第6話 Raindrops1
『昼休み、音楽室行かない?』
そんなメッセージが雄介に届いたのは、四時間目が終わる寸前だった。
差し出し人は、最前列の一番廊下側に座っている愛美だ。雄介は同列の一番後ろから、振り向かない背を見つめた。
一週間前にされた席替えで、メモを投げ合う距離ではなくなった。その代わり、メールやメッセージでのやり取りが増えた。もちろん、やり取りは生徒に無関心な教師の授業に限られる。
『おけー』
教師が背を向けたすきに、机の下から短く返した。
限られた時間でも、彼女と気がねなく話せると思うと眠気もふっ飛ぶ。授業が終わるまであと三分だ。雄介はこっそり出していた電子辞書と歌詞用のノートを片づけ、授業の終了を待った。
授業が終わって教師が去ったあと、愛美がバッグを持って教室から出て行った。少し間を置いて、雄介も昼食のパンを持ち、何食わぬ顔で教室を出た。ここから一緒に行動すれば、赤眼鏡とキノコヘアの良いネタにされてしまう。あんなウザい連中は、クラスメイトでなければ二、三発殴って黙らせるのだが、父親との約束がある手前、トラブルは起こせない。教室で自由に過ごせないのは悔しいが、今は我慢するしかなかった。
音楽室は校舎の向こう端にあり、ここから行くと校舎を端から端まで移動することになる。しかも周りは視聴覚室や美術室など、特定の授業にしか使わない教室ばかりだから、授業がなければあまり人は来ない。密会するにはうってつけだ。
人気のない廊下は暗く、もの寂しい。窓から見える六月の空は鉛色で、今すぐ雨が降ってもおかしくないほど蒸している。そんな中、ピアノの音が聞こえて来た。
「……雨だれ、か」
ショパンの名曲だ。きっと愛美が弾いている。甘く切ない旋律は、リバーブをかけたように揺れて流れて行く。あの日もそうだったと思い出しながら、雄介は音楽室へ辿り着いた。
そっとドアを開けてみると、がらんとした教室に彼女がいた。優しい表情でピアノを奏でている。静かに教室へ入り、邪魔にならないよう彼女の背後へ回った。
湿気を吸った彼女のポニーテールが、美しいらせんを描いている。雄介はつい触れたくなるのを抑えながら、そっと窓辺にもたれた。
曲は中間部に差しかかり、真夜中にしとしと降る雨を想像させる。重く連なる和音は少しの恐怖を含んで、自分を葬るために葬列がやってくるような、そんな情景を思わせた。
目をつぶっていると、遠雷が聞こえる。
独りで過ごす雨の夜は心許なくて、愛する人に会いたくてたまらなくなる――じっと曲を味わっていた雄介の耳に、いきなり変な和音が飛び込んで来た。
「あ、違っ」
愛美の間抜けな声が、雄介を現実へ引きずり戻した。
「あー、せっかくイイ感じだったのに」
「ごめん、すっごい久しぶりに弾いたから」
「つうかホントに降って来たし。呼んだ?」
「あ、ホントだ。私、雨オンナじゃないよ」
笑いながら窓へ目をやると、ぽつぽつ雨粒が落ちている。彼女はピアノから離れ、脇に置かれた長机へ向かった。そこには教室から持って来たバッグが置かれていた。
「ね、お弁当、食べる?」
「へ?」
「今日、パパが急にいらないっていったから、余っちゃって、ふかざワンの分もつめてみたんだ。今日、パンだよね? もし良かったらどうぞ。味は保証しないけどね」
思わぬプレゼントだ。雄介は一瞬歓喜の叫びを上げたくなったが、ぐっと拳を握ってこらえた。
「お前が作ったの?」
「ほとんどママだけど、たまご焼きは私。あ、メンチカツは冷凍食品だからね、先に言っとく」
愛美は長机からパイプ椅子を引き出して座り、バッグから弁当を出した。ひとつは彼女がいつも使っているもので、もうひとつは一回り大きい。彼女は大きな方を、自分の隣席へ置いた。
「さ、どーぞどーぞ」
「ダチョウ倶楽部かよ」
嬉しさをツッコミで隠し、雄介は出来るだけ平静を装って席に着いた。青いストライプの巾着を開き、黒い長方形の弁当箱を出してフタを開ける。それから添えられたプラスティックの箸を握った。
「じゃあ、遠慮なくイタダキマス」
手を合わせて拝んだあと、まずたまご焼きをつまんだ。少し形が悪いけれど、口に入れるとふんわり甘い。小さなころに食べたような、そんな懐かしい味だ。
「どう? 食べられる?」
少し不安げな愛美へ、雄介はたまご焼きをもう一切れ食べてから応えた。
「甘っ」
「えー、マズい?」
「いや、美味い」
「マジ? 良かったあー!」
愛美は嬉しそうに笑い、やっと自分の弁当に箸をつけた。
中身はゴマをかけた白飯に、たまご焼き、メンチカツ、ウインナーとほうれん草の炒めもの、かぼちゃの煮ものにミニトマトという、ごくスタンダードなラインナップだ。並んだまましばらく無言で食べてから、彼女は再びバッグへ手を入れた。
「喉、渇かない?」
「あ、おう。サンキュ」
出て来たのは麦茶のペットボトルで、雄介は勧められるまま封を切り、直飲みした。美味くて、ついごくごく飲んでから、キャップを閉めて戻す。すると今度は彼女がそのペットボトルに手を伸ばした。
「……あ」
一瞬固まる雄介を気にせず、彼女はキャップを開けた。二口飲み、キャップをしめて机へ戻す。そしてまた弁当を食べ始めた。
(間接、キスだし……)
横顔を見つめるが、彼女はまったく気にしていないようで、幸せそうに白飯をほおばっている。雄介は目を逸らし、自分も白飯を口に放り込んでから、再び麦茶に手を伸ばした。キャップを開け、口をつける。彼女のあとに飲んだからといって特別な味がするわけでないのに、何だか緊張した。
またしばらく無言で食べたあと、彼女がふと訊いて来た。
「ふかざワン、好ききらいってないの?」
「まあ、大体は食べるけど」
目を合わせず、カボチャを口に放りこんだ。
本当はカボチャが嫌いだった。野菜のくせに甘いからだ。でもこの弁当に入っていたのは、なぜかそれほど嫌だと思わなかった。それに、こうして手作りの弁当を食べたのは数年ぶりだ。十歳のときに二人目の母親が出て行ってから、弁当が必要なシーンでは全部買ったもので間に合わせて来た。
手作りのものは美味しい。そして不思議なことに、冷えていても温かく感じる。
「そっか。良かったあ、ホントはそういうのチェックしてからの方がいいんだろうって迷ったんだけど、何か、作って来ますよーって宣言してるみたいっていうか、押しつけがましいかなって」
愛美は少し恐縮したような顔をしながら、ペットボトルへ手を伸ばした。
「ほら、五月にライブのチケット貰ったでしょ。で、何もお礼とかしてなかったから。って言うか、あのチケットの値段考えたら、これじゃ、かなりささやかだよね」
「いや、全然。つうか飯代浮くから助かる」
「そう? それなら良かったよ」
ほっとしたような柔らかい笑みを浮かべ、彼女はまた食べ始めた。
途中で麦茶を飲み、少なくなった弁当箱の中からミニトマトをつまむ。雄介も最後のミニトマトを口に入れ、黒い弁当箱を閉めた。そして巾着にしまったあと、無防備な彼女の弁当箱へ手を伸ばした。
「たまご焼き、いただき」
「え、あっ!」
「ごっそーさん、美味かったわ」
おかずを取られて少し悔しそうな愛美へ、巾着を差し出し、ぶっきらぼうに手を合わせた。
本当はすごく嬉しかった。でも気恥ずかしさが先に立って素直になれない。それを知らない彼女は、最後に残った白飯を口に入れ、不満げな顔で弁当箱を閉じた。
「もう、最後のおかず取られたし。ま、でもいっか。きれいに食べてくれたから。こっちこそ、ありがと」
「つうか、俺もさんきゅ」
「うん」
彼女は頷いて弁当箱を片づけた。そして残った麦茶に手を伸ばし、ごくごく飲んだ。
「はー、お腹いっぱい。飲みきれないや、ふかざワン、飲む?」
自然すぎる誘いだ。もしかしたら自分は本当に友達だとしか思われていないのかもしれない。そんな思いを顔に出さず、雄介は手を伸ばした。
「飲む」
「残り全部あげる。次はちゃんと二本、持って来るね」
「先に言ってくれたら、俺が飲みモン買っとく」
「マジ? じゃあ、甘えよっかな。ね、おかずのリクエストある?」
屈託ない笑顔で訊かれて、雄介はほんの少し迷った。
食べさせてくれるなら何でも嬉しいが、何でもいいという答えは投げやりに取られがちだ。好きな物、好きな物と考えて、思いついたものをまず挙げた。
「……さば味噌、とか」
「シブいね」
「肉じゃが、とか、おでん、とか」
「煮るもの好きなの?」
「寿司とか、ハンバーグとかステーキとかチョコレートのアイスとか」
「アイス持って来れるかいっ」
愛美が笑ってツッコむ。雄介も笑いながら立ち上がった。
「つうか、たまご焼き入ってたら何でも良い」
「そう? じゃあ、巻きの練習しとくね」
それはつまり、たまご焼きは確実に彼女が作って来ると言うことだ。
バンドをやってて良かった、ここを受験して、そして同じクラスになれて、仲良くなれて良かった――雄介はたまご焼きの甘さを反芻し、幸福感をかみ締めた。
愛美は腕時計をのぞき、まだ時間があるのを確認して、再びピアノへ向かった。
「ところでさ、ふかざワン」
「ん?」
「あの、ホープって曲あるじゃん。あれ、ちょっとコピーしてみたんだけど」
「へ?」
予想しない申し出に雄介が驚いたのを見て、彼女は少し笑った。そして目を伏せて集中したあと、おもむろに手を鍵盤に置いた。すぐに聞き慣れた冒頭のフレーズが、ピアノから溢れ出した。
優しい音だった。シャープなクリスタルガラスに似たタツの音とは違う、包み込まれるような柔らかさがある。
イントロからAメロに入ると、ギターのコード感より厚みのある、鍵盤楽器の和音が響いた。基本のコードや曲のスケールも変えていないのに、演奏する楽器が違うだけで別なイメージが浮かぶ。歌ってみたい――純粋な欲求が唇から溢れた。
『空っぽのまま 幻想をみていた
けれど誰かがささやくんだ まだすべては終わっていないと
手を伸ばし 箱に残った希望をつかむ
それから俺は何をしようか――』
ちょうど迎えたサビの部分から、今までバンドで使ったことのないファルセットを交えて、英語で歌う。すると愛美は一瞬驚いて、それから嬉しそうに微笑んだ。
アイコンタクトを送ると、愛美は頷いてそのまま間奏部分を弾いた。本来ならギターソロが入るところに、愛美はコード進行をなぞりつつ、ピアノでアドリブを入れて来る。少しジャジーな雰囲気が混じるのに、雄介はあることを思いついた。
間奏あけ、次に来るAメロをまったく別のフレーズで歌った。当然、愛美は戸惑った視線をよこしたが、そのまま適当な英語を乗せて行くと、愛美がああ、と声を上げた。
雄介の意図が伝わったようだ。
続けてBメロに入ると、今度は愛美がコード進行を変えて来た。当然雄介もそれに合わせてフレーズを模索し、何となく合わせて行く。やがて完全にホープと別モノになった曲は、止まらずにサビへ入った。
こんな調子でAメロ、Bメロ、サビという流れを三回ほど繰り返し、最後に雄介が少しだけフェイクを入れた。そして歌が抜けたあと、愛美は四小節ほどつないで、それらしいエンディングをつけて曲を終わらせた。
「……はー、何が起きたの?」
集中から解放されたような深い溜息を、愛美が吐いた。展開を追い掛けるのに必死だったようだ。雄介はポケットから小さなICレコーダーを取り出し、ちゃんと録音されているか確認した。
「もしかして……」
愛美が驚いて目をまんまるにした。
「新しい曲、作れるかも」
「まさか、撮ってたの?」
「ああ、後半ちょこっとだけど」
再生ボタンを押すと、さっきの曲が流れて来る。数分だったが、きちんと録音されていた。
「歌いながら、良く撮ってたね」
「時々、こうやってタツと曲作ってるから。良いフレーズとか思いついたら、必ず残すようにしてんだ」
「へえ……何か、すごいな」
「別に、バンドで曲作ってたらフツーだろ。つうかコレ、俺が持って帰って、もうちょい煮つめていい?」
「え?」
「もし上手く行ったら、バンドに持ってきたいんだけど」
愛美は一瞬信じられない、という顔をしたあと、嬉しそうに笑った。
「もちろん! だってふかざワンの曲じゃん」
「お前と一緒に作った曲だろ。つうか、音源にまとめて渡すから、鍵盤の部分はお前が考えろ」
多少強引に言い切ると、彼女は照れくさそうに頷いた。
こんな形で彼女と新しいことが出来るとは、雄介自身も予想していない展開だった。
初めて彼女を見つけてから、ずっと近づきたいと想っていた。それが今、共同創作という予想を越えたかたちで実現しつつある。この感動をどうしたら、この曲で表現できるだろう――出来たての曲を再び弾き始めた彼女を眺めながら、雄介は微笑んだ。
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