第10話 ONE LOVE
学校祭が終わって一週間後、ようやく夏休みが始まった。
「あー、めんどいよ……」
愛美はいつも通り制服を着て、リビングでトーストをかじっていた。父は既に出勤し、母はベランダで洗濯物と格闘中だ。
つけっぱなしのテレビはくり返し、今日は湿度の高い夏日になると告げている。吸汗性の低い制服のブラウスを着ていくのが憂鬱だ。背中にぺったり貼りついて不快だし、ともすれば汗臭くなる。コウコウセイ女子が汗臭いのはとっても良くない。
洗濯物を干し終えた母が、ベランダから戻って来た。
「ほら、早く食べちゃいなさい。今日も講習あるんでしょ?」
「うん……」
「何時まで?」
「うーん……」
「起きてる?」
「寝てる……」
母は呆れた溜息を洩らした。
「暑いし、疲れるのも判るけど。受験のためなんだから頑張って。お父さん昨日も、最低でも北大文Ⅲは受けろって言ってたでしょ?」
「ん……」
「せっかく特進入れたんだから、勉強してね。大学受験は甘くないわよ」
「分かってるよ……」
愛美は小さく呟いた。
本当は他の国公立大の音楽科へ進み、ピアノをもっと学びたかった。しかし父親は「音楽は食えない」とまったく取り合ってくれず、自分と同じ公務員の道を強く薦めていた。
愛美も何とか父親を説得し、自分の好きな道を進みたいと思っているが、父親にいつも論破され、結局押しつけられていた。母親も父親側に回っていて、愛美は孤立無援だった。
「あ、それから今日はお昼、自分で済ませてね。お金は持ってるでしょ?」
どこか出掛けるらしく、母は化粧ポーチを持ってうろうろしている。何かを探しているような様子が、手を洗おうと水場をさがすアライグマみたいでちょっと可愛い。そんなことをぼんやり考えていると、母が少し怒った声を出した。
「愛美、聞いてるの?」
「……はーい」
「そろそろ出る準備して。お母さん、これからお部屋で化粧するから、気をつけて行くのよ?」
「はーい」
覇気のない返事をして、愛美は席を立った。
◆
学校名のついた停留所でバスを降りたとき、愛美はすでに汗ばんでいた。朝陽すら、肌をじりじり焼いて来る。それでもだるい体を引きずって交差点を渡っていると、向かい側に雄介を見つけた。
「おはようー」
少し早足で近づき、背中から声をかける。雄介は耳に突っ込んでいたイヤホンを抜いて、半分だけ振り返った。
「おう、はよ……」
「眠そうだね」
「ああ。昨日ライブで」
「やってたの? え、聞いてないよ」
「ん、つうか月二とかフツーにやってるし、声掛けられても、平日とかキツいだろ?」
「まあ、そりゃそうだけど……」
「今度、イベントあるから、そん時は言う……」
雄介がしゃべりながら、大きなあくびをした。愛美もつい貰いあくびをしながら、二人並んでのろのろ歩いた。
バス通りから住宅街へ入ると、学校までは十分弱の道のりだ。途中、何人かの生徒が走って二人を追いぬいて行く。それを見て、そして腕時計を確認して、愛美はやっとあることに気づいた。
「……ふかざワン」
「ん?」
「遅刻、しそう」
「……え?」
雄介が腕時計をのぞき込み、しまったと舌打ちした。
「マジか。ギリ間に合うと思ったのに」
「あ、アウトだ」
校舎から高らかにチャイムが聞こえて来た。登校時間は終わり、五分後に一時間目の講習が始まる。雄介は面倒臭そうに頭をかいたあと、ポケットから携帯を取り出し、電話をかけた。
「あ、二年十組の深澤です。お世話になってます、雄介なんですが、今日は熱があるんで休ませます……ハイ、よろしくお願いします」
「えー、まさかの欠席のお知らせ?」
「この時間、事務のねーさんしか出ねえから。テキト―な仕事してっからチョロいんだ、あのヒト」
雄介はしれっとした顔で携帯をしまった。そして右手を挙げてにんまり笑った。
「じゃ、俺はこれで」
「え、ちょ、待ってよ、どこ行くの?」
「どこって、どっかでヒマつぶしてから、楽器屋でも行こうかな、とか」
「もしかして、サボるってこと?」
「ああ、まあ、そうとも言う」
「マジかっ」
愛美はとっさに考え、自分も同じように学校へ電話をかけた。応対に出た事務の女性に、母親の真似をして風邪のため欠席すると告げると、彼女はすんなり「お大事に」と返して来た。
「ふふふふ、やった……これで私も、今日は自由の身だあっ!」
初めてサボった緊張感と、学校を休めるという解放感についガッツポーズが出る。それを見ていた雄介は呆れた笑いをもらした。
「良いのかよ?」
「良いの、だって行きたくないもん。こんなに暑くって、勉強なんかしてられるかっ。さあ行こう、いざ自由の海へ!」
「は?」
「早く。このへんうろうろしてたらヤバいじゃん、見つかるよ!」
テンションが上がって行く勢いに任せて、愛美は突っ立っている雄介の腕を取り、今来たばかりの道を走って戻った。
それから二人は中央線を走るバスに乗り、市内の中心街へ向かった。通勤時間を過ぎたバスはがらがらで、二人は最後部の席に並んで座った。とりとめない話をしながら二十分ほど揺られ、終点の大通駅で降りた。
「うわー、もうあっつい」
ビルに掲げられた気温表示板は、九時をすぎたばかりなのに二十五度を越えている。雄介は近くの自動販売機でコーラを買い、街路樹の陰へ愛美を誘った。
「あー美味っ。飲む?」
「うん」
差し出されたペットボトルを受け取ると、もう冷たい汗をかいている。口にするとはじける炭酸が心地良くて、ついごくごく飲んでしまった。
「サンキュ、すっごい美味しい」
「おう」
雄介にボトルを返してから、愛美は改めて周りを見渡した。
ほとんどのビルはシャッターが閉まっていて、周囲を歩くのはサラリーマンやOLばかりだ。キョロキョロしているのが面白かったのか、雄介が笑った。
「ちょっとキョドいんだけど、樋田さん」
「そんなことありませんよふかざワン」
「つうか、何か珍しい?」
「うん、ちょっとね。おのぼりさんみたいで自分にアレレだけど、この時間にココ来たの初めてだから。普段開いてるビルが閉まってんのって、何か不思議っていうか」
「……面白えこと言うな、お前」
「そう?」
雄介がくすくす笑っている。どうも彼にとって、愛美のリアクションはいちいち面白いようだ。
「俺はガキの頃からうろうろしてるから、あんまりそういう、新鮮な感じとか判んねえ」
「そうなんだ。ああ、そっか。有希と中学同じだから、ふかざワンもこのへんだよね」
泊まりに行った時、このへんを通ったことを思い出しながら聞くと、雄介が補則してくれた。
「ああ、アイツは八条東通だろ。俺んちすすきのだから、歩きで十五分くれえ離れてるけど」
「え、すすきの? すごい都会だね」
「全然。つうか昼間なんてゴミゴミしてっし」
「こっから歩いて行ける?」
「ああ」
「行ってみたい、ふかざワンち」
「え?」
「ダメ? せっかく近くまで来たんだしさあ、ちょっとだけで良いから」
ダメもとで頼んでみると、雄介は目を泳がせた。
単純な好奇心からだった。雄介がどんな部屋で暮らしているのか見てみたかった。
「ほら、今日一緒にサボったのも何かの縁だし、ここまで来たら自宅公開もしちゃえば良いじゃん」
「は? 何だソレ……つうか、マジに来んの?」
「うん」
「マジに?」
「うん!」
「……ちょっと待っとけ」
雄介は愛美に半分背を向け、誰かへ電話をかけた。
「あ、俺。オヤジは? そっか。ちょ、これから友達連れてっから、茶の間片しとけ。は? ああ、それで良いから。すぐ着くから、十分でやっとけよ」
通話を切って溜息をついたあと、雄介は愛美へ頷いた。
「うち狭いし汚ねえし、家族いるけどそれで良かったら」
「マジ? 良いの行っても」
「ああ、つうか色んな意味で後悔すっかも」
「なにそれ?」
「ウケんなそこで」
つい笑ってしまった。後悔しそうなら、ここでこんなことは言い出さない。
それにしても、本当にオッケーしてくれるなんて、何でも頼んでみるものだ。愛美は嬉しさににやにや笑いながら、仏頂面の雄介に着いて行った。
中心街から駅前通りを南へ行くと国道に出る。その先一帯がすすきのと呼ばれている。関東以北最大の歓楽街であり、中の森中学の学区でもあるそこは、夜のにぎわいとは打って変わって静かな朝を迎えていた。
ほとんどの雑居ビルがシャッターを下ろし、歩く人もまばらだ。街路にはところどころに店舗から出されたと思われるゴミ袋が積まれ、市の収集車が回収に来ていた。
カラスが小さな群れであちこちのゴミをつつき、美味いエサにありつこうと騒いでいる。朝陽が当たらないビルの谷間にまだ夜のよどみが残っているような、そんな匂いがした。
「あそこ、俺んち」
国道から少し歩いたところで、雄介が南五条にあるビルを指さした。壁面に赤く「五条市場」と書かれているが、市場はとうの昔に閉鎖され、今はコンビニになっていた。
「一階にコンビニって便利だね」
「ああ。ちなみに隣はソープ、向かいは飲み屋とキャバクラと、ゲーセン」
「すごいね、夜とか、色んな意味できらびやかっぽい」
「腹立つくれえきらびやかだぜ。つうか、コンビニ寄りてえ」
雄介の提案に愛美も頷き、先にコンビニへ寄った。そこで適当な食べ物や飲み物を調達し、改めてビルの玄関へ足を踏み入れた。
あまり掃除のされていない入口を抜け、薄暗い階段を上がった。エレベーターなしの四階建てだ。途中、階段の踊り場に、ぐしゃぐしゃにされたテレクラや風俗店のカードが何枚も捨てられていて、雄介はそれを足で払ってから進んだ。
「いっつも誰か捨ててくんだよな。クッソ迷惑」
「そうなんだ。ここ、管理人さんとかいないの?」
「さあ、見たことねえな。昔っからこんな感じだから、いねえんじゃね?」
「ふうん……ずっとここに住んでんの?」
「ああ。お前は? 確か本通、だったっけ」
「うん。国道からちょっと入った住宅街、古くて昭和の匂いがする、フツーの家だよ」
「昭和、か。それならここなんて、昭和の遺物だろ。しかも住んでんの、水商売関係しかいねーし」
自嘲気味に話す雄介の背を追いながら、愛美は楽天的に応えた。
「夜仕事のひとばっかじゃ、夜に騒いでも苦情来なさそうだね」
「代わりに昼間騒いだら怒鳴られっけどな」
「マジ? じゃあ、部屋に行ったら静かにしなきゃ」
話しながら三階に着き、風通しの悪い廊下を歩いた。窓はあるが、すりガラスの向こうには隣の建物の外壁が透けていて、日光はどこからも入ってこない。雄介がこんなところに住んでいると想像していなかった愛美は、正直驚いていた。
彼はどんな物を見て、何を感じて成長して来たのだろう。健全な環境とはいいがたいこの場所で、どんな思いをして来たのだろう。それはもしかしたら、ごく普通の家庭に育った者には、決して共有出来ないものかもしれない。
やがて廊下の突き当たりまで来ると、雄介は五号室のドアのカギを開けた。
「汚なくてビビった?」
「というか、色んな意味でカルチャーショックだよ。自分やっぱりイナカもんだなーって」
「やっぱお前、面白えな」
「え、どういう意味?」
「そのまんま」
言葉の意味を問う前に、雄介はドアを開けて中へ入っていった。
玄関はせまく、色んな靴やサンダルが何足か脱ぎ捨てられていた。作りつけの靴箱の上には不要なチラシやダイレクトメールが置かれ、雑然としたようすだ。いつもきれいに片づけられ、花が飾られている愛美の家とは違い、何かが欠けているように感じられた。
「佳澄、終わったかー?」
愛美に玄関で待つよう示し、先に雄介がリビングへ行った。向こうで何かしら話声が聞こえ、そのあとに雄介が手招きした。
「そんじゃ、どうぞ」
「おっじゃましまーす」
脱いだ靴を一番隅に、重なるように置いてから、短い廊下を抜けてリビングへ入った。
一応片づいているのだが、何だか雑然としたような、統一感のない感じだ。壁際には新聞や雑誌が積み上げられ、全体に殺風景で、愛美の家にある家族の写真や、可愛らしい小物などは見当たらなかった。
「あ、どーも。佳澄でーす。うちの兄貴がお世話になってまーす」
雄介の陰から女の子が顔を出した。
「え、あ、どうもー樋田です。こちらこそ、お兄さんにお世話になってます」
我ながらぎこちない敬語だと思いつつ、愛美は佳澄に会釈した。
「ふーん、お兄ちゃんの彼女? フツーのひとじゃん」
「フツーに友達だっつうの。つうか佳澄、片付けサンキュ。もう引っ込んどけ」
「えー?」
佳澄は頬をふくらまし、雄介を睨んだ。
「つうかさあ、あのクッソオヤジ。昨日絵具代くれるっていったのに、今朝忘れてパチ屋行っちまったんだよね。佳澄おかげでぜんぜん描けないんだけど。お兄ちゃん、立て替えてくんない?」
「はあ? いくらよ」
「三千円」
「……ちっ」
雄介は渋い顔をしながら、尻ポケットにあった財布を開け、千円札を三枚取り出した。
「サンキュ! よっしゃ、着替えて大丸行ってくるわ。んじゃごゆっくり、樋田さん」
千円札をひらひらさせながら、佳澄は嬉しそうに自分の部屋へ戻って行った。
「妹いたんだ、ふかざワン。知らなかった」
「だろうな、言ってねえもん」
「つうか、ヤンキーですか?」
「ええ、見た目はヤンキーですが中身は絵描きなオタクです。つうかオタヤンなんだよアイツ、しかも抽象画なんて、訳判んねえモン描くし」
雄介が口を尖らせるのを見て、愛美は笑った。
金茶色のツインテールにピアスを開け、黒いマニキュアに赤いリップ、おまけにアニマル柄を着ていれば、外観は立派なヤンキーだ。
「抽象画描くヤンキーね。初めて会ったよ」
「中学のセンセはべた褒めらしいぜ。今度なんとかっていう賞に応募すんだってさ」
「へえ。兄はバンドで妹は絵画か。芸術兄妹だね」
「人間的にダメっぽいな、ソレ」
「そんなことないよ、少なくとも、兄は妹に優しいじゃん」
その言葉に、雄介は愛美をちらりと見た。何か言いたそうな顔だったが、雄介は思い直したように隣の部屋へ向かい、愛美を呼んだ。
「ほら、ココ。すっげ狭いけど」
「おー、男子の部屋って感じだね」
愛美は蒸し暑い部屋へ入り、ぐるりと見回した。
窓際にはシングルベッド、壁際にはタンスに本棚にCDラック、そして楽器類がびっしり並んでいる。とにかく物が多く、どこへ座ろうか迷っていると、ベッドを指し示された。
「とりあえず、テキト―に」
「うん」
「あ、窓開けるわ」
雄介が扇風機を回したあと、ベッドに上がり、窓を全開にした。途端に風が入り、愛美の髪を優しく揺らした。
「ちょ、着替えて来る」
ぶっきらぼうに言い残し、雄介はリビングへ行ってしまった。
勢いで着いて来たが、よく考えれば一人で男子の部屋を訪れたのは初めてだ。
「うわ、何か、緊張するな……」
見慣れないもの、そして見てみたいものがたくさんある。棚につまった大量のCDや、ライブで弾いている赤いレスポールや、ベッドの枕元に放られた小さなノートは、勝手に触ったら怒られるかもしれない。とりあえずコンビニで買ったものを出そうと、ベッドの横にあるテーブルに目をやると、その上には同じパッケージのCDが何十枚も積まれていた。
「あ、これ、もしかして……」
手に取ると、それはサイレントルームの新しいCDだった。
勝手に開けて、ライナーノーツを手に取った。表紙はライブで撮られた画像で、一目でバンドのCDだと判るようなデザインだ。開けると、リーフレットだと思っていたのは実は一枚の紙で、たくさんの画像をつぎはぎしたようなレイアウトになっている。ところどころに歌詞が載せられていて、愛美はそこをじっと読んだ。
歌詞には苦悩や怒り、悲しみや優しさなど、雄介の中にあるたくさんの感情がこめられているように思えて、一行読むごとに雄介の心へ近づいて行けるような気がする。
「……やっぱ、かっこ良い、なあ」
最後まで読み終え、変な折り目をつけないよう丁寧にたたんだ。しかし何故か、最初のかたちに上手く戻らない。順番を変えて何度かためすうちに、紙がよれてきた。
「ヤバい……」
焦ると余計に上手く行かない。そのうちに、雄介が戻って来た。白いアディダスのTシャツに、だぶだぶした黒い短パンだ。眼鏡も外している。
「ちょ、ナニやってんだよ」
「うあ、ごめん。こうしても見たくって……」
「勝手に見んなっつうの。つうかお前、もしかしてぶきっちょ?」
「えへへ」
「笑ってごまかすな。ったく」
呆れ顔で出された手に、紙を渡した。すると雄介はそれをさっと折りたたみ、ケースへ入れた。
「ちょ、飯食いたいんだけど。つうか、何か聴く?」
「うーん……」
目線の先に、サイレントルームのCDがうつった。
「それ」
「却下」
「えー、何で?」
「発売前だから」
「ダメっすか?」
「ダメっす」
当然といった表情で返され、愛美は仕方なく他のCDを物色した。棚にはロック、ポップス、ジャズ。ソウルなどバラエティーにとんだジャンルが並んでいて、ほとんど知らないタイトルばかりだ。
「夏らしいやつが良いな」
「オーケー、じゃ、これ」
雄介は手を伸ばし、一枚取り出した。それは普通のCDよりも厚く、ラスタカラーにレトロな白いロゴがあった。
「あ、もしかして、ボブ・マーリィ?」
「ベスト。まだ貸してねえよな」
愛美が頷くのを見てから、雄介はディスクをプレーヤーへ挿入した。少しして夏の暑さを心地良くさせるような、ゆったりとしたレゲエのリズムが流れて来る。それにうっとりしながら、愛美はケースからライナーノーツを取り出して眺めた。
「そういうとこ、ちゃんと見るんだ」
床に座った雄介が感心したように呟く。手にはさっき買った鮭おにぎりがあった。
「うん、だって、何歌ってるのか気になるでしょ。それに英語の詞って全部聴きとれないから、読まないと判んないし……つうか読んでも六割くらいしか判んないけど」
「マジか」
「笑うな、ちょーっと英語が95点だからって」
「あー、ダグに教わってるから。たまたまだって」
「謙遜ムカツくー」
怒ったふりをしても見抜かれているようだ。雄介は笑いながらおにぎりのフィルムを剥いて、大きくかじりついた。普通サイズのものなら、三口かじればほとんどなくなる。どうして男子は何でも大口でかじるのだろうと、愛美は少し呆れながら眺めていた。
ふと、ドアの外からバタン、と大きな音が聞こえて来た。玄関の重たいドアが閉まるのに似ていると思ったら、雄介がドアへ目を向けた。
「ああ、佳澄が出掛けたんだろ」
「そっか。大丸行くって言ってたもんね」
「アイツあそこ好きなんだ。何時間いても楽しいんだって」
「大きいもんね、本も文房具も、すんごい数あるし……」
ということは、この家の中に雄介と二人っきりだ。その事実に気づいたとたん、愛美の心臓が自己主張を始めた。
「そ、そっか、出掛けちゃったんだハハハ」
どうしてここで、ドキドキするのだろう。
紛らわそうとして、意味もなく部屋を見回した。すると棚の下段にアルバムらしきものを発見した。
「これ、見せて」
雄介の返答をもらうまえに、勝手に引き出してカバーから抜く。紺の布張りの表紙には案の定「中の森中学校」と金色で印字されていた。
「おい、それダメだって」
「良いじゃん」
伸びて来る手を避けて、分厚い表紙を開いた。愛美の卒業アルバムもそうであったように、見開きには三学年の生徒による全体写真がある。豆粒ほどの顔をざっと眺めてから、愛美はクラス写真を探した。
「ねえ、ふかざワンって何組?」
「さあ」
「有希は?」
「B組……あっ」
してやられた、と雄介が舌打ちする。愛美はしてやった、とニヤニヤしながら、B組のページを開いた。
「おおう、見っけ」
三十ほどの個人写真の真ん中あたりに、ひときわ面白くなさそうな顔をした雄介が映っていた。学ランの詰襟はきちんと閉めているが、髪は長めで茶色く、前髪の隙間から見える眉も今より細い。ヤンチャという言葉がぴったりくる感じだ。
「不良がいるよ、ふかざワン」
「うっせー。つうかそんくれえ、うちの中学だったらフツーだから」
「あ、そう言われれば、半分くらいそうか」
良く見れば男女の半分ほどが、髪を染めたり巻いたりしている、中には堂々とピアスやネックレスをしている子もいて、クラス全体の雰囲気が、愛美のいた中学とは全然違った。
「やっぱ都会の学校は違うなあ。あ、有希、すごい可愛い」
「アイツ、コレ撮ったとき、気合い入れて髪巻いてたな」
セーラー服を着て微笑む有希は、クラスの女子の中でも一番目を引く。今は更に大人びた雰囲気が備わって、私服を着れば高校生に見えない。どことなく子供っぽさが抜けないことを自覚している愛美は、有希のそんなところに憧れている。
「あ、あと田中。下の方にいる」
「あ、ホントだ。うわ、今とあんま変わんないね」
「ああ、喋りも変わんねーし。進歩してねえなアイツ。伸びたの身長だけじゃん」
雄介が楽しそうに笑う。それを見ながら、彼等三人が長い時間を共有して来たことを実感して、愛美は少しだけ寂しい気持ちになった。そして、雄介と有希が付き合っていた事実を思い出して、ちくりと胸が疼いた。
「仲良いよね、何だかんだ言って。つうか、さ」
「ん?」
「ふかざワンって、中学のときに付き合ってる人とか、いた?」
「へ?」
雄介が固まったのに気づいて、愛美は悔やんだ。不自然な質問だった、何とか濁そうと慌てたとき、雄介が頷いた。
「まあ、それなりに」
「……あの、もしかして、有希、とか?」
「ああ、つうか、アイツが言ってた?」
「えっと、四月にみんなでドーナツ食べに行ったでしょ。あのときに、田中君が」
「ウザトかよ、まったく……」
呆れた溜息を吐きながら、雄介は苦笑いした。
「ま、そんなことも一瞬あったような。今は完全に友達だけどな」
「ふうん。でも良いね。そうやって別れたあとも、友達でいられる関係って」
あたりさわりのない返しをしながら、愛美は自分に困った。
知っていたことを肯定されただけなのに、なぜ気持ちが沈むのだろう。卒業アルバムを閉じながら理由を考えていると、今度は雄介が身を乗り出した。
「で、お前は?」
「は?」
「おいおい、俺が話したんだから、お前も晒せ、過去のコーサイレキを」
「え、いやそんな、コーサイレキって……ははは」
「え、もしかして誰もいねえとか?」
揶喩をふくんだ声に、愛美も少し意地になった。
「まさか。そりゃあ、それなりに」
「ボカシてんなよ」
「ボカシてない、っていうか、ぶっちゃけるとさ、あんまり長続きしないんだよね」
それなりの恋愛経験があるとカッコつけたいが、ないものはない。情けない気分になって、真実を晒した。
「だいたい二週間くらいすると、面白くないって言われて。持っても一カ月くらいで、ふられちゃうんだ」
「なんで?」
「ピアノや音楽……クラシックの話ばっかで、つまんないって。もうちょっとフツーだと思ってたって。仕方ないよね、だって流行の服とかエグザイルとかドラマとか、興味ないんだもん」
アルバムを棚に戻しながら応えると、雄介がふっと笑った。
「俺は逆に、流行りの服とかエグザイルとか、そんなんばっか語られても困る」
「マジ? おーっ、ここにもいたよマニアックな人間が。やった、同類だよ、類友二号ハッケーンっ」
「類友二号って、じゃあ一号は?」
「有希!」
「アイツと同じ扱いかよ。そんなら多分、田中も同類だな」
「田中君もかなり偏ってそうだしね。ふふふ、ビバ中の森中!」
愛美は思わず雄介の腕をとり、ハイタッチを強要した。雄介は変な顔をしながら愛美のなすがままにされていたが、ふと何かに気づいたように、左手を短パンのポケットへ入れた。
「あ、ちょ、悪い」
携帯を出し、雄介が立ち上がった。着信に応対しながら部屋を出て行くのを見送ってから、愛美はふと気づいた。
「……あ」
さっきの言葉はつまり、愛美のように流行やドラマに興味がない女のほうが良い、という意味だろうか。
もしそうなら、こんなに嬉しいことはない。自分のような女子力が低い子でも、認めてくれる人が存在するということだ。ということは、もしかしたら自分も、雄介の恋愛対象内に入れるかもしれない――そう考えて、愛美はあわてて打ち消した。
自分は有希より女子力が低いし、子供っぽい。だからもし、雄介の好みが有希のような女の子だとしたら、自分はそこから外れている。安易な期待はしない方が良い。もし外れたら、あとで自分が辛くなるだけだ。
気持ちを切り替えるために溜息を一つ吐いて、スタンドに立てられたレスポールへ手を伸ばした。楽器を演奏する身としては、他の楽器にも興味がある。機会があったら触って、そして奏でてみたいのだ。
「弦、ほそ……」
エレキギターは初めてだった。触れた一弦は見た目よりも硬く、軽く押さえただけで指先に食い込んで来る。その感触にピアノ線を思い出しながら、愛美はレスポールを持ち上げた。
「うあ、重い」
落としたりぶつけたりしないよう注意しながら、なめらかな曲線を描く赤いボディを、右の太腿へ乗せた。そして左の人差指で適当に弦を押さえ、右手の指先で軽く弾いてみる。小さく掠れた不協和音が鳴り、押さえた指先がじんじんした。
ピアノよりも、遥かに痛い。雄介やバンドの連中が軽々と演奏しているのが信じられない。指先を見ると赤い直線が刻まれている。愛美がそれをさすっていると、雄介が戻って来た。
「ナニ勝手に弾いてんだよ」
「ごめん、ちょっとやってみたくって」
言葉と裏腹に、雄介は笑っている。彼はベッドに近づき、愛美の左隣へ座った。煙草の匂いがする。電話ついでに一服してきたのだと判った。
雄介が座ったぶん、ベッドのスプリングが傾いて、体が彼の方へさらに寄った気がする。たぶん今までで一番近くにいる――そう思った途端、心臓がドキドキし始めた。
「コード判る?」
「ううん」
「じゃあ、すっげー簡単なヤツ。Eマイナー」
雄介は左手で愛美の指を器用につまみ、二カ所押さえさせた。きれいに爪が切られ、指の腹は固い。弦楽器を奏でる手だ。
「これで弾いてみろよ」
「こう?」
「そ、もうちょい指立てて。他の弦に触らねえように」
「えっと、こんな感じ?」
右手の爪先で撫でるように弦をはじく。何度か繰り返すうちに、掠れていた音がクリアになり、愛美がはっと顔を上げた。
「わ、ちゃんと弾けた……っ!」
振り向いたすぐ先に、雄介の顔があった。目が合い、こちらを見つめる黒い瞳に自分の顔が映り込む。驚いている表情がちょっと間抜けだ――そんなどうでも良いことを思いついた時、彼が小さく訊いて来た。
「髪……触って良い?」
いつもより優しい声に、咄嗟に返事が出ない。それを許可と取ったのか、雄介の右手が愛美の髪に伸びて来た。二度、ポニーテールの尻尾を撫でられたあと、そのまま肩を引き寄せられ、そっと唇が重ねられた。
(キス、してる……?)
目の前が雄介の顔で一杯になった。伏せられた睫毛が長い。吐息が少しほろ苦く、そんな味のキスは初めてで、まるで雄介が何歳も年上のように感じた。
驚きすぎて目を瞑るのも忘れていると、雄介が目を開いた。すぐに唇が離れ、バツが悪そうに目を逸らされた。
気まずい。非常に気まずい。
「……悪い、つい」
「……え?」
何が悪いのだろう。キスしたことだろうか。つい、って何だろう――頭がまったく回らず、何をどうしたら良いのか判らない。そのうちに遠くでドアが開く鈍い音がして、誰かが家へ入って来た。
「雄介ーっ、いるのか?」
大人の男の声だ。途端に雄介は勢い良く立ち上がり、ドアへ急いだ。
「ウッせーな、今、客来てんだから呼ぶなっつうの!」
半分開けて強く怒鳴る。だが男は気にした風もなく、のほほんと返して来た。
「お前、ガッコは?」
「終わった」
即答した嘘は、まったく疑われなかった。
「そっか。昼飯、そうめん作るぞー。食うだろ?」
「いらねえ!」
力を込めてドアを閉じ、舌打ちしながら棚の前に腰を下ろした。そして目を合わせないまま愛美に説明した。
「あれ、うちの親父。この時間に帰ってくんだから、多分負けたんだろ」
「負けた……ああ、パチンコか」
腕時計に目をやると、もう十二時前だ。とたんに愛美を空腹感が襲った。
「お前んとこの家族って、誰もギャンブルしなさそうだな」
「うん、まあね」
「親父さん、公務員だっけ?」
「うん」
「マジメそうだな」
「まあね、趣味は読書だから」
「おーい、そうめんどのくらい食うんだー?」
「ちっ」
再びドアの向こうから声が掛かった。雄介が舌打ちしながらドアに手をかけた瞬間、愛美がお腹を押さえた。しかしその甲斐なく、愛美の腹の虫は盛大に鳴いた。
「あ……やば」
すごく恥かしい。でもこればっかりは、自分の意思でコントロールするのはとても難しい。雄介はほんの少し愛美を眺めてから、ドアを開けて叫んだ。
「二人、いや、三人分!」
「りょーかーい!」
「……ってことで、食うだろ? 多分そうめんしかねえけど」
雄介が呆れて笑っている。さっきまでの気まずさが消えたのは良かったが、ここで腹を鳴らすのは、女子としてどうだろう。愛美は自分の頬がどんどん熱くなるのを感じながら、苦しい笑みで頷いた。
それから二人でリビングへ行くと、雄介の父親の恭二が台所で用意をしていた。雄介と同じくすらりとした印象で、短く刈った茶髪に紫のポロシャツとジーンズという若々しい出で立ちだ。菜箸を持ち、沸騰した大きな両手鍋の中を慣れた様子でかき回している。こちらを振りかえったので愛美が軽く会釈すると、恭二は髭に縁取られた口をあんぐり開けた。
「女子がいる、雄介おま、いつの間に彼女が!」
「違うっつうの、クラスの友達。つうか何で気づかねえんだよ、コイツのローファー、玄関にあっただろ」
「あっ、あれ、てっきり佳澄たんのだと思ってたハッハッハ」
恭二は人懐っこい笑みを浮かべると、一人何やら頷きつつ、また鍋をかき回した。
リビングのテーブルの上には雄介によって、次々に汁椀と割箸、つゆや薬味が並べられて行く。何か手伝った方が良いかと愛美が戸惑っていると、雄介が椅子を引いた。
「座れば?」
「あ、手伝うよ」
「良いって。もう麺出るだけだし」
「でも」
「良いから。客だし、黙って座っとけ」
軽く威圧され、仕方なく座った。雄介は台所へ行き、恭二がよそった麺を持って来て、テーブルの真ん中へ置いた。それから愛美の隣に着き、すぐに恭二もこちらへ来て、雄介の向かいへ座った。
「じゃ、食べよう。お腹すいてるでしょ。ええと……」
恭二が言い淀むのに気づき、愛美はあわてて応えた。
「あっ、樋田、樋田愛美です」
「愛美ちゃんか、可愛い名前だね。麺ばっかだけど遠慮しないで、たくさん食べてね」
「はい、ありがとうございます。いただきます」
愛美は手を合わせて感謝したあと、恭二にすすめられるまま汁椀につゆを入れ、氷で冷やされた麺を取った。充分につゆをからませて口へ入れると、冷たくて美味い。思わず笑顔になったところに、恭二が話し掛けて来た。
「愛美ちゃん、コイツのクラスメイトなの?」
「はい」
「へー、コイツ、すんごい愛想悪いでしょ。もうゴメンね」
「え、いえいえ。ふかざワンにはいっつも楽しくしてもらってます」
「ふかざワン、ふかざワンって言われてんの、お前? うおお、丸くなったなあ!」
「うっせえ、黙っとけ」
はしゃぐ恭二に、雄介が睨みと唸りでけん制する。恭二はそれを流して、感慨深げに頷いた。
「大人になったなあ、息子よ。愛美ちゃん、コイツの相手すんのしんどいと思うけど、どうぞよろしくね!」
「あ、いえこちらこそ、よろしくお願いします」
軽く頭を下げると、恭二は嬉しそうに笑った。
しばらく食べながら、三人で色々な話をした。とはいっても、主に話しているのは恭二と愛美で、雄介はほとんどむすっとしている。そのうちに愛美のピアノの話になり、やがて家族の話へ発展した。
「そっか、愛美ちゃんちは普通のご家庭なんだね。うん、良いことだよ。ウチなんか複雑だもん。ほら、見ての通り父子家庭だからさ、だらしないわテキト―だわって」
「はあ……」
「まあ、それでも子供は育つってね。俺が中卒でホストとかやってるから、せめて雄介には最低限、高校出てもらいたいと思ってんのよ」
さらっと応えた恭二の言葉に、愛美が思わず目を見開いた。
「お父さん、ホストなんですか?」
「うん、やっぱビックリする?」
「はい、しちゃいました」
「おー、正直だね愛美ちゃん! 可愛いなあ、ねえ雄介っ」
恭二が話を振るが、雄介はちらりと睨んだだけで、箸を麺に突っ込んだ。以前、キノコヘアと赤眼鏡が言っていた「ホスト」というキーワードの発生源は、もしかしたらここかもしれない。
恭二はコーラを一口飲んで、軽く溜息を吐いた。
「ホストって言っても、営業出てんのは常連さんの指名が入った時だけで、他はほぼ裏方。新人教育とか、事務とか、宣伝とか渉外とか、要するにクラブの便利屋よ」
「何でもあり、なんですね」
「まあね、仕事は何でも大変だけど、水商売は特に浮き沈みが激しいからね。だからせめて雄介には、毎月決まった給料出るとこで働けって言ってるのに、コイツ、バンドでプロになりてえって言うし。それって水商売より大変だよ。もし運よくメジャー行けたって、売れるかどうかすら判んないし。愛美ちゃんもそう思わない?」
眉を八の字にした恭二へ、愛美は少し考えてから頷いた。
「確かに、大変だと思います。でも、ふかざワンのバンド、めちゃくちゃ格好良いです。それに歌ってるところ見てると、何かすごく伝わって来るって言うか……感動するっていうか。ホントに私、ふかざワンの歌、大好きだし」
「うっ!」
愛美がにっこりした瞬間、隣の雄介が口を押さえた。何か気管に引っ掛かったのか、激しく咳込みながら悶絶している、愛美は思わず、その丸めた背中を撫でた。
「ちょ、大丈夫?」
「おいおい、ナニやってんだよ」
心配する二人に身振りで大丈夫だと伝えながら、雄介はのたのた席を立ち、台所へ行った。咳込みながらも鎮静を待つ。それを横目で見てから、恭二はにやにや笑った。
「愛美ちゃん、モテるでしょ?」
「は? いや全然」
「ホント? えー、そのふんわり感、なかなか稀少価値だよ。俺があと十歳若かったら、好きになっちゃうかもー」
「……はあ?」
言葉の意味をつかみあぐね、愛美が頭上にクエスチョンマークを浮かべる。直後、台所からガチャンと大きな音が聞こえた。
「おい親父、麦茶ねえぞ麦茶!」
イライラにまみれた雄介の声が響く。それに乗らず、恭二はのほほんと返した。
「そうか、じゃあオマエ買ってくれば?」
「テメエが買って来いよ」
「えーお父さんまだ食ってるし」
「うっせえ買ってこいこのハゲ」
「ハゲだと?」
とたんに恭二の表情が鬼に変わった。
「このガキが甘い顔すりゃつけ上がりやがって、親に向かってハゲとは何だコラ」
立ち上がり、台所へつめよって行く。対する雄介も怒りをあらわにした顔で、ぐっと恭二を睨みつけている。そのうちに恭二が雄介の肩をこづき、それを皮切りにこぜり合いが始まった。
「あ、あの、ちょっと……」
狭い台所でもめる二人に、愛美がおそるおそる声をかけた。どうして急にこうなってしまったのだろう。
二人は頭に血が上っているようで、こちらを見もしない。やり取りはどんどんエスカレートし、いつ殴り合いを始めるかもしれない、ピリピリした雰囲気が広がって行く。いっそ警察に連絡しようか、と愛美がポケットの中の携帯電話を握っていると、玄関がガチャンと開いた。
「ただいまー」
手に大きな買い物袋を提げ、佳澄が帰って来た。天の助けの登場だ。
「佳澄ちゃん、これ、どうしたらいい?」
リビングへやって来た彼女へ、けんけん吠えあう二人を指差す。すると彼女は軽く頷いた。
「は? あ、ああ、ほっとく」
「え?」
「うん、だってヘタに関わったら、こっちがケガするし」
佳澄は淡々と応え、リビングのテーブルを端にひっぱった。二人が殴り合いを始めた場合、出来るだけ被害をこうむらないように、という配慮だろう。愛美もそれを手伝ったあと、二人してリビングの入口に避難した。
「ごめんねーせっかく来てんのに、オヤジとお兄ちゃんがおっぱじめちゃって。あ、ポテチ食べる?」
「え?」
佳澄は手にしていた袋からポテトチップスを出し、景気よく袋を開けた。愛美にすすめ、彼女が一枚取ったあと、自分も手を突っ込んだ。
「まったく、あの二人ってば仲良いんだから」
「親子だもんね。お父さんと息子って、やっぱケンカするもんなのかな」
「ああ、別にオヤジとお兄ちゃん、ホントの親子じゃないよ」
「え?」
思わず愛美が佳澄をみやる。佳澄はそれに微笑みで返してから、襟首をつかみ合い、互いの足を蹴り合い始めた父と兄を眺めた。
「お兄ちゃん、一人目の母親の連れ子。んで私はママの、えっと、二人目の母親の連れ子。要するにオヤジ、結婚した女が連れて来た子供を、別れたあとも一生懸命養ってるってわけ」
「……ホントに?」
「うん。うちのママ、好きな男出来たらすぐ着いてっちゃうタイプだから、私はここにいたほうが幸せ。お兄ちゃんもそうだと思うよ」
「そっか……知らなかったよ。ふかざワン、そういう話って全然しないから」
「ワン?」
何故か、佳澄はそこに激しく反応した。
「ふかざワン、お兄ちゃんのこと、ふかざワンって呼んでんの? うっわー勇者だね。えっと、えーっと……」
驚きながらも呼びあぐねるのが可愛らしくて、愛美は笑った。
「愛美だよ、樋田愛美」
「愛美ちゃん! えー、愛美ちゃんのネーミングセンス大好き! 仲良くしよっ、ね、メアド交換しよっ」
台所で本格的などつき合いが始まったのが気になるが、佳澄はそんなことなど眼中になく、自分の携帯を出して操作しながら、あれこれ質問してくる、愛美はその勢いに押されながらも、新しく出来た年下の友人と交流を深めた。
そのあと愛美は佳澄の部屋へ案内され、彼女と一時間ほどはしゃいで過ごした。
彼女の部屋にはたくさんのぬいぐるみと、たくさんの絵具や絵筆と、いくつもの作品があった。彼女が何をモチーフに描いているのか愛美には判らなかったが、どの絵にも必ず黒と鮮やかなオレンジ色が使われていた。
「これは、お兄ちゃん」
佳澄がにこにこしながら、製作途中のキャンパスに乗せられたオレンジ色を指差した。
「そうなんだ」
「それからこれは、佳澄のアラウンドザワールド。今、だいたい60パーセントくらい」
「ふうん、ここの、たくさんのパステルカラーが飛んでる感じ、何だかラヴェルみたい」
「何それ、ラベル?」
「クラシックの作曲家だよ。興味ある? 道化師の朝の歌っていう曲があるんだ」
「へえ、聴いてみたいな。つうか佳澄の絵、そんなふうに見てくれたのって初めてだよ。何か、嬉しいな」
佳澄は少し頬を赤くして笑った。
親子ゲンカはその間に収束したようだ。気づけば恭二は出掛けており、雄介が愛美を呼びに来た。
「悪い、俺そろそろバイト行くわ。お前、どうする?」
「あ、私も一緒に行く」
「えー! もう帰るの?」
引きとめる佳澄をいなし、また必ず遊びに来ると約束して、愛美は雄介とともに家を出た。
昼下がりの太陽に焼かれたアスファルトは、湯気を発しているかと思うほど熱くなっていた。街には少し活気が戻り、これから迎える夜の用意が始まりつつある。
「あークッソあっちい。絶対ェ30度以上だろ、コレ」
メタリックパープルのボディバッグを背負った雄介が、日差しを遮るように左手をかかげた。
「で、さ……」
目線を前方にすえたまま、すこし真面目な顔で切りだした。
「なに?」
「佳澄の相手してくれて、サンキュ」
「え? ああ、全然。フツーに友達になっちゃったよ」
「めんどいヤツだから、テキトーでいいから」
「おいおい、お兄ちゃんがそんな言ったらダメじゃん」
ついくすくす笑うと、雄介は少し眉を寄せた。
「あと、せっかく来たのに、何かもう、ごめん」
「え、何が?」
「その、俺が親父ともめたりとか……色々」
色々、が指すことを思い返し、愛美は返事に困った。やっぱり、あれはなかったことにして欲しいのかもしれない。
午前中に来た道を戻り、大通公園の手前の大きな交差点で、二人は立ち止まった。ここから雄介は地下鉄で移動し、愛美は交差点の向こうを通る路線バスに乗って自宅へ向かう。
目の前は大きなスクランブル交差点だ。赤く灯っていた歩行者用信号が一斉に青へ替わり、軽快な電子音のメロディーと共に、たくさんの歩行者が動き出す。そのざわめきのなか、愛美は雄介を振り返った。
「気にしないで、けっこう楽しかったし」
「そっか……」
「また佳澄たんと遊んで良い?」
「もちろん」
「良かった、兄公認だ」
「つうか女子同士だから、俺の公認とかカンケーねえし」
「それもそうだね、じゃあ自由に遊ぶよ」
いつものように笑うと、雄介は少しだけ眉を上げた。
「つうかさ、あの……」
雄介が言いかけたとき、青信号が点滅し、メロディーが警告音に変わった。ここは意外にインターバルが短く、今すぐ走って渡らないと赤になってしまう。愛美は雄介の言葉を振りきり、横断歩道の向こう側へ走った。
渡り切る直前、信号が赤に変わる。気の早いタクシーが動き出すのを感じながら、まだ交差点の向こうに立っている雄介へ振り返った。
「じゃあね、バイト頑張って!」
声が届いたのか判らないが、彼も何かを叫んだように、口を動かしている。それに手を振ってから、愛美は踵を返した。
「色々、ごめん、か……」
謝られるほど、胸が痛い。これ以上この問題を考えていると、泣いてしまいそうだ。
時間を確認するのに携帯を見ると、有希から三十分ほど前に「講習何時に終わるの? 今日ヒマなんだけど」とメッセージが来ていた。
「ふかざワンちにいたよ、なんて言えないし……」
苦しい笑みを浮かべながら、今日は都合が悪いと返事する。そして改めて明日会う約束をしてから、携帯をポケットへ収めた。
今日彼女に会ったら、雄介にキスされたことを話してしまいそうだ。
いくら親友でも、有希は雄介の元カノだ。それを割り切って、何でも相談できるほど愛美は図太くない。
まずは家へ帰って、このもやもやをピアノで洗い流そう。こんな時はとことん弾きまくるに限るのだ。愛美はそう思いながらバス停へ急いだ。
翌日も講習があり、愛美は学校で雄介に会った。
愛美は極力、普段どおりに振る舞った。雄介も特に変わったところはなかった。つつがなく学習を終え、帰り道でバンドのツアーの話になった。
「この講習終わったら、すぐ始まるんだ」
「へえ、じゃああと二日?」
「おう」
「どこから回るの?」
「まずフェリーで大洗に上陸して、すぐ仙台で。んで、埼玉と横浜と東京まで回って、コッチ戻って来てラストがUGA」
「おおー、一週間だっけ?」
「うん。ぶっちゃけ、スッゲ楽しみ。道内は何度か回ってるけど、津軽海峡越えんのって初めてだから」
「そっか、上手く行くと良いね」
「行くさ、死ぬほど練習してきたし」
暑さの中で前を見据える雄介が、心なしか眩しく見える。愛美は少し目を細めながら、わざとはしゃいだ声を上げた。
「おみやげ買って来てよ、ご当地の美味しいお菓子とか」
「は? つうか観光地行くわけじゃねえんだけど」
「あー、ライブハウスだもんね。オリジナル饅頭とかあれば良いのに」
「誰が買うんだよ。売れるかっつーの」
呆れたように、雄介が口を曲げる。愛美がくだらないことを返そうとした矢先、ポケットの携帯が震えた。
「あ……」
有希からのメッセージだった。
「カラオケかあ」
「は?」
「有希。これから会うんだ。歌いに行きたいって」
「ふーん」
「ふかざワン、来る?」
「悪い、バイト」
思いつきでかけた誘いは、あっさり断られてしまった。やっぱり、という思いを噛みしめながら交差点に着く。ここで雄介とはお別れだった。
「じゃあね、ライブ、頑張ってね」
あっさり別れようとした愛美へ、雄介が何かを差し出した。
「これ」
「え?」
ぶっきらぼうに押し付けられたのは、サイレントルームの最新CDだった。
「まだ売ってないのに……良いの?」
「良いから。つうかいらねえんだったら返せ……」
「いい、いる! 聴きたいすんごい聴きたいっ! ありがとふかざワンっ」
ここで出て来ると思っていなかったから、嬉しさもひとしおだ。愛美はCDを両手で持ち、何度も裏返して見つめた。
「えーいくら?」
「いらねえ。つうかツアーみやげかねて、先渡し。他のヤツには内緒な」
そう言う間に、雄介が乗るバスがやってくる。にぶいブレーキ音をたててバス停へ滑り込んで来るのを見て、雄介が走り出した。
「じゃ、また」
「あ……」
短い挨拶を残して、停車したバスへ消えて行く。それを見送りながら、愛美はそっとCDを抱き締めた。
こんな形で貰ったら、ますます迷ってしまう。
雄介の気持ちが判らなかった。彼の気持ちを推し量るほど、彼女には経験がない。
(ねえ、本当は、どう思ってるの?)
右ウインカーを上げながら、バスが去って行く。愛美は複雑な思いを抱えたまま、それを見送った。
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