第8話 父の姿
「なんか、変な人がいる」
その日は鈴宮姫乃と栗野里紗、天貝香住の三人は香住の家で遊んで、午後から特に目的もなく外に出る、という適当な動きをしていた。
そうやって姫乃もよく知る運動公園まで来た時、その事件は起こった。
香住が指さした先には、茂みの中に隠れて公園の中を伺っている不審な男がいた。
男の挙動はあまりにも不審で、少女たちはその場で対応を協議した。
「どうする?」
「どうしよ」
「無視する?」
「それが良いかも」
「通報しました」
「早いよ!勘違いだったらどうするの!」
やり遂げた表情で携帯端末を握っている香住に姫乃は思わずツッコミを入れた。
「大丈夫!私、将来婦人警官を目指しているから」
「先週と将来の夢が違う!」
「本当にテレビの影響受けやすいねアンタ」
舞い上がる香住の姿に姫乃と里紗はついていけない。
そうこうしている間に近所の交番から警察官が飛んできた。
「君、ちょっとそこの交番まで来てもらえるかな?」
「なんだ、お前、何の用だ。ポリ公にパクられるようなことはしてねえぞ」
その口調がすでに捕まりそうだ。
「公園に不審な人物がいると110番があった。ご同行願いたい」
「うるせぇ、こっちはそれどころじゃねえんだよ!」
「警察官に暴力を振るうのか!」
「俺がどこにいようが俺の勝手だろうが!」
男と警官が不穏な雰囲気となり、遠くから隠れてその様子を覗いていた姫乃たちは息を呑んだ。
そこに——
「あなた、何をやっているんです?」
と公園の方から一人の女性がやってきた。眼鏡をかけたゆったりした黒髪の若い女性が、赤ん坊を抱いている。
「奈緒香!助けてくれ!」
「お知り合いですか?」
「あの、夫が何か?」
漏れ聞く警官との会話から察するに男とその女性は夫婦のようだった。
姫乃と里紗に睨まれ、香住は冷や汗をかく。
「将来の婦人警官が、なんだっけ?」
「わ、わたし、知らないよ」
逃げた。
と、その女性の後ろから見覚えのある少年が姿を見せた。赤ん坊を背負った、顔の左半面を黒い眼帯で覆った小柄な少年。
「真咲くん!」
その姿に思わず声を上げた姫乃に、気づいた愛居真咲が視線を向けた。
見つかった。
「「「すみませんでした」」」
姫乃、里紗、香住の3人がテーブルの反対側に座った男に頭を下げる。
「こちらこそ、ご迷惑をおかけしました」
と男の隣に座った赤ん坊を抱いた女性が頭を下げた。
その横で男は不機嫌そうに横を向いている。
あの後、真咲に見つかった姫乃たちと女性が警官と話すこと数分、誤解に気付いた姫乃たちがその場で謝ることとなった。
そして今、姫乃の祖父が経営する鈴鳴レストランの一角で、家族客用の席で姫乃たち三人と夫婦が向かい合っている。
両者から見て横合いに、愛居真咲が同じ楕円テーブルにつきながら我関せずという様子で妹の目の前で、指を動かして戯れている。
「剣城、奈緒香と言います。こちらは夫の……」
「剣城直輝だ」
ぶすっとした表情で男が言い放つ。オールバックにした髪と飛び出した頬骨、額やこめかみの古傷に目つきの悪さはまさに悪人面と言うほかはない。ジャケットのふくらみが男の筋肉質な体格を現している。
「それから、この子は須奈緒。1歳です」
「剣城、直輝と奈緒香と須奈緒ちゃん……3人はどういう集まりなんだっけ?」
「家族ですよ?」
「全員、ナオがつくんだね」
里紗が親子の共通点を上げ、姫乃と香住も頷く。
「それがきっかけで知りあいましたから……あなた、いつまで不貞腐れているんです?」
「うるせー」
と、妻の非難の目線にも剣城直輝はぶつくさと文句を止めない。
「第一、あんなところに隠れていたあなたにも問題があります。一体、何をしていたんですか?」
「そりゃお前、なんか楽しそうに出かけてったから、何があったか気になってだな」
「お友達に会いに行くって伝えていたでしょう」
「いや、なんかここ最近ずいぶん機嫌よさそうにしていたから、俺は……」
「浮気しているとか思ったんですね!」
妻の詰問に言葉を濁す剣城直輝の姿に、なぜか香住が目を輝かせた。
「香住ちゃん!……すみません、この子ドラマ好きで」
「……なおくん?」
「いや、その、すまん」
妻の冷ややかな視線を前に、直輝はついに頭を下げた。
「なおくん、って呼ばれてるんですか、なおくん……素敵な響き」
「すみません。この子もう無視してください」
妄想の世界に旅立った香住の姿に姫乃は泣いた。
そんな二人を無視して、栗野理沙が愛居真咲と剣城奈緒香を交互に見やる。
その視線に気づいた真咲が、ようやく妹と遊ぶのを止めて会話に加わった。
「それで、二人はどういう関係なのさ」
「どういう、と言われても……ママ友、でしょうか?」
「母、では、ない。母、いる」
改めて関係を問われて、思わず口走った奈緒香の横で真咲が首を横に振った。
「つーか、お前なんだその恰好。事故にでもあったのか?」
それまでも真咲の異様な姿に驚いていた剣城直輝の言葉に、真咲は再び首を振る。
「自分、母、の、父、望まれな、かった」
「ヒデエ親もいたもんだ」
「違う、父、母、良い。母、の、父、悪い!」
家庭内の虐待を察した直輝の言葉に、真咲が怒気を込めて返す。声に力を込め過ぎて、無理なしゃべり方をした真咲が喉に手を当てて身を震わせる。
あくまで悪いのは母親の父親、つまり祖父だと強弁する真咲の姿に、直輝は謝った。
そして祖父、と言う言葉を愛居真咲は使わなかったことに誰もが気づいた
だが、それを気にしないように真咲が妹を持ちあげて奈緒香の腕に抱かれた娘と並べる。
「咲良、トモダチ、須奈緒」
「真咲くん、本当に咲良ちゃん大好きだよね」
学校と、夜以外では愛居真咲と会うことは少ないが、その時は大抵赤ん坊を背負っている気がする。
「妹、護る、兄、務め」
無表情でもどこか誇らしげにすら見えるその姿は、傷だらけの姿も、凄惨な夜の姿とも別人のようだった。
「良いな、それ。嫌いじゃないぜそう言うの」
バンバンと剣城が遠慮なく真咲の背を叩く。
首を傾げて真咲が剣城直輝を見上げた。窪んだ瞳が彼を見上げ、その不気味さに直輝は顔を引きつらせる。
「ライト、級、剣、じょ、なお、き?」
「お、知ってんのか!」
「なに、何の話?」
身を乗り出した里紗に真咲は携帯端末で情報を呼び出して見せる。
「プロボクサー。ライト級、日本3位、剣城直輝……本物?」
「ジム、街、ある」
目を丸くする里紗に、剣城直輝は胸を張った。
「おうよ!さらにもうじき日本一の男になるのさ」
「日本チャンピオンに挑戦すんの!マジで!すっげー見に行きたい!」
「そうだろそうだろ」
カラカラを笑う直輝の姿に、里紗が興奮して立ち上がる。
「つーわけで、チケット買ってくれ、というか買え。俺に詫びる気があるなら」
「お金とるのかよ!」
「うるせー、日本ランカー程度じゃ食っていくの大変なんだよ」
小学生相手に売り切れなかったチケットを懐から取り出すあまりに情けない夫の姿に、奈緒香が頭を抱えた。
「爺、確認、する」
「お、話がわかるじゃないか。嫌いじゃないぜそう言うの」
真咲の頭を遠慮なく叩く剣城を見上げて、真咲は冷ややかな目を向けた。
「祖父、後援、チケ、持つ、数、ある、確認」
「……マジか」
真咲の端末を借りて、姫乃が塞神降魔へ電話をし、彼が後援会の副会長であることが判明するまでに30秒とかからなかった。
そして剣城直輝の試合の日がやってきた。
その日の小学校の授業が終わり、姫乃たちはそれぞれ一度帰ってから、再び姫乃の家の前に集合することになっていた。
鈴鳴レストランはかなり便利な立地にあることを姫乃は改めて知った。
やがて時間通りに集まった姫乃、雪姫、真咲、真咲から話を聞いた溝呂木弧門にわずかに遅れて香住、さらに10分遅れで里紗が到着する。あらかじめ遅刻を予測して早めの集合時間にしておいて良かったと思う姫乃であった。
そして店の前に一台の大型ワゴンが止まる。迎えに来た運転手の姿を見て、真咲が声を上げた。
「父」
「よう!真咲、元気にしてたか」
そう言って、愛居真咲の父、愛居真人が手を振った。
「真咲くんのお父さん?」
「なんか、若いね」「ちょっとカッコいいかも」
朗らかな笑顔を浮かべた青年だ。だがその顔は右の頬に大きな切り傷があり、左目にも傷跡があったりと、いくつもの古傷があった。真咲とは顔だちも、傷だらけの点も含めてよく似ている。
「二日、後、戻る」
「ああ、船が予定より早く着いてな。ひとまず親父のとこに顔出したら、なんか車出せって話になって……ボクシング見に行くんだって?」
真咲が首を縦に振る。
「よし、そうとなれば早く乗った乗った」
促されて、皆が車に乗った。
走り出した車の中で一通りの自己紹介を済ませた後、愛居真人は運転席から車のバックミラー越しに栗野里紗に目を向けた。
「この近くで栗野ってことはあれか、亀婆さんのとこの子か」
「……なんか時々言われんだけど、うちの婆ちゃん、なんで亀って言われるの?」
その理由を姫乃と雪姫は知っているが言わなかった。
「あそこの守り神、亀だからな」
言われてみれば施設にそんなオブジェもあった気がする。
「そういや、最近は温泉行ってねえなぁ」
「あ、うちの銭湯、最近スパに改装したから」
「マジか。残念だな」
(妖怪温泉はやってますよ)
と姫乃は心の中で応えて、試しに念を送ってみる。
『そいつは重畳』
と言葉もなく姫乃に返信が来て、顔を見合わせた鈴宮姉妹は愛居真人もただの人ではないことを確信した。
試合会場にたどり着き、真人の先導で子供たちが後に続く。
後援会名義で確保されていた席は、かなり見晴らしのいい場所だった。
先に来ていた剣城奈緒香と挨拶をして、彼女の抱いている赤ん坊が愛居咲良の友達だと息子に聞かされた真人が空を仰ぐ。
「咲良も連れてこりゃ良かったな」
「ここ、うるさい」
どっちにとっての意味だろう。
「真人君じゃないか、帰ってきていたのかね」
と近くにいた初老の男が座っていた席から振り向いた。
「お久しぶりです。楊さん、まだ後援会頑張ってたんですね」
「そりゃ、これが楽しみだからね。そっちは仕事はどうだい?」
「ようやく、行って帰ってに慣れそうですよ」
朗らかに笑いあう大人たちを横に子供たちが席につく。
愛居真人はそのまま他の席に座っていた知り合いに挨拶を続けていた。
前座の試合が終わり、本日のメインイベントとなる日本タイトルマッチが開催される。
威勢の良いアナウンスとともに挑戦者である剣城直輝と、チャンピオンの名が読み上げられ、二人はリングの中央で向かい合った。
「あの人、チャンピオンに勝てんの?」
「この数年まともに見ちゃいないから詳しくは言えないが」
と、栗野里紗の言葉に前置きして真人が開設を始める。
「剣城はブルファイター、防御を固めてひたすら前に出るタイプだが、チャンピオンの方はそれを捌くカウンターを得意とするアウトボクサー。正直、剣城は国内有数の強打者だが、防御がザルなんでチャンピオンが圧倒的に有利だな」
「詳しくないって言う割にはよく知ってるじゃん」
「そりゃ地元の強者だからな。何年か前までは応援してたんだが、ここ何年かは国内ランキングで勝ったり負けたりの繰り返しで、タイトル戦もこれで4回目だか5回目だか」
途中、呆れたような口調も交えて真人は語る。
「とにかく、試合は剣城が相手を捕まえられるかどうかだ。チャンピオン側は判定勝ちが多いから、退屈な試合運びになるだろうし、割と長丁場になるかもな」
そして試合は、愛居真人の言う通りの展開になった。
ガードを固めて突進する剣城をチャンピオンが迎え撃ち、剣城のパンチをかわしてパンチを撃ち込む。だが、効いた様子もなく剣城はさらにチャンピオンに迫り、チャンピオンは華麗なフットワークでリング内を動き回りながらさらに遠間からパンチを撃って足止め。そんな攻防が何ラウンドも続いた。
「なんか、地味だね」
里紗が思わず不満を漏らした。
「アウトボックスってのはそういう勝ち方だからな。倒れるまで殴り合いするよりはずっとスマートな戦い方だが、どうしたって派手さに欠ける。……しかし」
愛居真人は目を細めた。その目はチャンピオンに何度も突進する剣城直輝の姿を見通している。
「あいつ、相手との距離が図れてないんじゃないか」
真人の指摘通り、剣城のパンチは何度も空を切り、チャンピオンのカウンターを受けてふらつく。
「真咲、よく見ておけ。闘技の基本は間合いだ。距離を制したものが試合を制す、って言いたいところだが、ありゃ外しすぎだ」
真咲の頭に手を置いて語る真人の表情が険しくなる。
そこで、わっと歓声が上がる。
ついに剣城のパンチがチャンピオンを捉えたのだ。
クリーンヒットしたストレート一発でチャンピオンはダウン。ニュートラルコーナーに下がった剣城が歓喜の叫びを上げた。
だが、チャンピオンは何とか立ち上がり、試合は最終ラウンドにもつれ込む。
「行ける!いけるんじゃないのこれ!」
バンバンと興奮して肩を叩く里紗に生返事をしながら、姫乃もまた試合から目を離せない。
だが——
「ダメだ。狙われた」
愛居真人が小さくつぶやいた。
その意味を聞こうと一瞬横を向いた姫乃の耳に、歓声と悲鳴が上がった。
慌ててリングへ視線を戻した先に、ガッツポーズをしたチャンピオンの姿とマットの上でもがく剣城の姿があった。
「顎、だ」
見ていた真咲にも、鬼の眼ですら一瞬見逃しかけたほどの右のカウンターが剣城の顎を捉え、続けて打ち下ろされた右のパンチがこめかみを射抜いたのだ。
何度も立ち上がろうとした剣城が10カウントを迎え、チャンピオンをたたえる歓声の中、担架で運ばれていく。
真っ青になった剣城奈緒香が娘とともに席を立って消えていく姿を、姫乃は何もできずに見ているしかできなかった。
「ラッキーパンチだよなぁ、あんなの。あと一歩だったのに」
帰り道。
何度目かの里紗の愚痴を適当に聞き流し、姫乃は前を行く愛居真人の背中を追った。真人の隣には真咲が足を並べているが、大人と子供の足幅の差に加えて、上手く歩けない真咲はかなり無理をしてそれを追っている。
それに合わせて愛居真人はさりげなく歩く速度を下げた。
「父、聞く、ある」
「なんだ?大体のことは答えられるぞ……たぶん」
「なぜ、最後、わかった?」
「試合か?まあ、分かってたというかああなるだろうってのはな」
「理由」
「剣城は前に出るしかなかったからな。前半、ポイント稼がれて、後はKOしか勝ち目がなくなった。やつとしては防御を捨てて打って出るしかなかったのさ。だから、そこを狙われた」
納得いかないという表情を真咲が浮かべた。
「ポイント判定勝ちが嫌か?まあ、お前はそうかもしれないがな」
真咲は鬼だ。力で勝ってこそ勝利という論理で動く。獲物は食うため狩る獣と同じだ。どんなに理屈を重ねても、思考の基本が獣と同質である以上、ルール上の勝利、というものに価値を見出せない。
倒せないパンチを当てて、点数を稼いで勝つことの何が良いのかと真咲は不満だった。
「勝負ってのは、状況を味方につけたやつが勝つのさ」
そんな息子の姿に真人は肩をすくめた。こればかりは言葉で理解させるのは難しかった。
「ポイントで追い詰められた以上、剣城には攻めるしかなくなった。チャンピオン側は最初からそういう試合の組み立てをしていた。どっちに転んでも勝てるようにな。そして剣城は攻めに出たことで、やつにKOのチャンスを献上したわけだ。チャンピオンを捉えるのがあと1、2ラウンド早ければわからなかったんだがな」
淡々と真人はその状況を整理し、真咲に伝える。
「で、この後どうする?」
それでもまだ不満顔の真咲にそう言って、愛居真人は息子へ挑戦的な目を向けた。
愛居真人の運転する車が、それぞれの家に子供たちを送り届けた後、姫乃は自分の部屋でぼんやりとしていた。そんな姉の様子を伺って、雪姫は声をかけた。
「今日は、残念だったね」
鈴宮雪姫には、剣城直輝の試合は、姉の知り合いの試合、という以上のものではなかった。だから、姫乃との気持ちが共有できない。
姫乃は試合の結果より、その試合を青ざめた表情で見ていた剣城奈緒香の姿を思い出していた。無責任に応援していた自分たちより、夫が負ける姿を見た彼女はどんな気持ちだったのか。
だが、不意にその気持ちに穴が開いた。
「お姉ちゃん?」
「真咲くんが、戦ってる?」
ぼっかりと姫乃の意識に穴が開いている。彼女の感知圏内にすべてが遮断された空間が存在している。その感覚は、最初の夜の時と同じだ。
姫乃と雪姫は頷き合い、外へ出る。
前回と同じように白竜に乗って空を飛んだ姫乃がたどり着いたのは、もはやお馴染みとなった運動公園だ。
それが最初の夜と同じように黒い帳に覆われている。
運動公園はその広さゆえに、愛居真咲にとっては昼夜問わず便利な狩場として利用されているのである。
姫乃は意を決して結界内に入り込み、雪姫が続いた。
中に入った姫乃たちを待ち受けていたのは、最初の夜と同様、丘の上で敵に襲い掛かる真沙鬼の姿だった。
だが、その敵は以前の怪鳥などではない。人間だ。愛居真咲の父、愛居真人その人だった。
2メートルを超える体躯を持つ赤黒い鋼鉄の鬼が、ただの人間にすぎないはずの真人に殴りかかる。思わず目を背けた姫乃と雪姫は、続く鬼の拳の余波に思わず目を開いた。
平服のまま、真人は鬼の拳をその手を使ってさばき、かわし、あまつさえ上段蹴りを放って後ろに跳ぶ。風を巻いて放たれた鬼の拳の余波で地面が抉れ、草花が舞い散る中で、真人は平然として衣服にも傷一つない。
だが、さらに鬼が追撃する。185センチを超える長身の真人よりさらに二回り以上の巨体を持つ鬼が上から覆いかぶさるようにその右腕を振り下ろし、逆にその正拳を顔面に叩き込まれて動きを止めた。
「大振りすぎるぞ。もっとコンパクトに打て」
鬼の拳より先に正拳を当てた真人が息子へアドバイスを送り、呻き声を上げて鬼が一跳びで大きく後ろに下がって再び拳打の姿勢をとる。
その動きを姫乃はよく知っていた。
『
鬼の右腕から先が、余りの速さに消えるほどの速度で拳打が放たれ、拳の先から打ち出された闘気が音速を超えて、秒間数百発の闘気弾が愛居真人を襲う。
だが——
「
その超音速の闘気弾の連打を愛居真人はその両手で捌く。あまりの動きの速さに、鈴宮姉妹にはこちらも肩から先が消えたようにすら見える。
捌かれ、弾かれた闘気弾が次々と地面を抉り、飛んできた流れ弾を目の当たりにしてとっさに姫乃は両手で目の前に障壁を作りだした。
「——待て!」
と言われて、閃迅拳の連打と同時に距離を詰め、今まさに目の前の父親に殴りかかろうとしていた鬼の巨体が制止する。
父の視線を追い、真沙鬼はようやく姫乃たちの存在を知覚した。
「姫ちゃんたちか、何か用かい?」
今の戦いが何でもないような口調で真人が二人に話しかけ、その平常ぶりに逆に鈴宮姉妹が困惑する。
「なにか、というか。何をやってるんですか?」
問い返された真人は腰に手をあてて自分より巨大な息子と視線を交わした。音速拳の余波を受けても傷一つつかないその姿に、ようやく姫乃はその全身が皮膜のように闘気を纏っていることを感知した。
硬身功。気を練り上げて身体を鋼鉄の強度に変える硬気巧によって、愛居真人は平然と全身を固め上げていた。鬼が鋼の肉体を持つなら、彼は肉体を鋼に変えていたのだ。
「修行だよ、修行。毎回、帰ってきたら稽古をつけてやる約束になっててさ」
親指で後ろに控えた鬼を指して、真人が笑う。おとなしく会話の終わりを待っている鬼の姿はシュールだった。
微笑ましい親子の姿と言えるのかもしれない。結界内の破壊は元に戻るとはいえ、公園内部が惨憺たる有様になっていなければ。あるいは、先ほどの正拳で一度鬼の顔が半分潰れていなければ。すでに再生しているとはいえ、息子相手に容赦のない一撃だった。
(そもそもこの人、お父さんも子供も鬼なんだよね)
愛居真人が人間であることはわかっている。姫乃の眼で見ても間違いなく人間の枠を出ない。
愛居真咲のような妖気も、塞神降魔のような得体のしれない存在感もない。鬼と人間の混血が、より人間の血が濃くでたということだ。
だが、その人間であるはずの男が、生身で鬼人と渡り合っていることが脅威的だった。単純に人間と言うには規格外の存在であることは間違いなかった。
——と、姫乃が考えているうちに迷惑な親子は再び戦闘を再開していた。
「さて、流石にこのままだと俺のほうがキツい」
と音速拳を捌き続けて真っ赤になった両腕をぶらぶらさせながら愛居真人がうそぶく。
いくら気闘法で強化したとしても、元の肉体強度の関係上、鬼である真沙鬼のほうがはるかに強靭だ。真人が一見無傷に見えても、それは一撃でも許せばそれだけでも致命傷になりかねないからだった。全てかわすか、防ぐしかないのだ。
故に、愛居真人も本気で戦う。
「——
その言葉と共に、愛居真人を真上の空中に巨大な鎧が出現した。
漆黒の全身鎧が愛居真人を取り囲むように部位ごとに展開してバラバラになり、愛居真人の手足、胴、腰へ次々と装着されていく。
最後に空中に残った兜を真人は自ら手に取り、被る。
「お前にこれを見せるのは二度目だったな」
完全武装して言い放つその姿は目の前の変貌した息子のものによく似ていた。
「これは我が兄、
装着した鎧の様子を試すように腕の上げ下げを繰り返しながら、愛居真人は鬼と対峙する。
「護法輪十二神将が四神将、
その言葉と共に地を蹴った真人の身体が超音速の巨大な弾丸となり、放たれた鉄拳の直撃で真沙鬼の巨体が吹き飛ぶ。
鬼の反応をもってしても、今の真人を捉えることが出来なかった。
「鎧羅は生まれついた力を使うしか能のない無能でな。おかげで能力もない俺が倒してそれを有効活用してるというわけだが。兄さんとしても自分の力に俺の頭脳が加われば、他の兄たちにも勝てると思って力を貸してくれているわけだ」
兄を殺し、その遺骸を利用する。その凄惨な事実を何でもないことのように真人は語った。
愛居真人は鬼の父と人間の母の間に生まれた人間だ。
その肉体も精神も人の域を出ない存在だが、妖の住む中で生まれ育った環境が、彼の思考や感性を普通の人間とは全く異なるものにしていた。その点では、精霊に囲まれて育ってきた姫乃に近い。
ただ、より血なまぐさいのだ。
(というか他のお兄さんって何?あの人、一人っ子だって聞いたけど!?)
その点は、姫乃が父から聞かされた話と異なる。
「が、あ、あ、あ、あ、あ!」
真沙鬼が吠えた。咆哮とともに突撃し、父に向かって襲い掛かる。
だが、その突進を真人は軽いステップを踏んでかわし、そのまま拳打を打ち込む。
ジャブだ。左腕の肩から先が別の生き物のように動き、鬼の顔面を横合いから撃ちぬく。その拳の向きに真沙鬼が顔を巡らしたとき、すでに父の姿はそこにはなかった。
霊装により基礎能力が向上した愛居真人は純粋な身体能力でも変身した真沙鬼のそれに匹敵する。それを卓越した格闘技術によって活かし、鬼を圧倒していた。
「どうした!お前はさっきの試合で何を見ていた!」
素早いフットワークで目まぐるしく位置を変えながら、間断なくジャブを放つ真人と、撃たれながらも強引にそれを追いかける真沙鬼。その姿は今日のチャンピオンと剣城直輝の試合展開によく似ている。
鬼の力も速さも人間のそれとは比べ物にならない。だが、どんなにパワーやスピードが上がっても、それを格闘戦で活かす技術は同じものだ。
よりコンパクトに、より早く、より正確に真人は牽制打を放ち、態勢を崩した真沙鬼に右のストレートを放った。
直線で音速を超える速さを持つ真沙鬼も、相手の姿を正面にとらえなければ意味がない。常に側面に回り込みながら拳打を放つ真人を正面にとらえることが真沙鬼にはできなかった。
「
鋭く、素早く、間断のない攻撃を加えながら真人は真咲を指導する。
一打一打は鬼にとって何でもない一撃だが、それが積み重なればそれは重いダメージとなる。連続で撃ち込まれる拳に、鬼の再生力が追い付かなくなってくる。
鋼の肉体に鉄の拳が叩き込まれ、徐々にその身体がへこんでいく。
真沙鬼が両腕を振り回し、真人を遠ざけようとする。だが、その腕の内側に鎧を纏った真人の身体がありえない速さで侵入し、密着姿勢から真沙鬼の胴を両手で撃ちぬいた。
「
放たれた掌底は、鋼鉄の強度を持つ鬼の肉体を無視し、衝撃波で内臓を破壊する。
鬼の身体が、その衝撃に耐えられずに膝をついた。
本来なら、巨大な岩をも塵に変える威力を持つ掌底だ。その直撃で鬼の身体が粉々になっても不思議ではなかった。
「自分の頑丈さや再生力を過信するな、防御意識を常に持て。再生封じなんていくらでも手段はある」
真人にとってはこの戦いはあくまで指導。父から子への戦闘技術の継承が目的だった。
だが、真沙鬼にとってはこの戦いは自分が父を超えるためのものだ。一切の遠慮なく、戦闘力のすべてをぶつけていく。
再び距離をとった真沙鬼が半身を引いて拳を構え、真人も鏡合わせに同様の構えをとる。
『修羅——』
「——閃迅拳!」
親子ともに放つ技は同じ。超音速の拳の連続拳。
その右腕の肩から先が消滅したかのように動き、秒間1000発を超える拳打が放たれ、その拳の先から打ち出される闘気の弾丸がお互いの身体めがけて飛ぶ。
姫乃たちの目には互角に見えたその応酬は、だが、真沙鬼の身体に直撃する気弾がいくつもある時点で真沙鬼が押されていた。
逆に真沙鬼の放った拳はすべて真人に届く前に真人の音速拳に軌道を反らされ、一つとして真人の纏う霊装にも届かない。
音速の気弾の直撃で鋼鉄を超える強度を誇る鬼の身体に穴が穿たれていく。穴は即座に再生し、そのたびに同じ部分が抉られる。
「どうした!手が鈍っているぞ!足を踏ん張り、腰を入れろ!肩を回せ、一打一打の精度と連打の回転を意識しろ!」
鬼に穿たれる穴の数が増し、再生速度が追い付かない。
真沙鬼が咆哮とともに全身から闘気を噴出し、迫る気弾をすべて吹き飛ばした。
『修羅——真撃』
「なぜそこで大技に走る!」
必殺の一撃を放とうと真沙鬼が振り上げた右腕に2000発近い拳弾が撃ち込まれ、肩から先が引きちぎれて吹き飛んだ。
なくなった右肩を抑えて膝をつく真沙鬼を見下ろして、真人がその右腕を構えた。
「閃迅拳は我ら降神羅皇の血族の鬼神拳の始原にして頂点。拳の速さ、重さ、軌跡すべてを自在に操り、いかなる防御も千変万化の拳を持って撃ち抜く絶対の拳」
真沙鬼の肩から再び腕が生え、その全身の負傷が消えて元通りの姿を取り戻す。
「百で届かなければ千、千で駄目なら万の拳を持って撃つ——それが修羅閃迅拳」
父の言葉に鬼が頷き、再び立ち上がる。
「さて、続きだ。閃迅拳についてはひとまずお預けだな」
全身を復元した真沙鬼が再び構えをとり、真人がそれに対して軽いステップを踏んだ。
最初の追いかけっこの繰り返し。姫乃にはそう見えた。
だが、真沙鬼が振り上げた拳は、巨大な闘気を纏い、真人ではなく、真下の地面に向けて叩きつけられた。
爆音とともに地面が爆ぜ、大量の土砂があたり一面に飛び散る。
「目くらまし!?」
姫乃たちまで、舞い上がった土砂に視界を遮られる。
だが、真人はその意図を察して舌打ちした。
最初に舞い上げられた土砂の破片が、真人の霊装に刺さり、小さな穴をあけている。それが霊装の全体にまばらに突き刺さっていた。
それだけなら、問題はない。
しかし、舞い上げられた土砂が、真沙鬼の闘気によって瓦礫となって空中で固定されている。地面に闘気を流し込み、土砂の一粒一粒に自分の妖気を纏わせたのだ。闘気で強化された瓦礫は、真人の霊装に刺さるほど硬化している。
それが空中に散らばって、その場に固定されていた。
この状態で真人が先ほどのように高速で動けば、空中の瓦礫が突き刺さり、最悪真人の全身に穴が開く。全身を硬身功で今以上に固めたとしてもダメージは避けられないうえ、速度との両立が難しくなる。
だが、真沙鬼は違った。
空中に大量の瓦礫を固定した空間で、真沙鬼は先ほどと同様に音速で父に向かって突撃する。
その全身を相対速度で音速の弾丸となった瓦礫が貫き、しかし鬼はその痛みを感じることなく突き進む。
「——!」
全身を硬気巧で纏いながら、真人がステップを刻んでその突進をかわし、だが背後にあった瓦礫の破片に引っかかって、動きを止められた。
その瞬間を、全身が穴だらけとなりながらも真沙鬼は見逃さない。
『
以前、姫乃を救うために街ごと吹き飛ばそうとした広域破壊の拳を、目の前の父に向かって上から叩きつける。
真人が両腕を交差させて、それを正面から受けた。
そして、公園全体が爆ぜた。
とっさに姫乃が障壁を張り、さらに姉を乗せて空中に飛び上がった白竜から姫乃は眼下の爆煙を見下ろしていた。
真沙鬼の放った一撃は結界内の地面全てを破壊し、膨大な土煙が視界全体を覆っている。
そしてその煙が晴れた時、姫乃は信じられないものを目にした。
鬼の拳を受け止めた、霊装を纏った戦士の姿を。
「良い一撃だった。だが、逃げ方はあるものさ」
愛居真人の全身の霊装が砕けて落ちる。
受け止めた拳の一撃、その衝撃を腕から肩、腰に分散させ、さらに両足を通じて地面に逃がす。
全身の関節、気功を同時に連動させる発頸が、愛居真人を無傷のまま、叩きつけられたエネルギー全てを自分の身体を素通しさせて、大地に肩代わりさせたのだ。
完全な無傷というわけにはいかず、その伝播の代償として霊装が砕けたものの、霊装自体は時間が経てば復元する。
再び生身に戻った真人がその拳を、力を使い果たした真沙鬼に突きつけた。
「——まだ、やるか?」
真咲は答えず、力を使い果たした鬼の身体が崩れ、白い骨と皮だけの怪物の子供が地に落ちた。
攻撃を受け流すために力を使い果たし、父親の矜持で平然として見せていた真人は膝に手をついて大きく息を吐き出した。
「なんか、騒がせちまったな」
白い小型の怪物を肩に背負い、愛居真人は姫乃たちに謝った。
実際、彼ら親子の修業で、夜中に彼女たちの近所で暴れまわっていたのだから、お騒がせ以外の何物でもない。
いえ、と姫乃は答えて首を振った。
上手く言葉が出てこない。
父の背に背負われた怪物は姫乃が昼に見る愛居真咲の姿とも、夜に見た真沙鬼の姿とも違う。
人でも鬼でもない、半端な存在だった。おそらく、すべての力を失ったのがこの状態なのだろう。
「……大丈夫なんですか?」
「まあ、明日の朝までには回復するだろうし。……俺の方は筋肉痛じゃ済まないだろうけどな」
苦笑する真人につられて姫乃も苦笑いを浮かべた。
「じゃあ、明日真咲くんが学校で困っていたら手伝ってみます」
「頼むわ。こいつそういうの人に頼らないからさ」
おやすみなさい、と挨拶を交わして、鬼の親子たちが去っていく。
「とりあえず、寝よう」
今日も一日でいろいろなことがありすぎた。
姫乃は考えることを諦めて、帰ることにした。雪姫が続く。
「お、があ、ざん」
それは言った。
口から泡を吐き、潰れた喉で、ちぎれた舌で、引き裂かれた顎で。
「お、があ、ざん。どをじで、ぼぐを、うんだの」
それは言った。
血の涙を流しながら、焼けた目で、つぶれた顔で、砕けた頭で。
「どおじで、ぼぐを、うんだの」
全身を襲った震えに、身を震わせて目が覚めた。
涙が溢れて止まらない。
これは夢ではない。
現実にあったこと。
自分が知らない、見ないふりをしていた間に起きていたこと。
そして、すべてが終わってから、教えられたこと。
朝日がカーテンの隙間から差し込む。
そのまぶしさに目を細めて、起き上がって締め直そうとして、外から聞こえる声に気が付いた。
慌てて、寝間着姿のまま部屋を出て、階段を下りて、居間からベランダに飛び出す。
「おはよう、咲夜」
「おは、よう」
声の主たちが、振り向いた。
庭先で疲れ切った身体に鞭打って組み手をしていた父と子が、慌てて飛び出してきた母に視線を向ける。
「お、おはようございます。真人さん、真咲くん」
息を切らせて、それだけを言った。
その言葉に顔中に傷跡を残した父と、顔の反面を眼帯で覆った息子が目を合わせる。
「おや、咲良さん。今日は早いお目覚めですね」
その言葉に振り向いた先に、赤ん坊を抱いた老婦人の姿があった。
「ばぁや、おはよう」
「はい、おはようございます」
無表情に返して、老婦人は抱いていた赤ん坊を、彼女の娘を彼女の腕に抱かせた。
「朝食の準備をしてまいります。少々お待ちください」
そう言って立ち去る老婦人の後ろで、父子が再び組み手を始めた。
前の晩の疲労が残っている父になら、今なら勝てる、と自分の回復力を過信して姑息な挑戦をしかけた息子は、それ以上に疲弊していて動きが鈍かった。
そんな思惑も知らず、彼女はその光景を眺めて思わず笑った。
これは夢だ。夫がいて、息子がいて、娘がいて、ばぁやもいる。かつて夢描いた幸せの形。
取り返しのつかない歪みを抱えてしまった幸せな、家族の姿。
愛居咲夜は、自分が泣いていることに気付かず、その幸福をかみしめていた。
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