第3話 真夜中の邂逅

「なあ、あいつとどういう関係なの?」

帰り道、同じ方向だという栗野里紗と天貝香住と並んで鈴宮姫乃は妹を連れ立って歩いていた。

「あたしのお父さんと、真咲くんのお父さんが友達でね。初めて会ったのは一昨年なんだけど」

順序が逆だ。実際には初めて会った時は何も知らなかった。父親同士が知人だったというのは後から、父から聞いた話だ。

だが、その方が説明しやすかった。

「その時の真咲くんも今日みたいな感じで、自分には友達がいないって言っていて、それで私が友達になろうって言ったの。」

一度話だすとスラスラと相手にわかる範囲で状況を整理できる。

普通の人には見えないものが子供のころから見えていた姫乃は、いつからか、自分の本当の事情を隠して他人にわかるように話を作り上げるのが上手くなっていた。

「真咲くんのお父さんとお母さん、結婚を反対されていて、真咲くんは小さいころはずっとお母さんの家で虐められてたって。それで一昨年ぐらいにやっとお父さんの家で暮らせるようになったばかりだったみたい」

「あ、それは誰かが言ってたのを聞いたことがあるよ」

「それで、初めて会った時の真咲くんは自分は化け物だから近寄らないほうが良いって言ってて、私は平気だよって言って……なのに、結局逃げたんだ、私」

「ひょっとして、包帯の下、見たの?」

心配そうに顔を覗き込む香住に、そんなとこ、と姫乃は言葉を濁した。

確かに隠された愛居真咲の顔の左半面もおぞましいものだったが、それ以上に恐ろしいものを見たのだ。

だが、そのことを姫乃は言うつもりはなかった。

「そう言えば、顔が包帯じゃなくなってたね」

「ああ、なんか気が付いたらあの変な眼帯つけるようになってたな」

「確か、お母さんからプレゼントされたんだっけ?みんなに怖がられないようにって言われたんだって溝呂木くんが笑ってた」

「そうなんだ。そう言えば、今はお母さんと一緒に暮らしてるって言われてたっけ」

父から聞いた話を思い出し、すぐ後ろについてきていた雪姫と照らし合わせる。

おとなしい妹は、たいていの場合、姫乃の後をついて話を聞いている。静かに頷く妹に頷き返し、姫乃は会話を再開した。

「私があった時はまだおじいさんと住んでたんだよね」

「あーあのデカい爺ちゃんか」

「授業参観の時に来てたよ~、すごく怖かったね~」

真咲の祖父だという2メートルもあった巨体の老人は姫乃にも忘れられない存在だった。

「母ちゃんの方も一回見たことあるけど、メチャクチャ美人だったな~」

そう言って里紗はうんうんと頷いた。かつて一回しか会ったことのない姫乃には知らない話だ。少しでも話を聞きたかった。

「あと、喧嘩がメチャクチャ強い」

他には?と姫乃に促された里紗は腕組みして語り始めた。

「あたし、去年は同じクラスだったからさ。あいつ、見た目が変だってクラスで男子にイジメられてて、でもそんなの全然平気だって感じで何されても気にしてなかった。鈴宮さんの言う通り親のとこでもイジメられてたらしいし、慣れてたのかも」

「そのうちにイジメてたやつらと大喧嘩になって、愛居一人で全員やっつけちゃったんだ。そしたら負けたやつが、自分の兄貴呼んで、高校生だぜ?愛居に仕返ししようとしたんだけど」

「それも倒しちゃったの?」

「そうそう!飛び膝蹴りってやつ?相手の顔に一発KO。デカかったのにさ、一撃でノビちゃった」

「それで学校でも大騒ぎになったんだけどね?イジメてた子たちのほうが10人くらいいたけど、よっぽど問題だ~ってなっちゃって。たしか、逆にその子のほうが転校しちゃったんだよね」

「兄貴の方は小学生に負けたって散々馬鹿にされたらしいしな~」

まるで見てきたかのように語る里紗と合いの手を挟む香住。

「実際、あたしそれ見てたけど凄かったもん!必殺技みたいで」

「なんだか二人とも、結構詳しいね」

「だってあいつ有名だもん。目立つから」

確かにそうだ、と姫乃も納得せざるを得ない。外見だけでも特異さが際立つ少年だ。嫌でも意識せざるを得ない。良くも、悪くも。



家に帰って、夕食をとりながら祖父母と転校最初の一日目の話をあたりさわりのない範囲で話をした。お風呂に入り、寝間着に着替え、夜遅くになっても姫乃は眠れなかった。

「どうすればいいんだろ?」

自室のベッドの枕に突っ伏して、姫乃はつぶやいた。

もう一度会う。会って逃げ出したことを謝る。

どちらも出来た。出来たけれど、それだけだ。

当然のこと、と彼は言った。その姿におびえて、逃げ出したのは人間として当然だと。

そうかもしれない、と思う。だがそれで終わりたくなかったからここに来たのだ。

「……結局は、私、か」

父に言われたことを思い出す。逃げ出した自分を恥じるのも、謝りたいというのも、結局自分がやりたいだけにすぎない、と。

愛居真咲が、自分が恐れられていることを当然だと思っているのなら、謝りたいと思っている自分の行為は確かに自己満足なのかもしれない。

「だけどさ……」

それでも、もう一度話をしたいと思ったのだ。

不意に、大きな叫び声が聞こえた。人間のものではない叫び声。鳥の泣くような悲鳴だ。

「——外!」

窓を開ける。何も見えない、何も聞こえない。夜の闇の中、月と街灯だけが静かに光っている。周囲の住宅街には誰かがその叫び声を聞いたような反応もない。

姫乃の耳にだけ聞こえた声だ。それがもう一度、目の前の住宅街のさらに向こうから響いた。

「お姉ちゃん」

姫乃の部屋の扉が開き、静かな声で雪姫が姿を見せた。妹の姿を振り返り、姫乃は頷く。二人とも表情が強張っている。

「お爺ちゃんとお婆ちゃんは?」

「もう寝てる。二人とも聞こえてないみたい」

やっぱり、と姫乃は理解した。これは人ではない、妖の声だ。

「様子を、見に行く」

姉の言葉に雪姫の表情が強張った。

「危ないよ」

「近くで、たぶん妖同士が戦ってる。今は良いけど、悪ければここも巻き添えになるかも」

妖の姿は人には見えない、その声は聞こえない。

だがそれは人が知覚できないだけだ。そこに彼らはいる。

そして彼らが人の前に姿を現す時、それはその人間が襲われる時だけだ。

「確認する。確認して、大丈夫ならそのまま帰る。もし危なかったら父さんを呼ぶ。それでいい?」

大丈夫、と姫乃は自分に言い聞かせる。

人には見えないものを見るのは慣れている。

父からは妖から身を守る術を習った。妖魔を退ける方法もいくつかある。

だから大丈夫だと何度も心の中で言い続ける。

なにより、ここで勇気を出せないなら、もう一度あの怪物に会うことはできない。そう思った。

「……わかった」

姉の決意の固さに雪姫も覚悟を決める。

その姿が白い光に包まれ、部屋一杯を覆いつくす。光が晴れた時、そこには白い羽毛に包まれた四足の竜が佇んでいた。

『乗って、お姉ちゃん』

言葉はない。雪姫の変じた竜からの思念波、心の声が直接姫乃の頭に響いた。

頷いて、その背中にまたがる。妹の背中は、羽毛に包まれて柔らかく、そして暖かい。

小さな部屋に窮屈に身を縮めて収まっていた白い竜が翼を広げ、窓枠より大きな巨体が姉の小さな身体を乗せたまま、部屋の壁をすり抜けて外へ飛び出した。

2階から飛び出した竜が空を舞い、姫乃の視界にたくさんの家が映る。その向こう側、ほど近い前方に、切り取られたように半球状の黒い空間があった。

そこだけが、明らかに他から切り離された結界を形成している。

その黒い空間に姫乃と雪姫は迷いなく飛び込んだ。


「公園だ」

黒い壁を抜けて、目の前に広がる光景に姫乃はつぶやいていた。

小高い丘を囲むように敷かれた遊歩道。その脇に点々と配置されたベンチ。端のほうには子供用の遊具が設置され、丘から少し離れたところにテニスコートと運動場。

空まで覆われた黒い壁の向こうからわずかに差す月明かりの下、街頭に照らし出されていたのは大きな運動公園だった。

『お姉ちゃん、あそこ』

妹の思念波に導かれて視線を向ける。奥にある二つ目の丘の中腹に、それはいた。

それは20メートルを超えるほどの巨大な鳥だった。赤い目を血走らせ、嘴から血を吹きながらのたうち回る巨大な怪物。

仰向けになって暴れる怪鳥の腹を裂いてもう一体の怪物が現れた。

小さい。怪鳥の10分の1もない大きさの人の姿をした怪物。

鉄色をした、赤黒い鬼。

それが怪鳥の腹から全身を現し、その腕が怪鳥の体内から心臓を引きずり出して、自分の身体ほどもある血の滴るそれを大口を開けて一飲みに喰い尽す。あり得ない光景だった。

だが、それだけではない。すでに泡を噴き、身動きできない怪鳥の首をその巨大な爪で引きさき、喉を喰い破りさらに引きちぎった頭の頭蓋を割って脳髄を啜る。

余りに凄惨な光景だ。殺された怪物が、哀れに見えるほどにもう一体の怪物は残忍で、容赦がなかった。

その怪物の名を、姫乃は知っている。忘れるわけがない。忘れられるわけがない。

余りに強く、残忍でおぞましい鬼の姿を。

その鬼の名は——

「……真咲……くん」

振り向いた鬼と目があう。上下2対、4つの眼。その中に無数の眼球を内包したグロテスクな眼が姫乃を見据えた。

その姿に姫乃は震えた。背中越しに、雪姫の恐れも伝わってくる。

だが、そのまま怪物は何もしなかった。

喰い散らかした怪物の死体の上で、姫乃に背を向け、立ち去ろうとする。

その姿に姫乃は確信した。

雪姫が姫乃の意思を受けて地面に降り立ち、姫乃は竜の背から降りた。

「待って!真咲くん!」

その言葉に、怪物の動きが一瞬止まる。一瞬だけだ、その足は止まらず、立ち去ることを止められなかった。

だから姫乃は追いかけた。

その瞬間、姫乃の目の前の地面が爆ぜる。

思わず足を止めた姫乃のすぐ足元にぼっかりと巨大な穴が穿たれていた。

見上げた先、去りゆく鬼の右腕から蒸気が立ち上っている。20歩以上の距離から、腕から放った衝撃波で地面を抉りとったのだ。

これは警告だ。これ以上近づくなと言う、明白な拒絶。

そしてその行為そのものが鬼の正体を雄弁に物語っていた。

姫乃は動けない。足がすくんでいる。

周囲を覆いつくす血の匂いに、鮮血に塗れた鬼の姿に、自身の眼前でえぐり取られた地面に、そのすべてが姫乃を恐怖させた。それでも逃げ出さないのは、後ろに妹がいるからだ。

「——ッ!!」

唇を強く噛んだ。これでは何も変わらない、逃げ出したあの時と同じだ。

姫乃は、自分の目の前に穿たれた穴を一息に飛び越えた。そのまま、鬼に向かって走り出す。

『お姉ちゃん!』

制止の意思を込めた妹の思念が飛ぶ。心の準備なしにその思念を受け止めれば、足を止めてしまっただろう。

だが、姫乃は止まらなかった。

心を強く持てば、思念に惑わされることはない。恐怖に足を止めることもない。勇気を振り絞って前に進む

姫乃の動きに鬼の首だけが振り向き、その右腕を振るう。その腕から不可視の闘気が実体を伴って放たれる。

姫乃は避けなかった。それが脅しだと分かっていたから。最初から鬼は自分を近づけないように威嚇していただけなのだ。

前に出る姫乃の顔の右を衝撃波が通り抜ける。

その余波で髪が後ろに引っ張られる感覚を覚えながら、姫乃はようやく鬼の背中に追いつき……

次の瞬間、鬼の姿はもう一つの丘の上に立っていた。

「……に、逃げたァ!」

姫乃の叫びに、異形の顔にばつの悪そうな表情が浮かんだように見えたのは気のせいだろうか。

気が付けば頭上から黒い壁が徐々に薄まり、月の光がより強く周囲を照らし始めていた。鬼がこの場から立ち去るために結界を解除しているのだ。

頭がカッとなった。自分は勇気を出して向き合おうとしているというのに、あくまでこの場から逃げようとする鬼の姿に、姫乃は強い怒りを覚えていた。

「逃がすかぁ!!」

強く両手を打ち付けるように合わせる。両手を開いたその間に、強い輝きを放つ光が生まれた。霊力を込めたその球体を頭上に掲げ、姫乃は空に向けて放った。

放たれた球体は黒い壁を突き抜け、その外側に薄い光の幕を生み出す。

鬼が解いた結界の外側に、今度は姫乃が結界を張ったのだ。愛居真咲を逃がさないための霊力の檻を。

さらに姫乃はその両手を前に突き出し、精神を集中させる。

姫乃の手に、銀の弓が現出する。

「精霊装!」

姫乃の言葉とともに、弓を起点にその全身に光の粒子が纏い、そして姫乃は光の戦装束を身にまとっていた。

精霊姫、姫乃。

人には見えないものを見る、精霊の姿を見ることが出来る姫乃の力。そして自分の周りに漂う精霊たちの力を借り、戦う力に変える方法。

それが父から教えられた身を守る手段だった。

「そんなに私と話す気がないの!なら、力づくでも話をしてもらうからね!!」

『お姉ちゃん!それ何か間違ってる!』

姫乃は左で弓を構え、右手で矢をつがえる姿勢をとった。

姫乃が指先でなぞった軌跡を追って光が集まって矢となり、さらに周囲から光を集めてその矢が大きさを増していく。

姫乃は自分の指ほどの太さとなった光の矢を、弓から放った。

放たれた矢は音もなく、音の速さを超えて鬼に向かって飛ぶ。

だが、光の矢は鬼の左手であっさりと弾かれた。

「——!」

姫乃はさらに同時に三本の光の矢をつがえて放つ。

放たれた光の矢は一本に収束し、だが、鬼はもはや避けようともしなかった。

鬼の肩に当たった光の矢はそのまま光の欠片となって砕け、その表皮に傷一つつけられない。

姫乃は息を呑む。鬼はもはや姫乃への関心を失ったかのように丘の向こう側へと消えていく。

「レーア!フィー!ノーマ!シーダ!ヒータ!」

矢継ぎ早に名を叫ぶ。姫乃の周囲に次々と光が集まる。光の精霊、風の精霊、地の精霊、水の精霊、火の精霊。姫乃が名付けた精霊たちが、その力を姫乃のつがえた矢に集め、放たれた矢は巨大な霊力の塊となって、鬼の去った丘を丸ごと吹き飛ばした。

肩で息をしながら姫乃は膝に手をついて、何とか顔を上げる。

なくなった丘の向こう側で、防御姿勢をとっていた鬼の姿が見えた。

土が抉れ、地面が焼け、抉れた地面と蒸気の中で鬼が姫乃に向けて一歩を踏み出す。

ぞっと背筋が凍った。

瞬き一つ。その間に鬼はすでに姫乃の目の前にいた。大きく振りかぶった拳が、姫乃の顔をめがけて振り下ろされる。

『お姉ちゃん!』

雪姫の思念が届くのと、白い竜の巨体が鬼に体当たりをしたのは同時。

態勢を少し崩しただけで構わず振り下ろされた鬼の拳をかろうじてかわし、姫乃は鬼の腕の内側に飛び込んだ。

両手を打ち合わせ、鬼の腹部に手を当てる。姫乃の両手から放たれた光が鬼の身体を吹き飛ばす。

そのはずが、鬼は一歩もその場を動かず、逆に姫乃が、自分の放った霊力の反動で後ろへ吹き飛んだ。

「——ッ!」

言葉にならない。霊装が姫乃の心を支え、恐れを打ち消して闘志に変える。

追撃でさらに姫乃に肉薄した鬼が大ぶりの拳を姫乃に向かって振り下ろし、それをよけたところにさらに左の拳がアッパーカットのように突き上げられる。

だが、予備動作が大きい。姫乃は最初の拳を見た段階で気づいていたから、その左の一撃に合わせて突き出された鬼の拳を蹴った。

鬼の左腕の一撃の衝撃を空中への跳躍で逃がしたつもりで、姫乃の身体は一気に空まで飛ばされて姫乃自身が編み上げた結界まで吹き飛ばされる。

結界はぶつけられた姫乃の背中を優しく受け止め、姫乃は結界を足場にして下に向けて跳躍した。霊装で強化された身体能力は一時的に何倍にも上がっている。

「フィー!」

地面に向けての跳躍にさらに姫乃の呼びかけに答えて風の精霊が周囲を舞い、姫乃は速度を落とすことなく地面へ着地。

流れるように地面をかけて鬼へと矢を放つ。

溜めのない光の矢を鬼は避けることなく体躯で受けてさらに突進を図り、触れた矢が次々と爆発する勢いに押された。

「ヒータ!」

火の精霊が姫乃の叫びに呼ばれて顕現し、その炎を鬼に向けて浴びせる。

姫乃は次々と炎の矢をつがえて鬼に向けて放った。

だが鬼が爆炎にひるんだのは最初だけだ。すぐに態勢を整えて姫乃に向けて再び走り出す。

だが、それは姫乃の思い通りだった。

「雪ちゃん!」

思念でつながった妹に指示を出す。炎の攻撃が止み、鬼が自分の周囲の炎を腕の一振りで消し飛ばした直後、白竜の放つ白い息吹が鬼を凍結させる。

熱膨張。炎と氷の急激な温度差で鬼の強靭な肉体も表面に大きなひび割れが入った。

「ドガッツ!」

姫乃が叫びながらその両手を地面に触れる。姫乃の両手から地に流れた霊力が地下の土を貫通し、その下にある巨大な岩盤に触れた。

地中から土を噴き出しながら、その下から巨大な岩の巨人が出現する。

鬼より二回りほど巨大な岩の巨人が鬼へつかみかかった。

両者はもつれあうように地面を転がり、鬼が岩の巨人を蹴り飛ばすようにしてその拘束から逃れる。

岩の巨人が立ち上がろうとして、先に立ちあがった鬼がその頭を地面に叩きつけ、その拳が岩の胴体を砕いた。

「剣霊装!」

その間に姫乃は弓を持ち変えて空中から呼び出した剣を手に取る。

剣霊姫、姫乃。

精霊を操るのが精霊姫の力なら、精霊の霊力を剣に込めて戦うのが剣霊姫の力。

姫乃のもう一つの力。

持ち変えた剣を手に姫乃が前に出る。

ひび割れた全身から血を噴き出しながら鬼の巨体もまた姫乃へ向けて突撃する。

そして——


——そこまでだ。

その瞬間、全身をすさまじく重いもので押さえつけられた。

頭にかかる圧力に耐え、その重さがなくなったと思い顔を上げた時、眼前には一軒の居酒屋が立っていた。

え?と思わず声が出た。気が付けば霊装も解け、元の寝間着姿に戻っている。

なにより、自分は今まで公園にいたはずなのに、今はビルの立ち並ぶ大通りにいる。その事実が姫乃を混乱させた。

居酒屋『狩天童子』。

その名前は覚えている。同じ市内にある愛居真咲の祖父がやっている居酒屋だ。2年前、姫乃たちを助けてくれた場所。

だが、それは姫乃の家からは学校を挟んで反対側の、ずっと遠方にあるはずだった。

ポンっと姫乃の頭に手が置かれる。見上げた頭上に、手の主である無表情な父の顔があった。

「さて、姫乃の今晩の行動についてはいろいろとお説教したいことがありますが」

「——お父……さん」

横合いから飛んだ父の言葉に思わず横にいた雪姫と顔を見合わせる。口調は穏やかだが、姉妹そろって父が怒っているときはすぐにわかる。

「まずはこの街の支配者にご挨拶に伺いましょうか」

がらがらと引き戸を開ける音がした。人間の姿をした愛居真咲が、引き戸に手をかけて居酒屋の入り口に立っている。

左半面を覆う眼帯のない真咲の左半面は、右よりも広く、深く火傷痕が刻まれ目蓋が融け落ちて眼球が剥き出しになっている。

その目が姫乃を見据え、店内から漏れる光と、街灯の光に挟まれて、姫乃は大きく息を呑んだ。


「ご無沙汰しています。塞神先生」

隣で父が、店主である老人に頭を下げるのを姫乃は他人事のように見ていた。

外からは小さく見えた居酒屋は仲は意外と広い。

空間転移で運ばれた、というのは理解している。公園からこの居酒屋まで自分たちは跳ばされてきたのだ。

姫乃自身も転送魔術は使えるのでそれは理解できる。ただ、それは自分の下に特定の印をつけたものを引き寄せるだけだ。

先ほどの現象はまるで何かに掴まれて一瞬で移動させられたような感覚だった。まるで人形の配置を入れ替えたように。

この街の支配者、と父が言った言葉を改めて思い出し、姫乃は震えた。

ぎゅっと後ろから雪姫が姫乃の手を握った。その手も震えている。

そんな姫乃たちの姿を気にも止めず、巨体の老人、塞神降魔さえがみごうまは店の奥に控えていた少年に振り向いた。

「たかが子供の二人も追い返せないとはな。修業が足りん」

祖父にばっさりと切り捨てられ、愛居真咲が視線を下に落とす。引きつった顔は表情こそ読めないが、怒られたことを悔しがっているのだ。

その姿に、直前まで抱いていた畏怖も忘れ姫乃は思わず吹き出した。

次の瞬間、真咲から凄まじい眼力で睨みつけられて笑顔が凍る。気を抜けばそのまま息を止められてしまいそうな圧力は、しかしすぐに霧消する。

「孫の不手際をまずは謝ろう」

ゴツリ、と少年の頭に遠慮なく鉄拳を落としながら、老人が小さく頭を下げた。2メートルを超える巨人は頭を下げてなお、姫乃たち少女よりはるかに大きい。

「本来なら脅して退けるのが一番であったのだが……」

「私としても姫乃が引き下がってくれたらよかったですが」

「私が悪いの!?」

子供たちにさらりと責任を押し付けて、それぞれの祖父と父が向き合う。

「なぜ、この街に来た」

「この子がそちらの真咲くんに会いたがっていたからです。それが一つ」

娘の頭に右手を置いて、星川頼火はゆっくりと奥に控えている少年に視線を向けた。

そして左手で雪姫の背中を押して前に立たせた。

「二つ目はこの子のためです。この街は古くから移民の街ですから、多少見た目が違っていても誰も気にしない」

頭上から見下ろす老人の視線に、浅い黒肌と銀色の髪を持つ少女は顔を伏せた。

少女を一瞥して、塞神降魔は再び頼火に視線を戻した。

「——三日月雷全が死んだそうだな」

「ご存知でしたか。部外秘でしたが、流石に耳が早い」

「三日月に戻るか?」

「そのつもりです。来週より本家に入ります」

老人の問いかけに頼火は目を閉じる。

姫乃と雪姫には二人の会話がわからない。

彼女たちは父の事情をまるで知らなかった。知らせないように育てられてきた。

だが、事情を知る老人は星川頼火、いや三日月頼火が何を考え、何を求めているかを察していた。

「その間、娘の面倒をお願いしたいと」

「——ここで、か?」

「この街で、となります」

ぴくりと降魔の眉が動き、頼火を見据える。表情のない眼が老人を見返した。

ふ、と老人が笑った。何を思ったのか。

「貴様はつくづく——似ているな」

その言葉は皮肉めいて、頼火は目を閉じて自嘲するように肩をすくめた。

「——真咲。後はお前の判断に任せる」

「必要、を、認め、ない」

店内の片隅に控えて二人の会話を聞いてた真咲は、老人から任された判断を一蹴する。その場の全員の視線が真咲に集まり、真咲は剥き出しの左目と陥没した右目でそれに睨み返した。

「人間、関わる、必要、ない」

昼からの何度目かわからない拒絶を繰り返し、真咲は姫乃を視線を向ける。そこに頼火が割って入った。

「初めまして、愛居真咲くん。2年前、娘が世話になったと伺っています。」

「せわ、して、ない。自分、ない」

「それでもあの時、私が2人に会えたのは君たちのおかげです」

部屋の隅であくまで距離をとろうとする真咲にあえて近づかず、頼火はその場で膝をかがめて目線だけを小柄な少年に合わせる。

なぜ、とそれに応じて真咲が口を開きかけ、そのまま閉じて首を横に振る。

『なぜ、自分に関わらせようとする?』

口を動かさないまま、真咲の思念が頼火と姫乃たちに飛ぶ。喋るのが不得手な以上、会話を重ねようとすると直接思念波を飛ばしたほうが効率的だ。

「こう見えて姫乃はずいぶんと我儘で身勝手でね。自分の思い通りにならないと気が済まないのですよ」

「だからさっきからなんで私が悪者!?真咲くんも納得しないで!」

たしかに、と頷く真咲と頼火は姫乃の抗議を無視して話を続ける。

「それでも、この子が君に謝りたいと思っている気持ちも、また友達になりたいと思っている気持ちも本当のことです。

——だから、もう一度この子を助けてはくれませんか」

「私からも、お願いします」

父の言葉に妹が続いて、姫乃自身は困惑して真咲の様子を伺うばかりだった。

愛居真咲の表情は変わらない。

自分に向き合う父娘3人を見据え、もう一度祖父を見上げる。塞神降魔は何も言わず、孫を見返すこともしなかった。

「なに、を、する、いい」

あえて口にする。その言葉自体が、肯定の意を示すことを理解していた。

「この子たちのこの街での暮らしを手助けしてもらいたい。そう思っています」

『ヒメも、ユキヒメも人間の中で生きている。自分たちとかかわる必要はない』

「確かにその通りです。でも、二人とも人にない力を持っています。望むと望まざるとにかかわらず、この街で暮らす以上は妖の世界と関わっていくことになります。その力になってもらえれば」

『……問題ない。トモダチを助けるのは、当然のこと』

友達という言葉が出たことに姫乃は息を呑んだ。

思わず隣の雪姫と顔を見合わせて、そしてもう一度真咲を見る。

その目を、真咲が見返した。

「あ、ありがとう。真咲くん」

ようやく、ようやく姫乃はその言葉を言えた。

「でも、私は——」

『昼にも言った。謝る必要はない』

再度謝ろうとした姫乃の動きを制して、真咲の思念が飛ぶ。

『人間は異質なものを恐れる。当然のこと。恐れは生存のために必要な機能だ。ゆえに、人ではない自分を恐れたことを恥じることも謝ることもない』

真咲自身の言葉では伝えきれない思考そのものが姫乃の頭に響く。

それは理屈だ。

愛居真咲自身が、あの時逃げ出した姫乃をどう思ったか、ではない。

後から考えて、それは仕方がないことだ、と自分に言い聞かせ続けてきた論理であり、彼がその時抱いた本心とは別の、今の考え方だった。

真咲は姫乃に向けて右手を差し出した。

火傷痕で表面が爛れ、ささくれだった人のものとは思えない手。焼かれ、癒着した指を無理やり切除して動かせるようにしたそれは、赤黒い肉塊と言っても過言ではなかった。

『それでも、自分にもう一度機会をくれることを、感謝する』

「ありがとう、真咲くん」

差し出された手に、姫乃の手が合わさった。その手をつかむことに躊躇いはなかったが、握手するにはあまりにもいびつな手で、姫乃は上手くできなかった。


「お父さん、雪ちゃん、今日はありがとうね」

帰り道、父に連れられて妹と三人で帰路につく。

すでに深夜を回った街の空を、白い竜が飛ぶ。その背に父とともに乗りながら、姫乃は妹にも聞こえるようにはっきりと述べた。

竜が優し気な鳴き声を小さく上げ、星川頼火は静かに首を横に振る。

「礼を言われるようなことはしていません。彼には申し訳ないですが、むしろ私としては関わらせたくなかったくらいです。それに——」

父の次の言葉を姫乃は知っていた。何度も言われたことだ。

何度も言われて、自分なりに考え続けてきたことだった。

「彼は人喰いの怪物です。それでも友達でい続けることが出来ますか?」

その問いに姫乃は答えなかった。

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