第4話 降魔の掟

その日は、気持ちの良い朝だった。

日本に帰国して、転校して、ようやく仲直りもできて、姫乃は転校後の最初の土曜日を迎えた。

カーテンから差す朝の陽ざしを浴びて目が覚めた。ベッドから起き、背伸びして、着替え、髪を整えて、祖母の用意してくれた朝食をとる。

朝食後、片付けと洗い物の手伝いをして、自分の部屋に戻った。

「……これからどうしよう」

はて、としばらく考える。せっかくの最初の休みだったが、なんの予定もなかった。

よくよく考えてみると、帰国してからの最初の一週間、愛居真咲との仲直りすることばかり考えていて、他の友達作りが出来てなかったことを今更ながら思い出した。

「里紗ちゃんと香住ちゃんは友達、よね」

帰り道が途中まで同じということで毎日一緒に下校していた2人を思い出し、しかしまだ連絡先を教えてもらっただけという事実に立ち竦む。

「いきなり遊びに行くのは迷惑、かな?」

ん、と顔をしかめ一考するが、決心はつかなかった。

「お姉ちゃん」

途方にくれていた姫乃の部屋に、妹の雪姫がやってくる。

「雪ちゃん、どうしたの?」

「お姉ちゃん、今日の予定はありますか?」

「——今、考え中」

「私ね、盾上さんにこのあたりを案内してもらうつもりなんだけど、お姉ちゃんもどうですか?」

盾上心音、雪姫と同じクラスの女の子聞いた名前だった。下校中に少し会った覚えがある程度の。

妹の提案はとても魅力的だった。だが、姉としての変なプライドがここで足を引っ張る。

「ごめん雪ちゃん、あたしもうちょっと考えてみるね」

「うん、わかった」

本音を言えばここでもうちょっと妹に粘ってほしかったのかもしれない。しかし姫乃の本心とは裏腹に、雪姫は静かに扉を閉めて去っていく。物わかりの良さは妹の良いところ、押しの弱さは悪いところだ、と自分の曖昧な態度を棚に上げて姫乃は再び途方に暮れた。

「おばあちゃん、自転車借りていい?」

「あら、姫乃ちゃんたち用におじいちゃんが準備したものがありますよ」

「じゃあ、それでいいや。ちょっと周りを見てこようと思って」

「車に気をつけてね、それから迷子にならないように」

「もう、私そんなに子供じゃないよ」

「小さいころから姫ちゃんはちょっと目を離すとどこかに行ってしまうからねえ」

ほほ、と笑う祖母に苦笑いを返す。

物心ついたころから人に見えないものを見てついていってしまう、とは父の言葉だったか。

祖母に見送られて、姫乃は自転車に乗って家を出た。

結局、ノープランであった。


フラフラと適当に自転車を走らせて、当てもなくさまようこと小一時間。

家との距離を測りながら道を覚えていた姫乃は、再び前の夜にやってきた運動公園にたどり着いていた。

昼食を家で食べることを考えて、時間を見ながら、姫乃は公園の中に入る。

誰もいなかった夜とは違い、公園には少なくない数の人がいた。

小さな子供を遊ばせている家族や、芝生で追いかけっこをしている子供。遊歩道をジョギングしている老人や乳母車を押して歩く若い母親。

数日前に凄惨な光景が繰り広げられていたとは思えない、平和な情景だった。

その光景を見ながら、自転車を押しながら遊歩道を歩いていた姫乃は、その中に見知った姿を見つけて、目を見張った。

「……真咲くん?」

遊歩道沿いのベンチの一つに座っていたのは、左半面を眼帯で覆っている少年だった。傍らに小さな包みを置いて、周囲の喧騒も気にせずに本を捲る。学校でもよく見る姿だった。

考えてみれば、同じ学校に通っているのだから、行動範囲は重なって当然なのだ。

姫乃がすぐ近くまでよって、ようやく愛居真咲は本から視線を離した。

「こ、こんにちわ。真咲くん」

たどたどしく挨拶する姫乃を見上げ、真咲が頭を下げる。

真咲と向かい合って、ようやく姫乃は真咲の隣の包みに見えたそれが、白い毛布にくるまった赤ん坊であることに気付く。

その視線に気づいて真咲も隣で眠っている幼児に視線を向けた。

「……その子は?」

「妹」

「妹⁉……いたんだ」

「4ヶ月前、生まれた」

そう言うと、真咲は読んでいた本をたたんで、赤ん坊を慣れた仕草で抱きかかえた。無造作な動きに見えたが、赤ん坊は眠ったまま兄の背中に背負われる。

「え、と名前は?」

「サク、ラ」

「咲良」と、妹を背負い終えた真咲がメモに書き記す。

発声が上手くできない真咲は、学校で長く話す必要がある場合は筆談をすることが多い、というのは仲直りした翌日に知ったことだった。

赤ん坊の顔を覗き込み、姫乃は違和感を覚えた。眠っている赤ん坊の姿を見ても何も感じない。何も感じないという違和感。

「この子は、人間なんだね」

その言葉に真咲は頷く。

『その方が良い。人間は異質なものを受け入れられない。同じ人間のほうが集団に馴染みやすくなる』

必要最低限の言葉は口に出し、長く喋りにくい内容については思念波を使う。さらに筆談と、真咲の会話方法の使い分けは、まともに接するようになってまだ数日の姫乃にはなかなか慣れない。

「……真咲くん、いじめられてたって聞いたよ」

「問題、ない。所詮、雑魚」

それはその通りだろう。子供の姿をしていても人外の怪物。ただの子供が何をしたところで応えるわけもない。

言い捨てて、真咲は歩き始めた。

どこにいくのか、と聞こうとして、なんとなく姫乃はそのあとに続く。

『それに、やり返さなかったわけじゃない』

真咲の口の端が吊り上がり、耳まで裂けたのを姫乃ははっきりと見た。

笑ったのだ。ひどく残忍な笑い方だった。

『やつらには自分以外の誰かが仕掛けたように見せかけて、な』

同士討ちだ、と真咲は嗤った。

「そ、それにしてもこの街は妖怪が多いんだね」

慌てて話題を変える。これ以上話を続けては聞きたくない話になりそうだった。

何より、自転車で走り回っている間、姫乃の目に映った人ならざるものたちの数は尋常ではなかった。

普通の人間には見えないだけで、今もそこかしこにいるのが姫乃には見える。ベンチの下に、木陰に、木の葉や岩の影に。

その多くは無害な精霊にすぎない。姫乃にとっては見慣れた姿だ。

ただ、その数は姫乃がそれまで見てきた街とは段違いに多かった。

『問題はない。昼の間は何もしない』

「昼の間は?」

「掟、だ」

『昼は人の領域、夜を妖の領域とする。人狩りは夜に、それぞれの縄張りで行う』

人狩り、という言葉に姫乃は思わず震えた。真咲はそんな姫乃の様子を一瞥するが、気にせずに言葉を続ける。

「ここは、妖の、街」

『普通は人間の街に妖が潜むが、ここはそうではない。この街を支配しているのは自分たち妖、人外となる』

ごく自然に自分のことを怪物と称する真咲の姿に、姫乃の胸が痛む。

姿は人間なのに、愛居真咲は自分を人間だと思ってはいない。思ったこともないのだ。

『人の領域に踏み込まない。人を必要以上に喰いすぎない。闇に潜み、自分たちの領域に入ってきた人間のみ喰う。それが祖父がこの街の妖に課した掟。それを侵すものは、自分が排除する。先の夜のように』

「……みんなが人を食べないようには、出来ないの?」

『——ヒメはパンを食べることを禁止されても困らないのか?』

そう聞き返されて、姫乃は思わずたじろぐ。

『妖が人を食べてはならない、というのは人の理屈だ。多くの妖にとっては人を喰うことで得られる霊力の価値は高い。霊格の高い人間を食するほどに力を高めることが出来る。自分も同様』

「真咲くん——も人を食べるんだね」

『今さら何人食べたところで大したパワーアップにもならないが、気晴らしにはなる。それに人間を喰うのは面白い』

ぞくり、と背筋が凍るような笑みを真咲は浮かべた。

『人間は自分たちが喰われることなど思いもしない。この街に妖が潜んでいるということも。それを知った時の反応が、とても、愉しい』

だが、その言葉に、表情に姫乃は違和感を覚える。愛居真咲が人喰いの鬼であることは事実だ。それは父から何度も聞かされている。近づくな、友達になろうなど思い直せ、とはっきり言われたこともある。

だから……

「真咲くんは、私を怖がらせたいんだね」

前を行く真咲の足が一瞬止まる。

図星だった。思えば先の夜の戦いも、近づこうとする自分を脅かすために仕掛けてきたのではないか。

「そうすれば、私が自分から逃げ出すと思ってる」

『否定はしない。自分に関わることを、止めた方が良い』

「私も……食べるから?」

『トモダチは喰わない……トモダチの家族も喰わない。それが人間の中で生きる上でのルールだと言われた』

淡々と真咲の思念が答える。木陰で、影に入ったその表情は良く読めない。

「——そうやって、怖がらせてどうする」

突然、頭上から投げかけられたその言葉とともに、真咲の頭の上に鉄拳が落ちた。頭上の木の枝から影が降り立ち、鈍い音がして少年の上体が沈む。その拳の主へと視線を移して、姫乃は思わず息を呑んだ。

いつの間にか真咲の隣に立っていたのは巨大なカブトムシだった。直立した人型の甲虫が少年の頭上に三本指の拳を落としたまま、姫乃に頭を下げる。

「悪いなお嬢さん、こいつは口が悪くてね」

妖怪だ、まぎれもなく、どう見ても。

それが昼間から人の要る公園の真ん中で堂々と姿を現している。

姫乃は首を横に振った。

間違いに気付いたのだ。気を取り直して、視界に意識を集中して、もう一度目の前のものを見直す。

そこに映ったのは黒ずくめの長身の青年だった。上向きに刈り上げた黒髪、黒のサングラス、薄手の黒いジャケットに黒のジーンズをラフに着こなした男。

それが正しい見え方だった。

「……俺、化けそこたか?」

「問題、ない。ヒメは、擬態が、効かない」

そんな姫乃の反応に黒ずくめの青年と真咲が言葉を交わす。

やっぱり、と姫乃は安堵した。

幼いころから姫乃の目は特別だった。人には見えない精霊や妖怪の姿が見え、時には死んだ人間の霊も見える。

そして、人間に化けた妖の正体も見えるのだ。無意識のうちに、正体を見破ってしまってトラブルになったこともある。

自分の特殊性を自覚してから、見えないものを見ないようにする、見ていないように振る舞えるようになるまでには長い訓練が必要だった。

「ご、ごめんなさい。ちょっと驚いちゃって」

「いや、こっちこそ驚かせちまったな」

謝る姫乃に、男はひらひらと手を振った。

火武斗カブトだ。お嬢ちゃんには真人の眷属って言っても良いか」

「眷属?え……と使い魔で良いんですか?」

あー、と火武斗は頭をかいた。

「まあ、似たようなもんだが、従属種族と言った方が良いな。俺はこいつの父親の血をもらって、力と引き換えに真人の一族に従ってるってわけさ」

わしわしと右手で真咲の頭をこねくり回しながら火武斗が告げる。

「血を、もらう?」

「鬼の血さ。呑めば馬鹿みたいな絶大な力が手に入る。もっとも、血の主には絶対服従、同じ血を持つ一族には逆らえねえってことにもなるがな」

そう言いながらも主人の息子であるはずの真咲への扱いはかなりぞんざいだった。

火武斗カブトに促され、姫乃と真咲は再び遊歩道を歩き始める。

人気のある場所で、立ち止まってするような話ではなかった。歩きながらのほうが、まだ聞かれにくい。

『この地の妖は4割は祖父、3割が父、残りのうち1割が自分の眷属、支配下にある。ほとんどの妖は同じ血を持つ自分たちの一族には逆らえない』

「え、と残りは?」

「従ってないってだけで、掟を破ったりはしない。破れば俺たち眷属に狩られるか、最悪こいつの出番だからな」

ポンポンと無遠慮に頭をたたく火武斗に真咲が剣呑な眼を向ける。もともと歪んでいる右目で睨みつけるので、異常な不気味さがあった。

「……あんまり従ってるって感じしないけど」

「カブト、父、眷属」

『自分は父より下位にあたるので、主系であっても父の直属である火武斗との関係は同格に近い』

「お前がさっさと真人倒しちまえばいいんだけどな」

「……父、強い」

「真咲くんのお父さんは、人間だって聞いたけど?」

「確かに真人は人間だが、ただの人間ってわけじゃないからな。単純な力関係で言や三日月の下、真咲の上だ。人間の中じゃ桁が違う」

まただ。

火武斗の言った三日月、というのが自分の父を指していることは姫乃には分かっている。

だが、それが何を意味するのかを本当の意味では理解していなかった。

父の事情を姫乃は知らない。

姫乃にも妹の雪姫にも、父、頼火は自分のことをほとんど話してくれたことがなかった。

大きくなったら話す、とはぐらかされて続けて今日まで来た。

母は知っているかもしれないけれど、その母にしてもよく父は隠し事が多い、と言われるような人だった。

だから……父のことを知りたかった。

「真咲くん、お願いしたいことがあるの」

姫乃は意を決して真咲に話かけた。


「推奨、しない」

父のことを塞神降魔に聞きたい、という姫乃の言葉を受け、姫乃を連れて公園から、以前の晩に訪れた居酒屋への道を歩きながら、真咲は難色を示した。

『ヒメの父が三日月の名を伏せているのも、ヒメに事情を知らせないのも、余計な情報を与えないための処置だ。知らせないことに相応の理由があるなら、それを詮索するべきではない』

「真咲くんは、私のお父さんのことを知っているの?」

「多少」

『あの後、祖父から聞いた。父が、自分を母の家からに引き取る際に助けを得たとも。次に会うときに礼を言わなければならない』

「そういうのも、私は知らない……何も、知らないの」

自転車を押して歩きながら、姫乃はうつむいた。姫乃を後ろ手に見やり、真咲は前を歩く。その後ろを少し離れて、火武斗が歩いている。

「三日月も色々複雑な身の上だからな、落ち着くまでは嬢ちゃんたちに言えないことも十や二十とあるだろうさ」

「……その三日月って、お父さんの名前なんですか?」

「それも聞いてないのか。大概だな、あいつも」

火武斗は肩をすくめた。

真咲と火武斗が視線を交わし、頷き合う。

祖父に会う前の予備知識として彼らが知っていることだけでも先に教えておこうと思ったのだ。

「三日月、頼火」

『三日月家は八聖家の一つだ。古来、王家に使えた十二聖のうち、現存する八つの家門の一つ。この国において最も古い家柄』

「お父さんはその家で生まれたの?」

『養子だと聞いた』

「後継者問題ってやつでな。当時、娘しかいなかった三日月家の当主が、自分の一族以外で優秀な子供を探して、星川頼火って普通の家の子供を引き取ったわけだ」

『しかし、さらにその父親、祖父にあたる前当主に反対され、結局、三日月家を追い出された』

「俺が知ってるのは追い出される前の三日月だからな。もう10年くらいになるか」

交互に話す真咲と火武斗の言葉を、姫乃は一言も聞き逃さないようにする。

「あの頃、ちょうど父親から社会勉強だと言われたとかで、真人の爺さんとこにしばらく預けられててな。真面目だわ礼儀正しいわでまさに御曹司って感じだったな」

『父と親交があったのはその時か』

「もう一人、悠城ゆうきの後継と合わせて三人でつるんでたな。

真人が前総代の下で頭張ってた頃だ。

その後、三日月の方はお袋さんが亡くなったり、親父さんが倒れたりで実家に帰らなきゃならなくなって、その果てに祖父さんに追い出されたらしいが、真人のほうもお前が出来てそれどころじゃなくなったからな」

肩をすくめる火武斗に真咲が視線を向ける。その話は真咲自身も知らない部分が多かった。姫乃にとっては悠城という名前も初めて聞いたほどだ。

改めて、父のことを何も知らないのだと思い知る。

「悠城の方も表立って動ける身分じゃなかったんで、そこで三人バラバラになっちまった。俺に言えるのはここぐらいだな。後は降魔のじいさんにでも聞いてくれ」

そう言って、さしかかった交差点で火武斗は二人とは別の方向に足を向けた。

気が付けば、話をしているうちに居酒屋のある街の中心街近くまで来ていた。

「あ、ありが——!」

手を振りながら道を変えた火武斗に向けて、話をしてもらったお礼を言おうとして、姫乃は凍り付いた。

「ヒメ?」

真咲の言葉は、姫乃には届かない。

「どうした?」

離れかけていた火武斗も足を止めて姫乃の様子を伺う。

「——あ、あ……あ」

言葉にならない嗚咽が姫乃の口から洩れた。

目の前の交差点。そこに巨大な黒い影が渦巻いている。

道全体を覆うほどの影が中空に渦巻き、そこから伸びた細い影が下を通る車に巻き付き、走り去る車から振りほどかれてまた宙にある渦に戻っていく。

姫乃の目にはその渦の中の影がなんなのかまではっきりと映っていた。黒い人の姿をした影が渦から次々と上体を現し、下を通る車に憑りつこうとしている。

悪霊だ。人知れず事故を引き起こし、犠牲者の魂を喰う死霊の群れだ。

以前にも同じものを見たことがあった。いくつもの道で、彼らは人の死を待ち望んでいる。

だが、そんなものはもう見慣れたはずだった。

慣れて、見ないふりをして過ごす。そうしなければ、見えているものすべてを気にしていては普通に過ごすことはできない。だから父に訓練されて、見えるものを見えないように、見ないようにすることができるようになった。

なのに、姫乃は動けない。

見えているものから目が離せない。

交差点に一台の車が差し掛かる。乗っているのが若い夫婦だ、となぜかわかった。

車の中で二人が談笑し、信号の切り替わりを待って発進する。そこに横から信号無視のトラックが——

「ヒメ!」

肩をつかまれ、濁った叫び声が姫乃を現実に引き戻した。

「……真咲、くん」

姫乃の肩をつかんだまま、真咲は喉を抑えて身を震わせていた。喉の潰れている真咲にとって、人間の姿をしたままで叫ぶことは負担が大きい。

真咲の手を取って、姫乃は自分の手が汗にまみれていることに気付く。手だけではない、顔も背中も、全身汗だくだった。

全身が震えて、寒気がする。両手で身体を抱く。それでも震えが止まらない。

「わたし、知ってる。ここに来たことがある」

幼いころの記憶。母に手を引かれて、この場所を歩いている自分。

父に花を手渡され、ガードレールの下に手向けた。何も知らなかった自分。

あの時の献花は……。

「……お父さん、お母さん」

姫乃の意識は、そこで途絶えた。



夢を見ていた。

まだ幼い自分が両親と遊んでいる夢。

遊んでいる姫乃の姿を、少し離れたところで若い男女が見ていた。

母にその二人のことを話しても気づいてもらえなくて、父に話すとなにか難しい顔をして頭を撫でてくれた。

そんな姫乃たちの姿に、母が慌てて何かの写真を持って来て、姫乃はその写真を見て、その二人を指さし、なぜか母が泣きだした。

泣きだした母を父と自分とで慰めているうちに、その二人はいなくなってしまった。その二人は姫乃にだけ見えていたのだ。

今思えばその二人は……。

ゆっくりとまどろみの中で、意識が目覚める。

心に身体がついてきて、姫乃は両目を開いた。

「……お母さん」

その声に枕元で本を読んでいた鈴宮黒姫は、本を横において、娘の額に手を当てた。

「目が覚めた?気分はどう?大丈夫?」

そう言って、姫乃の顔に浮いた寝汗をタオルでふき取りながら、母が姫乃の顔を覗き込む。

「わたし……」

まだ混乱している。姫乃は左右に目をやり、そこが自分の部屋であることを確認する。

窓から差す光は赤みがかっていて、今が夕方であることを教えてくれた。

覚えている最後は、お昼前、愛居真咲の祖父のいる居酒屋に向かう途中だったことで……

「そっか、私、倒れたんだ」

自分のベッドの上で上体を起こし、ようやくそこまでを思い出す。差し掛かった交差点で、不意に寒気に襲われた記憶。

ぞっとして肩を抱いた。自分でもわからない不安が、今も姫乃の中にあった。

「姫乃」

母の言葉に姫乃は顔を上げた。

母の瞳が姫乃の目を真っ直ぐに見つめている。その顔は真剣そのもので、そして何か躊躇っているようでもあった。

「なにか、見えたの?」

その言葉に姫乃は息を呑む。

母は、ただの人だった。姫乃が見えるものが見えず、姫乃には聞こえるものが聞こえない。だから、姫乃が見えたものの話を聞いて助けてくれるのはいつも父の役目だった。そう言う話をするときは母はいつも離れていて、直接話に関わろうとはしなかった。

でも、母が姫乃の話を信じなかったことも一度もなかった。

そんな母が、姫乃が見えたものを聞きたがることも滅多にない。

「……よく、わからない」

姫乃はうつむいた。まだ気持ちが整理できていない。

「交差点に、悪いものがいたの。たぶん、事故で死んだ人の霊とか、恨みとかそういうのの集まり」

部屋の扉を開けて雪姫が顔を出し、姫乃が起きている姿を認めた。母と姉の間にある空気を感じ取ったのか、声を出さずに部屋に入る。

「ただ、そういうのはよくいるから、違うと思う。だけど……」

「……けど?」

「事故が見えたの。今日じゃないと思う……ずっと前に起きた事故だと思う。それが、見えたの」

その言葉に、黒姫は大きく息を吐いた。そんな母の姿にただならぬものを感じて姫乃と雪姫は、その様子を伺う。

「姫乃、よく聞いて」

覚悟はしていた。予感もしていた。それでも、続く言葉は姫乃にはあまりにも重かった。

「あなたの本当のお父さんとお母さん。私の姉と義兄は、そこで事故に遭って、死んだの」


「もう8年以上前の話。お義父さんはこの街に、鈴鳴の姉妹店を出すつもりだった」

母の言葉の一つ一つが重い。

「ちょうどその頃、義兄さんは義父さんの下での修行がひと段落して、義父さんはその新しいお店を義兄さんに任せようと思っていたの」

姫乃には本当の両親の記憶はない。物心ついたころには今の父と母がいて、その頃はまだ恋人ですらなかった二人を自分の両親だと思っていた。

「義兄さんと姉さんは、この街で出すお店の場所の下見に来て……」

「事故に、遭ったの?」

「乗っていた車がトラックにぶつけられて、義兄さんはそこで、姉さんは義兄さんが庇ったらしくて病院に運ばれたけど……そのまま」

いつも冷静な母が、いつも以上に淡々と話している。乾いた声で、抑揚もなく。

「それからずっと、義父さんも義母さんも私も、この街を避けていた」

その頃はまだ祖父のやっていた鈴鳴レストランは、祖父の教え子が立ち上げた姉妹店を合わせて2つ。それから8年でさらに2つの店が出来ても、この街にだけは出そうとはしなかった。

「頼火から、姫乃がこの街に来たがっていると聞いて、私は反対した。でも、義父さんたちはこれをきっかけにもう一度ここに店を出そうと思ったみたい」

そう言って母は微笑んだ。逃げ続けていた自分自身を哀れむような笑い方。そんな母を見ていたくなかった。

「だから、この街に来たら、姫乃には辛いことになるかもしれないと、ずっと不安だった」

母の不安は当たっていた。

「だけど……」

母はもう一度笑顔を浮かべる。作り笑いだ。それでも心から嬉しそうに見えた。

「あの子、愛居真咲くん?姫乃が会いたがってた子」

「お母さん、会ったの?」

「もう一人の人と倒れた姫乃を連れてきてくれた」

あ、と姫乃は声を上げる。

愛居真咲と火武斗。自分が倒れた時、傍にいたのはあの二人だと今更ながらに思い出した。

「話には聞いていたけれど、流石に実際に会うと驚いたな」

全身に重傷の痕を残した少年だ。

あまりにもその姿は特異で、普通の人なら受け入れがたい。彼自身が言った通り、怖がられても仕方がないのだ

だが、母もまた普通ではなかった。姫乃や雪姫、父と何年もの間過ごしてきた人だ。

普段から見えないだけ、聞こえないだけで怪異には慣れている。

「ずっと姫乃のことを心配していた。良い子だ」

そう言われて、姫乃は嬉しかった。



悲鳴が聞こえる。

自動車のエンジン音。トラックがクラクションを鳴らす音。ブレーキが鳴らす甲高い音。

衝突。

そして——誰かの悲鳴が聞こえた。

「——!!」

姫乃は跳ね起きた。あたりを見回し、そこが自分の部屋だと確認する。

時計を見る。すでに深夜近く、もう誰もが寝ている時間だ。

全身から汗をかいている。今度は、それを拭いてくれる人はいなかった。

枕元に置かれたタオルを手に取り、自分で汗を拭う。

母から両親のことを聞き、祖父母に自分が大丈夫であることを伝え、家族で夕食をとって、眠りについた。

——はずなのに、眠れない。

眠るたびに記憶がよみがえる。

知らない誰かの声、知らない誰かが事故に遭う音。そして、助けを求める悲鳴と、無数のうめき声。

それが何を意味しているのか、姫乃は理解した。

両隣の部屋の気配を探る。直接見ることなく母と妹が眠りについているのを確認し、下の階で祖父母が寝ているのを確かめて、姫乃は音を立てずに部屋を出た。



月が煌々と照らす中に、寝間着姿のまま姫乃は立っていた。

目の前には、昼間に見た悪霊の群れ。

姫乃が両手を前に突き出し、その手の中に現れた弓を掴み取る。月明かりに照らされて、弓は銀色に光っていた。

「——精霊装」

弓を起点に姫乃の身体を光が包み、その光が戦装束を作りだす。

精霊姫姫乃。父から与えられた、今の自分を定義する名前。

その名前を強く意識して、姫乃は弓をつがえる。

「レイア、ルーナ」

姫乃のつぶやくような声に、光の精霊たちが集まり、形を成していく。街の光と月の光、それぞれの精霊たちの力が結集して、姫乃の指先から霊力を込めた光の矢が、弓につがえられ、その輝きを増していく。

「闇を照らす、光を」

言葉は意味を持つ。姫乃の声が、その力に意味を与える。

放たれた光の矢が、悪霊の群れを突き破り、蹴散らして拡散する。

人には聞こえない悲鳴が、誰もいない街中に響き渡った。

黒い影が光に焼かれ、その中から白いもやのようなものがわかれ、空に消えていく。

悪霊に喰われていた人の思念、魂の残滓だ。

事故に遭い、ここで命を落とした人の魂は、悪霊の餌食になっていた。そしてその事故すら原因は悪霊たちによるものだったのだ。

解放された魂が天へ上るのを見て、姫乃は安堵する。

だが、油断はしなかった。蹴散らされた悪霊の群れは再び結集し、今度は姫乃に向けて突進する。

姫乃の攻撃を受けて最初の群れより小さくなったが、それは敵意を持って襲い掛かる分より危険度を増していた。

姫乃を敵、自分たちの捕食を邪魔する敵対者とみなしたのだ。

襲い来る影の突進を姫乃は跳んでかわす。

「フィーネ!」

霊装の力で20メートル以上の高さまで跳躍し、戦装束として纏った羽衣が風の精霊の力を操り、姫乃を宙に浮かせた。

姫乃は二つ目の光の矢をつがえる。父から学んだ悪霊から身を守る術、悪しきものを退ける術。それを今、姫乃は悪霊退治に使おうとしている。

「ルーナ、シェード!」

月の光と、今度は闇の精霊の力を借りる。放たれた光の矢は悪霊の群れに突き刺さり、そして闇の精霊の力で今度は霧散せずに逆に固まったまま地面に落ちた。

それを追って姫乃も地に降りる。

両手を胸の前で合わせて、開く。掌の間に生まれた光の球を、塊となった悪霊たちの頭上に飛ばす。

悪霊の真上で止まった球体はさらに4つの光に分裂し、それぞれの光が互いに線を結びあって三角錐の結界を構成した。

「もうここで、あなたたちに事故は起こさせない。人の魂を食べさせたりはしない!」

封印する。

夢の中で見た光景。事故にあった人たちの霊が次々と悪霊に喰われ、そして喰われた彼らもまた悪霊となり、次の犠牲者を求めてこの交差点を通る車に憑りつき、事故を起こす。

その悪循環を取り除かなければならなかった。

姫乃は素早く両手で印を結び、それに応じて結界の周囲にさらにもう一つの光の円陣が形成された。内側の結界が悪霊を封じ込めて消滅させ、外側の結界は交差点全体を覆って外から再び悪霊がやってくるのを防ぐ。

内と外、二重に形成された結界が完成し——

——黒い衝撃がそのすべてを吹き飛ばした。


「真咲、くん」

呆然と立ち尽くした姫乃の前に、愛居真咲が立ちはだかっていた。

その姿は昼とは全く異なる。

左半面を覆っていた眼帯も、両腕を隠していた長袖もない。

火傷痕と古傷が剥き出しでいびつな両腕。包帯に隠れていた指は、皮膚の表面が焼けてくっついていた。

そして目蓋が焼け落ちて閉じることもできない左目がぎょろりと姫乃を見据えた。

「鈴宮姫乃、これ以上の勝手は許さない」

流暢な言葉遣いが、異常すぎるほどに異常だった。

その後ろで、結界から逃れた悪霊たちが再び中空に集まって群れとなる。もはや最初の10分の一以下となった悪霊の群れを一瞥して、真咲は姫乃に向き直った。

『この屍鬼どもは大した力を持たない低級霊にすぎない。この交差点は事故が多く、巻き込まれた人間の霊が蠢く場所。こいつらはそれを目当てに餌場に集まっているだけ』

淡々と、少年は告げる。その思念は厚みと重みを持って姫乃の頭を押さえつけ、姫乃は顔をゆがめながらもそれに耐える。

昼までと異なり、真咲の言葉には淀みがない。当然だ。夜は彼の領域、彼の時間なのだから。

姫乃は今更ながらに気付いた。

人間に姿を隠す必要もなく、その力を伏せる必要もない。昼の間の傷だらけの少年とは違う。今の愛居真咲は、人間の姿をした鬼なのだ。

「それでも、人が苦しんでるんだよ!こんなの絶対おかしいよ!」

『普通の人間は死者の霊を見ることはできない』

「——!」

『口ではどんなに死者の冥福を祈ろうと、見えない以上は死者がどうなっているかなどわからない。よって屍鬼どもがここで死者の念を喰おうがどうしようが、人が知ることはない。人の迷惑にはならない』

姫乃の口から嗚咽が漏れるのも気に留めず、真咲は言葉を続ける。

『人を喰いすぎない、人の領域に踏み込まない。これが祖父、降魔がこの街の妖たちに与えた掟。ここの屍鬼たちは生きた人間に危害を加えることはない。少し——この場では事故が起きやすいというだけ』

「私の本当のお父さんとお母さんは、ここで死んだんだよ!」

少しだけ、ほんの少しだけ真咲の表情が動く。

「今も、今も苦しんでるのかもしれない。だから助けたいの!」

『——それはない。8年も前ならとっくに喰い尽されている、し』

真咲の右目が閉じる。彼自身も少し考えを整理する余裕が必要だった。

『三日月頼火がいた以上、姫の両親の魂が守護まもられなかったはずがない』

事故の後、確かに父と母はここに訪れていた。祖母からもそう聞いたし、姫乃自身も二人に連れられて一度来ていたのだという。幼かったので覚えていないけれど。

昼に不意に浮かんだビジョンはその時のものだったのだろう。

「だけど、他にも苦しんでる人はたくさんいるんだよ!」

『それは姫の知人か?家族か?』

「違うけど、でも!」

『では、それを喰わない理由は、ない』

「真咲くん!」

姫乃の言葉はすでに悲鳴だ。真咲の表情に苛立ちの影が見えた。

「なぜ、喰ってはいけない?」

「なぜって……人が死んでいるんだよ!」

「人以外なら死んでもいいのか?」

「……それは」

言葉に詰まる。姫乃の想いは感情論にすぎない。

人の死に対する忌避、人が喰われるという事態への本能的な、感情的な拒絶だった。人が人であるならば、当然の考え方。

だが、それは人間だから抱ける感情で、鬼である真咲には無縁だった。

「妖は共食いでもしていろということか?」

「……違うけど、そうじゃないけど!」

姫乃はなんども首を振る。何とかして間違っていると真咲に伝えたい、この場で起きることを止めたいと思っても、上手く言葉が出てこない。

「ならば帰るといい。何もすることはない」


『いいですか姫乃?彼は、人喰いですよ』

父の言葉が頭をよぎる。かつて言われたこと、愛居真咲ともう一度友達になりたいと、そのための力が欲しいと父に懇願したときに告げられた恐ろしい事実。

『真咲くんに、もし、もう一度友達になれたらね。人を、食べることを止めてもらえないのかな?』

『そうですね。姫乃がこの先一生ケーキを食べないと約束するくらいには難しいでしょう』

『え、それだけ?』

『ええ、この先60年、いやもっと長い間我慢することになるかもしれません。それが出来ますか?』

このときは父にはぐらかされたと思っていた。軽い言葉で、何でもないことのように。

だが、そうではなかった。愛居真咲にとって人を喰うということはその程度の意味でしかなかったのだと今更に思い知った。


「剣霊装!」

姫乃が両手を打ち合わせ、その手に剣を出現させる。

姫乃を纏う衣服が、より鎧のような戦装束に代わり、光の粒子が周囲に巻いた。

剣霊姫姫乃。姫乃のもう一つの姿。

話していてはらちが明かない、と姫乃は力づくで押し通すことを選択したのだ。

「煌け!我が宝剣!」

姫乃が手にした宝剣を輝かせ、あたりを覆いつくすほどの光が、中空の悪霊の群れに放たれ——群れにあたる直前に斜め下から伸びた黒い光に弾き飛ばされた。

「修羅——光刃閃しゅら、こうじんせん

手刀を振り上げた姿勢で、愛居真咲がつぶやく。少年のままの姿で、何気ない仕草で、姫乃の渾身の一撃を遮った真咲は流れるように悪霊と姫乃の間に立った。

『鈴宮姫乃。それが、答えか』

姫乃は答えない。剣を正眼に構え、真咲と対峙する。

愛居真咲の顔が歪み、口が左右まで裂けた。それを笑っている、と思ったのはなぜなのか。

「鬼—身—き、しん、へん

その言葉とともに、愛居真咲の身体が内側から裂けた。

額の左右から2本の角が突出し、口が耳まで避け、その肉体は膨れ上がり、破けた皮膚の下から赤い筋肉が噴き出し、それに覆われた鉄色の骨が飛び出して全身を覆っていく。

肉を引きちぎり、骨を砕き、血がしぶくおぞましい音とともに少年の身体は2メートルを超える巨人のものに変貌していく。

「この街は、降魔が掟」

そして少年が変貌した鬼人が姫乃の前に立ちはだかり、高らかに宣言した。

「掟に従わないものは、魔沙鬼まさきが排除する」

そこから放たれる威圧感は、以前の比ではなかった。

姫乃の足が震え、歯がなる。恐怖で、足が立ちすくむ。

霊装を纏って高揚したはずの感情でも拭えない恐怖。

「真咲くん!聞いてよ!」

涙混じりの姫乃の悲鳴も、目の前の鬼には届かない。

「殺しはしない。——が、容赦も——しない」

言葉の終わりと、鉄の拳が姫乃の顔に叩き込まれたのは同時だった。


——考えが甘かった。

姫乃の決心は、一瞬で打ち砕かれた。

前の夜のことで、手ごたえを感じていた。

だが、そんなものは彼が本気でなかっただけだったのだとすぐに思い知った。

あの時、愛居真咲は本当に姫乃を脅して追い返そうとしていただけだったのだ。

「ヒータ!レーア!フィー!シーダ!」

火の精霊、光の精霊、風の精霊、水の精霊。

とっさに呼び出した精霊たちが、4方から鬼へ襲い掛かる。

だが——

「修羅——閃迅拳しゅら、せんじんけん

言葉とともに放たれた鬼の拳は音速を超えて1秒の間に何百発と撃ち込まれる。その威力の前に精霊たちは一瞬で霧散した。

「シェード!」

彼らが盾となった一瞬の隙で、姫乃は闇の精霊の力を使って自分の前に霊力の壁を作りだした。

だが、姫乃の張った霊力の障壁は、数秒と持たずに力ずくで打ち砕かれ、そして巨大な鉄のような塊が彼女の身体を何度も打ち据える。

その身に霊力を纏っていても、その装束にどれほどの魔術の加護があったとしても、機関砲のような純粋な力の暴力の前ではわずかな助けにしかならなかった。

人間が鉄塊にぶつかってただで済むわけはないのだ。

「——あ」

吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。

朦朧とした意識でかろうじて顔を上げた姫乃の頭を、鬼人は容赦なく踏み抜いた。アスファルトの地面に亀裂が走り、陥没する。それほどの衝撃が少女の頭を打ちぬいた。

本当に、容赦がなかった。


「やり過ぎだ、馬鹿」

駆け付けた火武斗にばっさりと切り捨てられ真咲は憮然としていた。

足元には音速を超える殴打を連続で叩き込まれ、気絶した血まみれの少女が横たわっている。

少女の様子を伺い、かろうじて息があるのを確認してカブトムシの巨人は甲殻に覆われた頭を振った。

「手を抜いて、勝てる相手じゃなかった」

「物には限度ってものがあると言ってるんだよ。相手は人間だぞ」

言われて自分の手を見る。先ほどまでと違う擬態した人間の手。

過去に焼かれ、再生した際に左右の指が癒着して離せなくなったいびつな手。

人間の脆さを他ならぬ自分の身で思い知っていたというのに、確かにやり過ぎたと思う。

「——恵那えなを呼ぶ」

「もう来てるよ」

一瞬の躊躇いの後に口にした言葉に、闇から答えが響いた。

暗闇の中から現れたのは、上体が半裸の美女だった。

妖艶という言葉が似合う美しい顔をした女。

だが、その下腹部から下は、そのまま巨大な蜘蛛であった。蜘蛛の頭部から人間の女の身体が生えているのだ。

8本の足を動かしながら恵那と呼ばれた蜘蛛女が真咲の目の前に進む。

「ったく、アンタらアタシのことなんだと思ってるんだよ」

「誰かが大怪我をしたら恵那に頼れと父に言われた」

「頼むぞ、薬箱」

「……こいつらは」

頭を抱えながら、恵那は蜘蛛の足を進ませて、地面に横たわる少女のもとへかがみこんだ。下腹部の蜘蛛との接合部が内側から開き、姫乃をその胎内へと飲み込む。

蜘蛛の胴体部分が半透明状に透き通り、その中で姫乃の身体は胎児のように丸まって眠りについた。

「一晩もすれば傷は治ると思うけどね」

その言葉に、真咲は顔を背ける。無表情に見えるその顔に浮かんでいる後ろめたさを読み取って恵那はため息をついた。

「明日になったら、ちゃんと謝りなさいよ?」

「必要、ない。自分は、間違って、いない」

顔を背けて、真咲は吐き捨てるように言った。

「……とりあえず、この子は家に連れて帰ればいいのね?家族に気付かれないように」

「ああ。いろいろと悪いが、頼む」

恵那と火武斗の話を背中で聞きながら、愛居真咲はそれ以上何もしようとはしなかった。


不意に、気配を感じた真咲が空を見上げる。

その視線の先、遠くのビルの屋上から、巨大な鳥が彼らを見ていた。

真咲の目線に気づいたように怪鳥が翼を広げ、翼長6メートルを超える巨体が彼方へと飛び去る。

その姿を見届ける前に、怪鳥は忽然と姿を消した。

「あれ、は」

「三日月の神鳥だね。大方、この娘の護衛だろう」

「ご、えい」

『いつからいた?なぜヒメを守らなかった?』

「お前に殺気がなかったからだろ。割とギリギリだったが」

「最初からいたけどね。本気でヤバけりゃ即、助けるつもりだったろうさ」

娘が死に瀕しても救える自信があった、と恵那はつぶやく。

「流前のじいさんと同じだ。何事もやらせてみて学ばせる。痛い目見るのも経験のうちさ。本気でヤバいギリギリを見極めて助けに入るから、見てる方も気が気でないだろうがな」

真人の時もこんな感じだった、と火武斗は肩をすくめた。

「そういうとこは三日月はじいさんの教え子みたいなもんさ」

「痛い、を、学ぶ」

真咲は恵那の胞衣に包まれた傷だらけの姫乃の姿を見、自分の手を見た。

火傷で癒着し、爛れた醜い手は見慣れた真咲にはもはや何も感じられない。

「痛い、は、なんだ?」

少年の独白に応えるものはなにもなく。

『お姉ちゃん!』

それを掻き消すように悲鳴のような思念が飛んだ。

神鳥の消えた空の向こうから、白竜が飛んで来る。

迫り来る竜の瞳に浮かんだ焦りと悲しみの色を読み取って、愛居真咲はその視線から顔を背けた。

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