのもう一人の祖父の命令で赤子は何度も殺された。

最初はお産に立ち会った医者に毒を飲まされて死に、それでも蘇生した赤子は次は頭を潰され、再生しても全身を焼かれた。だが、五体をバラバラに引き裂かれようとも赤子はそのたびに再生と蘇生を繰り返したのだ。

硫酸のプールに放り込まれても這い上がり、煮えたぎる溶鉱炉に沈められても鉄を喰いながら赤子は這い出て来て、巨大なローラーで踏みつぶされそうになってもその骨を砕ききれずに機械のほうが破壊された。

殺害を担当したものがその凄惨な現場に、そして蘇り続ける赤子への恐怖に発狂し、担当者が100人を超えるまで殺害が試みられ、そのことごとくが失敗に終わった。

「その後、8年にわたって真咲は監禁され、周囲から隔離され、娘の父親に虐待された。娘の母方の親族、娘の従兄に当たる人物が子供の引き取りを申し出たが、私生児と言う一族の恥を外に出すわけにはいかない、の一点張りで拒否され続けて、な」

塞神降魔は、真咲が鬼である、という前提を隠して事実を伝えている。

「相手の父親は娘には生まれた子供は死んだと伝え、真人は責任をとることを恐れて逃げ出したと吹き込んだ。そして真人が二度と娘には近づけないようにした。それから8年もの間、娘はそれを信じておった。心の傷も癒えぬうちから全寮制の寄宿学校に送られ、父親の厳しい監視にさらされながら、な」

老人は目をつぶる。

「哀れなものだ。我が子の死を嘆き、真人を恨みながら、それでも良き友人に支えられ、立ち直り、新たな人生を歩み始めた。その時に、真実を知らされたのだ」

その時の彼女の絶望は想像に難くない。

今、真咲と暮らしている彼女はどんな気持ちで一緒にいるのだろうか。

「その間、真人は……我が息子は、娘の親族に掛け合い、自分と娘の関係を認めてもらおうと試みた。私にはその筋の知人も付き合いもあったので、そのコネを使えば娘との関係はどうあれ、孫一人の身請けくらいは可能であろうと、最悪、力ずくで連れ出せばいいと高をくくっていたが」

愛居真人の目的が彼女との関係を認めてもらう、からせめて子供だけでも引き取りたい、に変わるまでに時間はさほどかからなかった。

「私も甘かった。先方の父親は他人の言葉に耳を貸すような男ではなかった。それどころか、孫を取り戻そうとする私の行動そのものが友人たちへの咎として降りかかると聞かされ、私は何もできなくなった」

老人が伏せた相手の名が紫上家であることを鈴宮姉妹は聞かされている。父の三日月家と同じ八聖家の一つにして絶大な影響力と権力を持っている名門中の名門だった。その当主が黒と言えば白が黒に変わるほどの。

そして塞神降魔は解決策を失い、息子に託すしかなくなった。

「真人は、あれに好意的な彼女の従兄の協力を得て親族を一人ずつ説得し、8年をかけてその4割を味方につけた。折から先方の家は事業の後退もあり、当主の発言力が弱まり、それまで黙認されていた当主が私生児を監禁、虐待しているという不祥事が発覚する可能性への批判が高まったのだ」

ため息をつく老人に対して、姫乃たちは息も出せない。

「結局、今後先方とは一切のかかわりを持たない、という誓約の元、ようやく真人は息子を取り戻すことが出来た。それがおよそ2年前」

まだ老人の眼は厳しい。いや、問題はここからだった。

「ようやく会えた孫がどうであったかは見ての通りだ。出会ったばかりのころのあれは自分を人間であるすら思っていなかった。言葉すら理解は半ば、自分を獣か何かと思っている有様でな。それ以来、私はあれを何とか更生させようとしてきたが、いまだ道のりは遠い」

そう言って、降魔は姫乃に目を向けた。

「君が最初に真咲に会ったのは、その頃だったな。まだ引き取られて三ヶ月ほどのことだ」

「はい。覚えています。いまよりずっと酷い怪我をしていた」

「軟禁、と最初に言ったが厳密にはいろいろと異なる。あれが隔離されていたのは先方が避暑地として使っていた別荘の一つ。そこに監視役とともに置かれ、時折当主が訪れては虐待を加えていたようだ」

正確には新しい殺害方法を試していた、ということだ。

「監視役の女性は、娘の世話係をしていた人で、真咲の扱いについても多少なりの便宜を図ってくれていた。私が孫の様子を探るために、密かに人を送った際も世話になったようだ。あれに最低限の会話がこなせたのはそのおかげだ。与える食事にすら制限が課せられていたようだが、それ以外は特に拘束もされずに山野を駆け巡り、山の獣を狩って喰う、まさに獣のような生活を送っていたようだ。結局、それが発覚して、彼女も家を追い出されてしまったのだが」

姫乃には思い当たる節があった。愛居真咲の家を訪問した際に出会った老婦人が、その世話係だったのだろう。

「おかげであれは、いまだに自分を人語を解する獣か何かだと思っている節がある。姫乃さんたちに出会うまでは、人間にほとんど興味も持っていなかった」

そう言って降魔は苦笑を浮かべた。鬼と人との混血である孫に、自分がニンゲンでもあると自覚させることのなんと難しいことか。鬼、化け物という自覚は最初から持っているというのに。

不意に、老人の顔が真顔に戻る。

「あれは、満足に言葉も話せぬ。目も、耳も、まともに働いてはおらぬ。真っ直ぐに歩くのもおぼつかず。痛みも苦しみもほとんど感じない。神経はつながっていても、痛みを覚える心がないのだ」

その言葉と共に老人は剣城直輝に目を向ける。その視線の優しさに直輝は驚いた。

「私があれに君の試合を見に行かせたのは、その姿を見せるためだ」

愛居真咲は痛みを感じない。だが、それは幼少時に殺され続けたことで苦痛に関する感覚が麻痺しているからだ。火傷痕の残る体表の神経は鈍り、痛みを与える機能は鈍化し、それでもまだ残った痛覚も真咲の精神がそれを痛みと感知しない。

「身を守ることを知らず、ただ肉体の頑健さにかまけて突き進む。痛みも苦しみも無視した果てにあるものがどんなものか、その末路を教えたかった」

塞神降魔は残忍だ。剣城直輝がいまだにボクサーとして戦い続けようとしていることを知っていて、彼が破滅するまで支援を続けるつもりだった。その生き方を、愛居真咲の反面教師にするために。

「爺さん、俺は——」

「すでにあれはその末路にある。身体にまともなところは一つとして残っておらぬ。医者には驚かれたよ、なぜ生きているのかわからない、と」

反駁する直輝を制し、降魔は話を続ける。

それを為したのは鬼の生命力。だが愛居真咲は不死ではなかった。本当に不死であるのなら、あのように後遺症が残りはしない。あくまで、人外の強靭な再生能力によって支えられた命だった。

だから、鬼人化したところで真沙鬼の肉体は完全には元に戻らない。根本的な歪みを抱えた彼の肉体はすでに歪んだままを正常だととらえてしまったのだ。

「あれは、味もわからぬ。何か役割を持たせたいと、ここの料理をいくつか教えてみたが、それすら誰かの助けなしには成り立たぬ。この店を継ぐことも難しい。あれには人として為しうることが余りにも少ない。この先、どれほどのものを与えられるというのか」

祖父として、同じ人の中に生きる妖の同胞として、降魔は可能な限りのものを孫に与えたかった。

だが、肝心の愛居真咲自身の持つ人としての可能性はすでに少ない。

「あの、真咲くんは、そのことをどう思ってるんですか」

香住は恐る恐る聞いた。老人の語りはあまりに重く、そこに何かを言うのには勇気が必要だった。

「なにも。あれは現状に満足しておるよ。父母がいて、妹がいる、それで何の不満があるのかと、本気で思っておる」

「……みんなを恨んだり、してないの?」

「恨みはある。先ほども私が言われたように、自分を産んだ親にも、助けられなかった私にも。そして、あれは母親の父とその親族の話を、自分を助けた母方の親族以外を決して話には出さぬ。

だが、その恨みを置いて。あれは長子として、父が不在の間、母と妹を支え、護ることを自分に任じている。家族と仲間は助け合うものだ、とそれを愚直に信じておるのだ」

「馬鹿がつくほど真面目だからね。アイツ」

ようやく合いの手を入れる頃合いを見つけて、弧門が茶化す。

それまで張りつめていた場の空気が和らぐ。

あまりにも重い愛居真咲の身の上とそれを語る降魔老人の姿が、生み出した陰惨な雰囲気が、その真咲自身の愚直さに救われた気がした。

「つ、疲れた。ていうか途中聞かなきゃよかったって思ってた」

テーブルに突っ伏して、栗野理沙が伸びた。

剣城直輝は頭をかきながらバツの悪そうな顔を浮かべている。

「なあ、爺さん。俺は——」

「君が答えを急ぐ必要はない。真人にしても君の姿に自分や真咲の境遇を重ねたのであろう。あれはあれ自身の事情や不満を君にぶつけたに過ぎないのだ」

「ああ、そう。そうだな」

そんな夫の手を妻の奈緒香が優しく握る。その手を握り返し、直輝は一つの決心をしていた。

「でもさ!今の真咲っていい感じみたいだし、まだ良かったんじゃないの?」

賑やかさを取り戻した子供たちの姿に、降魔はその表情を険しくした。


「父」

と呼ぶ声に愛居真人は振り向くことはなかった。

海へ繋がる河川敷に立ったまま、川の流れを見ている。

だから、愛居真咲は無言で父親の横に立った。

「悪かった、な」

「言う、違う」

言う相手が違う、と言われて愛居真人は憮然となる。

息子の真面目さ加減には呆れるしかない。なぜ自分にも謝っていると思わないのか。

そして、そんなことを言われる自分が情けなかった。父に言われるまでもなく、自分が鏡を見ながら叫んでいたことは身に染みている。

「それにしても、しばらく見ないうちにお前の周りもにぎやかになってきたなぁ」

ハハっと作り笑いをして話題を振る。作り笑いがいつものことになったのはいつからだろうか、ずっと昔は人と話をするときは心の底から笑っていた気がするのに。

「ヒメ、と、咲良、のトモダチ。自分、違う」

「トモダチの友達はトモダチ、って考えにはならねーのかお前は」

返す沈黙が、そんなことは考えつかなかったことを如実に語っている。この考え方の堅苦しさはまさしく父、降魔のものだ。

「正直、お前にも咲夜にもすまないと思っている。俺がもっとそばにいりゃ……」

「仕方ない、こと」

普通の家族ならもっと平穏な幸せな生活が送れるだろう。だが、愛居真人はそうではなかった。

愛居真咲が襲撃に遭うのと同様の事態は、過去に愛居真人の身の上にも起こっている。いまだ実力の上では真人が上でも、生まれつき強靭な生命力を持つ真咲に比べて、鬼の血を引いていても人間でしかない真人では襲撃のリスクが違う。

どんなに強い力を持っていても、人間は撃たれれば死ぬのだ。

そうである以上、この街を、日本を離れて仕事をするのは愛居真人にはやむを得ない事情だった。父子が別々にいることで襲撃の手を分散させる意味もある。

「お前は、このままでいいのか?」

「まだ」

『まだ、自分は父には勝てない。祖父にはもっと勝てない。だから修業する。修業してもっと強くなる。父より強くなって、外に出ていく。そうしたら、父が街に残る』

「ああ、なるほどな」

思念を受け取って、真人は納得する。あくまで母と妹の護りを確保する考えが真咲にはある。父か、自分のどちらかが街に残っているべきなのだ。

よし、と真人は両手で膝を打った。

「ちょっとさっきの謝ってくる。あの子が咲良の友達なら、親同士の付き合いってのもちゃんとやんないといけないしな」

発想が三代そろって同じである。

手を振る父を真咲は見送り、戻ろうとはしなかった。


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