セカンド・ステージ

第6話 妖怪温泉の怪

「ひーめーのん!温泉行こうぜ!」

それは、突然やってきた。

小学校の教室で、栗野理沙から渡されたチケットを片手に姫乃は目を丸くする。

「スパ?」

「そう!こないだリニューアルしたばかりさ!だから行こう!」

なんだかやたらハイテンションだ。

「それって温泉ではないのでは……」

同じチケットを渡された天貝香住と顔を合わせて姫乃は困惑する。

ひとまず落ち着いてチケットを確かめる。

『一枚5名様まで。栗野銭湯リニューアルオープン、栗野スポーツセンター前……』

「「……里紗ちゃん」」

「いや、その、ね。宣伝を頼まれて、その、ね。だから、その、ね」

目を泳がせる「栗野」里紗に、姫乃と香住の冷たい視線が突き刺さる。

教室を見渡せば、いつの間にか同じチケットを配られたクラスメイトだらけだった。

「ばあちゃんのやってる銭湯が大改装!みたいな。それで客引きやってこい!みたいな」

「……つまり?」

「あたしを助けて!家族で遊びに来て!」


「ひーめーのちゃーん」

香住ののんびりした声が届き、姫乃は大きく手を振った。

「香住ちゃん、こっちこっち」

夕日が照らす赤い街並みの中、『栗野スペシャルスパ』と書かれた看板の前で、天貝香住とその母、天貝住子と鈴宮姫乃、雪姫、そして母の黒姫が落ちあう。

「は、はじめまして、姫乃ちゃんの友達の天貝香住と言います」

「姫乃の母の鈴宮黒姫です。娘がお世話になっています」

たどたどしい挨拶をする香住に丁寧なあいさつを返す母の隣で、逆に姫乃は妹と一緒に香住の母、住子に挨拶をした。

まだ25歳と若い黒姫の姿に天貝母娘は目を丸くして、養子だと説明されて納得する。いつものことだ。

「……なんか意外に、まともかも」

「おっきいところだね~」

母親同士が挨拶を交わす間、姫乃と香住は隣り合って施設を見上げる。

銭湯というイメージに古臭い印象を抱いていたが、車道を挟んで向かい側に立っているガラス張りのスポーツセンターと同じような作りの大型スパは3階建てで二階部分でスポーツセンターとの連絡通路まで備えたかなり本格的な作りだった。

「ひめのん、かすみん、いらっしゃい!」

その入り口から栗野理沙が姿を見せた。

「さあ、早く入って入って」

相変わらずのテンションのままの里紗に促されて姫乃たちは施設の中に入った。


中に入って、姫乃たちは改めて感嘆の声を上げる。

もはや豪華な室内プールのようだ。元は銭湯だったという要素はどこに行ったのか。

「理沙ちゃんのおばあちゃん、ひょっとしてお金持ち?」

「や、なんかうちの誰もばあちゃんがどうやってこんなん作ったのかわかんないんだけど」

困惑気味な理沙の言葉に首をかしげる。

「それにお客さんも一杯だよ」

「香住ちゃん、いまいるのだいたいクラスのみんなとその家族だから」

里紗が半泣きなのを横目で見ながら、姫乃は何とかフォローしようとして、思いつかずに諦めた。

「栗野さん!」

そこに一人の少女が駆けてくる。姫乃はその女の子に見覚えがあった。

まだ話したことはないが、同じクラスの——

「柚希じゃん。どしたの?」

「弟を見なかった?見つからないの」

目にかかるほど濡れた前髪をたらしながら、少女=相原柚希は焦っていた。

「ひょっとして迷子?」

「そうかも、ちょっと手を離したらどこかに行っちゃって」

「わかった。あたしらも協力するよ」

いつの間にか姫乃と香住、そして雪姫も巻き込んで里紗が安請け合いする。

「良かった!陽太って言う3歳くらいの男の子なの」

そう言い残して柚希はまた弟の名前を呼びながら去っていく。

「とりあえず、手分けして探そう」

里紗の言葉に三人も頷き合い、思い思いに散った。


「とにかく、探さないといけないよね」

姫乃は自分に言い聞かせるようにして左右のこめかみに人差し指を当てた。

その指を後ろに向かってぐるぐると回す。

(時間を、巻き戻すイメージ)

3回転ぐらいさせところで目を開き、視線を凝らす。

視界の中、施設内を歩く人の中に、うっすらと半透明の人間の影が見えてくる。

姫乃の力、精霊を見る霊視能力の応用。そこに「いた」人の意識の残滓、残留思念を見ることで、姫乃は今の視界と同時に過去の人の動きまで見ている。

その中で、姫乃は過去の相原柚希の姿を見つけ出した。

おそらく十数分前の相原柚希が幼い弟の手を引いて歩いている。だが、彼女が別に遊びに来ていた友達との会話に気をとられた隙に、弟は勝手に歩きだしていた。

その過去の影を、今の姫乃が追った。

子供の影は壁際まで歩み寄り、そこで消える。あまりに不自然な消え方だった。まるで、本当に消えてしまったような。

姫乃はそこで周囲を見回し、不審なものを見つけた。

壁にある姿見の一枚。それが不自然な光の反射をしている。

姫乃は自分の視界を過去視から霊視に切り替え、改めて見直した。

鏡が、なにか別の場所につながっている。

そう確信して、手を触れる。

視界が歪み、姫乃はスパの内部から姿を消した。


「なに、ここ?」

かぽん、という音と、タイル張りの床の感触に姫乃は困惑している。

視界の多くは湯気で覆われ、上下左右どちらを見渡しても白い湯気で何も見えない。

なのに、正面にある番台だけがはっきりと目に映っていた。

——銭湯?

意味がわからない。ひとまず番台に近づいてみることにする。

番台には一人の老婆が座っていた。

と思ったら亀が座っていた。

ではなく、やはり老婆が座っている。

ぞろぞろと別の影の群れが、番台に近づき、その老婆と何か言葉を交わして奥に行く。躊躇っているとまた別の影が老婆と会話をして奥へと進む。

そのすべてが妖怪であった。

近づいた姫乃に気付いて下を向いていた老婆が姫乃に向かって首を伸ばし、ようやく姫乃はそれが老婆の姿をした亀の妖怪だと気づく。

「あの、ここは一体?」

亀の老婆が、ちゃりん、と硬貨を鳴らした。

「はいはい。ここは妖怪温泉。みんなの触れ合いの場所だわさ」

亀の老婆は妖の思念ではなく、人間のように言葉を離す。

「よ、妖怪温泉?」

「あんた、見ない顔だねえ。どこのもんだい?」

「わ、私は」

まずい流れだ。姫乃の経験と勘がそう思わせる。

自分が人間だと知られてはならない、と直感した。

ここは妖怪の溜まり場なのだ。

そんな姫乃の様子を老婆がいぶかった。

「……あんた、ひょっとして」

『お姉ちゃん』

姫乃の後ろから、白竜が現れる。

姫乃を追って、雪姫も異界に来たのだ。

「ああ、竜族の娘かい。どおりでニンゲンみたいな姿だ」

亀の老婆は得心して、二人に向かって手を伸ばした。

「温泉に入りたきゃ、お代をおくれ。ちょっと力を分けてくれるだけでもいいよ」

姫乃は緊張する。

妖気を代金代わりに請求する。お金の概念がない妖では物々交換は基本だ。

単純な力、エネルギーの受け渡しだけではなく、時には金属や石、木など役に立つかもわからないものでも妖怪によっては取り引きは成立する。

だが、姫乃や雪姫の霊力を相手に与えるのは慎重になるべきだった。

老婆が受け取った姫乃の霊力を確かめて、雪姫との霊力の違いに気づくのはもちろん、姫乃が人間だとバレてしまう危険もある。

姫乃は手のひらに意識を集中する。握りこんだ右手に意識を込め、開く。その手のひらにひとかけらの光る石が現れた。

簡単な転送術だ。自分の部屋から異界まで届くかどうか、不安だったが上手くいった。

「おばあちゃん、これでもいい?」

亀の老婆は石を受け取り、傍らに置いていた眼鏡で石を見通すように確かめた。

「なかなかの霊石だねえ。これでいいよ。はい回数券」

「いや、回数券って」

「こんな石もらったら一回だけじゃ勿体ないよ。おつりみたいなもんさ」

10枚綴りの回数券を二枚切り取って、残りを姫乃に返す。

それを受け取った姫乃は雪姫と顔を合わせて、女湯と書かれたのれんに入っていった。

「ではごゆっくり〜」



「ああ~、気持ちいい」

温泉に浸かりながら、姫乃は背伸びする。

そこはとても心地よい湯だった。身体中の力が抜けて、何も考えられなくてよくなるくらいに。

何をしに来たのか忘れるくらいに。

「……?」

何をしに来たんだっけ?

「——!!」

弛緩していた姫乃の意識が急激に覚醒する。

ざばっと大きな音を立てて姫乃が湯面から立ち上がり、絡みつくお湯に再び湯殿に引き戻される。

温泉でもがく姫乃の手足はすっかり力が抜けきっていて、自分の身体を引きずりこもうとする力にあらがえない。

(これ……マズい!)

この温泉の危険性を姫乃は反射的に悟った。自分の全身から湯殿に力が抜かれていく。このまま浸かり続けていれば、すべての生命力を吸い取られてしまう。

なのに、お湯そのものが姫乃を捉えて離さない。

これは罠だ。

見た目はただの温泉に見せかけ、その湯気と匂いで獲物を中に誘導し、浸かった湯殿でその命を奪う。

温泉そのものが人食い沼のようなものだったのだ。

男の子を探すはずが、近くによった姫乃は惑わされて温泉に浸からされていたのだ。

「ご……の!」

頭までお湯に浸かった姫乃の全身から力が放出される。

巨大な霊力が純粋なエネルギーとなって放たれ、湯殿にあったお湯すべてを外に吹き飛ばした。

お湯がなくなった湯殿から姫乃は這うようにして逃げ出し、すれ違うかのように飛び散ったお湯が湯殿に再び戻っていった。

かろうじて脱出したものの、少なくない霊力を吸い取られて姫乃はその場に座り込む。全身から湯気と汗を立ち上らせ、ぜいぜいと喘いだ。

その後ろで、温泉で再度結集したお湯が形を成して、まだ逃げきれない姫乃めがけて取り込もうとする。

『お姉ちゃん!』

湯気を突っ切って空中から白い竜が躍り出る。その口から放たれた純白の息吹ブレスが姫乃に襲い掛かった流体を一瞬で凍り付かせた。

「雪、ちゃん。ありがとう、たすかった」

肩を震わせ、口の中に残った湯を吐き出しながら姫乃は雪姫に謝る。

いつの間にはぐれていたのか。それすら覚えていない。

「あら、姫乃ちゃんと雪姫ちゃんじゃない」

そんな姫乃のもとに、巨大な蜘蛛の足が現れた。

「……恵那、さん?」

「そうよ。先週以来ね。アンタたちがなんでこんなところにいるのよ?」

蜘蛛の胴体から妖艶な美女の上半身をはやした蜘蛛女、恵那がそう言って首を傾げた。

その後ろに、恵那を小さくしたような少女の蜘蛛女がぞろぞろと続いている。

以前会った時と違い、彼女たちの上体は裸身だった。以前会った時も乳房を体毛で覆うくらいしかしていなかった気がするが。

恵那の後ろに続いた蜘蛛少女たちを見る姫乃の視線に気づいて、恵那は後ろを向いた。蜘蛛少女たちはいずれも恵那をより幼くしたような顔と体系で、二回り以上小さい。

「ああ、こないだは紹介しなかったわね。アタシの仔よ」

ずらりと恵那の隣に、母より幼い同じ顔が10体並んだ。

「左から一子イチコ二子ニコ三子サンコ四子ヨコ五子ゴコ六子ロコ七子ナナコ八子ヤコ九子クコ十子トウコよ」

「名前適当すぎない!?」

疲労のために肩で息をしながら、姫乃は思わず叫んだ。

「毎回、山ほど産まれるからいちいち名付けるの面倒なのよ」

「母上、六子と九子が逆です。それからサンコではなくミコです」

「紛らわしいわね!」

一子イチコから訂正され、名付けた自分へ盛大なブーメランを投げながら、恵那は毒突く。

「いいのよ名前なんて適当で、どうせ半分くらいは死ぬんだし。生き延びりゃ自分でいい感じの名前つければ」

「恵那さんもそうだったんですか?」

「アタシは眷族になった時に真人から名付けられたわ」

えー、と言わんばかりの視線を受けて恵那は逆に大きな胸を張った。

その豊満に揺れる双丘から姫乃と雪姫は目を逸らす。

「ところで、なにしに来たのよ?」

「あ、そうだった。友だちの弟くんが迷い込んだみたいで探しに来たんです。3、4歳くらいの男の子なんですけど」

「ああ、時々子供が迷い込むのよね、ここ」

じゅるり、と恵那が舌舐めずりをした。

「——食べちゃダメですよ?」

「……わかってる……わかってる」

姫乃と視線を合わせず、目をそらす恵那。ジト目を向けた姫乃から顔を背け、恵那は横に向けて手を振った。

「蛇蓮、ちょっと来て」

「なぁんですかぁ」

どんよりとした声と共にずるずるという長いものを床に引きずり、水から引き出される音を立てて、恵那に負けず劣らずの妖艶な美女が姿を見せた。

額に三つ目を持ち、気だるげな目と波立つ黒髪を腰まで伸ばした美女は、腰から下が蛇の胴となっている。その全長は10メートルをゆうに超える蛇女だった。

「この子の迷子探し。あんたの百目を貸したげな」

「あなぁたぁが、ヒメですかぁ」

なぜか頭上から逆さに覗き込む蛇蓮に、姫乃は怖がることなく、頭を下げた。

「どんなぁ子を探していますかぁ?」

「えっ、とこんな感じの小さな子なんですけど」

その言葉と共に、姫乃はこめかみに右手の指先を触れて、恵那と蛇蓮に思念で自分が過去視で見たイメージを送る。

言葉で伝えるよりも、直接容姿を見せた方が効果的だった。

蛇蓮の額の目が開き、その上半身から蛇の胴部に至るまでのそこかしこに眼が開く。

百目、という言葉の意味を姫乃は目の当たりにした。

「いましたぁ。あちらに」

今度は姫乃がイメージを受け取る。

無数のモヤが円を描く、その中心にうずくまるようにした子供の姿。

「ありがとうございます、恵那さん、蛇蓮さん」

だいたいの場所の見当もつき、姫乃は二人に頭を下げた。

「念のため、あたしの仔も連れてきな。あんたに傷一つでもつけた日にゃ、あたしの立場がない」

「いいんですか?」

思わぬ手助けに目を丸くする姫乃に、恵那がひらひらと手を振った。ざざっと蜘蛛少女たちが姫乃の後ろに付き従う。


「ところでヒメちゃん、精霊姫って知ってるかい?」

出発しようとした姫乃に、恵那が問いかけた。

ぎくり、と姫乃の足が止まる。

「その様子じゃ、わかってるみたいだねえ」

恵那の口調は明らかに面白がっている。

「アタシも聞いた話しか知らないけどさ。ニンゲンの中にトンデモない霊力を持ってるやつがいるって噂よ。その力を色々なやつが狙ったけど、手強い護衛がついてて誰も手が出せないんだって。

ここしばらく姿を見せなかったらしいんだけど、最近また見つかったらしいさねえ。この街で」

「恵那さんも、その力に興味がありますか」

慎重に言葉を選ぶ。

自分が妖たちの間で何と呼ばれているかは知っている。

その力を狙われていることも、そして父が密かにそれから自分を守ってくれていたことも、なんとなく気づいていた。

「あたしは真人の眷族さ。力は充分に持ってる。けど、眷族でもみんながみんな話がわかるわけでも、降魔の一族に心から従ってる訳でもない。血の盟約で逆らえなくてもいつか痛い目みせてやる、って思ってるやつも少なくない。

精霊姫を喰えばその力が手に入る、そう思ってる連中は多いのさ」

「私じゃ、真咲くんにも敵いませんよ」

「妖怪ってのは、私みたいに頭回るやつばっかりじゃないのよ。ニンゲンと同じでね」

さりげなく自画自賛して、胸を張る恵那から姫乃は再び視線を外す。


『か~ご~め~か~ご~め~、か~ごのな~かの鳥は~』

伝えられたイメージに導かれ、かごめの歌が鳴り響く中で、歌に合わせて踊るように蠢く白いモヤが並ぶ中心に、確かに男の子がいた。

姫乃はモヤをかき分けるようにして男の子に歩み寄る。

「陽太くん?」

その呼びかけに、うずくまっていた男の子が顔を上げる。

姫乃の背筋が凍る。幼児の顔がのっぺらぼうのように見えたのだ。実際の眼にはただの幼い子が映っている。ただ、霊視では幼児の自我が徐々に失われて行こうとしているのが見て取れた。

「おねぇちゃん、だぁれ?」

「私は柚希ちゃんの……お友達。陽太くんを探しに来たんだよ」

姫乃はしゃがみこんで幼児に視線を合わせた。

「おねぇちゃんはおねぇちゃんのおともだち?」

「うん、そうだよ。お姉ちゃんが心配してるから、一緒に帰ろう?」

わかった、と男の子が手を伸ばす。その手を握って、姫乃はモヤの外に出ようとするが——。

『だめだよ』『そうだよ』『もっとあそぶの』『ぼくのばんなの』

と、モヤがそれを遮るように動いた。

『じゅんばん』『ようたくんはさいご』『じゃましちゃいや』

モヤの声はあまりに幼くて、姫乃は嫌な感覚を覚える。

このモヤは子供だ、とその感覚が教えてくれる。

それは子供の魂だった。妖にさらわれ、あるいは知らず異界に迷い込んでしまった子供。

その魂は彷徨い、自分たちがなんだったのかも忘れてしまう。

それでも元の世界に帰りたくて、他の子供を呼び寄せ、その身体を借りて外の世界に「帰っていく」。

「神隠し《かみかくし》」、または「取り替えっチェンジリング」と呼ばれる事象の一つ。

モヤの数は何十にも及ぶ。

その全てが異界に呑み込まれた子供だ。

彼らは別の子供に憑りつき、代わりにその子供の魂をここに置いていく。そうして魂を入れ替えられた子供の身体は、元の世界の「両親」のもとで彼らの子供として育ち、取り換えられた子供の魂は、ここで次の子供の入れ物が来るのを順番に待つ。

その性質が姫乃には分かった。

『かえっちゃだめ!』

モヤが集合して巨大な白い人影を形作る。その人影は頭が大きく、手足の短い幼児の姿そのものだ。姫乃の何倍もの巨体となったそれが、姫乃に襲い掛かった。

『おねえちゃん、わるいこ!』

とっさに姫乃はモヤのいなくなった空間に跳ぶ。

「雪ちゃん!陽太くんをお願い!」

幼児を空中に放り投げるのと、それを舞い降りた白竜が取り上げるのはほぼ同時。

幼児を抱えた白竜を見届けて、身軽になった姫乃は、その手に白銀の弓を顕現させた。

「精霊装!」

姫乃の身体が霊力で象られた戦装束に包まれた。

白いヒトガタが赤ん坊の泣き声のような唸り声を上げて、姫乃めがけて突進する。

姫乃は両手を交差させ、前に突き出した手のひらを肩より上から地面までなぞるように下ろした。姫乃の両手が象った四角系の障壁が、白いヒトガタを受け止める盾となる。

そしてその隙に霊装の力を借りて後方へ大きく跳躍した姫乃は空中で光の矢を放った。

放たれた矢が白いヒトガタの足に何本も突き刺さり、その動きを止める。甲高い鳴き声と悲鳴が鳴り響いた。

「ごめんなさい」

姫乃は相手に聞こえないと分かっていても謝った。

姫乃には彼らを救えない。肉体と言う器のない彼らを救うには、魂のない肉体という器をその分だけ用意しなければならない。

用意できたとしても、今度は親のいない、自分が誰かもわからない大量の孤児が出来るだけ。

器を用意することも、彼らの面倒を見ることも、姫乃には出来ない。

父や母にも頼めない。頼んだところで、それはただ負担を背負わせるだけだ。

姫乃に出来ることは、霊を見ることと、目の前で起きている妖魔による事件を止めることだけだ。

すでに起こってしまったことは止められない。

「せめて、これ以上苦しまないように」

弓につがえた光の矢に強い霊力が込められる。姫乃の周囲を燐光が取り囲み、それが矢に収束されていく。

だが、その光を集め切る前に、白いヒトガタは射抜かれた足を残してモヤへと分裂し、姫乃の背後で再び結集した。

先ほどより一回り小さくなった白いヒトガタが両手を振り上げて姫乃に襲い掛かる。弓を構えた姿勢を崩さずに姫乃は地を蹴り、その攻撃をかわす。

そこへ幼児を載せて上空へ対比していた白竜が、その頭の角から雷撃を放った。雷撃に撃たれ、白いヒトガタが苦悶の叫びを上げた。

再び分裂しようとしたヒトガタを今度は別の白い網が覆っていく。

ヒトガタの周囲を蜘蛛少女たちが取り囲み、その口から一斉に糸を吐きかけたのだ。

霊力の糸はきめ細かな網となり、ヒトガタは動くことも、分裂して逃げ出すこともできなくなった。

そこに霊力を溜め終えた姫乃の矢が放たれた。

「レィディエント!」

姫乃の叫びに彼女の周囲の精霊たちが呼応し、その矢に力が込められる。

大きな光が、ヒトガタを飲み込んで、消滅させていく。

『ぼくのばんだったのに!』

その叫び声が、いつまでも姫乃の耳に残り続けた。


男の子を連れて、姫乃と雪姫は鏡から出た。

スパの中は相変わらず喧騒としていて、不意に現れた三人に注目する人は誰もいない。

内部にあった時計に目をやる。

姫乃が最初に鏡に触れた時から、五分も経っていなかった。

異界と現世では時間の流れが違う。異界では一時間以上過ごしたように思えていたが、現実の時間経過はごく僅かだ。

「陽太!」と慌てた声とともに女の子が一人、姫乃が手を引いている男の子をめがけて駆けてくる。

「おねえちゃんだ」と幼児が嬉しそうに、姫乃の手を離れて相原柚希に駆け寄った。

「もう陽太!どこへ行ってたの」

「すごいよ!あのおねえちゃんがばーってひかってしろいおねえちゃんがそらをとぶの!」

興奮してまくし立てる弟の話が、柚希にはさっぱりわからなかった。

「あの、鈴宮さん。どうもありがとう!」

「ううん。気にしないで、困った時はお互い様だから」

あはは、と乾いた笑いを見せて姫乃は手を振った。

相原陽太はまだ幼い子供だ。

今日の体験をどんなに話したところで、彼の姉や両親には伝わらない。子供が変な遊びをしていた、と思うのがせいぜいだ。

それは姫乃自身の経験でわかっていた。

「おや、見つかったのかい」

しわがれた声がして、姫乃と雪姫はその声の方に振り返った。

姫乃たちと大して変わらない背丈の老婆とその後ろから息を切らして駆けてきた里紗、香住の姿があった。二人も散々探し回っていたのだろう。

「ばあちゃん!見つかったって?」

「ああ、そちらのお姫様たちが見つけたようだねえ」

お姫様、という言い方に姫乃と雪姫がいぶかる。

「ひめのんのこと話したことあったっけ?」

「それにしても、昔からここは迷子がよくでるわ。迷子注意の看板でも張り出すかね」

孫の疑問は無視して、老婆は何かを考える仕草をした。

「姫乃ちゃん、それなあに?」

香住に問われて、姫乃は自分が妖怪温泉でもらった回数券をまだ持ったままだったことに気付く。

「あれ、婆ちゃんがずっと前に作ってた回数券じゃん。どうしたの?」

「あ、いや、なんか通りすがりのお婆ちゃんにもらったの」

ぱたぱたと手を振りながら姫乃は何とか誤魔化してみる。

「でも、もうそれ使えないもんな。ここのポイントカードと交換してもらおうか?回数券分ポイントに変えてもらうとか」

「いや、それはそのまま持っておきなさい」

回数券を見て考える里紗を老婆は遮った。

「その回数券は使えるもんだから、お姫さんたちは気にせず、また来てほしいねえ」

そう言って老婆は去っていく。

その後ろ姿をじっと見つめて、姫乃はようやく肩の力を抜いた。

「理沙ちゃんのおばあちゃんってさ」

そこまで言いかけて、姫乃は止めた。確証はない。何より、理沙は何も知らないようにしか見えなかった。

「なに?ひめのん」

「ううん、なんでもない」

姫乃は首を振る。何度見ても、姫乃の眼には老婆が人間にしか見えない。

だが、その容姿は妖怪温泉で見た亀の老婆によく似ていた。

回数券を渡したのは同じ老婆だとしか思えないのだが。

(化けるの上手いなあ)

と、心の中でつぶやき、姫乃は全て自分の心のうちにしまっておくことにした。

この街は妖の支配する街。人間のふりをしている妖などいくらでもいるのだ。

そうやって考えをまとめていた目の前を親子連れが歩いていき、その姿に姫乃は思わず振り返った。

風呂上がりの親子3人が手を繋いでの帰り道。普通に見ればそれだけの光景。

だが、両親に両手を引かれて歩く幼児から、妖気が立ち昇るのが姫乃には見えた。

人の器に、取り付いた妖が入りきれずにはみ出している。

(取り替えられた!)

姫乃が妖怪温泉から去った後、あるいは入る前にすでに誰か「入れ替わって」いたのだ。

(今から戻れば!)

だが、戻ったところで手がかりがなければ探せない、救えない。

当の両親に協力を求めたところで、見知らぬ子供に突然、あなたたちの子供は違うものに入れ替わっている、と言われても信じてもらえるわけがない。

救えない。

今頃、すでに取り替えられた子は、彼らに取り込まれ、自分がなんだったのかも忘れているかもしれない。

姫乃は突きつけられた事実に愕然となった。

入れ替わったものも遠からず妖力を失い、自分がなんだったを忘れて、ただの子供として両親の元で育つだろう。

両親にとっても、最初は違和感を覚えても成長の早い幼児の変化だと受け入れていくだけ。

なにも変わらない。

姫乃のように見える力がなければ、何が起きたかを知ることがなければ、何も起きていないのと同じだ。

そして姫乃が何度妖魔を倒したとしても、姫乃の知らないところで妖魔が別の事件を起こし、そのたびに犠牲になるものが出る。

その中にはあの子供たちと同様のモヤになってしまうものも出るだろう。

愛居真咲は言った。

妖が人を襲うことを、止めたければ止めればいいと。

だが、姫乃には止められない。目の前で起きていることすら、一つしか解決出来ない。

慣れている。自分が見えたことを人に信じてもらえないことも、目の前で起きたことを止められないことも、姫乃は幼い頃から何度も経験してきた。

目をそらし、見ないふりをして、逃げ出して。そんな自分が情けなくて、悔しくて。

だから力を使えるように訓練を重ねた。戦う術を得た。それでも姫乃はまだ子供に過ぎない。

救えない、叶わないことばかりで、手が届かない場所が多すぎる。

今は、まだ。

父に言われた通り、鈴宮姫乃は自分勝手でわがままだ。自分の思い通りにならないことが、悔しくてたまらない。

「——姫乃」

ポン、と肩に手を置かれた。

母の静かな目が、姫乃を上から見下ろしている。

鈴宮黒姫には霊が見えない、妖の声が聞こえない。彼女には娘たちが何をして、何が起きたのかもわからない。

だが、それでも娘の様子から、姫乃たちがまた何かに巻き込まれたことを悟っていた。

その母の手を握り返し、姫乃は決意を込めて見返した。その姿に母は微笑む。

(強く、なる)

言葉にはしない。言えば、願いになりそうだから。

(私はもっと強くなる)

力では敵わない。敵う気がしない。

それでも——

(真咲くんでも敵わないものに、私はなる)

この決意だけは、忘れない。



数日後——

「恵那さん」

と声をかけられ、娘たちと一緒に温泉でくつろいでいた恵那は声の主に首だけを振り向く。

「あら、またアンタかい」

湯殿を覗き込むように、白い竜が座り込んでいた。

「恵那さん、お姉ちゃんを知りませんか?」

「姫ちゃん?アタシは見てないけど、なに、また迷子探し?」

「いえ、お姉ちゃんを探してるんです」

その言葉に恵那は湯殿から上がって、雪姫と歩き始める。

その後ろに10人の蜘蛛少女が続いた。

「あの子、あれからよくここに来てるの?」

「お姉ちゃん、うちのお風呂からここに通ってるみたいで」

「まあ、風呂場からならだいたいここに繋げられるけどね」

恵那はげんなりした。

妖怪温泉は風呂からつながる異界だ。その気になれば町中のお風呂のどこからでもここに来ることはできる。

出来るのだが、妖からその身を狙われている少女がノコノコ来るような場所ではなかった。

「あの娘の神経も図太いっていうか、なんで出来てるのかしら?ニンゲンよね、あれ?」

「私のお姉ちゃんですから」

答えになるような、ならないようなことを雪姫が言った。どこか嬉しそうにも見える。

「あ、雪ちゃん、恵那さん。やっほー」

そんな二人と10匹が歩いてるのを見つけて、先日、危うく喰われかけた人喰い沼に浸かりながら、姫乃はひらひらと手を振った。

その弛緩した表情に、恵那は呆れ返った。

「あんた、それ人喰い沼だってわかってるよね?」

「いや、なんかこう力が抜ける感覚が気持ちよくなっちゃって」

あー、と大きく伸びをして、姫乃はくつろぐことしばし。

よっ、と気合いを入れて赤い沼から立ち上がる。一度捕らえた獲物を逃さないはずの沼の水は、至極あっさりと姫乃の身体を流れた。

「姫乃、恐ろしい子!」

平然と沼から抜け出た姫乃の姿に、恵那が白目を剥いた。

姫乃はいつの間にか人喰い沼を支配下に置いていたのだった。

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