第7話 三日月の名のもとに

ウォーンと夜の住宅街に、獣の鳴き声が響き渡る。

それに別の獣の鳴き声が応じ、二つの声が互いに争うような咆哮に変わった。

近くに住んでいた住人が数人それに起こされ、戸締りをしっかりとやり直して再び寝直す。

中には外に向けて悪態をつくものもいたが、それは別の騒音被害を出しただけだった。

街を騒がせる獣の咆哮音がどんどん低さを増していき、やがて別の甲高い叫び声となる。

——だが、この咆哮は聞くものが聞けば全く違うものとなっていた。

『ジョウトウダワレェ!ヤッチャルゼゴルァ!』

『スッゾオラァ、ブッコロシタルァァ!』

もはやチンピラか三下の雑魚のような怒号を交わしながら掴みあう二体の妖魔。

それが騒音の正体だった。

そして——

「うるさーい!」

それらを掻き消すような叫び声が彼らの上から降り注ぎ、二体の妖魔は同時にその頭に手刀を叩き込まれて悶絶する。

「近所迷惑!今、何時だと思ってるの!」

着地と同時に手刀を振り下ろし、さらに結界を張り、周囲からその場を隔離しながら、鈴宮姫乃は怒りの声を上げた。


『『ゴメンナサイ』』

姫乃の張った結界の中、逃げ場を失った妖魔たちが鎮座している。

野良犬と野良猫の変じた四足の妖魔が器用に正座し、仁王立ちになった姫乃に深々と頭を下げた。

さきほどまでの威勢はどこへ行ったのか、思念がたどたどしい言葉に変換されて姫乃の頭に届く。

「で、喧嘩の原因は何?」

『『コイツガ!』』

と二体はお互いを指さしあい、姫乃の眼光に再び首を垂れる。

「あんたたちのおかげで、私最近よく眠れないんだけど」

腕組みをした姫乃の怒りに満ちた声に、二体はさらに身を低くする。

彼らが争いだしたのはついさきほどのことだが、それ以前に、何日も前からそこかしこで起きた妖魔同士の争いが突如中断されたという噂。

そしてその元凶を目の当たりにすれば、彼らにはもはや抵抗する意思すらない。

八つ当たり気味に姫乃が放つ怒気は、それだけで彼らのような低級妖魔を押しつぶすほどの重さを持っていた。

「もう二度と、私の家の周りで喧嘩しない。いい?」

『『ハイ。ヒメ様』』

その答えに、今度は姫乃がいぶかる。

この数日近くで起きた妖魔の事件の仲裁——と本人は思っている——に乗り出すたびに「姫様」と呼ばれている違和感。

「ところで、なんで姫様なの?」

『ヒメ様ガ、精霊姫様デハ?』

「なんで知って——」

姫乃にしてみれば、精霊姫という名は妖に狙われる要因だ。先日恵那に警告されたように、自分が精霊姫と妖たちに呼ばれる存在であることはできる限り隠しておかなければならなかった。

『鈴宮ヒメヲ殺スナ、鈴宮ヒメヲ傷ツケルナ。新シイ鬼若ノ掟』

鬼若と言うのは愛居真咲のことだ、と姫乃は理解する。

『鈴宮ヒメハ、鈴宮黒姫、姫乃、雪姫ノ三人。コノ三人ハ狙ワナイ』

「……ていうか、それお母さんと雪ちゃんも入ってたんだ」

ヒメという呼び名は、最初に会ったころの愛居真咲が発音しにくいために縮めた呼び名だ。

それがいつの間にか違う解釈になっている。改めて日本語の解釈の便利さを実感する姫乃であった。

「それで、私が精霊姫だっていうのは誰に聞いたの?」

『皆、言ッテイル。精霊姫ガコノ街ニキタ』

『姫様ノ力、桁ガチガウ。ダカラ、姫様ガ精霊姫様』

がっくりとうなだれる姫乃だった。

なんということはない。こうやって夜な夜な妖たちの前に現れている自分こそ正体を隠す気がなかったのだ。

「ひとまずその姫様っての止めてよ。別に私偉くもなんともないし、なんか変な感じする」

『ヒメ様ハ、鬼若ノ嫁ニナル方ダカラエライ』

「よ、嫁?何それ?誰の話?」

『ダカラ、ヒメ様ガ鬼若ノ嫁』

思わず聞き返した姫乃に、妖魔たちは同じことを言った。

「なんでそんなこと……誰が言ったの」

『ミンナ言ッテル。降魔王ガ雷煌ニヒメ様ヲ鬼若ノ嫁ニクレトイッタト』

「雷煌はお父さんで、降魔王は真咲くんのお爺ちゃん?」

『ダカラ、ヒメ様ハ傷ツケチャナラナイ。鬼若ガ怒ル』

『ソレニ、俺ラデハヒメ様ニハ勝テナイ』

「理由は、わかったけど……違うからね!」

顔を真っ赤にして怒った姫乃に、二体の妖魔は顔を見合わせて首を傾げた。



「姫乃ちゃん、寝不足?」

その日の学校からの帰り道。

何度目かわからないあくびをした姫乃の姿に、天貝香住は声をかけた。

それにわずかに遅れて雪姫が続く。

さらに少し離れて愛居真咲と溝呂木弧門の姿があった。いつもは違う道を帰る二人だが、たまたま用がある図書館への道が姫乃たちの通学路と一緒になっている。

「うん。なんか最近周りで野良犬とか野良猫の鳴き声がうるさくて」

「あ~ちょっと迷惑かもね」

姫乃の家と香住の家は意外と近かったので同じ感想になる。

「でも、私はあんまり気にならないよ。雪姫ちゃんも大丈夫にみえるけど」

「わたしもあまり」

「私、なんか結構そういうの気になって眠れないんだよね」

姫乃の霊感の強さは実際、父をして異常と言わせるほどのものだ。

そして、その父がこの国有数の異能者であるとも最近知った。つまり、姫乃の能力は異能者の中でも人並み外れているということだった。

最初は霊が見えるだけだったが、今では霊や妖の声を聴くだけではなく、その位置すらなんとなく把握できるようになっている。

現在は意識して感知範囲をコントロールすることで見ない、聞かないようにすることが出来るようになったが、それでも睡眠中はどうしても制御が緩む。

おかげで夜、眠っている間に近くで起きる妖魔同士の喧騒に安眠を妨害され、それを仲裁——と言う名の制裁と支配——すること数度。

姫乃は意識していないが、今や彼女の住む家から周囲10キロほどが「精霊姫の縄張り」と妖魔たちに認識されるようになっていた。

「真咲くん……は、そう言うの気にならないの?」

何気なく話題を振ろうとして、途中、昨晩言われたことを思い出して言葉に詰まりながらも、姫乃は平静を装って話かけた。

真咲は答えず、とんとんと自分の右耳をたたく。

意味がわからず首をかしげる姫乃たちに真咲は右耳がある場所を隠している髪の毛を上げてみせた。

ヒッと香住が声を上げた。

そこには、耳がなかった。耳のある場所に補聴器がつけているのが見えるだけで、普通ならあるはずの耳たぶが存在しない。根元から焼け落ちていた。

分かっているつもりの姫乃ですらゾッして、雪姫は声も出ない。香住は言うに及ばず。

ただ一人、最初からわかっていた弧門だけが平然と笑っていた。

彼はいつも笑顔を浮かべている。それが逆に不気味に思えるくらいに。

「近く、音、聞く、ある。遠く、聞く、ない」

むしろ日常会話が成立すること自体が不思議だった。無論、ここにいるのは少年の姿をした鬼である以上、人間の身体機能とは根本的に違うのだが。

鈴宮姉妹だけなら念話で通じるところだが、今は別に香住がいる。真咲も意図して声を出していた。

「真咲ぃ、それ別に言わなくてよかったんじゃない?なんか香住ちゃんドン引きしてるよ」

「しつ、れい」

鈴宮姉妹や弧門は真咲の事情を知っている。だからつい正直に話をしてしまった。全く無関係のもう一人がいることは真咲の意識にはなかった。

真咲は人間、妖を問わず仲間意識こそ強いものの、それ以外の存在への関心が全くないのだ。

不快な思いをさせたことを、改めて真咲が詫びて頭を下げ、逆に香住も謝った。


帰り路の途中まで一緒だった真咲と弧門が別の道に入り、香住も次の道で分かれる。

そのまま家に向かって歩いていた鈴宮姉妹は、不意に足を止めた。

気が付けば、周囲から人がいなくなっていた。

まだ夕方前の歩道には、本来なら誰かが歩いていてもいいはずなのに。

「お姉ちゃん、何か変」

雪姫の感覚は、姫乃以上に特別だ。

彼女は人の姿をしているが、本来は竜族。人間である姫乃と同等の霊感に加えて視覚、聴覚、嗅覚も人間の数千、数万倍に及ぶ。

その彼女が違和感を覚えている。

その様子に姫乃も自身の力を使い、周辺を探る。

(なんか、鈍ってる。というか妨害?邪魔、意識の誘導)

「お香の匂い……人を寄せない……人除けの呪い!」

雪姫が大声で正体を看破する。

だが、もう遅い。

人除けの呪いによって一時的に発生した間隙、その隙をついて襲撃者たちは行動を開始した。

いつの間にか姫乃たちの近くに止まっていた黒塗りのバンから突如として黒ずくめの男たちが現れる。

周囲の香によって感覚の鈍っていた2人はそれに反応が遅れた。

音もなく背後に現れた黒ずくめの男が姫乃と雪姫を押さえつけ、薬品を含めた白布でその顔を覆う。

悲鳴を上げる余裕もなく、姫乃の手足が弛緩する。薬の効きが遅い雪姫が抵抗を続け、別の黒ずくめの女がその腹を強く蹴り上げた。人外とは言え、少女である雪姫の身体はその一撃で身体を九の時にまげて悶絶する。

その瞬間、雷鳴とともに、昼日中に神鳥が姿を現した。

姫乃たちの護衛として父、頼火が置いた霊鳥。愛居真咲と姫乃との戦いですら登場しなかったそれが出現したことが、事態の深刻さを物語っている。

だが、襲撃者たちはそれを予測していたのだろう。

出現と同時に、いくつもの金属筒が神鳥の周囲に投げつけられ、同時に起動する。

光の檻が神鳥を囲い、その中で神鳥を構成する雷が檻に吸い取られ、神鳥は鳥の形を維持できずに四散する。限界まで雷を吸収した檻がその限界を迎えて消滅した。

だが、神鳥が消えたのは一瞬だけだ。即座に周囲の霊気を集め、神鳥はその身を再構成しようと動き出す。

そして神鳥が再構成を果たすまでの数十秒の間に、襲撃者たちは目的を達成していた。少女二人を車に乗せ、ドアを閉めようとする。

「雪ちゃん!」

とっさに、まだかろうじて自由だった両足を使って姫乃は妹を全力で蹴り飛ばす。薬で力の加減が効かず、雪姫の小柄な身体が歩道の反対側まで突き飛ばされ、壁にぶつかった。

黒ずくめの女が雪姫の方に向かい、だが空中で四散した雷が再び神鳥の姿を取り戻し始めたのに気付いて、舌打ちしながら引き返した。

突然の衝撃で目を回した雪姫が顔を上げた時、すでに黒塗りのバンはその場から走り出していた。


『真咲さん!お姉ちゃんを助けて!』

真咲が鈴宮雪姫からの思念波を受け取ったのは、彼が姫乃たちと別れてわずか数分後。

「が、うあ!」

『——!場所は!?今どこだ!?』

『わからない。わからないの!お姉ちゃんのことを感じられないの!』

「こ、もん!」

『聞こえてる。今、姫乃ちゃんの霊子反応を探ってるけど、市内で検索できない。たぶん何かに遮断されている』

真咲の補聴器を通じて、隣にいた溝呂木弧門も同時に事態を把握する。

弧門がカバンからタブレットを取り出して無線を接続し、彼の持つデータベースへとつなげる。

『雪姫ちゃん、その車の車種とナンバー、わかる?』

弧門の言葉はタブレットを通じて思念波へと変換されて直接雪姫に送られ、雪姫が思い浮かべたイメージを真咲が受け取り、弧門が解析する。

『改造車。たぶん霊的な捜索手段からのステルス機能付き。ナンバーは当然偽造。街中の監視カメラからの検索かけさせるけど、特定に時間がかかる』

『直接、肉眼で目視するしかないか?』

『……そうなるね。結構手間取るかも』

弧門からの言葉を受けて、真咲は吠えた。

喉の潰れた真咲にとって、人間態での咆哮は極めて困難を極める。だが、それを躊躇するような真似はしなかった。

「があ、あ、あ、あ、あ、あ、う」

放たれた音は小さく、わずかな周囲にしか届かない。だが人間には聞こえない波長でその咆哮は新港市を中心にした一帯全てに響き渡った。

地に、空に、水に潜む降神羅皇の眷属。その全てを呼び起こす鬼の叫びだ。

その叫びは一つの映像とともにそれらすべてに命じた。

連れ去られた鈴宮ヒメを探せ、と

地下の鼠の群れが、ビルの間に蔓延る蜘蛛の群れが、空を覆いつくす烏の群れが、海に巣食う海魔が、地中の怪物が、木に擬態した妖が、そのすべてが一斉に鈴宮姫乃を探すために動き出した。


「先、行く」

言葉少なに、真咲が昼日中、人前であることも考えずに大きく跳躍した。

すぐ近くの民家の屋根に着地すると同時に真咲の身体の色が変化し、その屋根や周囲と同じ色に擬態する。カメレオンのように体色を変化させた真咲はそのまま隣り合った民家の屋根伝いに跳躍を繰り返し、市街地の中央めがけて走り出す。

『ユキヒメ、空から街を見ろ。目で、連れ去った車を探せ』

『真咲さんはどこへ行くの?』

「みなと、だ」

『この街の市街地中央から港側の方に高速がある。逃げるなら高速を使って距離をとる、か』

『最悪船を使われる可能性もあるね。海の上までいかれたら簡単には追えなくなる』

真咲と弧門がそれぞれ推測を基に、まず市街地へ向かうことを決定していた。

人間の動きではありえない速さで屋根から屋根に飛び移る真咲の表情に焦りが浮かぶ。これが夜であれば鬼人化してすぐにも街へたどり着けるのに、昼である以上、人間に見つからないように最小限度の速さで動かなければならない。それがもどかしくて仕方ない。

そんな真咲に一体の霊鳥が並走する。先ほどの出現時と異なり、現在は雷を纏わず、人間の目に触れないように霊体化しており、霊感のある人間でなければその姿を捉えることはできない。

『お初にお目にかかります、愛居真咲。我が名は裂空。主、三日月頼火に使える三廷臣が一神ひとり

その思念は中性的で堅苦しい声として変換されて真咲の頭に届く。

「まえ、にも、見た」

『先日は主が我が身を使って顕現されておりました。こうしてお話するのは初めてとなります』

「なに、が」

『何があった?』

『襲撃です。姫乃様が賊に連れ去られました』

「しって、る」

『賊はおそらく……三日月の人間』

「なぜ、わかる」

『先日より、頼火様は本家に入られました。後継者選定会議に出席されるためです。本家は強力な結界によって守られ、術による外部からの透視や傍聴は不可能。逆に内部から外の状況を感知することもできなくなります。我ら三廷臣は現在、頼火様との意思疎通ができません。そのため、あの方の御雷みかずちの加護を受けられず、我らの力のみで事に当たらねばなりません。

たとえ遠方でも頼火様の力添えがあれば、不覚をとることもなかったのです。そして賊はそれを知っていた。』

『三日月頼火が後継者であることに反対するものか?』

『厳密には違います。頼火様はまぎれもなく三日月家の後継者たるかたです。齢11にして始祖雷煌の試練を乗り越えられ、我ら三廷臣を従えた御雷の申し子。三日月の血をひかぬものでありながら、200年来の試練を達成した革命児であります。ただ、三日月の血を持たないというだけで後継に反対したのは先代当主、雷全のみ』

『御雷?ああ三日月ってそう言う』

真咲の補聴器の向こうで、弧門が納得の声を上げた。

古来より続く八聖家はそれぞれその力を起源とする真名と世間に使う仮の名前を持つ。

三日月家はその言葉通り、雷を操る一族。御雷家みかずちけの名が訛ったものが由来だ。

『そして頼火様は護法輪十二神将が一人。貴方の祖父、塞神降魔と並ぶ当代三人しかいない神将であります。』

『八神将、雷煌らいこう頼火、か』

『三日月家であるじ、頼火様が雷斬らいざん様の後継者になることを疑うものはいません。異能者としての実力だけではなく、8年前奥方様が身罷られ、雷斬さまが心労で動けなくなったおりは当主代行として2年の間、三日月家を支えられた方です。表向きの三日月家の経営についても才能も備えた、この上ない逸材であることを証明された。

しかし、それは頼火様ご自身のことであり、配偶者となれば話は別』

その言葉に、真咲の視線に剣呑な光が宿った。

『このまま主が本家に戻る。それは良い。

ですが、主が黒姫様を娶り、姫乃様、雪姫様を娘として遇するとなれば三日月家は2代以上に渡り主系の血統を失うことになりかねません。

過去、三日月の親族としては、頼火様にはいずれ三日月本家の妹君を妻として迎えられることを望まれていました。しかし、今や状況は変わり、頼火様が雷全に追い出された後、二人の妹君はすでに他家へ嫁いだ身。であれば頼火様は後継就任後、分家より娘を娶ることが親族の思惑となります』

選定会議と言ったが、三日月頼火の後継者就任はすでに確定しているも同然だ。

問題は、彼が誰を妻として迎えるか、ということだった。

逆に言えば、会議において三日月頼火は、三日月家と全く無関係の妻を娶ることを親族に認めさせなければならない。

両者の対立は始まる前から明白で、お互いに譲る気はなかった。

『だからヒメを殺す、か?』

『古い家柄は血に拘ります。自分たちの家門に外の血を入れることにも、自分たちの血統を外に出すことにも慎重。まして八聖家となれば……

あなたの存在を紫上しのかみ家が隠匿し、抹消しようとしたように』

その言葉に真咲は答えず、走る速度を上げた。

『なら、鈴宮黒姫も狙われている可能性がある』

『そちらは烈光と烈破がついております。まだご無事です』

『母親一人に二羽つけて、娘二人に一羽なのか?』

三廷臣というならば、一人一羽つけるべきではないか、と真咲はいぶかしむ。それに、血のつながらない娘より恋人を優先したということではないのかと考えずにいられなかった。

なにより、今は攫われた姫乃の救出に全力を注ぐべきではないのか。

『主は物事を順序立てて考えられる方です。まず大切なのは黒姫様、そして姫乃様、次いで雪姫様。そして、この中では黒姫様が一番危険なのです。

主筋とはいえ義理の娘など、他家に嫁ぐなり、継承権を与えないなりでこの先どうとでもなります。

しかし、いずれ御雷みかずちを持たぬ子を産むかもしれない妻となれば話は別。分家より別の才女をあてがおうという都合上、黒姫様こそ排除されるべきものなのです。黒姫様さえいなくなれば、自分たちに都合の良い娘を頼火様にあてがい、三日月家の権勢を握ることも可能。そう考えている分家すら少なくありません。

故に我々は、姫乃様がたの誘拐も陽動ではないかと考えています。

お恥ずかしい話ですが、彼らは我々を知っている。現に私、一神ひとりでは姫乃様たちを御守り出来ませんでした。いま黒姫様付きの二神ふたりを離すわけにはいかないのです』

そこまで話したところで、眷属たちより一つの思念が届いた。

『見つけた』と。


市街の高層ビルの屋上にそれはいた。

人間が見通せない高さ。だがそこにこそ彼らの居場所はある。

人型をした烏の妖魔。

真咲の父、愛居真人直属の眷属の一人——イスカ

それが烏の群れがとらえた車と車内の情景を真沙鬼に伝える。

高速道路を走る黒いバンと、その後部座席に意識不明のまま捕らわれた鈴宮姫乃の姿を。

『今すぐに止めろ!』

真咲の焦る思いがそのままイスカの下に届く。

『鬼若、それは不可能だ。人が多い、この状態での行動は掟に抵触する』

昼は人間の領域と定めたのは他ならぬ鬼若=真咲の祖父だ。

愛居真人を主と仰ぐイスカは、その父である大主に逆らうことはできない。

『構うな!人が何人死んだところで……構うものか!』

ダン!と裂空を従えた真咲が眼前の民家の上に降り立つ。

その身が鬼人へと変貌し、その右腕に闘気が収束していく。

その言葉通り、昼間、余人に見られる可能性もいとわず、真咲は姫乃を助けるためにその力のすべてを使うつもりだった。

すでに真沙鬼の視界には高速道路の一部が見えている。鶍から転送された視界で車の位置もおおよそ把握している。

となれば、道路ごと破壊してその進路を塞ぐことが最短手段であった。

修羅しゅら——真撃拳しんげきけん!」

鬼が吠えた。咆哮とともに放たれた巨大な闘気の渦が、民家の屋根を次々と飛び越え、はるか遠方の高速道路めがけて突き進む。

真沙鬼は眼が悪い。感覚器の歪んだ真沙鬼では前方を捉えていても、そのまま真っ直ぐ進めるとは限らない。

だから、放たれた衝撃波は進むごとにその範囲をさらに拡大して広範囲を破壊する傘となる。巨大なエネルギーの塊と化したそれは高速道路をめがけて直進し、その間にある高層ビルを巻き込まんと襲い掛かった。


——愚か者め!


だが、衝撃波がビルを巻き込む直前、そのエネルギーそのものが一瞬で消滅する。

何が起きたのかと目を見張った鬼人が、突如として見えざる手に全身を握りつぶされた。

「ガ——ァ!!」

愛居真咲は痛みを感じない。だが、それでも急激な圧力でその巨体ごと内蔵と肺を押しつぶされ、鬼の口から体液とガスをまき散らした。

——それは許さん。

そしてして真咲の脳を直接圧し潰すような声が頭に響いた。

——この街は我ら妖が支配している。だが、それは無思慮に人間を巻き込んで良いというものではない。

声の主は他ならぬ塞神降魔。彼の思念はもはや通話ではなく、絶対的な強制力を持つ命令としてその場のすべての妖を支配する。

——我らの関与を人間どもに知られることなく、事を収めるのだ。

『そんなこと考えている暇は……』

——出来ないというならば、私が手を下す。

真咲は心臓を鷲掴みにされたような感覚に襲われる。

この街を支配しているのは祖父だ。塞神降魔がその気になればこの件も即座に解決できるだろう。そうしないのは、降魔がこの街での大小さまざまな問題の解決を真咲に一任しているからに他ならない。

ここで祖父が事態を解決するのならば、真咲は不要と言われたも同然だ。

——どうした、時間がない。早く答えよ。

問いかける降魔にしても余裕があるものではなかった。

彼がこの街の問題を真咲に任せているのは、そうすることで孫に経験を積ませ、成長させるためだ。

いざとならば降魔自身が助けを出せば問題は解決する。今までならばそれでよかった。

だが、今回は三日月頼火から娘の身の安全を託されていた。その責任もある。

悠長に孫の返答を待つより、彼自身が手を下したほうが早いが、同時に真咲自身に友人を助けさせたい、という親心もある。だが、彼は万能ではなく、その手は無限には届かないのだ。

じじに託す』

その回答は、降魔が考えていたよりはるかに早かった。

『自分で助けたいというくだらないこだわりは捨てる。一刻も早く、ヒメを救い出す。だから爺に託す』


茶番だな、と念話を横合いから聞きながら鶍は無言のまま思惑をめぐらせた。

そもそも烏を使って鈴宮姫乃を攫った車を自分に「見つけさせた」のは塞神降魔だ。

彼にしてみれば孫とのやり取りまで考えのうちだろう。

孫に自分の無力さを実感させ、自身が掟の堅守と三日月頼火との約束の実行の両立を実践して見せる。

彼の主である愛居真人と降魔との間でもよく見られたやり取りだ。

塞神降魔は人の中で生きる妖の王であり、厳格でその実、子煩悩な父親でもあった。妖の在り方を守りながら、人間の生き方にも順応させる。その考えはその頃から何一つ変わらない。

変わったことと言えば、子に孫が生まれ、自分たちは主の息子にも仕えるようになったことだろうか。

であれば、と鶍は考える。主の息子により良いのは、自身の無力さを実感したうえで、自分自身の手で手柄を立てさせることなのではないか、と。

「大主、鬼若。我より献策」

鶍の言葉に降魔と真沙鬼は同時に聞き耳を立てた。


誘拐犯たちの車の前方で一つの事故が起きた。

前を行く大型トラックの右前輪全てがバーストしたのだ。タイヤ一つならばどうにでもなる状況だが、何かを踏んだのか全てが同時に破裂し、トラックは大きく態勢を崩して転倒、その巨体で車線を塞ぐ。

さらにそれをよけようとした後続車がブレーキ、ハンドル操作を誤り、あるいは間に合わずに次々と追突。そこで転倒したトラックの載せていたオイルタンクに火が付き、大爆発を起こした

大惨事だ。だが、この事故を引き起こしたものたちにとって、人間の犠牲者の数など関心の外だった。彼らは、あくまで自分たち妖の関与を悟らせず、逃走車の妨害ができればそれで良かったのだ。

鈴宮姫乃を乗せた黒いバンの運転手は、目の前で起きた事故に悪態を突きながら高速のインターチェンジへと進路を変えて、渋滞をかわそうとする。

降りた先は港の倉庫街。彼らは下道を走って事故現場をかわし、再び高速に戻るつもりだった。

だが、車が料金所を過ぎたその時、横合いの造成地から一匹の巨大ミミズが地上に姿を現す。直系5メートル近い口を持つ巨大なミミズが逃走車を飲み込み、地面に沈む。

逃走車の前後でその瞬間を目撃した数台の車は「ハンドル操作を誤って」前方の車や料金所に激突し、ここでも死者重傷者複数の二次災害を引き起こす。

そうやって、異形の姿を見た者たちは全員が死んだ。後には異様な死体を残して。


港にはいくつもの倉庫がある。その中の一つが、関係者から開かずの倉庫と呼ばれていた。

かつてこの倉庫を使っていた会社が倒産し、その使用権を別の会社が買い上げた。彼らは人の少ない倉庫を危険な密輸の取引現場にしようとしていたが、倉庫の中に足を踏み入れた彼らは例外なくそこに潜んでいた怪物の餌食となって消えた。

後に残されたのは、踏み込んだものを決して返さない廃倉庫だけであった。

その廃倉庫の中央、床が大量の砂を吐き出し、巨大ミミズが地面を突き破って倉庫内に姿を現す。その口が開き、呑み込んでいた車を吐き出した。

地面に叩きつけられた車から這う這うの体で這い出た襲撃犯たちは、その直後に手足に巨大な針を撃ち込まれ、地面に張り付けにされた。

さらに巨大ミミズはその口から何本もの触手を出して、車内に残っていた姫乃を引きずり出し、倉庫で待っていた主の元へと差し出した。

『よくやった。グラボイズ』

『ここにマイケル・グロスがいないのが残念だよ』

地面から突き出した巨大ミミズから姫乃を受け取りながら真沙鬼はそれを称え、弧門が続く。

真沙鬼は姫乃の呼吸が正常であることを確認し、抱きかかえたそれを後ろで待っていた白竜へと引き渡した。白い羽毛に背負われ、ようやく姫乃は目を覚ました。だが、いまだ意識は朦朧としてその目は焦点を合わせられない。

そして倉庫の中央へ人型へ戻った愛居真咲が歩み寄った。

真咲の姿を視界にとらえた誘拐犯の主犯格の男が驚愕の叫びを上げた。

紫上しのかみの忌み子!まさか、実在するとは!」

『流石に有名人だね』

「うれしく、ない」

茶化すような弧門の言葉を吐き捨て、真咲はさらにその腕から巨大針を打ち出す。愛居真咲が鬼人化することなく使えるいくつかの能力の一つだ。体内で精製される金属針は強度や厚さ、長さを調整して常に目的に応じて使用される。

誘拐犯たちに突き刺さった針が数を増し、彼らは苦悶の叫びを上げた。

「教えろ、お前」

そこまで言って、律儀に言葉を交わす必要がないと思い直した真咲は、思念波を相手に直接叩きつける方に切り替える。

『貴様たちに命令を下したのは誰だ?』

「馬鹿が!答える訳がないだろうが!」

言葉通りに馬鹿にした声が、すぐに耳をつんざくような叫び声に変わる。

真咲の左腕の肘から先があり得ない長さに伸び、誘拐犯の女の頭を掴む。

「答え、必要、ない。直接、読む」

歪んだ真咲の指が、その頭をつかんだまま女の皮膚に癒着し、その細胞に同化し、神経を侵食して脳を吸い取る。

質問は相手の脳から情報を引き出しやすくするため、必要な内容を意識させるためにすぎない。隠すにしろ黙るにしろ、質問をされた時点でそれを意識せざるを得ない。その意識ごと吸い取る。

『三日月の分家、残月の三男。依頼者だが、裏に別の誰かが絡んでいるとこいつらは推測している。自分たちが切り捨てられる危険を考え、おそらく水月家の家長だと考え、独自に裏をとっている途中』

『水月豊心。確かにやりそうなことだ』

女の脳髄を喰い尽して、真咲はその中から拾い上げた情報を裂空に与える。この場にいる中で誰よりも三日月家の事情に精通した霊鳥がその情報から指示者までを看破した。

そして廃人となった女の身体が地面に崩れ落ち、その身体に無数の鼠が襲い掛かり、瞬く間に白骨と化した。


「裂空」

消え入りそうな声で、意識を取り戻した姫乃が神鳥の名前を呼んだ。

『申し訳ありません姫様。この度は我らの力不足で、辛い目に合わせてしまいました』

頭を下げる神鳥の姿に、姫乃はよくわからないといった顔をした。

「何が、起きてるの?」

『頼火様が本家に入られ、結界によって我々との交感が途絶えました。敵はこの機会を利用して姫様方の拉致を企てたのです。おそらく、三日月の後継者選定会で頼火様との取引に使うために』

「……とりひき」

ろれつの回らない舌で、姫乃はかろうじて状況を理解しようと努める。

『この事態を主は予測していました。主のみの力で姫様たちを守り切れない可能性が高いと。お恥ずかしながら、その通りでありました。そのため、この街に姫様が来たいと申された際、主はこの街の妖たちを姫様の護りに使うことを考えたのです』

「まさきくん、を?」

『愛居真咲、改めて主の言葉を伝えます』

神鳥が真咲に向き直る。

『主は、ご自分が不在の間のご息女の護衛をあなたにお願いしたいと考えています』

「問題、ない。ヒメ、も、ユキヒメ、もトモダチ」

『自分のトモダチは自分が護る』

裂空はその言葉に頷く。

『この件に関して、主があなたに用意した報酬は二つ』

報酬という言葉に首を傾げた真咲に、裂空は告げる。

『一つは、前払いの報酬として、姫乃様、雪姫様をあなたのご友人として紹介したこと。これはすでに果たされているといえます』

その言葉に真咲は真剣に頷き、姫乃は目を伏せた。

姫乃が真咲と友達になったことは、彼女自身の希望があったからだ。それを報酬などと言う言葉で使ってほしくなかった。

『もう一つは、襲撃者の命そのもの』

その言葉に、姫乃は息を呑んだ。彼女を背負った雪姫が震えるほど驚いて壁際へよろめく。父の、今まで知らなかった父の恐ろしさを娘たちが知る瞬間だった。

『主は、ご息女の襲撃の件を公表する気はありません。公表したところで、真犯人を確定できなければ無意味。それどころか、襲撃があったという事実自体が、三日月家内に主のお家継承について暗躍する勢力があるということを示唆しております。この事実を公表することで、主の後継者指名に反対するものが存在すると一族すべてに認知されてしまうのです。それは得策ではないと主は判断しています』

裂空の眼が怪しく光った。

『ゆえに、この件はあくまで内々に処理するべきだと判断しています。無論、襲撃を指示した主犯が誰であるかは確認する必要がありますが。

襲撃に失敗した事実を相手に突きつけ、一方で襲撃があった事実は隠匿する。矛盾するようですが、頼火様はこの処理を持って三日月の暗部を取り除く気でおります』

『だから、こいつらはこちらで始末しろ、か』

『彼らは三日月の中でも力を持った術者です。貴方がたの餌としては申し分ないかと』

妖の中の誰かが舌なめずりする音がした。

怯えた表情で誘拐犯たちが周囲を見回す。

逃げ場はない。逃げ出したくとも四肢を縫い付けられて動きも取れない。周囲は一部の隙間もなく妖たちに埋め尽くされていた。

「化け物どもが!三日月の人間が、妖魔と取引などとは何たる様か!恥を知れ!」

主犯の男が吠えた。その言葉を受けた裂空の眼が男を射抜く。

『子供を攫い、傷つけようとしたものが恥知らずとはよくも言う。貴様たちのような卑怯者に生きている価値はない。その血の一滴まで彼らの供物となるがいい』

裂空はそう言って彼らを切り捨て、神鳥の姿は光の粒子となって消えていく。

『先々大の僧官長が、かつて力とは使いようであり、この世のすべては自分にとって使い道のある道具である、と言ったと聞きます。

そして彼はその信念に従い、同志とともに化け物と敬遠され、迫害された半人半魔の子供たちを拾い集め、自身の野望のために利用した。その時代、彼らはこの国で最強の武力を備えていたと聞きます』

「祖父、の、父」

祖父、塞神降魔の名付け親である男の言葉を引用した裂空に真咲は頷いた。

裂空の語る言葉の印象とは裏腹に、真咲は一度だけ会った曽祖父に当たる人物が嫌いではなかった。父も彼を自分の祖父と慕っていたし、何より力こそ至上と考える曽祖父の姿勢が、最強の鬼である祖父、降魔をも使役しえたのだ。その力が、単純な暴力ではなく、曽祖父にとっては権力であったというだけ。

『主は、その思想の後継でありたい、とそう考えております。故にこの街に姫様方をお預けしたのです。愛居真咲、どうか姫様方をくれぐれもお願いいたします。

不詳、この裂空もまたそのために力を尽くす所存。姫様とともに、必要と在ればいかようにもお使いください』

その言葉と共に一礼して、霊鳥はその姿を消した。

霊鳥の消えた後に真咲も礼を返し、そして廃倉庫の外に向かって歩き出す。

その後ろに姫乃を抱えた白竜、雪姫が続く。

姫乃たちを先に進ませ、倉庫の扉を出る直前、真咲は立ちどまった。

「もういい。そいつらは、好きにしろ」

その言葉と同時に待ち構えていた無数の妖たちが我先にと誘拐犯に襲い掛かり、霊鳥の言葉通り、彼らは血の一滴まで残らず妖たちに喰い尽された。


近くを通りすぎた車に思わず後ずさり、それがただの車だと分かって安堵する。そんなことを何度繰り返したかもわからない。

はあ、と道を歩きながら姫乃は大きくため息をついた。

すでに誘拐された日から数日が経っている。

愛居真咲に助けられ、家に帰りついた姫乃と雪姫を待っていたのは険しい顔をした母、黒姫の泣き顔だった。

烈光、裂空、烈破の三体は高い霊力を持ち、姫乃のような霊感のない母にもその姿を見せ、言葉を交わすことが出来る。だから、母はすべてを知っていた。

それどころか、父は母に事件に巻き込まれる可能性も伝えていて、母は自分が襲われる覚悟もしていたようだった。それなのに、何も知らない娘を巻き込んでしまったことを母は謝って、泣いた。

その後、父に連絡を取ろうとしたけど、電話もメールも何一つつながらなかった。母は父の義妹を通じて連絡を試みたが、その義妹たちすら本家に連絡が取れない、と言われるような状況だった。

この状況まで父は予測していたのだろう。だから、この街に自分たちを残していった。この街の妖怪たちに自分を守らせるために。

もう一度、姫乃は大きなため息をついた。父は、自分たちに隠し事が多すぎる。もっと考えていることを教えてくれてもいいのに、と思わずにはいられない。

物思いにふける姫乃の目の前、道路の向こう側から、すさまじい勢いで近づく少年の姿に、姫乃の気鬱は一瞬で吹き飛んだ。

「真咲くん?」

昼間から人間とは思えない速さで走る少年が姫乃の横を通り過ぎ、何か重いものが姫乃の両腕に残される。

それを確認しようとした姫乃の横を何台もの車が走り抜けていった。

思わず振り向いた姫乃の視界の向こう側で、真咲の背中とそれを追う車たちの姿が消えていく。何かのトラブルなのは間違いがなかった。

『ヒメ、妹を頼む!』

その思念が今更ながらに届いて、姫乃は抱きかかえさせられた赤ん坊の姿に困惑した。直前まで走る兄に背負われていたにも関わらず、赤ん坊はすやすやと眠っている。

とりあえず、泣き出しませんように。


平日は閉鎖されている立体駐車場の地下に逃げ込んだ愛居真咲はそのまま何台もの車に包囲されていた。

「ずいぶんと手間をかけさせてくれたなぁ。あ?」

下卑た声が響き、壁を背にして、真咲たちは襲撃者たちと対峙する。

「お前、三日月、か、紫上、か」

「あん?よく知らんが、貴様を殺せば莫大な賞金が手に入るのさ」

男は真咲の問いかけを無視して銃を抜いた。ずいぶんと都合の良いところに逃げ込んでくれた。そう思っていた。ここならば銃声もほとんど響かない。

「死ね」

放たれた銃弾が真咲の額を撃ちぬく……はずだった。

だが、甲高い金属音とともに、真咲の額に当たった弾丸は潰れて地面に転がった。

男は眼を剥いた。何が起きたのか理解できないのだ。

なにかの間違いかと続けて二発、三発と弾丸が放たれ、少年の額を直撃する。動揺していても狙いは正確だ。

しかし、その小柄な少年の身体は微動だにせず、弾はその皮膚に傷一つつけることなく弾かれた。

「ば、馬鹿な!」

驚愕の叫びをあげる男の表情に真咲は残忍な笑みを浮かべる。

鋼鉄の肉体を持つ真咲に銃弾など無意味だ。人間の姿をしていても、愛居真咲は鬼。その肉体強度は人間などとは比べ物にならない。

そして、この瞬間。人間が、人間でないものを目の当たりにして、恐怖で顔を引きつらせる。その瞬間の人間の顔を見るのが真咲には何よりの楽しみだった。

「う、撃て!撃ち殺せえ!」

引きつった男の叫び声とともに、残りの車から出た黒服たちが一斉に拳銃を少年に向けて乱射する。彼らの表情もまた男と同じだ。あり得ないものを目の当たりにして、恐怖している。

こんなものか、と真咲は平然としている。もうこの手の襲撃は何度目かも忘れた。最初のうちは、自分をただの子供だと思い込んで絶望の中で死んでいく大人の姿を見るのが楽しかったが、最近はもう飽きてきた気がする。

だから、真咲はこれ以上は遊びようがないとあっさりと彼らを見限っていた。

「もう、いい、お前、たち、喰え」

その言葉と共に、地下駐車場の天井に沸いて出た蜘蛛の群れが襲撃者たちを頭上から襲い、首を刎ねる。頭を失って地面に崩れ落ちた死体は、地面から這い出た鼠たちが喰い尽す。

ずいぶん奥まで追いかけてくれた。ここなら悲鳴や銃声が上がっても気づかれない。

突然の襲撃に阿鼻叫喚となる襲撃者たちの凄惨な光景を前に、真咲は知らず知らず笑みを浮かべていた。

なんだ、やっぱり愉しいじゃないか。


ピンポーン、と呼び出し音が鳴る。

ここでよかったはず、と姫乃は父から知らされていた愛居真咲の住所を改めて確認した。そんなものを確認するより、玄関先から見える庭にしつらえられた犬小屋から凄まじい妖気が漂っているのを確認したほうが早い気がするが。

姫乃の家から学校を起点に90度ほど反対側の新興住宅街の一角に、愛居真咲の住んでいる家がある。新築のモデルハウス同様の2階建ての家。彼はここで母親と暮らしているはずだった。

「ハイ」と玄関先のマイクが鳴り、姫乃は訪問の理由を告げた。

「少々お待ちください」

とマイクのくぐもった声が続き、家の扉が開き、一人の老婦人が姿を現した。

真咲の母親が出るのかと身構えていた姫乃は拍子抜けした。

「あの、真咲くんのおばあちゃん、ですか?」

「いえ、私は単なるお世話係で……あら咲良さん」

と、長身の老婦人は姫乃が抱きかかえているものをすぐに見抜いた。

「あ、道で真咲くんとすれ違って、その時に渡されて」

「ありがとうございます。あなたが、連れてきてくれたのですね」

姫乃から赤ん坊を受け取って老婦人は優しい目で赤んぼをあやす。

「あの、真咲くん何かあったんですか?何か追いかけられたみたいで」

姫乃の言葉に老婦人の顔が厳しくなる。

「あなた、鈴宮姫乃さん?」

「私のこと、知っているんですか?」

「真咲さんから少々……あなたなら多少の事情を話しても問題ないでしょうね」

そう言って、老婦人はドアを開け、姫乃を迎え入れた。

「少々、楽しくない話になります。よろしいですか?」

その言葉に、姫乃は硬い表情で頷いた。

自分が何も知らないことが悔しかった。

だから、何かを知ることが出来るなら、何でもいいから話を聞きたかった。

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